みなさまと共に歩む…… (*個人的な感想です)

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社長のショートストーリー『短編集』

社長1その日は私用で会社を休んだ。
 ラッシュの時間帯を過ぎて空席が出てきた車内で、とある作家の短編集を開いていた。ソラキアと言う小国出身の作家で、ノーベル賞の候補にもなったことがあるという話を聞いたこともある。私はそれほど文学に詳しくないので、それがその後どういうことになったのか、知らない。
 ただ、ご縁があったのか、日本で翻訳が出版されるごとに買って読む習慣が出来てしまったというだけだ。
 ごくありふれた日常の描写の言葉が、いつの間にかトランプの札が裏返っていくように姿を変えていき、いつの間にか遠い世界に連れて行かれる、という魔法の時間の体験を味わったら離れることができなくなった。もう、かなりの高齢になるはずなので、いったいいつまでこの楽しみを続けさせてもらえるのかと思っている。
 短編をひとつ読み終えて、ほっと息を吐いて顔を上げると老嬢が二人、私の隣の空いている席を譲り合っていた。ふと気がつくと私の反対側の席も空いている。そこで、ひとつずらして二人並んで腰を下ろせるようにしてやると、なんだかそれだけのことなのに、ずいぶん大げさに礼を言われて少々照れた。
 本の続きを読もうと思って目を落とすと、二人の会話が断片的に耳に入ってきた。「ソラキア刺繍」と言っていた。ちょうど私が読んでいる作家の出身国だ。
 クロスステッチで10センチに何目、チェーンステッチはどうのこうの、という話をしている。なるほど、そういえばこの作家の作品は言葉の刺繍と言えないこともない。
 ちょっと嬉しい偶然だった。

 新幹線の三つ並んだ座席の窓際に席を占めた。この奥まったところで短編集を開くととソラキアの田舎町の屋根裏部屋か、草原の穴ぼこかに潜り込んだような気がして自分が昔話に出てくる人物のような気になる。
 私は隠れた。日本の都会から、遠く離れた国の爽やかな空の下に。
 すると数ページも読み進まないうちに、
「こちら、空いておりますでしょうか」
 女性の声に話しかけられて、窓の外を見れば相変わらず日本の工業地帯を電車は疾走しているのであった。
「どうぞ」
 と応えてその顔を見てびっくりした。先ほど山手線の中で、私の隣に座っていた二人連れだ。
 いや、よく見れば違う。通りすがりの人の服装などはっきりとおぼえているわけはないが、顔立ち、髪の色はさっきの人たちよりは若い。なにより、彼女らは私が東京駅で乗り捨てた電車に乗って行ってしまったのだし、その人達がここにいるなんて手品でも出来るわけがない。
 だが、なにか同じだという感じがしてならなかった。
(あなた方は先ほど山手線に乗っておられましたね)
 そんな質問をしてみたくなる。
 やがて座席に落ち着くと、彼女たちのおしゃべりが聞こえてきた。
「・・・・・・そうでしょ。ソラキア刺繍なんて習っている人、そうそう、いないでしょ・・・・・・」
「だからねえ、糸の色を何番にするか、なんてのもなかなかよくわからないのよね」
 私は冷たい手で頬を撫でられたような気がした。なんだかソラキア刺繍に跡をつけられているような気になった。もちろん、その刺繍を習っている人に偶然、出会うと言うことは起こりえないことではない。だから、むしろ、その偶然を楽しめばいいのだ、自分にそう言い聞かせて再び本に目を戻した。
 その短編の主人公の少年の両親はある複雑な事情から祖国を離れて長い旅に出ることになった。残された少年は、湖のほとりの町に住む叔父叔母に引き取られて、その年を過ごすことになった。少年は十一歳だった。
 湖を見渡すことが出来る部屋に少年がいると、おばさんが入ってきた。手には布と針箱が持たれていた。
 叔母さんはこのあいだから始めていた刺繍の続きに取りかかった。モチーフは、このあたりの風景のようだった。湖の景色を刺すときは、彼女はいつもこの部屋に来るのだった。
「ご存じ?ソラキア刺繍の占いのことは」
 これは新幹線で隣に座り合わせた女性の口から出た。
「占い?刺繍で占いが出来るの?」
「私もよくはわからないのだけど、ソラキアで刺繍をする女性はみんな巫女なんだって。刺繍をしてるうちに何かが降りてきて未来や過去のことを告げるのよ」
「なんだか、こわいわね。刺繍をするたびに知らなくてもいいことを知らされるなんて」
 ああ、そうか、と私は一人うなずく。少年の前で、この叔母さんは占いをしようとしているんだ。何を占うつもりなんだろう、彼の両親の運命、彼の未来・・・い、いや、待て。そこでそんなことがわかってしまうなんて、占いって残酷じゃないか?
 少年は叔母さんの手元をじっとみつめている。私もみつめている。少年には、それが占いだってわかっているんだろうか。
 やがて、叔母さんはにっこり微笑む。
「今日、きっと隣のワグネルさんが鶏を一羽持ってきてくれるわ。シチューにしましょうね」
 それも占いの結果なのか。私は叔母さんの顔をみつめている。少年もみつめている。
「僕、占いなんて、あまり好きじゃないな」
 私も好きではない。
「占いなんて、なんだか怖くて嫌いよ」
 これは隣の席から聞こえてくる会話。
 本から顔を上げると、窓の外には日本の田園が広がっていた。小雨が降っているようだ。線路と並行している農道を軽トラックが走っていく。
 ほどなく、車内アナウンスが、私が降りる駅に近づいたことを告げた。その駅からさらにローカル線に乗りかえなくてはならないのだ。

 新幹線の改札を出て跨線橋を渡ると薄暗い改札口があって、そこを抜けて階段を降りていくと、こじんまりとした地方私鉄の電車が恥ずかしげに停まっていた。
 まだ発車時刻まで時間があるせいか、車内に人は少なかった。ロングシートに腰を下ろして、ぼんやりと地元の信金の広告とショッピングモールの広告を眺めた。
 今度は本は開かなかった。なんだか、短編集に追いかけられているような気がしたので。そうこうするうちに、ダークスーツのサラリーマン、主婦、ちっちっと歯を鳴らして新聞を読んでいるオヤジ、いや、いちいちあげていたらきりがないが、様々な人が乗り込んできて、ロングシートはほぼ埋まった。
 気がつくと、私の隣にも人がいて、その膝の上には刺繍が載っていた。
(ソラキア刺繍)
 がったん、と図体のわりに派手な音を立てて電車は走り出した。私は転げそうになって、隣に座っていた女性の肩に顔を埋めてしまった。
「ご、ごめんなさい」
 くだものの匂いがした。顔が赤くなるのを感じた。
 恥ずかしかった。その声は、私の声ではなかったから。いや、でもかつてはわたしのものだった声だ。まだ、声変わりする前の私の。目を落とすと、半ズボンから出ている膝小僧が見えた。
「大丈夫よ。揺れるわね、この電車」
 照れくさくてたまらなかった。先ほど、新幹線の中で隣にいた女性のうちの背の高い方の女性だなと思った。もう不思議とも何とも思わなかった。一日のうちに同じ人と何度もあって、お互いにどんどん年齢が違っていく。一生のうちには、そんなことがあるのだと思った。 
「あの、この刺繍」
「ああ、これ、ソラキア刺繍っていうのよ。ステッチが少し変わっているでしょう。知っている?」
 知っている、あなたから教えてもらった。だが、それは口に出さなかった。
「何を刺繍しているんですか」
「そうねえ、まだぼんやりしてわからないわねえ。これ、この辺が湖の浜辺で、後ろに森があって、低い山があって、その上に空が広がっている景色になる予定なんだけど」
「どこの景色ですか」
「ソラキア」
「行ったことがあるの?」
「ないわ」
「写真で見たの?」
「そうねえ」
 と、少し困った顔になった。
「目を閉じると浮かんでくるの」
 彼女の目蓋の裏には空と湖が浮かんでくると言う。私の目蓋の裏には、それに加えて風景を見ながら刺繍をしている女性が浮かんでくるし、それを見ている十一歳の少年が浮かんでくる。
 ソラキアは大国にはさまれた小国なので、大戦中にはかなりの辛酸を舐めた国らしい。いま、刺されている刺繍に、やがて、その静かな痛みが立ち上がってくるのだろうか。それとも、静謐なままに終わるのだろうか。

 バスは行き悩んでいるようなエンジン音を立てて峡谷沿いの道を登っていく。道路脇の木々の枝が窓をこするたびに水しぶきが上がる。対岸には道はないようで、ただ、憂鬱そうな森が続いている。
 一つ前の停留所で客が降りてしまったので、バスに乗っているのは運転手と私だけになった。子供一人で、こんなところに旅してきたのが心細かった。
 終点には私が行くはずの建物が一軒あるだけなので、迷うことは出来なかった。そこへ行くか、とって返して東京に戻ってしまうか、だけだった。
(お前、大丈夫か)
 誰かに話しかけられたような気がした。
(だ、大丈夫だよ)
(寂しくないのか)
(寂しくないよ)
(本当か)
(・・・・・・)
 誰が話しかけてくるのか、推測はついていた。きっと、あの短編集をもう少し先まで読めばわかるのだろう。だが十一歳の少年に戻ってしまった私にとって、あの作家に出会うのはまだまだ年月を経てからのことになるのだろう。
(本当に大丈夫か)
(大丈夫だってば)
(俺、ついていてやるよ)
(・・・・・・)
(だから、もう泣くなよ)
 私はびっくりした。泣いているなんて思わなかったのだ。目を触ると、たくさんの涙で目縁が濡れていた。
 ほどなくして、バスは終点に着いた。エンジン音が止んでみると、周囲から小鳥の鳴き声が押し寄せてきた。バス停のすぐ前に、大きな白い建物があった。

 鋼鉄の箱のような古めかしいエレベーターを降りて、漆喰のぼんやりした白の廊下の一番奥まった部屋が、その部屋だった。鉄製のベッド、清潔なリネン、窓際の一輪挿し、そして二人の女性。
 背の高い方の一人は、先ほどよりまた若くなって、ベッドの脇の椅子に腰掛けていた。低い方の一人はベッドに仰向けに寝て目をつぶっている。息をしているのだかしていないのだかわからない。
 私はまた小さくなったらしい。すがるような目で椅子に腰掛けた女性を見上げた。
「この方は、あなたの本当のお母様。わかりますか」
「おかあたん・・・」
「この方は、もう口を聞くことはありません。もうすぐ亡くなります。その後は、私があなたのお母さんになって、あなたを育てます。それが、この方と私の約束だからです。あなたは、私のことを本物のお母さんだと思って育ちます。あなたが、その眞実を知る機会が成長するうちに、あるいは訪れるかもしれません。結局、その機会は訪れず、あなたは知らないままに生涯を終えるかもしれません。その答が、私が刺している刺繍に現れるかもしれませんし、そうでないかもしれません。また、いつかあなたが出会うことになるソラキア出身の作家の作品の中に暗示されているかもしれません。いずれにせよ、急ぐべきことではありません」
 女性は立ち上がると窓に近づいて
「空気を入れ換えましょうね」
 窓が開くと、おびただしい小鳥の声が流れ込んできて、風の音がそれに混じった。
 やがて、人の気配があって、白衣を着て眼鏡をかけた背の高い男性が入ってきた。彼が、女性に目配せすると、窓が閉められた。小鳥の声が消えた。
 彼はベッドに近づくと、横たわっている女性の手首を取り、さらに首筋やら、あちこちを触ると、
「ご臨終です」
 と言った。「臨終」という難しい言葉が、子供の私にわかったのかどうか、ともかく理解とか現実とかと無関係に、私の喉の奥から
うわあああああああ・・・
けたたましい声が、後から後から止めるすべもなく流れ出てきた。頭のてっぺんから、足の先から、内臓から尻の穴まで震えていた。悲しいとか、何かの感情があったのか、わからない。ただ、洪水のように出てくる声に自分でも驚き、呆れ、他人事のように眺めていた。おそらく、私が初めてこの世に姿を現したとき、すなわち、私にとっての天地開闢の時、聞いた声に似ていると思った。

そして、それっきりすべてを忘れてしまった。気がつくと、大人に戻った私が一人、遅い時刻の新幹線のシートに座っているきりだった。さんざん、引きずり回された末、ほっぽり出されたような気分だった。

「さあさ、飲みたまえ、飲みたまえ。うちの親戚も人数は多いんだけど、みんな車で来たとか、医者に止められたとかで、飲める相手が少なくなっちまったんだから」
ある叔父さんの何回忌かの会食の席である。私は一人っ子なのだが、他の家は兄弟が多く、叔父さん叔母さんといっても何人もあるのだが、このおじさんは、私を飲める相手と見込んでしまっているようで、いつでも捕まってはながながと付き合わされる。
もっとも、話題の豊富な人なので、話があっちに飛んだりこっちにずれたりして、結局は何のことについても話してはいない、ということになるのだが、寺の座敷の障子に差す日の光の色合いがだんだん変化するのにつれて、自分の酔い具合も変わっていくのを眺めているのは悪い気分ではない。どうかすると、こうして駄弁を振るっているのが本当の時間で、あとの仕事とかなんとかは、あいだのつなぎに過ぎないという気にさえなってくる。
離れたところにいた母がそっと寄ってきて、
「じゃあ、私はそろそろ帰らなきゃいけないから」
母はとある地方都市で手芸の先生をやっているので、これから私鉄とJRを乗り継いで東京駅まで行かなくてはならない。
私はそのまま残っていても母を送っていってもよかったのだが、送っていく方を選んだ。
電車の中で、話題があるんだかないんだかわからないような会話をぽつぽつと続けているうちに、東京駅に着いた。
それじゃ、とか、また、とか、断片的な挨拶をして改札口に向かおうとする母に、にゅうと腕が伸びてきて、誰かが握手を求めた。おじさんだった。どうやってついてきたのか、さっぱり記憶にない。ともかく例の陽気さで、別れを意味もなく盛り上げて、母の眉をひそめさせた。
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社長のショートストーリー『銀河鉄道阿房列車』

社長1 ジョバンニは幾箱かの活字を組み終えると活版所の会計係で銀貨を受け取り、家のある路地に戻ってきました。三つ並んだドアの一番左の入り口の脇に置かれた箱に植わっているケールやアスパラガスに挨拶をしてから家の中に入りました。 
「母さん、ただいま。今日は加減はどう?」
 と寝台に座っているお母さんに話しかけました。 「お帰り、ジョパンニ。今日は、大分いいわ。さっき姉さんが戻ってきて、パンと卵と野菜やらを台所に置いていったから、きっと晩ご飯をこしらえてくれるでしょう」
「お母さん、今夜は銀河の星祭りだから、晩ご飯までの間、見に行ってもいいかな」 
「ああ、行っておいで。さぞ、きれいだろうからね」 
 二人が話をしているところに入り口から、 
「ごめん下さい。酒屋ですが、ご注文の麦酒を持って参りました」 
 若い人が麦酒のケースを持って入ってきました。 
「はて、うちでは麦酒なんか注文した覚えは・・・」 
 お母さんが戸惑った声を出しましたが、酒屋は心得たもので、入り口の脇にある小部屋のドアを二回ほどノックしました。 
「ウチダさん、酒屋です」 
 返事はありませんでしたが、酒屋は構わずに開けてしまいました。 
 狭い部屋の中には寝台がひとつ、小さなテーブルが一つ置かれていて、寝台の上には白い口ひげを生やした大入道があぐらをかいて、フクロウのように膨らんでいました。 
「留守だよ」 
「ウチダさん、ご注文の麦酒を持って参りました。お留守でしたら出直します」 
「なんだ、ツケの催促じゃないのか。麦酒ならおいていけ」 
「じゃ、受け取りの書名をお願いします。さもないと麦酒は置いていきません」 
 大入道は忌々しそうに伝票に署名しました。 
「それから、これはこないだの分までで締めた請求書です」 
 大入道はちらっと目を通すと、 
「なんだ、意外に飲んでいないな。これっぽっちか」  
「今いただいても結構です」 
「今はない」 
 酒屋はちぇっと言って帰ってしまいました。 
「ジョバンニか。お帰り」 
 大入道はジョバンニを見ると、それまでの仏頂面が嘘のように優しい笑顔になりました。 
 彼は、本当はヒャッケン・ウチダといって、イーハトーヴォ大学校で独逸語の先生をしているとても偉い人なのだそうです。それがどういう加減か、こんな路地裏に逃げ込んでひっそり暮らしているのです。 
 それというのも、手元にあるお金以上に、こんな風に麦酒をがぶがぶ飲んだり、さして離れてもいない大学校に行くのに遅刻しそうになってわざわざ自動車を雇ったり、欲しいものがあると、後先考えずに手に入れないと我慢できなかったり、貧しい手風琴弾きの親子を見ると財布ごとくれてやったり、なんだかわけのわからないうちに借金取りに追われていたり、その他にも自分から落とし穴に突進していくようなマネばかりしているからなのです。 
「まあ、金というものは、仮定された有機交流電灯の一つの青い照明みたいなもんだからな。 わかるかい、ジョバンニ」 
「わかりません」 
「僕にもわからん」 
 ジョバンニは呆れてしまいました。 
「言葉というものの不思議なところは、わけのわからないことを言うことが出来るって事だ。僕はわけのわからないことを口に出すし、君は耳に入れることが出来る」 
「耳に入ってもちっともわかりませんよ」 
「だが、それをオウム返しに、誰か別の人に言ってご覧。そのうちにわかる人が出てくるかもしれん。その時、始めて言葉が甦るのだ。・・・アアブラ・ディシュ・カマ・ククダニタ」 
「なんですか、それは」 
「シューメル語とかいう、古い言葉だそうだ。何千年も前にいなくなった人たちの言葉だそうだ。意味はわからん」 
 ウチダ先生は寝台の脇ににジョバンニを座らせて、麦酒を飲みながら駄弁ををふるっていました。 
「ところで今晩は、銀河の星祭りですよ。先生はいらっしゃらないのですか」 
「ふむ、そうさね」 
 先生は面倒そうに答えました。きっと飲んだ麦酒がお腹の中で膨れて重たくなっているのでしょう。 
「僕、これから見に行ってこようと思います」 
「行くのかい」 
 なんだか、先生は寂しそうでした。まるでジョバンニが遠くへ行ってしまうかのようでした。 
「友だちも行っていますし」 
「そんなに友だちがあるのかね」 
 本当は会いたい友だちはカムパネルラだけでした。ザネリなんかは、会うたびに皮肉っぽく、 
「ジョバンニ、お父さんのラッコの皮の上着はまだかい」
 というので、会いたくなんかなかったのです。 
 お父さんは船に乗り込んで、北の海の漁に出掛けたまま、帰ってこないのでした。お父さんからの送金も途絶えたので、病弱なお母さんはウチダ先生に部屋を貸したり、お姉さんもジョバンニも働いているのでした。 
 お父さんが出掛ける前に、今度はラッコの上着を買ってきてあげよう、と言ったという話をザネリはジョバンニをからかうのに使っているのでした。 
「いいよ、行っておいで」 
 先生は、何か諦めたように言いました。そんな言われ方をすると、自分でも本当に行きたいのかどうか、わからなくなってしまうのですが、ジョバンニは思い切って曲がった鉄砲玉のように表へ飛び出しました。
      
 勾配を下る機関車のように坂道を川の方へ降りていきました。すでに、遠くからでも橋の上や川の上にちらちらと灯りが見えます。からず瓜の灯りを流しているのでしょう。 
 橋のたもとまで来ると、あちらこちらで人びとが固まって顔を寄せ合って何か話していました。ひそひそと話し合っているのに、妙にざわついて聞こえました。ジョバンニは、喉がぐっと持ち上がってくるような気がしました。 
「子供が川へ落ちたんだ」 
「ちがう。川へ落ちた子供を救おうとして飛び込んだ子供が戻ってこないんだ」 
「ぼ、僕が悪いんじゃない。カムパネルラが自分で勝手に飛び込んだんだ。僕は平気だったんだ」
 最後の震える声はザネリのものでした。 
 ジョバンニは頭から水を浴びたような気がしました。くびすを返すと、まっすぐに丘の上へ向かって走って行きました。カムパネルラは、もうこの世にいない、という恐ろしい思いが、本線を走るC62型蒸気機関車の音のように、頭の中に轟々と響いていました。 

 目の前に白いクロスがかかったテエブルがありました。横手の窓を見ると、星々や星雲や暗黒星雲が広がっていました。それらは、みな後ろの方へ飛んで行くようでした。 
「これは、この列車が速く走っているからこう見えるのか、それとも宇宙が膨張しているせいなのか」 
 聞き覚えのある声に前を向いてみると、ウチダ先生でした。フロックコオトに山高帽子で威儀を正し、その前には相変わらず麦酒の瓶とコップが置かれていました。ジョバンニ達は、どうやら列車の食堂車にいるようでした。 
「君たちもソオダ水でも註文しなさい」 
 君たちと言われたので、隣を見るとカムパネルラが座っていました。なんだ、こんなところにいたんだ、とジョバンニは飛びつきたいほど嬉しく、また心配させられたことにちょっと怒ってみたりしました。 
「あと、食べたいものがあれば、どんどん註文しなさい。ビーフステークにするか、海老のフライにするか、スチューもうまいぞ。ポタアジュのソップ。トマトのサラドはどうだ。ええい、面倒だ。みんな持ってこい」 
 と食堂車の奥へ向かって怒鳴りました。 
(また、貧乏なのに贅沢をして) 
 というお母さんの呟きが聞こえるようでした。まったく先生は、胸の中に火がつくと、たちまち燃えさかってしまうのです。 
「さ、食べなさい。食べないか」 
 見たこともないような御馳走がずらずらと並んでしまうと、かえって胸が一杯になるようで、ジョバンニは海老のフライをちょっと囓っただけでした。先生は目の前のものをどんどん平らげていきました  
「お行儀が悪いことは自分でも承知しているのだ。だが、止めようとして止まらんのだ。生きながら餓鬼道畜生道に落ちているのかもしれん」 
「それはちがいます」 
 カムパネルラが言いました。いつもの溌剌とした、それでいてどこか遠くから聞こえてくるような声でした。 
「僕は、先生がそんな人じゃないってこと、知っています」 
 ジョバンニはふと、カムパネルラは先生と会ったことがあったのかな、と思いました。 
「ありがとう、君は優しいね」 
 先生はしみじみと言いました。 
「食べるのは、もうこれでお仕舞いにしよう」 
 そういうと、目の前の皿が消えて、クロスも真新しいものに変わりました。 
「おしゃべりに付き合ってくれてありがとう。僕は、これで失敬する」 
 先生は窓を開けると、そこからひょいと飛び降りました。 
「あ」 
 ジョバンニはびっくりして窓の外を見下ろしました。上も下も左も右も、大宇宙が広がっていて、その何もない中を線路が二本延びて、ずっと向こうのどこかへ消えています。 
 ジョバンニが思わず手を伸ばそうとした次の瞬間、先生は小さな飛行船のようなものに跨がってふわりと浮き上がりました。そして、すごい速さで星々の間に消えてしまいました。 
「お客さん!お勘定!」 
 食堂の奥から叫び声が聞こえました。  

 気がつくとテエブルは消えて、ニスの塗られた肘掛けに薄いシートの三等客車になっていました。 
「この方が落ち着くな」 
 と言ってから、ジョバンニはちょっと後悔しました。カムパネルラの家は裕福ですし、三等車なんかには乗らないだろうと思ったからです。 
「うん。僕は君と一緒に乗っているのが一番落ち着くよ」 
 カムパネルラはいいました。 
(やっぱり、カムパネルラは心の大きな子だ。僕はちょっといじけているな) 
 そう思うと、なんだか泣きそうになりました。
「乗車券を拝見します」 
 声に振り向くと、青い制帽制服の車掌が立っていました。目深にかぶった帽子は顔のほとんどを隠していて、前照灯のように光る目が見えるだけです。 
 カムパネルラはなんでもないように薄緑色の切符を出して見せました。 
「はい、白鳥停車場までですね」 
 車掌は切符に検印を押して言いました。そして、ジョバンニの方を向きました。 
「ぼ、僕は切符を買っただろうか・・・」
「お持ちでなければ、今お求めください」 
 車掌はちょっとイライラして、ぴょんぴょん跳びはねながら言いました。 
「僕、お金、持っていないよ」 
「まさか、無賃乗車というのでは」 
 車掌は、今度は足をぱたぱたさせながら言いました。ジョバンニは頬が真っ赤になって心臓がどくどく打つのを感じました。 
「ジョバンニ、胸ポケットに入っているのはなんだい」 
 言われて胸を探ってみると、紙切れに当たりました。 
「あ、これは特別な乗車券ですね。宇宙一周が可能です」 
 ジョバンニはほっとすると同時に、カムパネルラと行き先が違うのが気になりました。 
 車掌もほっとした顔で、 
「いや、失礼。安心いたしました。実は一等車両でも同じような問題が起こっておりまして」 
「一等車があるんですか」 
「はあ、お一人しか乗っていないのですが、その方が乗車券をお持ちでないのです。お身なりも、立派なフロックコオトに山高帽子の紳士ですし、ご職業はイーハトーヴォ大学校の教授ですし、まさかとは思うのですが」 
 いかにもウチダ先生のようですが、先生ならさっき宇宙空間に飛び去ったはずです。それとも、あれは夢か何かだったのでしょうか。 
「その方がおっしゃるには、無賃乗車ではない、単なる切符の購入遅延であるとおっしゃるのです。私が、では今ここでお買い求めください、というと、 
『それは構わん。では、切符を頂戴しよう』 
『では、代金をいただきましょう』 
『気にするな、月末に払う。しかも月末は一年に12回ある。二年なら24回、10年なら120回、いずれ任意の月末でよかろう』 
『そういう販売方法は行っておりませんが』 
『こちらではそういう購入方法を行っておる。私は麦酒なぞ買うのだって月末払いだ。これはいいぞ。第一、君がいちいち代金を受け取る手間が省ける。この忙しいのに金を数えたり、しまったり、落とさないように気をつけたり、山賊や海賊に出会わないよう用心したりしなくてすむ。遅ければ遅いほど、君にとって便利だ』などと言うのです」 
「で、その人は今、どうしているのです」 
 ジョバンニは、もうこれはどうしてもウチダ先生に違いないという気がして聞き返しました。 
「一等車に放ってあります。ただし、出入り口に鍵をかけて。つまり、体のいい軟禁状態ですな」 
 車掌が話している間に、窓の外を飛行船に乗ってふわふわ浮かんでいるウチダ先生が見えたのでジョバンニはひっくり返りそうになりました。 
 車掌が行ってしまうと、先生は窓から入ってきました。飛行船はたたむと、カバンのような形になりました。 
「車掌さん、怒っていましたよ」 
「なに、僕は乗車券なぞ必要ないのだ。僕は飛行船に乗っているのであって、列車には乗っていないのだから」 
 見ると飛行背のカバンは先生の尻の下に敷かれていました。 
「単に飛行船に乗って車内を通過したり、時々休憩しているだけだ。いわば自前で移動しているのであって、列車の運賃を払う必要はないのだ。この飛行船、よくできているだろう?イーハトーヴォ大学校のクーボー大博士が拵えたものだ」 
 ジョバンニは頭の中がしわくちゃになったような気がしました。  

 列車が白鳥停車場に近づきました。 
「ジョバンニ、僕、ここで降りなくちゃならない」 
「いやだよ。もっと一緒に乗っていようよ」 
「だめだよ。僕はここまでの切符しか持っていないんだ」 
「じゃあ、僕も降りる」 
「だめだよ。白鳥の空気は君たちには吸えないんだ。息が出来ないんだよ」 
「構うもんか。死んだって構うもんか」 
「さよなら、ジョバンニ」 
 ジョバンニは風に吹かれるようにして出入り口の方へ行きました。ジョバンニは急いで後を追いました。ホームを歩いて行くカムパネルラの背中が見えました。ジョバンニはその背中向けて飛び降りました。 
 
「苦しい。息が出来ない」 
 ジョバンニはもがきました。なにかに顔を覆われて鼻や口が塞がれています。獣のうめくような恐ろしい音が鳴り響いていました。 
 ジョバンニは必死で顔を離そうと、うんと腕を突っ張りました。 
 途端に息が出来るようになりました。目の前に、ウチダ先生の大きな身体があって、鼾をかきながら居眠りをしていました。 
 どうやら、ジョバンニも先生の背中にもたれて顔を埋めたまま眠っていたようです。ウチダ先生も、ほわあと大きな欠伸をして目を覚ましました。 
「なんだ、ジョバンニ。まだ星祭りに出掛けないのか」 
 そうでした。ジョバンニは星祭りに出掛けるつもりで先生と話をしているうちに眠ってしまったものと見えます。 
「ああ!それじゃ・・・」 
 そうです。夢の中でカムパネルラは川に落ちて死んでしまったのでした。それが夢だとすれば、カムパネルラが死んでしまったのも夢の筈でした。急に嬉しさがこみ上げてきました。それなのに、後から変な胸騒ぎも湧き起こってくるのでした。 
 カムパネルラは死んじゃいない。そのはずだ。でも、なんだか死んでしまったような気もするのです。 
 ジョバンニは曲がった鉄砲玉のように、ドアから飛び出そうとしました。星祭りの灯りがきらきら見えるようでした。なんだか、妙に歪んでいるようでした。思いっきり走ろうとするのですが、地面がパンのようにふかふかして、どうもうまく進めないのでした。 
「これに乗っていきたまえ」 
 ヒャッケン・ウチダ先生はカバンの中から小さな飛行船を取り出すと、ジョバンニの方へ押しやりました。

社長のショートストーリー『ギヤマンの海の底』

社長1村長の息子で、尋常小学校の三年生になる三男坊が神隠しにあった。
大人しい子供で、普段から外へなどあまり遊びに行かないのである。大抵は、一人で家で遊んでいる。それも小石だの木の葉を拾ってきては、縁側に並べて眺め入っていたりする。時ににやにやしてみたり、妙に寂しげな表情を浮かべてみたりするが、ほとんど喋らない。
まわりの大人からは、少し足りないのではないかと思われていた。
その日も家にいたのである。部屋に座ってぼんやりしているのを、何人もが見ている。出掛けたのを見たものはいない。頭は弱いが顔立ちの可愛らしい子だったので、天狗の稚児にでもさらわれたのではないか、と陰口を叩くものもいた。

三太は、奇妙な部屋に座っていた。いや、部屋と呼んでいいのかどうかわからない。まわりが、ギヤマンでできたように青いのである。いやに透明な感じがするのに、遠くまで見渡せるわけでもなく、海の底に行けるとしたら、こんな感じだろうか、と思われた。
彼はぱちぱちと二、三度、まばたきをした。或いは水をかぶった犬のように、ブルブルと首を震わせた。 いつもなら、こうやれば「覚める」のである。
いつも、木の葉や小石を並べて見入っていると、いつの間にか、それらが動き出しものを言い出し、表情や仕草を持ち始める。その周囲には、いろいろな情景さえ見えてくる。
彼らは、ある時は義経や弁慶を演じ、ある時は小栗判官と照手姫を演ずる。三太が聞いたこともない話なのに、木の葉や小石が勝手に始めるのである。飽きないし、気に入った場面があれば繰り返し演じてもくれる。
夢中になっているのだが、それでいて誰か家族からでも呼ばれれば、目をぱちくりとさせれば、義経も弁慶もたちどころにもとの石や木の葉に戻って、何事もなかったように家庭の日常が続くのである。
今日は中庭の木立が役者になってくれた。風にそよぐ木々が何かを語り始める。
姉弟の物語だった。遠方にいる父を訪ねて、母と姉弟は旅に出る。ところが途中で人買いに騙され、母とは別れ別れになり、二人は「さんせう太夫」という分限者に売り飛ばされ、奴隷として使われることになる。
弟を逃がそうとして、姉が犠牲になる決心をするところで、三太はこらえられなくなった。膝の上にぽろぽろ涙が落ちるのである。
その涙が青かったのかもしれない。あたりが青く染まってしまった。
「ここは海の底か?」
三太は呟いた。「さんせう太夫」の屋敷は海沿いにあるのである。潮汲みをさせられていた姉は、そのまま波にさらわれて、海の底に沈んでしまったのかもしれない。あるいは自ら身を投げたのか。三太は、可憐な姉の姿を探そうと、目の涙を拭った。
「何をぼんやりしている」
びっくりして、その声の方を見ると、鬼のような大男が腕組みをして、いかにも恐ろしげに見下ろしていた。
「今から、お前の仕事を教えてやるのだ。よく聞け。怠けると飯抜きだ」
 なんだかわからないが、飯抜きという言葉が忍びなく響いた。
「まわりをよく見回せ。光りながら落ちてくるものがあるだろう」
 なるほど上の方から、子供の爪くらいな小さなものが、ピカピカ光りながら降ってくる。そして、三太の目の前を通り過ぎて、床も地面もないかのように、下へ下へと落ちていき、やがて見えなくなる。
「そら、もったいない。それをお前の掌で掬って、前にある板の上に載せるのだ。それは『ふらぬら』といって、壊れやすいものゆえ、子供の掌でないと掬い取れぬ。だから、お前のような子供の仕事なのだ」
言われたように、掌の上に落ちてくる『ふらぬら』を受けてみた。何の重みも感じなかった。ただ、青白く光っているのがきれいだと思った。
自分の前に畳一畳ほどの板が敷いてあった。そこに、慎重に載せた。すると、『ふらぬら』ぱちっとはじけたようになり、朝顔のつぼみを小さくしたようなものに形を変えた。
「それは『ほりふ』だ。それを指先で揉め。潰さぬように大事に揉むのだぞ」
言われたように揉んでいると、『ほりふ』から蔓のような、触手のようなものが生え始めた。思わず三太は手を離した。
「揉み続けろ。かまってやらないと、寂しくて死んでしまうぞ」
死、という言葉を聞いて、また三太は手を伸ばした。コンニャクのような感触のそれを揉んでいると、『ほりふ』が触手をひらひら動かして喜んでいるような気がした。そして、触手は伸びていき、伸びた先にまた蕾のように『ほりふ』が生まれた。
「そら、そっちのやつも揉んでやれ。そっちもだ。まんべんなくやるのだ」
『ほりふ』はあちらにもこちらにも生えてきて、三太は忙しくなった。そのうち、『ほりふ』がもぞもぞ動き出し、中から光の花弁を持った、赤ん坊の掌のような大きさの花の形をしたものが現れ始め、それは板の上を離れ、空間に浮かび上がった。
「捕まえんでもいい」
思わず手を出しかかった三太は、そう叱られた。
宙に浮かび上がった花の花弁は、そのうち笠のような形になり、その下から足が生えてきて、
「クラゲだ」
増えた『ほりふ』からは、次々に花が咲き、宙に浮かび、クラゲになった。
「さぼるな」
また、三太は叱られた。なるほど、空中からは雪のように『ふらぬら』が降ってくるのだった。慌てると、手からこぼれてしまう。
「無駄にするな。ひとつでも多くクラゲに揉み上げるのだ」
「家に帰りたい」
「なに?」
「父さん、母さんのいるところに戻りたい」
 男は、ひどく残忍な薄ら笑いを浮かべた。
「お前の親父はこの俺だ。母はおらん」
「ちがう」
 殴られた。
「お前はずっとここにいたと思え。これからもずっとここにいるのだ。殺されたくなかったら、『ふらぬら』を捕まえ、『ほりふ』を揉んでクラゲにするのだ」
目玉の表面にじわっと涙が浮かんだ。涙の表面に落ちてくる『ふらぬら』がきらきらと光りながら舞った。
男は、縄を持ってくると、三太の左足首に結わえ付けた。もう一方の端は、どこかに結びつけられたようだ。 「逃がさんからな。小便に行く時も、繋がれたままだ」
男は、ものすごい目で三太を睨みつけていたが、めそめそと泣き続けているのを見て急に優しい声で言った。
「まあ、泣くな。一生懸命クラゲを作れば、そのうちいいこともある。万、いや一〇万作った帰してやろう」
万が一瞬で一〇万に訂正されたところが、いかにも嘘くさかったが、でも、それこそ万に一つの望みができたような気がした。男の言う通り「そのうちいいこともある」。
三太は掌に載った『ふらぬら』を台の上に、大事に載せ、揉み始めた。『ふらぬら』は素直に反応し、『ほりふ』に姿を変え、触手を伸ばし始めた。
男は浮かび上がったクラゲを透明な袋に入れた。入れれば入れるほど袋は膨らみ、やがて男自身の背と同じぐらいになった。それくらいになると、クラゲの浮力で男の身体まで浮き上がりそうになった。すると、男は縄で袋の口を縛り、どこかに結びつけて、どこにも漂っていかないようにした。
目が馴れてくると、『ふらぬら』は雪のように降ってくるのがわかった。大部分は下へ落ちてしまうのだ。こうしてみると、男が言った万とか十万とかいうのも、できないことではないかもしれない。
三太は忙しくなった。慌てると取り落としてしまう、潰してしまう。やわやわと、そして素早く手を動かす。三太が失敗するたびに、
「馬鹿め」「うつけめ」
男の罵声が飛んだ。
だが、力の入れ方のコツのようなものがわかってくると、一時に七つも八つも処理することができるようになってきた。そうなると、面白くなってくる。
『ふらぬら』から『ほりふ』に変態した後、揉み方によっては、いきなりぱっと四方八方に触手を開くことがあるのだった。ある時は、夜空に広がる花火のよう、ある時は雨に濡れた蜘蛛の巣みたいで綺麗だった。開いた先では、そこから新たに『ほりふ』が生じ、さらに触手を伸ばすこともあれば、花が開いてクラゲへの変態を始めることもあった。
そうなってくると、クラゲを集める男も中々忙しかった。
「ほいっ、ほいっ」
まるで自分を元気づけるように、そんな奇声を発しながら、空中から果物でももぎ取るようにクラゲを収穫し、袋に収めた。
「うひひひ」
嬉しそうに笑いを漏らしたが、急に引き締めるように、
「こんなんじゃ、まだまだだ」
と苦そうな顔をするのだった。
三太は、なぜ男がそんなにクラゲを欲しがるのか、わからなかった。聞きたくもあったが、また殴られたり、罵られたりするのが怖かった。
男は袋がその背丈ほどにも膨れ上がると、袋の口を紐で縛って、「一丁上がり」と呟いた。そして、にまにまと笑ったが、急に
「まだ、たったのひとつだ」
と引き締めるところは前と変わらなかった。
「まだ、初日だから仕方がないが、前の小僧はもっともっと稼いだのだからな」
前の小僧。三太が来る前にも、こんな仕事をやらされていた子供があったのだろうか。どんな子供だったのだろうか。今は、なぜいないのだろう。どこへ行ったんだろう。しかし、これも訊くに訊けなかった。
男は、あぐらをかいてしばらくキセルで煙草を吸っていたが、立ち上がると、ふいとどこかへ消えてしまった。村芝居の役者が舞台の袖へ消えるように、ギヤマン色のあるところから消えたのだ。
三太がどきどきして見守っていると、やはり同じ辺りから現れた。袖から舞台へ役者が出てくるようだった。こんどは、手に桶を持っていた。あの辺りに目には見えないが出入り口があるのだろうと三太は考えた。
桶の中には、どろどろした粥が入っていた。茶色っぽくて、ところどころ赤や黄色の粒が混じっていた。嫌な臭いがした。男は椀に粥をよそうと、
「食え」
と三太の目の前に突き出した
むっと湯気が三太の鼻孔を襲った。それだけでクシャミが出た。とても食い物の匂いとは思えなかった。
「食わぬと死んでしまうぞ」
そうまで言われて、やっといやいや箸を取った。男は自分の椀によそうとがつがつとものすごい勢いで食い始めた。まずそうでもなかったが、うまそうでもなかった。それこそ、食わぬと死んでしまう、と信じているようだった。
三太はやっとの思いで一杯食べた。男は、桶の中の粥をあらかた平らげていた。食ってしまうと、自分と三太の箸と茶碗を桶に放り込んで手に提げ、またどこかへ消えた。
確かにあのあたりに出入り口がある、と三太は思った。かすかに、逃げだそう、というつぶやきが心の底に聞こえた。だが、そう簡単ではない、とも思った。十万、クラゲを作れば家へ帰してくれるのだ、そう思おうとした。その途端、あの男にどこか狡猾そうな表情が浮かぶのを思い出した。
飯を食った後は、再びクラゲ作りが続いた。だんだん器用になってきたが、今度はその単調さが耐えがたくなってきた。時には『ほりふ』が閃光のように触手を広げて、男までもを驚かすことがあった。それは美しくはあったが、男はいい顔をしなかった。あまり広がりすぎても却って揉みの作業がやりにくくなって能率が落ちるというのである。
いったい、いつまで続ければいいのか、見当がつかなかった。
疲れたと訴えても、まだまだ、という返事が返ってくるだけだった。そのくせ、男の声にも疲れが現れ始めているのだった。明らかに、男もやめたがっていた。だが、三太に休ませないために、男も休まないでいるという感じがした。
もとの世界ではお百姓はお日様と共に働き始めて、日が暮れると家へ帰っていた。帰った後も夜なべ仕事が待っているにせよ、お日様の位置というものが自分が長い一日のどこら辺を歩いているのか教えてくれるのだった。 ここには、お日様がない。海の底には、お日様は指さないのだろうか。ギヤマン色の周囲は色を変えなかった。明るくも暗くもならなかった。
だんだん、腕がくたびれてきて、『ふらぬら』を取り落とすことの方が多くなった。うっかりして、折角育った『ほりふ』を潰したりした。
男は、もう叱るのも面倒になったか、ときどき、ちゃんとやれよ、とこちらを振り向きもしないで呟くように言うだけだった。
そして、三太に小言を言っているのかと思うと、こんなことをブツブツ言っていた。
「こんな仕事は、いやだいやだいやだ。俺は町へ行きたいんだ。町に行けばいい仕事があるかどうかわからねえ。でも、ここにいるよりはマシだ。こんなところは、いやだいやだいやだ」
ついに男は、ごろりと転がった。ふてくされているようだった。何に対してふてくされているのか、わからなかった。
その時、先ほど男が飯を取りに消えていったあたりから、不意と人間が立ち現れた。三太は、初め大きなカニが現れたのかと思った。だがそれは人間の顔であった。その下には、胴体があって陣羽織のようなものを着て、ぴかぴか緑色に光る袴をはいていた。
ふてくされていた男は、バネのようにはねかえって、ぴんと立ち上がった。
「こ、これは旦那、ご苦労様でございます」
男は、腰をかがめ揉み手をしながら、飴のようにとろけた顔で迎えた。
「来たくもないが来ないわけにも行かないからな」
カニ男は無愛想に答えた。へへへ、と男は愛想笑いをした。
「できてるか」
「へえ、これだけ」
男はクラゲの入った袋を指し示した。ふん、というとカニ男は袋の口から中を覗いた。
「小さくはないか」
「でも、質はようござんすよ」
「また、新しい子供か」
 カニ男は三太の方を見て言った。
「そう、新しいのばかり連れてきては、なかなか仕事が身につかんではないか」
「いえ、今度のヤツは出来がいいようで。大事に使ってやろうと思います」
「だいたい、お前にこらえ性がないのがいけない。隣のヤツなんか、五人も六人も子供を使って、どんどん作っているぞ」
「え、お言葉ですが、そう大勢いると、なかなか目が届きませんで、どうしても質が悪くなります。結局旦那にご迷惑をお掛けすることになりやす。やはり、あっしのように一人に絞った方が」
「悪い癖を出すなよ」
「へへへ、旦那、お人が悪い」
それから、彼らは交渉に入った。クラゲの売り渡し価格に関する哄笑である。
「まあ、一袋一〇銭だな」
「ご冗談でしょう。二〇銭はいただかないと」
などと、うにょうにょと話し合っていたが、結局折れ合って、カニ男が銭を渡して、「おい」と声をかけると出入り口からオコゼのような男が出てきて、クラゲの袋を集めて、また出ていった。カニ男は、その後から威風堂々と威張りくさって出ていった。
「今日はもうやめだ」
カニ男を見送った男はそう言うと、また先ほどと同じような粥の入った桶を持ってきて、
「食え」
と言った。
「明日からは、こういう用事もお前にやらせるからな」
働いたせいか、慣れたせいか、三太はお代わりまでした。そうして味はよくわからなかったものの、満腹を感じた。
今度は、三太の頭の上から、大きな布をかぶせると
「寝ろ」
と言った。三太が布の端から頭を出してみていると、男は大きな徳利を持ってきて、酒を飲み始めた。三太が見ているのに気づくと、
「寝ろ。頭を引っ込めろ」
と、恐ろしい顔で言った。

布は、びろびろとしていて、何で出来ているのかわからないが、頭からかぶると、あたりは真っ暗闇になった。
時々、「ごおおおう」という男の声が聞こえた。何かを叫んでいるのか、欠伸なのか、鼾なのか、げっぷなのかわからなかったが、三太の背骨を揺すぶるように恐ろしかった。
いつ帰れるのだろう、と思った。不安なことを考えながら、暗闇の中で目が冴えているのはかなわなかった。
男が眠ってしまったら逃げだそう、と考えた。そのうち、彼も本当に鼾をかき始めるだろう。まず、足首に結ばれた縄をほどかなければ。
先ほどは、ずいぶん固く結ばれたと思っていたが、あの後、色々動き回ったせいか、案外簡単にはずれた。あとは、時を見計らうことだ。しかし。
・・・家までの道がわかるだろうか。どうやって、ここまできたのだろう。また、男が途中で目を覚まして追いかけてきたらどうしよう。
その時、「逃げ出せ、逃げ出せ、ヤツは眠ったぞ」という小さな声が聞こえた。子供の声のようだった。耳の中で鳴っているように思えた。次に右脇で聞こえた。それから、足首のあたりで聞こえた。
三太が声の方を振り返ってみると、暗闇の中でほわっと青白く光っている丸いものが見えた。
クラゲだった。男に捕まらずにいたのだろうか。
「あの男は悪い癖がある。よそのクラゲ屋が子供を何人も使って稼いでいるのに、あいつが稼げないのも、この悪い癖のためだ」
とクラゲは言った。
「前の子供もそうだった。子供の肉が好きなのだ。こうして、目くらましの布をお前にかぶせているのも、お前の寝姿が目に毒だからだ。こうしておかないと、涎が垂れてたまらぬのだ。何日か、しばらくは働かせているが、だんだん我慢できなくなる。そうすると、目を血走らせて布を剥ぎ、尻にかじりつく。尻の肉から食っていって、最後は骨までカリカリと囓って跡形もなくなってしまう。そこで、ようやく我に返る。子供を食ってしまったことを悔いながら、また子供を攫いに出掛ける。お前のように、真っ昼間にぼんやりしている子供が攫いやすい。夢の隙間に連れ込んで、引っ張ってきてしまうのだ。
逃げろ。あの出入り口はだいたいわかるだろう。あそこへ飛び込め。あとは一散に走れ。振り向くな。振り向くとつかまる。今まで逃げた子供は大抵、振り向いてしまった。すると、夢の淵に落っこちてしまう。そして、食べられてしまう」
三太は跳ね起きた。布が頭や足に絡みついて、どこが出口やらわからなかった。何度も足を滑らせて転んだようだった。これでは、男が目を覚ましてしまう。焦ってもがいていると、前にクラゲが光っていた。
「大丈夫だ。私を目指して進んでおいで」
クラゲの方へ手を伸ばすと、抵抗もなく前へ進むことが出来た。三太はまだ尋常に入る前、池に落ちたことを不意に思い出した。水底の藻が手足に絡みついて動けなくなったのに、なんの拍子にかふわっと身体が浮いて、それで大人達に助けられたのだ。
もう、男は目を覚ましただろうか。三太がいないことに気づいただろうか。今自分はどの辺にいて、あとどれくらいで家に戻れるのだろうか。
急にクラゲの光が強くなった。光がトゲのように目に刺さった。あたりがぼんやりして、暗いのか明るいのかわからなくなった。
「これが、夢の境だよ」
誰の声かわからなかった。クラゲの声かもしれないし、自分の声かもしれなかった。

気づいてみると、目の前に庭の木立が見えた。もとの部屋だった。一本の木は、さんせう太夫から逃れることに成功し、都で出世して、母を迎えに来た弟の厨子王役だった。もう一本の木は母役で、盲いていた。あそこへ行く前に見ていた芝居だった。
ぎゃっ、という声が廊下で聞こえた。ついで、ばたばたと母屋の方に走っていく足音が響き、
「坊ちゃまが、三太坊ちゃまが戻っておられます」
という女中の慌てた金切り声が聞こえた。

社長のショートストーリー『創世神話』

社長1 「じゃあ、小旅行でもして気分を変えてみたらどうだい。K市に俺の懇意にしている旅館があるんだ。紹介してやるよ。老舗の旅館だがね。なに心配しなくてもいい。俺の大親友だと言えば、大特価で大サービスしてくれるさ」 

 日常のこまごまとした不愉快事にかかずらっているうちに、本当に落ち込みそうになってしまった。友人のヤマダに相談してみると、そんな答えが返ってきた。 
「そうしてみるかな」
 「そうしろ、そうしろ。いつ行くんだ。俺が予約してやる」 
 まるで自分の旅行のように、彼の方が乗り気になってしまったので、行かないわけに行かなくなった。経営する珈琲店を二日だけ臨時休業することにした。 
 ある駅で新幹線から乗り換えて、二つ目の駅で降りた。改札を出ると、寺の五重塔が目についた。古い家々は黒い屋根瓦を載せて、眠ったように落ち着いている。 小藩ながら学芸を大事にした大名の城下町だということだ。ひなびた味わいと、それでいて歴史を感じさせる雅びた味わいを併せ持つ町だった。 
「これは、案外、当たりかもしれないな」 
 しばらく町を歩いただけで、気分が爽やかに晴れてくるのを感じた。 
 旅館に入ると「ヤマダ先生のお友達」ということで、意外な歓迎を受けた。ヤマダに「先生」がくっついているのが、なんだかくすぐったい。 
 彼とは中学時代からの友だちだが、他家の玄関の呼び鈴を押してはピンポンダッシュで走って逃げたり、女の子のスカートをめくっては走って逃げたりと、やたら走って逃げるばかりの下らない遊びを一緒にやっていた。 
 その彼が、実はある伝統芸能の家元の息子だということを知ったのは、しばらく経ってからだった。へえ、と思ったが、人間関係が別段変わることもなく、少年時代は下らない遊びを共にし、大人になってからは酒を飲んでは下らない話に花を咲かせるばかりの付き合いがずっと続いている。 
 その伝統芸能がどんなものなのかも、よくわからないし、彼の方も見に来いとも言わないし、説明をすることもしない。だから、彼がえらいのだか、えらくないのだかわからない。たぶん、えらくないのだろうと思っていた。
  そういうわけで、「ヤマダ先生」を聞いて危うく吹き出しそうになった。聞けば、この旅館の主人がヤマダについて、その伝統芸能の稽古を受けているのだそうである。 

 二階の二間続きの部屋に通されて、中庭の梅の古木を見ながら、 
「いい庭だな」
 そんなことを思った。私に日本庭園がわかるわけではないが、見ているだけで心が和んでくる。来てよかったと、改めて思った。ヤマダ先生、恩に着ますぜ、と心の中で呟いた。
 「おや?」 
 梅の根元で、何かが動いた。初めは、鳩とかツグミとかの鳥かとも思った。ついで、少し大きいリスのような動物かと思った。ちょこちょこ動き回るのを目を見張って見ているうちに 「ありゃ、人間だ。 
  腰に灰色っぽい布を巻いただけの半裸の男だ。肌がアカまみれで茶色っぽく見えるので動物に見えたのかもしれない。頭はボサボサで、髭まみれの頬はこけている。姿を追っているうちに、目と目が合ってしまった。 怯えた目をしていた。ひどく驚いて飛び上がると、慌てて植え込みの中に這い込んだ。しばらく、植え込みのそこここがごそごそと動いていたが、やがてひっそりとしてしまった。 まるで野良猫が逃げ込んだようだった。いや、野良猫なのかもしれなかった。小さい人間がいた、などというよりも、野良猫を見間違えた、の方が常識に近いだろう。 
 名を呼ばれた。振り向くと女中が風呂場に案内すると言って、やって来ていた。 
 風呂から上がると、夕食の用意ができていた。奥の部屋には、すでに夜具が敷き伸べてある。後は、飲んで食って寝るだけだ、と思うと胸の奥から喜びがわき上がってきた。しみじみと嬉しい。  女将が来て酌をしてくれた。 
「わざわざ女将さんがいらしてくれるなんて、なんだかすみませんねえ」
 「いえいえ、ヤマダ先生のご親友なのでしょう。大事にしてやってくれ、と先生に言われておりますの」 話し上手聞き上手の女将で、初対面の美人相手に話が弾んだ。これもヤマダ先生のおかげかもしれない。 
 もちろん、ヤマダの事が話題に上がった。彼女が彼の公演を見た感想を話すと、こちらは、そんな彼は一向に知らないので、若い頃の悪戯や失敗談などで、旧悪を暴露した。女将がだいぶヤマダを尊敬している風だったので、平衡を保つため彼女の知らないヤマダを教えてやる必要があったのだ。女将は、身体を折り曲げてコロコロと笑った。 
 旅館のことも色々と話してもらった。なんでも、もと武家屋敷だったのが、明治維新以降、何人かの手を転々としたのち、大正時代に旅館として創業したのだそうだ。随所に江戸時代の面影が残っているという。 
 「例えば、この中庭ですとか」
 「そうか。風情があると思っていましたが・・・」 
 俺の鑑賞眼もまんざらではない、と鼻を高くしかけた途端、あの小さい半裸の男の残像が脳裏に現れた。びくっとして、盃をひっくり返しかけた。 
「どうなさいました・・・?」
 「や、失礼・・・なんというか・・・いや、先ほどヘンなものを見たものですから」
 「ヘンなもの?」 
 「いや、もちろん見間違えだと思うのですが・・・」
  私は、あの小さな人間の話しをすると、 
 「ああ、あれですか」 
 意外なほど彼女はあっさりと答えた。
 「時々、出ますのよ。お客様の前には滅多に姿を現さないのですが」
 「あなたも見た事があるのですか」
 「ええ、何度も」
 「なんなんですか、あれは」
 「神ですわ」
  また、酒を吹き出すところだった。
 「神?」
 「ええ、この世を創った神」
 「旧約聖書の創世記とか、イザナギ・イザナミの神話みたいな・・・?」
  そこへ、若い女中が入ってきて、女将さんちょっと、と何事か耳打ちした。女将は頭を下げると、
 「申し訳ありません。ちょっと用事ができてしまいまして」
 「いえ、どうぞどうぞ」 
 女将も忙しいだろう。いつまでも、こんな遊山客ひとりにかかずらっているわけにも行くまい。女将は出しなに、その若い女中に、
 「あ、ハカセちゃん、ちょっと」 
 と何事か耳打ちした。
 「え、私が?」 
 女中は素っ頓狂な声を上げたが、女将が姿を消した後も、そこに残った。
 黒縁の眼鏡をかけて、どことなく女将に似た顔立ちだと思ったが、色香のようなものはどこを探しても無いようである。正座した膝の上で手を固く握りしめている。初々しいと言うより、まだ着物姿もしっくり身についていないようで、むしろ痛々しい。
 「あ、あの」 
 と声をかけると、
 「あ、すみません」 
 と再び素っ頓狂な声を上げて、銚子を取り上げ酌をした。手が震えて銚子の口と盃がカチカチと音を立てて、
 「ご、ごめんなさい。まだ、馴れないものですから」
 「新人さん?」
 「アルバイトです」
 「というと学生さんかな」
 「文化人類学の研究者なんです」
 「なるほど、それで」
  先ほど女将がハカセちゃん、と呼んでいたのに思い至った。博士だか修士だか知らないが、そういうところから来たあだ名なのだろう。
 「女将が、お客様が『神』に興味をお持ちのようなので、話し相手になってやってくれと・・・。すみません、私は本当は下働き担当で、とてもお客様の相手を出来るようなものではないのですが」  なんだか面白いことになってきた。ヘンに色気を振りまく人が登場するより、そういう浮世離れした話でもして過ごす方が、こういう旅にふさわしい。
 「お客様、神は・・・」
 「うむ、見た。というか、まだ自分の目が信じられないし、あれが天地を創った神だというのも信じられないんだが」
 「この地方の伝承では、そういうことになっているのです。おまけに、少数ながら、それを見た人がいるというのも不思議ですよね  」
 「女将とか、ここのご主人は見たのかな」
 「はい、そう言っています。実は、私も見たくて、頼み込んでアルバイトとして入れてもらったんです。私、女将の姪なんです」
 「で、君は見たの?」
 「いえ、まだ・・・あの、お客様、そのご覧になったものの様子を教えていただけますか」
  私は、先ほど見た小人のことを話した。彼女は、帯の間から小さな手帖と鉛筆を取り出して書き込んでいた。
 「あれは、ここの庭に住みついているのかね」
 「何年か前から、現れるようになったそうです」
 「ふうん。守り神みたいなものかな。それなら、もう少しきれいにしてやって、祀ってやればいいんじゃないかね」
 「それが、非常に警戒心が強くて、人間を恐れているようなんです」
 「神が?人間を?」
 「はい、それまで、子供に石を投げられたり、棒で追われたりしてきたそうなので」
 「おい、そんなことして神罰でも下りゃしないか」
 「この神は無力なんです」
 「だって、この世を創ったほどの神なんだろう?」
 「はい。創るには創ったけれども、それ以外のことはできないようなんです」
 「自分の設計どおりというか構想どおりに創ったんじゃないのかね」
 「これは私の想像なんですけれど、宇宙の始めがビッグバンだったとすると、その爆発的な膨張の最初のきっかけを与えたのが、あの神だったんじゃないのか・・・」
 「で、やったことはそれだけかい?後は、勝手に宇宙が進化するのにまかせて、本人はなにもしない?用なしってこと?」
  不思議、というか情けない神もあったもんだ。
 「そうですね、あとの140億年は特に為すこともなく」
 「140億年のヒマ人かよ・・・」 
 呆然とする思いだった。自分の、こせこせとした日常はなんだったんだ、と思った。
 「私、あの神と話がしたいんです」 
 ハカセちゃんは私の盃に酒を満たしながら言った。
 「そりゃあ、140億年分となれば、積もる話も色々あるだろうが」
 「例えば、ビッグバンの前は時間も空間もない『無』だったって言われたりしますよね」
 「よくは知らないが、聞いたことがあるような気がするね」
 「すると、その時、彼はどこにいたのでしょう。『無』の外でしょうか。『無』の外って、どうなっているんでしょう。それとも内側でしょうか。『無』の内側ってなんでしょうか。それとも、内も外もないから『無』なんでしょうか」
 「無って、入ったり出たりできるもんかな」
 「たぶん、彼は『無』と戯れていたんでしょうね。子供がおもちゃをいじくり回すみたいに。そのうち、『無』が破裂したんですよ」
 「なんか、花火を悪戯しているうちに、ボヤを出した、みたいな話だね」
 「花火ならボヤで済みますけど、『無』だから、宇宙が生まれてしまって、まだ現在進行中なんですよ」
 「『無』ってのは、こんなもんかな」  私はハカセちゃんの顔の前にこぶしを握って突き出した。 「こんなもんです!」 
 ハカセちゃんは、間髪入れず、開いた手を突き出した。
 私の腹の底で、なにかがぱちんと弾けた。ビッグバンかもしれない。私のビッグバンは、たまらない愉快さとなって、 「ははははははははははは」
  哄笑を生んだ。
 「いや、楽しい。俺は、こういう話を聞きたかったのかもしれない。ハカセちゃん、ありがとう。この気持ち、皮肉でも何でもないこと、そのままの愉快さであること、わかってくれるよね」
  ハカセちゃんは、明るい微笑みを浮かべて、また一杯注いでくれた。もう、カチカチ音を立てたりはしない。 
 「この酒もこのカラスミも・・・」 
 と呟いて、天井のひと隅を見上げた。その向こうに、何億光年彼方からやって来る星々の光が見えるような気がした。 
 この酒もこのカラスミも、あのヒマ人が140億年前に起こしたビッグバンなしには、この膳の上に乗っかることはなかった。
  翌朝、朝食を運んできてくれたのは、まるまると太った中年の元気のよい女中だった。ビールの小瓶をコップに注いでくれながら(この二日間は徹底的にユルく過ごすつもりだ)、
 「お客様、ヤマダ先生のご親友なんですってね」
  また、ヤマダ先生だ。私はすかさず、彼の旧悪を色々と暴露した。女中は元気よく笑いこけた。この地方では、ヤマダネタに限ると思った。
 「そういえば、ここには神がいるんだってね」
 「ああ、あの話・・・まあ、このあたりでは子供でも知っている話ですけれどね」
 「あなたは、見たことあるの?」
 「いやですよ、あるわけないじゃありませんか」
 「ないの」
 「おとぎ話ですよ。そっか、ハカセちゃんに何か聞いたんですね。あの子、変わっているからねえ」
 人によって、ずいぶん反応が違うものだと思った。
 「お客様、そんな迷信より、お時間があればA神社にお寄りなさいましよ。市のはずれにあるんです。ここからも近くですよ。霊験あらたかなんですから。うちの息子が大学に合格したのも、あそこのお札のおかげなんですから」
  勘定は、申し訳なくなるほど安かった。これもヤマダ先生の霊験なのだろう。中学時代、共にピンポンダッシュに励んでおいてよかった。 
 元気のよい女中さんのお言葉にしたがって、A神社を訪れた。(別に他のどこに行くというあてもなかったし) 背の高い木立に囲まれた、いい感じの神社だった。これなら、霊験あらたかじゃなくてもいい。二礼二拍手一礼。

金井哲夫の超短編小説「ラッパスイセン」

 太平洋に浮かぶ小さな島の南斜面には、一面に野生のラッパスイセンが植わっていた。
 春子と春男は、お互い春に生まれた同士の幼なじみで、毎年、ラッパスイセンが咲く時期になると、ここへ来ることにしていた。もう何回目になるだろうか。高校を卒業してまだしばらくこの島に暮らしているが、まだお互いの気持ちを確かめてはいなかった。
 今年こそは、将来の話をしたい。二人は互いに胸の中でそう願っていた。
 夜明け前、二人は古びた軽自動車に乗ってラッパスイセンの海岸にやってきた。道路の脇には休憩場と見晴台を兼ねた駐車場がある。その海に面した、丸太を模したコンクリート製の柵から先は、眼下にラッパスイセンの斜面が広がり、さらに30メートルほど下ったあたりから青い海になっている。そこから先には水平線までもう何もない。
 二人は車を降りて柵の前に海に向かって並んで立った。水平線の上が少し明るくなり、太陽の先端が燃える宝石のように少し見え始めたとき、春男は思いきって春子に言った。
「ボクたちさ……」
 そのとき、一輪のラッパスイセンが朝日を浴びてプウと鳴った。ここに自生するラッパスイセンは、太陽の光を浴びて開花するときに、プウとラッパのような音を立てるので有名だった。
「なに?」と春子が聞き返したとき、ププー! と二輪のラッパスイセンが続けて鳴った。
 太陽が少し上に出てきて、ラッパスイセンの斜面に当たるオレンジ色の日光の面積が広くなる。
 すると、プープーとあちこちからラッパスイセンの開花音が響くようになった。
 プー! プープープー! ププー! プププー! プープププー! プップププー! プー! ププププー! 
「あの……」
 プープープープー! ププー! ププププー! ププー! プー! プー! プー! プー! プー!
「なあに?」
 プー! プー! ププー! プププププー! プー! プー! プププー! ププー! 
プー!

                                 うるさいのでおしまい      

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文豪堂

Author:文豪堂
いらっしゃいませ。中川善史(自称社長)と金井哲夫(自称編集局長)が2人でしこしこ書いているふざけた電子書籍本を販売する「蕪」式会社文豪堂書店です。(社名は予告なく変更することがあります) (なおこれは個人の感想です)(効能を保証するものではありません)(おだてると調子に乗ります)

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