みなさまと共に歩む…… (*個人的な感想です)

金井哲夫の超短編小説「ラッパスイセン」

 太平洋に浮かぶ小さな島の南斜面には、一面に野生のラッパスイセンが植わっていた。
 春子と春男は、お互い春に生まれた同士の幼なじみで、毎年、ラッパスイセンが咲く時期になると、ここへ来ることにしていた。もう何回目になるだろうか。高校を卒業してまだしばらくこの島に暮らしているが、まだお互いの気持ちを確かめてはいなかった。
 今年こそは、将来の話をしたい。二人は互いに胸の中でそう願っていた。
 夜明け前、二人は古びた軽自動車に乗ってラッパスイセンの海岸にやってきた。道路の脇には休憩場と見晴台を兼ねた駐車場がある。その海に面した、丸太を模したコンクリート製の柵から先は、眼下にラッパスイセンの斜面が広がり、さらに30メートルほど下ったあたりから青い海になっている。そこから先には水平線までもう何もない。
 二人は車を降りて柵の前に海に向かって並んで立った。水平線の上が少し明るくなり、太陽の先端が燃える宝石のように少し見え始めたとき、春男は思いきって春子に言った。
「ボクたちさ……」
 そのとき、一輪のラッパスイセンが朝日を浴びてプウと鳴った。ここに自生するラッパスイセンは、太陽の光を浴びて開花するときに、プウとラッパのような音を立てるので有名だった。
「なに?」と春子が聞き返したとき、ププー! と二輪のラッパスイセンが続けて鳴った。
 太陽が少し上に出てきて、ラッパスイセンの斜面に当たるオレンジ色の日光の面積が広くなる。
 すると、プープーとあちこちからラッパスイセンの開花音が響くようになった。
 プー! プープープー! ププー! プププー! プープププー! プップププー! プー! ププププー! 
「あの……」
 プープープープー! ププー! ププププー! ププー! プー! プー! プー! プー! プー!
「なあに?」
 プー! プー! ププー! プププププー! プー! プー! プププー! ププー! 
プー!

                                 うるさいのでおしまい      

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社長のショートストーリー『時限爆弾女』

社長1 もう、何年も前の話になりますが・・・。

  島と半島からなる港湾都市。四千年の歴史を持つ大陸の文明とにわかに勃興してきた西方の国々との、一世紀半くらい前の奇妙で暴力的な交渉により、貧寒たる漁村から生まれた近代都市。岩山に超高層ビルが密集している様子は、海岸のフジツボの密生を見るようでもある。 
 
 この街から大陸や島嶼部のあちこちへと繋いでいる高速艇のターミナルがある。ちょっと巨大なズワイガニがうずくまっているように見える。その足のあたりから、ひっきりなしに乗客を乗せた船が出ていく。
  そのターミナルの中のカフェで、私はブラックコーヒーを飲みながら自分の乗る船を待っている。 「からっぽの胃にそんなもの流し込んだら、荒れるわよ」 
「酒とコーヒーで、もう、ひびが入っているよ」 
 私に話しかけた女は、私の前に座って、フレンチトーストをナイフとフォークで食べている。卵とミルクと砂糖がじゃりじゃりしそうなほど入ったヤツだ。彼女はさらに、その上から蜂蜜をたっぷりかけて食っている。
  私たちはこれから大陸のある新興の町へと向かう。その町に、我々の会社がコントロールしている工場がある。私は日本の本社からの出張者であり、彼女は島の中心部におかれた事務所で日本と大陸と島の三角形を動かしている。彼女は日本人だが、この街で現地採用された。 
「そんな甘ったるいもの、よく食えるな」 
「したかないわ。脳が要求するのよ」
 「それでよく太らないな。何か、運動でもしているのか」  
 高層ビルの中のジムでランニングマシンに乗ったり、スカッシュのコートを走り回っている彼女の姿が思い浮かぶ。 
「何もしてないわ」 
「休日は」 
「寝てる。一日中、部屋でごろごろしている」 
 テレビ見たり、レンタルや違法コピーのDVDを見たりね、と彼女は付け加えた。
 「君らしくないね。キャリアアップのための勉強とかしていそうだけど」
 「バカバカしいわ」 
 このあたりの人は、大きな声で話す。一日の始まりに、早くもエネルギッシュな喧噪が生まれているカフェの中で、彼女のまわりの空気だけが、アンニュイで妙に色っぽい。 
 広東語と英語と北京語でのアナウンスが、我々の乗る船の乗船準備ができたことを告げると、あちらこちらでやおら立ち上がる人が出てくる。彼女は、フレンチトーストの最後の一切れを口に入れると面倒くさそうに立ち上がった。 
 けたたましいエンジン音を立てて高速艇はターミナルを離れ、波の中をバウンドするように半島に沿って進んでいく。空は青いのに、波しぶきが窓にじゃんじゃんかかるので、暴風雨の中を進んでいるような気がする。 高層ビルの群れが途切れると、半島は岩と潅木の風景になる。 
 私は前の座席の背に付いているテーブルを引き出して、パソコンで資料の確認を始めたが、彼女は目をつぶると、なんだか野良猫のように丸っこくなって眠ってしまった。  

 一時間あまりで目的の港に着いた。あたりには、何もない。広い道路が一本、海岸線に沿って無愛想に伸びて、岩山の裾でカーブを描き姿を消している。 
 二台の車が迎えに来ていた。一台は私を工場まで連れて行ってくれる。もう一台は、ワンという男が運転する車で、これはどこへ行くか、わからない。というか予想も付かない。大陸側での彼女の足になっている。  彼女は、朝の明るく乾いた光と風の中にすっくと立った。それまで、ぐにゃぐにゃしているように見えた足が、黒いミニスカートからぴんと長く伸びて大地に突き刺さるようだった。 
「じゃあね。また、午後に」 
 笑ってワンの隣に乗り込むと、車は「ぴゅーっ」というマンガ的な擬音でもつけてやりたいような勢いで、たちまち道路の彼方に消えた。 
 これから、どこをどう回って来るのかわからないが、気がつけば、なにかしら新しいビジネスの種やネットワークやらを見つけてくる。営業ばかりでなく、生産や財務や法務やITにも通暁しており、思いがけない回路を通って、びっくりするような成果を上げる。
 どんな活動をしているのか、いちおう上司には報告をあげているのだろうが、全部ではないだろう。 彼女は日本流の「報告、連絡、相談」というのが大嫌いで、うすのろ共と、ああでもないこうでもない、と時間を無駄に使うよりも、さっさと出来上がったものをごろんと目の前に転がしてみせる、というやり方だ。結構、金も使うようだが、その出来上がったものは、すでに反論しがたい説得力を持っており、おおむね彼女の考えどおり、この地での仕事は進んでいく。 
 彼女の上司というのは、三年という任期で日本から出向してくるおっさんで、上の顔色をうかがう以外、能のない男だ。島のセントラルという地区にある事務所の所長ということになっているが、もちろん彼女がいなければ、この地では何も進まない。完全に首根っこを押さえられているわけで、内心は面白くないのかもしれないが、まあ、彼女にまかせておけば、成果は上がるし、その成果は日本の本社に向けては、私がやりました、という報告をしておけば上の覚えもめでたくなるというので、不満はないようだ。それに、結構な出向手当をもらっているらしいし。  

 工場に着いて、私は人びとと打ち合わせをし、資料をチェックし、工場内を視察し、昼は幹部連と食事をした。 
 午後は、周辺の取引先や会計事務所などを回って戻ってくると、駐車場にワンの車がおいてあるのが見えた。
 場内に一歩足を踏み入れると、空気がまるで違っているのがわかった。彼女が大股でラインの間を歩き回り、人をつかまえては中国語で質問をしている。答える側も、顔が引き締まっている。工場内の女王陛下だ。私のような大甘な出張者に対するのとは、ワケが違うらしい。  夕方から会議が始まった。彼女より職位が上の筈の工場幹部がずらりと揃っているが、仕切っているのは完全に彼女だ。おどおどと報告を挙げる幹部連に、ぴしぴしと平手打ちのように質問を下し、彼女の手の中で問題点が明らかにされ、解決策が示されていく。 
「わかりました。その件は明日中に調査してメールで報告してください」
 山のようにあったと思われた議題が、ほこりをはらうように消えていき、 
「それでは、これで終わります」 
 そう宣言すると、もう立ち上がっていた。ワンの車へ向かう途中、くるりと私の方を振り返ると、 
「これから、A社の幹部と情報交換を兼ねた食事なのよ。ごめんね、あなたともゴハン食べたかったんだけど」 
 そう私に日本語で言って、なぜかウィンクをして、ワンの車で夕闇の中に消えていった。 
 このあたりの企業社会で、彼女は大した人気らしい。美人でスタイルが良くて頭がいいのだから、当然だ。ああ言った食事会の申し込みは引きを切らないようだ。思わず機密情報をもらしてしまうおじさんも多々あるだろう。まるで女スパイだが、まあ、我が社のためには祝福すべきことだ。 

 巨大できれいな工場がいくつも並んでいる。世界的に有名な企業のそれだ。その間に、ウチのような中堅企業の工場がある。さらに、それにしがみつくように、零細企業の工場がある。 なんだか、生き物の細胞の中を覗き見るような工場群があって、その真ん中に、この町の中心街がある。そこには、商店があり食堂があり、世界中で見られるチェーンのファミリーレストランやハンバーガーショップの店がある。 
 その真ん中に、私の宿泊するホテルが椰子の木と電飾に取り巻かれて光り輝いている。 
 宿泊客のほとんどは、町を囲む工場群へ、大陸の別の町や半島や他の国から金儲けにやって来る、あるいは大損しにやって来る男達だ。一日中、金のことを考え、労働者を絞ることを考え、ライバルを追い落とすことに全精力を傾けてきた男達だ。皆、顔がてらてら光り、大きな目玉が飛び出しそうになっている。 
 ここは宿泊施設であるばかりでなく、それ自体、一個の歓楽街だ。はっきり言えば売春窟でもある。三階にある巨大な酒場は、内部がいくつもの個室に別れ、男達はチャイナドレスの女を横に侍らせて、カラオケやら他愛のないゲームでどんちゃん騒ぎをして、宴果てて意あらば、女に金を渡して「お持ち帰り」もできるらしい。 
 私はとてもそんな元気もなく、一緒にどんちゃん騒ぎをやるお友達もいないので、階下のレストランで一人食事をして、同じフロアのバーカウンターでウィスキーを飲んだ。いつも、この街に来ると、強烈な熱気を避けて、一人になれる時間が待ち遠しくなってしまう。 
 ふと、彼女は今頃どうしているだろうと考えた。まだA社のおじさんたちと楽しく情報交換をしているだろうか。 
 彼女も宿はこのホテルに取ってあるはずである。もしかすると、今晩、ただ一人の女性客かもしれない。さぞ目立つだろう。男共が放っておかないかもしれない。コールガールと間違えられても不思議はない。あのミニスカートだ。 
 あれで、一人で夜歩き回ったら、事件に巻き込まれる危険性があるだろうに、今のところ、そういうことはない。それどころか、ナイフを持って襲ってきた暴漢を、逆にボコボコにしたという伝説さえある。あり得そうな気がしてくるから恐ろしい。 
 ウイスキーがすすむ。この街にいると、強い酒で頭の芯を麻痺させないことには眠れなさそうな気がするのである。  

 朝はグランドフロアのカフェで、バイキング形式の朝食が提供される。私は、トーストにベーコンエッグというありきたりの食事を盆に載せて、空席を探してうろうろしていた。 
 昨晩は歓楽のひとときを持ったのか、大人しく寝たのか知らないが、男共は一様に不機嫌な面構えで、まずそうに飯を食っている。中に、ちらちら女の姿も見える。おそらくは、男が「お持ち帰り」した女に朝飯を奢ってやっているのだろう。 
「ハーイ」 
 というハスキーな女の声がしたので、見ると彼女であった。今日も、朝っぱらからアンニュイで色っぽい雰囲気を漂わせていた。 
 そして、例の如く、フレンチトーストを食っていた。今日は蜂蜜ではなくて砂糖をかけている。のみならず、横の小皿にケーキをいくつか載せている。私は、それを見ただけで昨晩のウイスキーがぶり返しそうになった。 
「今日は、どうなさるの」
「午前中は工場で仕事。午後はセントラルに戻って、人に会って調べることがある」
「日本へは」 
「明日、土曜の便で帰るよ」 
「ふーん」 
 素っ気ない返事をした。あの事務所の所長なら、太った腹をくねくねさせて「いいな、いいな、日本に帰れるんだ」と必ず付け加えるだろうが、彼女にはそういうことには、恬淡としている。世界中のどこにいようが構わないのかもしれない。 
「君は?」 
「今日は、こちらであちこち動き回るわ。セントラルに戻るのは、夜遅くになるわね」 
「遊ぶ暇もないね」 
「遊ばないわよ。コンビニで、お酒とご飯とお菓子を買い込んで、部屋でホラー映画のDVDを見るの」 
「なんか、君にしては寂しいね」 
「寂しいもんですか。一番の楽しみよ。なにしろ、三週間ぶりの休みだもん」 
「彼氏とかは?」 
「いないわ。面倒くさいし」 
「なんだかなあ。それだけこき使われて、労働の報酬がコンビニ飯とホラー映画だったら、俺なら反乱起こすぞ」 
 ふふふ、と笑うと彼女は妙にいたずらっぽい目で私の顔を覗き込んだ。 
「実は、私、時限爆弾を抱えているの」 
「なんだい、そりゃ」 
「私、これだけ甘いもの食いまくって、運動もせずにいたら、もっと太るはずだと思わない?」 
 私は、思わず、その引き締まったウエストに目をやった。 
「確かに不思議だよなあ」 
「これね、いつか、爆発的に太るのよ」 
「?」 
「一気にね。それもただの太り方じゃない。いきなり200キロとか300キロとかに膨張するの。アパートのドアから出られなくなるわね。それどころか、ベッドから起き上がれないかもしれない」
「会社には?」 
「行けるわけないじゃないの」 
「所長は、いや、会社が困るだろうな」 
 確かに彼女がベッドから起き上がれなくなったら、この会社の海外部門は機能停止だ。国内だって、台風並みの被害を被る。 
 だいたい、今でこそ、職位は私と同じ中間管理職だが、本来なら事務所長をまかせてもいいはずだ。いや、重役にしてもいいはずなのに、出世させたがらない幹部連中がおかしい。暗に「女だから」という差別を感じる。 
「それは一年後かもしれないし、一ヶ月後かもしれないし、週明けかもしれないわ」 
「そうならないことを祈る。いや、ジムでも何でも行ってくれよ」
 「いやよ。私、ホラー映画とコンビニ飯が好きだもの」  

 数ヶ月後、私は、故あって会社を離れることになった。私の在籍中に時限爆弾は爆発しないで済んだ。退職の挨拶のメールを出すと、すぐに電話が掛かってきた。
 「ついに一緒にゴハン食べれなかったわね。ごめんね」 
 電話の向こうで、ばちっとウィンクをしているような気がした。  

 ほどなく、彼女も会社を辞めた。丁寧な挨拶状が来た。ヘッドハンティングされたのだ。当たり前だ。手をこまねいていた幹部連中が悪い。さぞ慌てただろう。彼女のことだから、ちゃんと引き継ぎはしただろうが。 
 今は、欧州のある大都市で働いているはずである。  


社長のショートストーリー『ミスター・バック』

社長1  駅まではバスもあるのだが、運動不足解消のため、毎朝歩いて行く。不思議なもので、日々、だいたい速度が一定しているらしく、同じような時刻に家を出て同じような時刻に駅に着く。  郊外の私鉄駅の朝は、ほぼ都心に向かう通勤通学の客ばかりで、ある意味、顔見知りばかりである。どの人も、御同様に同じような時刻に家を出て、同じ電車に乗ることになるのだろう。違うのは、昨日吊革につかまっていた人が、今日はドアの脇にもたれてうつらうつらと居眠りをしていたり、立ったまま車内広告を睨みつけていた人が今日は大いばりで座っていたりすることぐらいである。  家族や会社の同僚、学校のクラスメートなどを除けば、一番頻繁に顔を合わせる人たちということになるのだが、互いに名前も知らず、挨拶も交わさない。ただ、頭の隅で一瞬、ああ、あの人、と思うだけである。 今朝も、ドアに近いところに立っている人の後ろ姿を見て、 (ああ、この人・・・) と私は思った。この人もしょっちゅう見かける人だ。 (そういえば、駅のだいぶ手前から、ずっと俺の前を歩いていたな。そのまま、後について改札を通り、同じ電車の同じ車両に乗った)  珍しくもないのだろうが、珍しいことのように思ってみた。 (考えてみると、この人、いつも同じようなダークスーツを着ている。一着しか持っていないのかな。だけど、本当のお洒落は気に入ったスーツを何着も持っているものだ、という話を聞いたこともある。手に持っているカバンもヨーロッパのブランドものだし、でもってダークスーツ一本槍となると、本当にお洒落なのかもしれない。襟から見えるワイシャツもいつも真っ白だ。カラーシャツなんか見たことがないような気がする。襟足もきちんと揃っているし。そう言えば・・・)  私の脳裏には、数ヶ月前の暑い盛りの光景が思い出されてきた。 (このクールビズばやりの世の中で、まわりがノーネクタイで上着なし、という人ばかりになった頃も、この人だけは、びっちりとスーツ姿だった。一本筋が通っているんだな。主張があるんだ。ネクタイだって・・・)  そこまで来て、私の回想は進まなくなった。 (ネクタイ・・・は、もちろん締めていたよな。締めていたはずだ。まわりが襟元をはだけていた暑い頃でも、この人だけは・・・)  努力して思い出そうとしたのだが、脳裏に像が結ばない。 (あ・・・)  奇妙なことに気づいた。 (俺、この人の顔、見たことがない)  そんなことがあるだろうか。毎朝、見かける人同士だ。他の人を思い浮かべている見ると、後ろ姿も前から見たところも、それどころか寝込んでヨダレを垂らしているところまで思い浮かぶのもいる。  当然だ。人間、後ろ姿から、少し角度をずらせば横顔が見え、ちょいと首が動けば、目も鼻も口も見える。前から見たところと後ろから見たところはセットだ。後ろ姿だけの人なんて存在するわけがない。  ただ、単に私がど忘れしているだけかもしれない。いや、そうに決まっている。 (ちょっと、こっち向いてくれないかな)  少しでいいのだ。ああ、あの顔だったか、と納得すれば、もう何でもなくなる。なんせ、人の名前とか単語をど忘れすることはあるが、顔とかイメージをど忘れするというのは珍しいような気がする。  すぐそこにいるだけに焦れったい。すぐそこなのに、向こうはドアに向かってぴったり身を寄せているので、混んでいる電車の中、見に行くわけにもいかないのだ。まさか、この人混みをかき分けて、しかもドアと彼の間に身体を差し入れて見たりすれば、かなり無気味な人と思われてしまう。  そのうちにM駅に着いた。別の路線への乗換駅だ。今の路線も別の路線も、大きなターミナル駅が終点になっているので、その混雑ときたら、毎日、乗降客が渦を巻くようで目が回るほどである。  ふと気がつくと、ドアのところに彼の姿はない。辺りを見回しても、どこにもいないようだ。今のM駅で降りたのだ。毎朝のように後ろ姿を見かけていても、どこで降りてどこへ行くのかなんて、互いに無関心だ。のはずだったが、 (そうか、あの人はM駅で乗り換えるのか)  まるで重大発見をしたような気になる。 (M駅までに決着をつけないといかんわけだ・・・)  例によって駅までウオーキングがてら向かっていると、あと百メートルというところで、彼の後ろ姿が見えてきた。 (ちょっと急げば追いつけるな)  別に急ぐ必要もないのだが、その後ろ姿を見た途端に、昨日の気分の落ちつかなさが忘れた宿題のように思い出されてきた。このまま行って、ちょいと追い抜きざま振り向いてみればいいだけの話だ。  私は小走りになった。ウオーキングがジョギングになったかな、と思う。はっはと、自分の息が聞こえる。彼の姿が確実に大きくなってくる。まるで子供時代の遊びのように、わけもなく嬉しい。  その途端、何かがはじけたような気がした。世界がはじけたのだ。いや、次の瞬間、自分が転んだのだということを了解した。 「大丈夫ですか」  と声をかけてきたのは、これもいつも朝の駅で見かけるOLだ。初めて口を聞くのがこの状況とは、惨めったらしい。  私は、立ち上がるとなんとか言った。たぶん、大丈夫ですとか、照れ隠しのようなこととか言ったのだろう。OLが行ってしまったのを見て、歩き始めた。  膝がひどく痛んだ。  次の朝は、膝がじんじん痛んだ。その日はバスを利用することにした。  窓際の席に座れた。  いつも通っている道なのに、バスのやや高い位置から、歩くのより速い速度で眺めていると、まるで違う町に来ているような気がする。あの店は、このビルは、この歩道は、この角度から見ると、こう見えるのか、といちいち面白い。そう、人間の顔だって違う状況で見れば、違った顔に見えることもあり得る・・・。  などと考えていると、前方の歩道に、あのダークスーツが見えてきた。覚えず興奮した。この速度なら、ほどなくあの男を捕らえ、なんなくその顔を見ることができる。見た事のある顔かもしれない。そうでないかもしれない。しかし、この数日、奥歯に挟まったニラレバ炒めのニラのように、小さなイライラを生じさせていたことが解決する。  小さなトゲのようなものが刺さったかと思うと、思いがけなく抜けていく、人生ってそんなことの繰り返しだ、などと感慨にふけって、その後ろ姿を見つめていると、バスが止まって動かなくなった。  駅前のロータリーに向かう道は、いつもこのあたりで渋滞するのだった。  少し動いては、また止まるということを繰り返している。彼に追いつきそうになると、まるで私をせせら笑うかの如くに止まるのだ。だんだん、バスを降りて、走り出したくなった。こんなことをしているうちに、彼が駅に着いてしまったらどうしてくれるのだ、という気になった。  だが、やがてバスは走り出した。渋滞を抜けたようだ。前方の赤信号で立ち止まっている彼の背中が見える。このまま行けば、横断歩道を渡る彼の横を追い越すことになるだろう。私は窓ガラスに顔を押しつけた。私の息でガラスが曇る。この曇りで大事な瞬間を見逃してはならぬ、と手でそれをぬぐう。  そして、彼の横を抜ける瞬間。  彼は、向こう側に顔を向けた。  せめて横顔だけでも、と後ろをすがるように見る私をからかうかのように、彼はくるりと背を向けると、もとの方へ歩き出し、遠ざかり、視界から消えた。 (何があったんだ)  問いただしたいような気持ちになった。 (そうだ)  駅に着いて、思いついた。この駅の入り口の階段の横に立って、彼を待ち伏せればいいではないか。これで、ようやく解決だ。なんだか、踊り出したいような気持ちになる。  バス乗り場から、タクシー乗り場から、横断歩道の向こうから、月極の駐車場から、ぞろぞろと人が歩いてくる。見知った顔もいる。挨拶したこともない朝だけの顔見知り。これまた、こんな角度から見ると、違う印象があるな、と思う。  だが、彼は中々来ない。家へ忘れ物でも取りに行ったのか。そうなると、だいぶ時間がかかるだろうか。待っていると、こちらも会社に遅刻するかもしれない。まあ、適当な理由をつけて、遅刻の連絡を入れてもいいのだが。  いつもの電車は行ってしまった。次の電車も行ってしまった。だんだん、そわそわしてくる。そもそも、会社を遅刻してまで、こんなことをやる価値があるのだろうか。いや、これを解決しておかないと、これからの毎朝、変な気持ちで過ごさなければならない・・・。  何のきっかけだったが、ふと階段を見上げると、なんと昇っていく彼の後ろ姿が見えるではないか。駅に来る人は、油断なく見張っていた筈なのに、いつの間に。  私は、走り出した。いや、走ろうにも、人混みが邪魔になって走れない。いらいらしながら、少しずつ間を詰め、改札を抜け、ホームに降り、そこへ電車が止まっていて、彼はドアに走り込み、私の目前でドアが閉まった。  翌朝、目を覚ますと、ベッドサイドに誰かが座っているのがわかった。金縛りに会っているのか、顔が動かせない。だが、目の端っこにうつる像から、誰かは推測できた。ダークスーツを着ている。彼だ。 (なぜ、私を追いかけるのだ)  と、彼は曖昧な声で聞いた。いや、本当には声を出していなくて、私の脳内に直接話しかけているのかもしれない。  なぜ、と言われても理由が出て来ない。理由などないからだ。 (君には無理だよ。なぜ無理かというと・・・それは、君が私に追いつくことができて、初めてわかるのだがね)  おかしな論理だ。なぜ、おかしいかというと・・・。なぜ、おかしいかというと・・・。なぜ、おかしいかというと・・・。  目が覚めると、びっしょり汗をかいていた。忌々しかった。別に夢に出てきた彼に怒ってみても仕方ないのだが、私の問題として、どうしても、彼の顔を一瞥でもしないと収まらない気がした。  いつものように歩いて駅に向かう。彼の後ろ姿が見えてくる。なんだか、その光景も悪夢のような気がしてきた。  ちょっとだけ、振り向いてくれればいいのだ。それで終わるのだ。だが、この男、首が回らないんじゃないかと思うほど、前を見続けている。そして、だんだん距離は縮まってくるのだが、どうしても追いつけないのだ。これも、また悪夢に似ている。私は、ずうっと夢の中に住み続けているのではないだろうか。  改札を入ったところで、彼がふと方向を変えた。トイレの方だ。 (チャーンス!)  私は叫びそうになった。トイレに入る、小用を済ませる、そして、どうする?  当然、振り返る。さらに洗面台で手を洗う。その前には?  顔を写す鏡がある。 (ふふふ、君の負けだよ。トイレの君は隙だらけだ。ここで尿意を催したのが敗因だね)  私は彼についてトイレに向かった。別に行きたくもないのだが、この際しょうがない。こんなにわくわくしながらトイレに行くのは初めてだ。  ところが、なんということだろう。彼は、「大」の方へ入ってしまった。この駅の男子トイレには「大」の扉が三つ並んでいる。その真ん中のドアが私の前で閉まった。その両側も使用中である。  私は「小」さえやりたくないというのに、「大」の扉が開くのを待つ人になってしまった。しかも、彼の入っている扉が最初に開くとは限らない。  私の後ろに、人が一人並んだ。この人は、やりたくもない私に比べて、遙かに切羽詰まった状況にあるのだろう。申し訳ない。もし、「彼」以外の扉が開いたら、譲ろうか。それも、おかしな光景ではあるだろう。 (くそう、尿意でなくて便意を催したのが、ヤツの勝因になるのか)  その時、水を流す音が聞こえた。ヤツの扉ではない。私は覚悟を決めて、後ろの人に順番を譲ろうと振り返った。 「あの・・・」  と、話し始めようと思ったその瞬間、私の下腹部を強烈な痛みが襲った。きゅるるる、という音がトイレ中に響いたかと思われるくらいだった。「彼」のではない扉が開いた。もう、否も応もない、私は天の助けとばかりに、その空席に駆け込んだ。  出てきた時、彼の姿はもちろんなかった。 「子供が熱を出してしまいまして、病院に連れて行かなければならないので、午前中は休ませて下さい。はい、あ、その件は山下君がわかっていますから。はい、大丈夫です。では・・・」  ともかくも、午前中は自由を得た。ヤツを思いっきり追跡しまくる自由だ。  三メートルきっかり、ヤツとの距離を保っている。もう、今日は慌てて転んだりはしない。突然の便意に邪魔されることもない。(思うに昨日のは、追跡に気をつかいすぎたための神経性の下痢だったのではないか)  距離を保ちつつ、改札を通り、電車に乗る。ヤツがM駅で降りるのはわかっている。すでに先手先手を打って、大きな網で取り囲んで捕獲するのを狙っているような気分だ。  M駅である。大勢のお客がすれ違ったり、ぶつかり合ったり、もみ合ったりという日々繰り返される混乱の中、私は彼への視線をそらさない。距離も開きもしなければ縮まりもしない。  私も彼ももみくちゃにされているのだが、彼の 顔は不思議なほど、こちらを向かない。他の乗客達と同じように彼の身体も曲がったり捻れたりしているのに、顔面だけは偶然とは思えないほど、私の方を向かないのだ。  M駅で乗り換えた電車で終点のS駅に着く。ターミナル駅で、多くの路線が迷路のように入り込んでいる。混雑も激しくなる。 彼を見失わないように付いていくと、ある地下鉄駅の入り口に入っていった。たしか先月開通したばかりの路線で、私は初めてだ。何列にも並んだ、エスカレーターが深い地の底へと人びとを粛々と運搬している。何人か前に、彼の後頭部が見える。やや上のこの角度から見るのは珍しいと思った。意外に耳がとがっている。 再び混み合った電車に乗り込む。乗客達の狭間で私の身体はぐるんぐるんと何回も回転する。彼もそのはずなのだが、相変わらず顔は見えない。 五つめの駅で降りる。私にとっては初めて降りる駅だが、もうこの大都会の中心部のはずである。 改札を通ってから、長い地下道を歩く。気づくと左右の壁も天井も鏡張りである。これなら、ちょっとした角度の変化で、彼の顔、少なくとも横顔くらいは見えるかもしれない。そんな期待が高まるとともに、じれったさも募る。 何度も右に左に曲がり、いくつかの自動ドアを通り抜けた。相変わらず鏡張りの廊下である。いつの間にか、前にも後ろにも、人はいなくなった。彼と私だけが歩いている。彼は私に気づいているだろうか、いや気づいているだろう。どう思っているのだろう。 そんな道行きを繰り返している中に、ある自動ドアを抜けたところで、私は立ち止まった。 その先に廊下はなかった。鏡張りの壁が私の前にあった。後ろを見てみると、今通ったばかりの自動ドアがぴたりと閉じている。それもまた、鏡になっている。 私は合わせ鏡の真ん中にいた。私の前には、私が写っている。その向こうには私の後ろ姿が写っている。その向こうには、また私がいて、その背後に向こう側を向いた私がいる。次第に小さくなり薄暗くなっていくものの、その連続がカードのようにどこまでも連なっている。 右手を挙げると、鏡の中の私は左手を挙げ、私の後ろ姿は右手を挙げ、その向こうの私は左手を挙げる。それが一斉に動く。 頭がぼうっとしてきた時、 「君はなぜ、私の跡をつける」 声がした。私の左側だ。彼だ。彼が立っている。ただし、私に背を向けている。 「いえ・・・」 そんな言葉しか、私の口からは出て来なかった。 「私の何を知りたい」 「や、どんな顔なのかと・・・」 「無駄だよ」 「なぜ」 「よく見たまえ」 「あ・・・」 この小部屋は左右も鏡張りになっていた。つまり、合わせ鏡だ。前後に写っている私の姿と同じように、彼の前側、後ろ側、前側、後ろ側、という姿が連なって写っているはずなのに・・・・・・。 後ろ姿しかなかった。後ろ姿がどこまでも連なっているだけだった。 「私は顔をなくした男だ」 「なぜ」 「私が聞きたいくらいだね。まあ、ひとつ言えるのは持ってしまったんだよ」 「なにを」 「君と同じさ。ちょっとした好奇心だ」 背中しか見えないのに、今、彼は笑っているに違いない、と思えた。 「君の顔はもらった」 そう彼が叫ぶと同時に、背後のドアが開いて、私の横を彼がすり抜けるのを感じた。走り去っていく彼の靴音が、無機的な空間の中に響き、それはだんだん遠ざかっていった。 ドアが閉じた。 無限に続く合わせ鏡の中には、どこまでも私の後ろ姿だけが写っていた。 私はそれ以来、ただひたすら待ちをうろついている。会社にも行っていない。家にも帰っていない。誰とも話をしていない。 それもそのはず、これでは人に合わせる顔が無いではないか。

社長のショートストーリー『佇む人』

社長1 会社をたたんだ。何の迷いもなかった。簡単だった。  社員と言っても、資材の安沢さんと事務の諸井さんの二人だけだったし、二人とも、もう七十歳を越して、そろそろ引退したいと言っていた。  得意先への挨拶も簡単だった。機械部品の卸売りなので、売り先は中小零細の町工場と言うことになるが、皆、同業者を紹介してひきついでもらうことにした。在庫品も同業者に引き取ってもらった。 中には、 「お宅がやめるんだったら、ウチもそろそろお仕舞いにするかな」  と言い出す社長もいた。 「あんた、まだ隠居するには早いんじゃないの。普通なら働き盛りの年だろうに」  とも言われた。しかし、 「気を落とすなよ」  と慰める人はいなかった。  アメリカの有名な国立公園の渓谷で、観光用の小型機が墜落して大破した。乗員乗客は全員死亡。その中に女房と息子がいた。  女房は会社の専務だった。私は代表取締役社長ということになっていたが、会社の株は全部、女房に握られていたので、いつ首を飛ばされるかわからない社長だった。  この会社は女房の父親が作った。女房は一人娘だった。  そして、私が五代目の社長である。勘定が合わないと思われるかもしれないが、初代創業者社長と私の間に、三人挟まっているという事である。いずれも養子として、女房の夫になった人だ。  最初の夫は苦み走ったいい男で、俳優崩れだったらしい。役者としてはうだつが上がらなかったようだが、結婚当初、いい夫、いい婿を演ずるには長けていたようだ。  じきに初代が会長に退くことになり、二代目に収まったあたりは一世一代の当たり役だった。堂々たる社長就任の挨拶が、目に浮かぶ。  ただ、一年たつかたたないかのうちに、遊び人の本性を現して、女房の宝石箱をポケットにねじ込んで、どこぞの商売女と姿をくらましてしまった。  二人目の夫、つまり三代目社長は、社員の中から選ばれた。女房の好みよりも、社長としての器量が優先されたのだろう。やる気満々の男だった。  世間の景気がよくなる時期にも重なったのだろう、会社は大きく発展し、都内に三階建てながら自社ビルを持つまでに至った。  だが、好事魔多し、経営方針を巡って会長と対立、専務である女房も父親の肩を持ったために、ついに決裂。会社を背負っているのは自分だという自負のある男だからたまらない、会社を辞めて独立してしまう。この時、出来る社員と得意先をごっそり引き抜いていってしまった。もちろん、女房とは離婚。  あまり元気のよすぎるのも考えものと思ったか、次の婿、四代目社長は、遠戚の者らしいのだが、陰気極まる男だった。浅黒いツヤのない皮膚をしていて、低い声でもそもそと何か言った。だが、滅多に何を言っているかは聞き取れなかった。社員達は社長命令が出ているのだかいないのだか不明な状態で、とりあえずは会長と専務の指示に従って働いた。  本業がすでに傾いていた中で、実質的支配者だった専務たる女房は、ここで経営の多角化に乗り出した。  フラダンス・スクールとブライダル・サロン、という、それまでにあまり縁のない業種で、ほぼ彼女の思いつきで始めたに等しいが、派手好きで見栄っ張りの彼女は、それらにいくらでも金をつぎ込んだ。  陰気な四代目社長は、ますます影が薄くなり、だんだん会社に姿を現さなくなり、皆がその顔を忘れかけた頃、ようやく久しぶりに存在感を思い出させることをやってのけた。  死んだのだ。    そして、私が五代目に収まった。 学校を出てこの会社に入り、ただひたすらこつこつと働いてきた、ほとんど唯一の生え抜きの社員だったというくらいしか取り柄はない。もう、人生の後半に足を踏み入れている。一度結婚して、死別した。子供はない。  だが、社長及び婿養子に納まると同時に、二十歳の息子が出来た。女房の二番目の亭主との間に出来た子だ。やがて学校を卒業すると同時に、会社の常務に就任した。形の上では私の部下の筈だが、もちろん当人にそんな気はない。自分の方が偉いと思っている。まあ、実質的には、そうに違いないだろう。    社長になって、最初の仕事は陰気な四代目社長の社葬を執り行うことだった。焼香をする時、遺影を見上げて、改めてこの人はこんな顔をしていたのか、と思った。それまで、どうにも思い出せなかったのだ。  次に控えていた仕事は、創業者会長、すなわち女房の父親の葬儀を行うことだった。赤ら顔で元気で意地汚そうな、絶対に死なないと思われていた老人だったが、好物のタコをのどに詰まらせて死んだ。突然だった。いや、こんな死に方に前兆があるわけがない。  三番目の仕事は、ぎゃあぎゃあ喚く女房を強引に説き伏せて、フラダンス・スクールとブライダル・サロンを廃業させたこと。  四番目の仕事は自社ビルを売却して、貸しビルの一室に移ることだった。  五番目の仕事は、「社宅」という扱いになっていた、プールと日本庭園とイングリッシュガーデンと三つの浴室と五つのトイレのある自宅を売却して、もっと小ぶりな家に移ることだった。  右肩上がりの時代は終わり、世間の景気も悪くなっていた。ひたすら退却戦を戦うことを余儀なくされた。  女房は毎日、「あんたが私の『夢』を潰した」と金切り声を上げた。私の顔など見たくないというので、しょっちゅう息子の常務と「出張旅行」に出掛けた。 そして、「出張先」のアメリカで遭難した。 私の最後の仕事が、女房と息子の葬式を出すことと会社を整理することだった。  やることもなくなった私は、あてもなくあちこちをぶらついて日々を過ごした。気がつくと、公園で、また橋の上で、駅のホームでぼんやりと空を見上げていることが多くなった。 「竜野さん」  後ろから声をかけられた。ふと気がつくと寺の門前に立っていた。  振り向いて、しばらく声の主の顔をまじまじと見てしまった。派手なジャージ姿、スキンヘッドにキャップという若い男である。こんな知り合いがいただろうか、と考えていると、 「この寺の住職です」  と笑った。何処かで見たような顔だと思っていたが、社長になってから何度も出した葬式で会ったのだった。袈裟を着た姿しか見たことがなかったので気がつかなかった。  よく葬式を出したがる男だと思われていたかもしれない。 「大変でしたね。落ち着かれましたか」  住職は私を気遣うように言った。 「いや・・・まあ・・・」  曖昧な返事だが、曖昧にしかなりようがない。 「会社も閉じられたとうかがいました。残念でしたね」 「そうでもありません。すっきりしました」 「そうですか。お寂しくなったのではありませんか」 「なんだか慌ただしかったけれど、こうなってみると余計なものがなくなって、落ち着くところに落ち着いた感じです」 「それは、なんだか我々仏門の者が教わらなければならないようなご心境ですね。なにか困ったことはありませんか」 「そう・・・」  家のことを思い出した。小さな家に移ったと言っても、一人になってしまうと、それでもまだ広すぎる。  結局、この住職の世話でアパートに移ることになった。この寺が経営するアパートだ。数年前になくなった先代、つまり現住職の父が建てたのらしい。  先代は、迷える衆生を救うよりも、アパートや駐車場の経営に熱心で、どこぞに妾も囲っていたという生臭、いや大変な発展家だったそうで、「地獄の沙汰も金次第」とばかりに大往生を遂げた後は、めでたく地獄に落ち着いたか、一切空に帰ったか。  アパートは寺に隣接している。気がつくと、私は門前に佇んでいるようになった。どうやら、そこが気に入ってしまったらしい。門のうちの木々をすり抜けてくる風も、目の上に広がる空も、他の場所より爽やかな感じがする。  なんとなく、今の若い住職の徳であるような気がした。彼も年を取ると、先代から引いた血が騒ぎ出して、生臭になってしまうのかもしれないが、私がここにこうしている間は、爽やかな風を吹かせて欲しい。  道行く人は、私を変なおじさんだと思っていることだろう。来る日も来る日も門の前に突っ立っているのだ。だいぶ日にも焼けた。足も丈夫になった。  どういうつもりか、通学途中の小学生が元気に挨拶してくるようになった。交通安全関係の誰かと勘違いしているのだろう。はじめはびっくりしたが、だんだんごく普通に挨拶を交わすようになった。 ついで、女学生が挨拶していくようになった。 いつも私を不審人物であるかのように気味悪げに見て通り過ぎていた(また、そう見られても仕方がないかもしれないが)おばさんが、にこやかに挨拶してきた時も驚いた。人間というのは変化するものであることに、改めて感じ入った。 ひとつには、この寺の若い住職と立ち話をしているところが、たびたび目撃されたからに違いない。お坊さんと親しげに話しているのであれば、有害な人物ではあるまい。たとえそうであったとしても、お坊さんによって善導されるかもしれない。 住職は背の高い、涼やかな、なかなかのイケメンなのである。 雨の降っている時、傘を差して佇んでいる自分に気づいた時は、我ながら呆れた。濡れれば風邪を引くかもしれないだろうに、何をわざわざこうしてまで、と自分で自分を冷やかした。もはや、一種の病気かな。 「一緒に立っていていいですか」  最初は、幽霊に声をかけられたような気がした。よく晴れた日だったのに、木霊の声を聞いたような気がした。  若い女だ、と思ったが、私はどうも他人の年齢がよく見分けられない。まだ幼さの残る年頃にも見えたし、中年と呼ばれるくらいの年だったのかもしれない。髪が枯れ草のように乾いて見えた。暗い目に青い涙がにじんでいるようだった。痩せていて、よれよれにトレーナーにいジーンズという格好で、若い割りには身なりに構わないらしかった。  私は、かくんかくんと頷いた。いや、私にそれを許可する資格があったとも思えない。それどころか、私の方が寺に対して、ここに立っていていいかと尋ねる義務があったのかもしれない。  女は横に並んで立った。それきり、口を聞かなかった。顔はうつむけて、自分の靴の先の地面を見ているようだった。  これがどういう事態なのか、私にはよくわからなかった。ただ、はたから見れば奇妙な光景だろうと思った。  私はこの奇妙さを我慢しなければならないのだろうか。それとも、女を放っておいて帰ってしまうべきなんだろうか。割れた煎餅のような気持ちで、私は立っていた。  一時間たったのか、二時間たったのか、相当疲れを感じてきた頃、不意に女がぺこりと頭を下げて 「私、これで帰ります」 「う、うん」 「バイトがありますので」 「そ、そう」 「明日も来ていいですか」 「ま、まあね」  曖昧な気持ちで答えると、彼女は再びぺこりとお辞儀をして、小走りに立ち去った。長い時間突っ立っていた後なのに、思いがけず軽やかに走るのが不思議な気がした。  翌日も女は来た。来ると、まずぺこりとお辞儀をした。そして、佇んだ。しばらくすると、また、ぺこりとお辞儀をして走り去った。  毎日、同じことが起こった。ぺこりとお辞儀をされては、私は曖昧に会釈を返した。それ以外に会話をするでもなかった。  彼女はいつもうつむいていた。何か思い詰めてでもいるようで、なんだか私が苦しくなった。 「ほら、空がきれいだよ」  そう話しかけると、あり得ベからざることが起こったようにびっくりして私を見た。そして、二、三度うなづくと、また地面に目を落とした。例の青い涙が目尻にたまっているように見えた。 「すみません、明日は来られません」  帰る時に突然、そんなことを言う日があった。別に来ようが来るまいが彼女の自由の筈だったが、なんだか自分が彼女のバイトの上司であるような気がした。かといって、「困るんだよね、休まれちゃ」というのは、明らかにおかしい。  だんだん、こうして立っているのが自分の仕事であるような気がしていた。一度、風邪をひいて出て来られなかった時など、彼女に済まない気がした。  こうして、季節が巡った。余程の悪天候でない限り、木枯らしの日も「仕事」は続けられた。まさに無償の行為である。  年末と年始だけは、寺の邪魔になっても悪いので、休もうと申し合わせた。がらんと何も音のしないような正月をアパートの部屋で一人で迎えて、そう言えば、あの申し合わせも彼女との数少ない会話だったなと思い出した。  冬が過ぎ、空気が和らぎ始めたのを感じたときは、本当に嬉しかった。この嬉しさを彼女も感じているだろうかと思った。できれば、感じていてもらいたかった。  梅やこぶしや緋寒桜や水仙が花を開いた。 風の中に春を感じ始め、やがて桜の季節が走り抜け、若葉の緑がいやに目にしみるようになり、寺の門を燕がすいとくぐり抜けるころ、彼女は来なくなった。 初めは「バイトが忙しいのかな」などと思ってみたが、そういう日が重なって行くにつれて、明らかに動揺している自分を見いだした。 なにか、悪いことが起こったのではないか。だが、ここに佇んでいることが、そんなに「いいこと」かと考えると、逆に、彼女にとっていいことが起きたのかもしれない。だが、それにしても、ひと言くらい挨拶があって然るべきだろう。 いや、そういうことではない。 私は寂しかったのだ。 「ただ単に元に戻っただけではないか」と思おうとした。思ったところで慰めにもならないことはわかっていたくせに。 目に見える風物がどんどん活気を帯びてくる季節に、私は一人取り残された。裏切られたような気がした。 梅雨の季節には、私は意地になって傘を差して立ち続けた。こうしているうちに彼女が現れるかもしれないという気もあった。私を「見捨てた 彼女に対して意固地になっているようでもあった。 風雨が強くて傘が飛ばされそうになった日、住職に「今日は帰りなさい」と慰められたこともあった。考えてみれば、いいオヤジが若い人に気遣われ、迷惑をかけているのだった。 暑い季節が来た。 「どうせ、何もせず立っているのならアイスキャンデー売りでもやろうかな」 ぼんやりした頭でそんなことを考えていた時、 「どうです。中へ入ってお休みになりませんか」 短パンにキャップ、ビーチサンダルにサングラスという住職から声をかけられた。 日盛りから、薄暗い屋内に入って、闇が紫色に見えた。 泉水の見渡せる座敷に通されて、麦茶と水ようかんを振る舞われた。私は立て続けに麦茶を三杯飲み干した。 「彼女がいないと寂しいですか」 そうだろうな、こっちの気持ちは見抜かれているんだろうな、と思った。強がっても無駄なような気がした。でも、うなずきはしなかった。 「五月頃でしたっけね、来なくなったのは」 よく観察してやがる、と、ちょっと拗ねたような気になった。 「あの子、暖かくなっても長袖の服を着ていたでしょう」 それがどうした、と思いながら、池の向こうにぎらぎらと咲いている百日紅を眺めていた。 「腕に自傷のあとがありました」 ・・・・・・ 「どうしているんだろうなあ」 「わかりません」 「なんで、一緒に立っていたんだろう」 「わかりません。何かを求めていたのだろうとは思いますが」 「人間って、ちょっとしたボタンの掛け違えで、急に生きづらくなっちゃったりするからなあ」 「その逆もある、と思いたいですけどね」 「生きているんだろうか」 「わかりません」 「死んじまったんだろうか」 「わかりません」 その年の九月はやけに台風が多かった。ひとつ過ぎると、お代わりが待っているという感じだった。 そろそろ打ち止めかな、というのが過ぎると、そいつが南から引きずってきた熱い空気が空を覆った。 そういや、アイスキャンデー売りをやろうとか考えたこともあったな、と思い出しながら、相変わらず門前に佇んでいると、ふと目の前に影が差したような気がした。 影はぺこりとお辞儀をした。 「ああ・・・」 言葉も見つからずに、間抜けな声を出した。 再びぺこりとお辞儀をした。影ではなく、はっきりとした人間の顔をしていた。微笑んでいるようにも、はにかんでいるようにも見えた。 そうして、くるりとくびすを返すと、すっすっと向こうへ歩いて行った。あんなに手足が長かったっけ、と思った。 もう、青い涙はにじんでいないようだった。

ロミオとジュリエット バルコニーのシーンより

おら
ロミオ 彼は傷を感じたことはない傷跡でjests。
  
--ジュリエットは、ウィンドウに上記の表示されます 
 
しかし、柔らかいです!あそこの窓休憩を通じて何光? それは東で、ジュリエットは太陽です。 
、公正な日を生じ、嫉妬月を殺します、 悲しみと病気と淡いすでに誰が、 
彼女より彼女メイドアートはるかに公正あなたがそれ: 
彼女は嫉妬であることから、彼女のメイドではないこと。 
彼女のヴェスタルカラーリングはなく、病人や緑であります 
そして愚か者が、どれもそれを着用行いません。それを脱ぎ捨てます。 
これは、O、それは私の愛で、私の女性です! 
O、彼女は知っていたことを! 
どのようなことで:彼女は何も言うまだ話しますか? 
彼女の目の言説。私はそれにお答えします。 私は彼女が話す私にはないTIS '、あまりにも大胆です:
すべての天の最も公平の星の二、 
いくつかのビジネスを持って、彼女の目を切望ん 彼らが戻るまで自分の球にきらめきます。 
彼女の目には、彼らが彼女の頭の中で、そこには何でしたか? 
彼女の頬の明る恥それらの星だろう、 
昼光のようにランプをおら;天に彼女の目 
とても明るく風通しの良い領域ストリームを介しだろう 
鳥が歌うと、それは夜ではなかったと思うだろうということ。 
彼女は彼女の手時に彼女の頬に傾いているか、ご覧ください! 
O、私はその手の上に手袋であったこと、 
私はその頬に触れる可能性があることを! 

 JULIET 私あぁ! 

 ロミオ 彼女は話す:
 O、再び話す、明るい天使!あなたの芸術のため 
この夜の栄光のように、私の頭のo'erあります 天の翼のある使者であるように 
ホワイト上向き不思議そうにうんと 
彼に戻って視線にフォール死すべき者の 
彼は怠惰なペーシング雲をbestridesとき 
そして、空気の懐の際に帆。 

JULIET Oロミオ、ロミオ!ロミオあなたなぜアート? 
あなたの父を拒否し、あなたの名を拒否する。 
または、あなたは、私の愛を誓っされていないくださる場合は、 
そして、私はもはやキャピュレットならないでしょう。  

ロミオ [脇]私はより多くを聴かなければならない、または私はこので講演しなければなりませんか?  
JULIET 'Tisの私の敵であるthy名前。 
ないモンタギューけれどもあなたは、自分自身の芸術。 
モンタギューは何ですか?それは、手、また足でも、 
アーム、また顔、また他の部分も、 
男に属します。 O、他のいくつかの名前であります! 
名前には何ですか?私たちはバラを呼ぶもの 
他の名前で甘い匂いだろう。 
だからロミオは、彼ではないロミオのcall'dただろう、 
彼が負うこと親愛なる完璧を保持 
そのタイトルなし。ロミオは、あなたの名を脱ぎます、 
そして、あなたのいかなる部分ではありません、その名前のために すべてを自分で取ります。

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 金井哲夫の後書き  
大変に有名なシーンですが、日本語に訳すとこういう具合です。非常に難解ではありますが、これはラップ調に読むとなかなかいい具合になります。つまり、意外に現代的な文章であるということです。


プロフィール

Author:文豪堂
いらっしゃいませ。中川善史(自称社長)と金井哲夫(自称編集局長)が2人でしこしこ書いているふざけた電子書籍本を販売する「蕪」式会社文豪堂書店です。(社名は予告なく変更することがあります) (なおこれは個人の感想です)(効能を保証するものではありません)(おだてると調子に乗ります)

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