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みなさまと共に歩む…… (*個人的な感想です)

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中川社長のショートストーリー『病床六万尺』③

社長1 がーーーーんんん!と映画やドラマだったら、ピアノの一番上から一番下までの鍵を使ってフォルテシモで思いっきり響かせる所だが、そういうことはなかった。目の前が真っ白にも真っ黒にも真っ青にもピンク色にもならなかった。
 走馬灯が頭のまわりでパカパカ走り回るという事もなく、人生の初めから終わりまでの場面が一瞬のうちに甦るという事もなく、雲がふたつに割れてそのあいだから天使がラッパを吹きながら舞い降りてくるという事もなく、西方浄土から阿弥陀様ご一行が押し寄せるという事もなかった。(みなさん、あんなの嘘っぱちでっせ) それまでの光景がそれまでのように、どうってことなく、のんべんだらりと続いているだけである。「死」ということも頭に浮かんだが、
「まあ、そういうこともあるだろうねえ」
と思っただけだった。べつに悟っているわけではない。まあ、そういうものなんだ、としか言いようがない。
 たいていの人は、離れがたい家族があったり、どうしてもやり遂げたい仕事があったりするんだろうが、私の場合、幸か不幸か、そういうものもない。甚だ手離れがいいのである。なんか、あっけないのである。
 恐くないわけではないが、そうなったらそうなったで仕方がないという気がするのである。
 なんとなく、入院以来今日まで頭がボーッとしている。ただでさえ、はっきりしていない頭なのであるが、この「ぼー」があるいは、ショックアブソーバの役割をしているのかもなあ、と思ったりもする。やはり、それなりにショックを受けてるのかねえ。この辺、自分でもよくわからない。ショック、というより、しょつくぅ~、といった程度であろうか。
 それから、1,2日放っておかれたような気がする。もしかすると、胃カメラの前だったかもしれない。断食していた日もあった。
 いやいや、そんなはずないか。胃カメラもやらずに宣告して置いて、あとから、「ごめん、ごめん、さっきのウソ」というのもおかしい。普通に宣告するより数倍意地悪である。この辺、周辺の人の方がよくわかっているかもしれない。
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中川社長のショートストーリー『病床六万尺』その2

病床2 第一回から、ずいぶんと間が空いてしまった。この間、一部のひとの御期待には反することになるが、死んでしまったわけではない。さらに、先ほどまで死んでいたが、今、生き返ったという、荒技を見せたわけではない。
病人といえど忙しいのだ。ごろごろしたり、のらくらしたり、うだうだしたりと、息つく暇もない。
いや、筋肉が落ちてしまっているせいか、実際、なんと言うこともない用事をするにもエラくくたびれるのだ。なにか一つやっては、横たわってしばし休息しなければならない。そして、この「しばし」は伸縮自在であってぐっすり眠り込むことまで含まれる。
そんなこんなで、「世界一忙しい男」として、過ごしいていたのである。

そうそう、そう言っている私はこれを書いている時点では、すでに自宅で抗がん剤治療を開始しているのであった。一方、文章の方は(ここでようやく第一回のつづき)
急遽、有無を言わさず病院に入院するつもりで来い、というとこまでいったのであった。
医者にあれやこれやと聞かれた後、CTだの胃カメラだのレントゲンだの、あれだのこれだの、覚えていられないくらいの検査を受け、医者と看護士としては、それでもまだ検査したりないらしくて
「まだ、やっていない検査はないかな」
「梅毒と水虫の検査がまだですが」
「さすがに、それをやるわけにもいくまい。他にないかな」
「あ、星占いと四柱推命とコックリさんがすんでません」
など、綿密この上ない検査の末、ふたたび診察室に通されて、
「あなたは胃ガンです」
宣告であった。

社長の “緊急!” ショートストーリー 『病床六万尺』その1

社長1 突然ではございますが、癌という事になってしまったのである。癌というのは、近ごろでは、かなり早い段階で突き止められるようだが、私のように普段、努めて早期発見を怠っている人間にとっては、突然なのである。だから、まあ、いつかはこうなるのかなあ、などと暢気に構えていたらこうなったので、あ、やっぱりね、と言う具合でだから、本人にとって突然なのかどうか、甚だ曖昧なのである。
はじめは、嫌に目まいやふらつきが続いて、だんだん、ひどくなってきたので、人のススメもあって「神経内科」という所に行ってみたのである。そこで血液検査をしたのだが、翌日、昼、外出中に電話が掛かってきたのである。「検査の結果、ひどい貧血だという事がわかりました、うちなんぞにかかっている場合ではありません。Nという大きな病院に、紹介状を書きましたので、3時までにそこへ行って間抜け面を見せなさい。すぐ入院という事になるでしょう」
時計を見れば、すでに12時半。取るものも取りあえず、いったん帰宅して、なんだかわからぬうちに、必要と思われるものをバッグに詰め込んで、あわわわわわ、と叫びつつ、N病院の受付によろめき込んだのであった。

社長のショートストーリー『短編集』

社長1その日は私用で会社を休んだ。
 ラッシュの時間帯を過ぎて空席が出てきた車内で、とある作家の短編集を開いていた。ソラキアと言う小国出身の作家で、ノーベル賞の候補にもなったことがあるという話を聞いたこともある。私はそれほど文学に詳しくないので、それがその後どういうことになったのか、知らない。
 ただ、ご縁があったのか、日本で翻訳が出版されるごとに買って読む習慣が出来てしまったというだけだ。
 ごくありふれた日常の描写の言葉が、いつの間にかトランプの札が裏返っていくように姿を変えていき、いつの間にか遠い世界に連れて行かれる、という魔法の時間の体験を味わったら離れることができなくなった。もう、かなりの高齢になるはずなので、いったいいつまでこの楽しみを続けさせてもらえるのかと思っている。
 短編をひとつ読み終えて、ほっと息を吐いて顔を上げると老嬢が二人、私の隣の空いている席を譲り合っていた。ふと気がつくと私の反対側の席も空いている。そこで、ひとつずらして二人並んで腰を下ろせるようにしてやると、なんだかそれだけのことなのに、ずいぶん大げさに礼を言われて少々照れた。
 本の続きを読もうと思って目を落とすと、二人の会話が断片的に耳に入ってきた。「ソラキア刺繍」と言っていた。ちょうど私が読んでいる作家の出身国だ。
 クロスステッチで10センチに何目、チェーンステッチはどうのこうの、という話をしている。なるほど、そういえばこの作家の作品は言葉の刺繍と言えないこともない。
 ちょっと嬉しい偶然だった。

 新幹線の三つ並んだ座席の窓際に席を占めた。この奥まったところで短編集を開くととソラキアの田舎町の屋根裏部屋か、草原の穴ぼこかに潜り込んだような気がして自分が昔話に出てくる人物のような気になる。
 私は隠れた。日本の都会から、遠く離れた国の爽やかな空の下に。
 すると数ページも読み進まないうちに、
「こちら、空いておりますでしょうか」
 女性の声に話しかけられて、窓の外を見れば相変わらず日本の工業地帯を電車は疾走しているのであった。
「どうぞ」
 と応えてその顔を見てびっくりした。先ほど山手線の中で、私の隣に座っていた二人連れだ。
 いや、よく見れば違う。通りすがりの人の服装などはっきりとおぼえているわけはないが、顔立ち、髪の色はさっきの人たちよりは若い。なにより、彼女らは私が東京駅で乗り捨てた電車に乗って行ってしまったのだし、その人達がここにいるなんて手品でも出来るわけがない。
 だが、なにか同じだという感じがしてならなかった。
(あなた方は先ほど山手線に乗っておられましたね)
 そんな質問をしてみたくなる。
 やがて座席に落ち着くと、彼女たちのおしゃべりが聞こえてきた。
「・・・・・・そうでしょ。ソラキア刺繍なんて習っている人、そうそう、いないでしょ・・・・・・」
「だからねえ、糸の色を何番にするか、なんてのもなかなかよくわからないのよね」
 私は冷たい手で頬を撫でられたような気がした。なんだかソラキア刺繍に跡をつけられているような気になった。もちろん、その刺繍を習っている人に偶然、出会うと言うことは起こりえないことではない。だから、むしろ、その偶然を楽しめばいいのだ、自分にそう言い聞かせて再び本に目を戻した。
 その短編の主人公の少年の両親はある複雑な事情から祖国を離れて長い旅に出ることになった。残された少年は、湖のほとりの町に住む叔父叔母に引き取られて、その年を過ごすことになった。少年は十一歳だった。
 湖を見渡すことが出来る部屋に少年がいると、おばさんが入ってきた。手には布と針箱が持たれていた。
 叔母さんはこのあいだから始めていた刺繍の続きに取りかかった。モチーフは、このあたりの風景のようだった。湖の景色を刺すときは、彼女はいつもこの部屋に来るのだった。
「ご存じ?ソラキア刺繍の占いのことは」
 これは新幹線で隣に座り合わせた女性の口から出た。
「占い?刺繍で占いが出来るの?」
「私もよくはわからないのだけど、ソラキアで刺繍をする女性はみんな巫女なんだって。刺繍をしてるうちに何かが降りてきて未来や過去のことを告げるのよ」
「なんだか、こわいわね。刺繍をするたびに知らなくてもいいことを知らされるなんて」
 ああ、そうか、と私は一人うなずく。少年の前で、この叔母さんは占いをしようとしているんだ。何を占うつもりなんだろう、彼の両親の運命、彼の未来・・・い、いや、待て。そこでそんなことがわかってしまうなんて、占いって残酷じゃないか?
 少年は叔母さんの手元をじっとみつめている。私もみつめている。少年には、それが占いだってわかっているんだろうか。
 やがて、叔母さんはにっこり微笑む。
「今日、きっと隣のワグネルさんが鶏を一羽持ってきてくれるわ。シチューにしましょうね」
 それも占いの結果なのか。私は叔母さんの顔をみつめている。少年もみつめている。
「僕、占いなんて、あまり好きじゃないな」
 私も好きではない。
「占いなんて、なんだか怖くて嫌いよ」
 これは隣の席から聞こえてくる会話。
 本から顔を上げると、窓の外には日本の田園が広がっていた。小雨が降っているようだ。線路と並行している農道を軽トラックが走っていく。
 ほどなく、車内アナウンスが、私が降りる駅に近づいたことを告げた。その駅からさらにローカル線に乗りかえなくてはならないのだ。

 新幹線の改札を出て跨線橋を渡ると薄暗い改札口があって、そこを抜けて階段を降りていくと、こじんまりとした地方私鉄の電車が恥ずかしげに停まっていた。
 まだ発車時刻まで時間があるせいか、車内に人は少なかった。ロングシートに腰を下ろして、ぼんやりと地元の信金の広告とショッピングモールの広告を眺めた。
 今度は本は開かなかった。なんだか、短編集に追いかけられているような気がしたので。そうこうするうちに、ダークスーツのサラリーマン、主婦、ちっちっと歯を鳴らして新聞を読んでいるオヤジ、いや、いちいちあげていたらきりがないが、様々な人が乗り込んできて、ロングシートはほぼ埋まった。
 気がつくと、私の隣にも人がいて、その膝の上には刺繍が載っていた。
(ソラキア刺繍)
 がったん、と図体のわりに派手な音を立てて電車は走り出した。私は転げそうになって、隣に座っていた女性の肩に顔を埋めてしまった。
「ご、ごめんなさい」
 くだものの匂いがした。顔が赤くなるのを感じた。
 恥ずかしかった。その声は、私の声ではなかったから。いや、でもかつてはわたしのものだった声だ。まだ、声変わりする前の私の。目を落とすと、半ズボンから出ている膝小僧が見えた。
「大丈夫よ。揺れるわね、この電車」
 照れくさくてたまらなかった。先ほど、新幹線の中で隣にいた女性のうちの背の高い方の女性だなと思った。もう不思議とも何とも思わなかった。一日のうちに同じ人と何度もあって、お互いにどんどん年齢が違っていく。一生のうちには、そんなことがあるのだと思った。 
「あの、この刺繍」
「ああ、これ、ソラキア刺繍っていうのよ。ステッチが少し変わっているでしょう。知っている?」
 知っている、あなたから教えてもらった。だが、それは口に出さなかった。
「何を刺繍しているんですか」
「そうねえ、まだぼんやりしてわからないわねえ。これ、この辺が湖の浜辺で、後ろに森があって、低い山があって、その上に空が広がっている景色になる予定なんだけど」
「どこの景色ですか」
「ソラキア」
「行ったことがあるの?」
「ないわ」
「写真で見たの?」
「そうねえ」
 と、少し困った顔になった。
「目を閉じると浮かんでくるの」
 彼女の目蓋の裏には空と湖が浮かんでくると言う。私の目蓋の裏には、それに加えて風景を見ながら刺繍をしている女性が浮かんでくるし、それを見ている十一歳の少年が浮かんでくる。
 ソラキアは大国にはさまれた小国なので、大戦中にはかなりの辛酸を舐めた国らしい。いま、刺されている刺繍に、やがて、その静かな痛みが立ち上がってくるのだろうか。それとも、静謐なままに終わるのだろうか。

 バスは行き悩んでいるようなエンジン音を立てて峡谷沿いの道を登っていく。道路脇の木々の枝が窓をこするたびに水しぶきが上がる。対岸には道はないようで、ただ、憂鬱そうな森が続いている。
 一つ前の停留所で客が降りてしまったので、バスに乗っているのは運転手と私だけになった。子供一人で、こんなところに旅してきたのが心細かった。
 終点には私が行くはずの建物が一軒あるだけなので、迷うことは出来なかった。そこへ行くか、とって返して東京に戻ってしまうか、だけだった。
(お前、大丈夫か)
 誰かに話しかけられたような気がした。
(だ、大丈夫だよ)
(寂しくないのか)
(寂しくないよ)
(本当か)
(・・・・・・)
 誰が話しかけてくるのか、推測はついていた。きっと、あの短編集をもう少し先まで読めばわかるのだろう。だが十一歳の少年に戻ってしまった私にとって、あの作家に出会うのはまだまだ年月を経てからのことになるのだろう。
(本当に大丈夫か)
(大丈夫だってば)
(俺、ついていてやるよ)
(・・・・・・)
(だから、もう泣くなよ)
 私はびっくりした。泣いているなんて思わなかったのだ。目を触ると、たくさんの涙で目縁が濡れていた。
 ほどなくして、バスは終点に着いた。エンジン音が止んでみると、周囲から小鳥の鳴き声が押し寄せてきた。バス停のすぐ前に、大きな白い建物があった。

 鋼鉄の箱のような古めかしいエレベーターを降りて、漆喰のぼんやりした白の廊下の一番奥まった部屋が、その部屋だった。鉄製のベッド、清潔なリネン、窓際の一輪挿し、そして二人の女性。
 背の高い方の一人は、先ほどよりまた若くなって、ベッドの脇の椅子に腰掛けていた。低い方の一人はベッドに仰向けに寝て目をつぶっている。息をしているのだかしていないのだかわからない。
 私はまた小さくなったらしい。すがるような目で椅子に腰掛けた女性を見上げた。
「この方は、あなたの本当のお母様。わかりますか」
「おかあたん・・・」
「この方は、もう口を聞くことはありません。もうすぐ亡くなります。その後は、私があなたのお母さんになって、あなたを育てます。それが、この方と私の約束だからです。あなたは、私のことを本物のお母さんだと思って育ちます。あなたが、その眞実を知る機会が成長するうちに、あるいは訪れるかもしれません。結局、その機会は訪れず、あなたは知らないままに生涯を終えるかもしれません。その答が、私が刺している刺繍に現れるかもしれませんし、そうでないかもしれません。また、いつかあなたが出会うことになるソラキア出身の作家の作品の中に暗示されているかもしれません。いずれにせよ、急ぐべきことではありません」
 女性は立ち上がると窓に近づいて
「空気を入れ換えましょうね」
 窓が開くと、おびただしい小鳥の声が流れ込んできて、風の音がそれに混じった。
 やがて、人の気配があって、白衣を着て眼鏡をかけた背の高い男性が入ってきた。彼が、女性に目配せすると、窓が閉められた。小鳥の声が消えた。
 彼はベッドに近づくと、横たわっている女性の手首を取り、さらに首筋やら、あちこちを触ると、
「ご臨終です」
 と言った。「臨終」という難しい言葉が、子供の私にわかったのかどうか、ともかく理解とか現実とかと無関係に、私の喉の奥から
うわあああああああ・・・
けたたましい声が、後から後から止めるすべもなく流れ出てきた。頭のてっぺんから、足の先から、内臓から尻の穴まで震えていた。悲しいとか、何かの感情があったのか、わからない。ただ、洪水のように出てくる声に自分でも驚き、呆れ、他人事のように眺めていた。おそらく、私が初めてこの世に姿を現したとき、すなわち、私にとっての天地開闢の時、聞いた声に似ていると思った。

そして、それっきりすべてを忘れてしまった。気がつくと、大人に戻った私が一人、遅い時刻の新幹線のシートに座っているきりだった。さんざん、引きずり回された末、ほっぽり出されたような気分だった。

「さあさ、飲みたまえ、飲みたまえ。うちの親戚も人数は多いんだけど、みんな車で来たとか、医者に止められたとかで、飲める相手が少なくなっちまったんだから」
ある叔父さんの何回忌かの会食の席である。私は一人っ子なのだが、他の家は兄弟が多く、叔父さん叔母さんといっても何人もあるのだが、このおじさんは、私を飲める相手と見込んでしまっているようで、いつでも捕まってはながながと付き合わされる。
もっとも、話題の豊富な人なので、話があっちに飛んだりこっちにずれたりして、結局は何のことについても話してはいない、ということになるのだが、寺の座敷の障子に差す日の光の色合いがだんだん変化するのにつれて、自分の酔い具合も変わっていくのを眺めているのは悪い気分ではない。どうかすると、こうして駄弁を振るっているのが本当の時間で、あとの仕事とかなんとかは、あいだのつなぎに過ぎないという気にさえなってくる。
離れたところにいた母がそっと寄ってきて、
「じゃあ、私はそろそろ帰らなきゃいけないから」
母はとある地方都市で手芸の先生をやっているので、これから私鉄とJRを乗り継いで東京駅まで行かなくてはならない。
私はそのまま残っていても母を送っていってもよかったのだが、送っていく方を選んだ。
電車の中で、話題があるんだかないんだかわからないような会話をぽつぽつと続けているうちに、東京駅に着いた。
それじゃ、とか、また、とか、断片的な挨拶をして改札口に向かおうとする母に、にゅうと腕が伸びてきて、誰かが握手を求めた。おじさんだった。どうやってついてきたのか、さっぱり記憶にない。ともかく例の陽気さで、別れを意味もなく盛り上げて、母の眉をひそめさせた。

社長のショートストーリー『銀河鉄道阿房列車』

社長1 ジョバンニは幾箱かの活字を組み終えると活版所の会計係で銀貨を受け取り、家のある路地に戻ってきました。三つ並んだドアの一番左の入り口の脇に置かれた箱に植わっているケールやアスパラガスに挨拶をしてから家の中に入りました。 
「母さん、ただいま。今日は加減はどう?」
 と寝台に座っているお母さんに話しかけました。 「お帰り、ジョパンニ。今日は、大分いいわ。さっき姉さんが戻ってきて、パンと卵と野菜やらを台所に置いていったから、きっと晩ご飯をこしらえてくれるでしょう」
「お母さん、今夜は銀河の星祭りだから、晩ご飯までの間、見に行ってもいいかな」 
「ああ、行っておいで。さぞ、きれいだろうからね」 
 二人が話をしているところに入り口から、 
「ごめん下さい。酒屋ですが、ご注文の麦酒を持って参りました」 
 若い人が麦酒のケースを持って入ってきました。 
「はて、うちでは麦酒なんか注文した覚えは・・・」 
 お母さんが戸惑った声を出しましたが、酒屋は心得たもので、入り口の脇にある小部屋のドアを二回ほどノックしました。 
「ウチダさん、酒屋です」 
 返事はありませんでしたが、酒屋は構わずに開けてしまいました。 
 狭い部屋の中には寝台がひとつ、小さなテーブルが一つ置かれていて、寝台の上には白い口ひげを生やした大入道があぐらをかいて、フクロウのように膨らんでいました。 
「留守だよ」 
「ウチダさん、ご注文の麦酒を持って参りました。お留守でしたら出直します」 
「なんだ、ツケの催促じゃないのか。麦酒ならおいていけ」 
「じゃ、受け取りの書名をお願いします。さもないと麦酒は置いていきません」 
 大入道は忌々しそうに伝票に署名しました。 
「それから、これはこないだの分までで締めた請求書です」 
 大入道はちらっと目を通すと、 
「なんだ、意外に飲んでいないな。これっぽっちか」  
「今いただいても結構です」 
「今はない」 
 酒屋はちぇっと言って帰ってしまいました。 
「ジョバンニか。お帰り」 
 大入道はジョバンニを見ると、それまでの仏頂面が嘘のように優しい笑顔になりました。 
 彼は、本当はヒャッケン・ウチダといって、イーハトーヴォ大学校で独逸語の先生をしているとても偉い人なのだそうです。それがどういう加減か、こんな路地裏に逃げ込んでひっそり暮らしているのです。 
 それというのも、手元にあるお金以上に、こんな風に麦酒をがぶがぶ飲んだり、さして離れてもいない大学校に行くのに遅刻しそうになってわざわざ自動車を雇ったり、欲しいものがあると、後先考えずに手に入れないと我慢できなかったり、貧しい手風琴弾きの親子を見ると財布ごとくれてやったり、なんだかわけのわからないうちに借金取りに追われていたり、その他にも自分から落とし穴に突進していくようなマネばかりしているからなのです。 
「まあ、金というものは、仮定された有機交流電灯の一つの青い照明みたいなもんだからな。 わかるかい、ジョバンニ」 
「わかりません」 
「僕にもわからん」 
 ジョバンニは呆れてしまいました。 
「言葉というものの不思議なところは、わけのわからないことを言うことが出来るって事だ。僕はわけのわからないことを口に出すし、君は耳に入れることが出来る」 
「耳に入ってもちっともわかりませんよ」 
「だが、それをオウム返しに、誰か別の人に言ってご覧。そのうちにわかる人が出てくるかもしれん。その時、始めて言葉が甦るのだ。・・・アアブラ・ディシュ・カマ・ククダニタ」 
「なんですか、それは」 
「シューメル語とかいう、古い言葉だそうだ。何千年も前にいなくなった人たちの言葉だそうだ。意味はわからん」 
 ウチダ先生は寝台の脇ににジョバンニを座らせて、麦酒を飲みながら駄弁ををふるっていました。 
「ところで今晩は、銀河の星祭りですよ。先生はいらっしゃらないのですか」 
「ふむ、そうさね」 
 先生は面倒そうに答えました。きっと飲んだ麦酒がお腹の中で膨れて重たくなっているのでしょう。 
「僕、これから見に行ってこようと思います」 
「行くのかい」 
 なんだか、先生は寂しそうでした。まるでジョバンニが遠くへ行ってしまうかのようでした。 
「友だちも行っていますし」 
「そんなに友だちがあるのかね」 
 本当は会いたい友だちはカムパネルラだけでした。ザネリなんかは、会うたびに皮肉っぽく、 
「ジョバンニ、お父さんのラッコの皮の上着はまだかい」
 というので、会いたくなんかなかったのです。 
 お父さんは船に乗り込んで、北の海の漁に出掛けたまま、帰ってこないのでした。お父さんからの送金も途絶えたので、病弱なお母さんはウチダ先生に部屋を貸したり、お姉さんもジョバンニも働いているのでした。 
 お父さんが出掛ける前に、今度はラッコの上着を買ってきてあげよう、と言ったという話をザネリはジョバンニをからかうのに使っているのでした。 
「いいよ、行っておいで」 
 先生は、何か諦めたように言いました。そんな言われ方をすると、自分でも本当に行きたいのかどうか、わからなくなってしまうのですが、ジョバンニは思い切って曲がった鉄砲玉のように表へ飛び出しました。
      
 勾配を下る機関車のように坂道を川の方へ降りていきました。すでに、遠くからでも橋の上や川の上にちらちらと灯りが見えます。からず瓜の灯りを流しているのでしょう。 
 橋のたもとまで来ると、あちらこちらで人びとが固まって顔を寄せ合って何か話していました。ひそひそと話し合っているのに、妙にざわついて聞こえました。ジョバンニは、喉がぐっと持ち上がってくるような気がしました。 
「子供が川へ落ちたんだ」 
「ちがう。川へ落ちた子供を救おうとして飛び込んだ子供が戻ってこないんだ」 
「ぼ、僕が悪いんじゃない。カムパネルラが自分で勝手に飛び込んだんだ。僕は平気だったんだ」
 最後の震える声はザネリのものでした。 
 ジョバンニは頭から水を浴びたような気がしました。くびすを返すと、まっすぐに丘の上へ向かって走って行きました。カムパネルラは、もうこの世にいない、という恐ろしい思いが、本線を走るC62型蒸気機関車の音のように、頭の中に轟々と響いていました。 

 目の前に白いクロスがかかったテエブルがありました。横手の窓を見ると、星々や星雲や暗黒星雲が広がっていました。それらは、みな後ろの方へ飛んで行くようでした。 
「これは、この列車が速く走っているからこう見えるのか、それとも宇宙が膨張しているせいなのか」 
 聞き覚えのある声に前を向いてみると、ウチダ先生でした。フロックコオトに山高帽子で威儀を正し、その前には相変わらず麦酒の瓶とコップが置かれていました。ジョバンニ達は、どうやら列車の食堂車にいるようでした。 
「君たちもソオダ水でも註文しなさい」 
 君たちと言われたので、隣を見るとカムパネルラが座っていました。なんだ、こんなところにいたんだ、とジョバンニは飛びつきたいほど嬉しく、また心配させられたことにちょっと怒ってみたりしました。 
「あと、食べたいものがあれば、どんどん註文しなさい。ビーフステークにするか、海老のフライにするか、スチューもうまいぞ。ポタアジュのソップ。トマトのサラドはどうだ。ええい、面倒だ。みんな持ってこい」 
 と食堂車の奥へ向かって怒鳴りました。 
(また、貧乏なのに贅沢をして) 
 というお母さんの呟きが聞こえるようでした。まったく先生は、胸の中に火がつくと、たちまち燃えさかってしまうのです。 
「さ、食べなさい。食べないか」 
 見たこともないような御馳走がずらずらと並んでしまうと、かえって胸が一杯になるようで、ジョバンニは海老のフライをちょっと囓っただけでした。先生は目の前のものをどんどん平らげていきました  
「お行儀が悪いことは自分でも承知しているのだ。だが、止めようとして止まらんのだ。生きながら餓鬼道畜生道に落ちているのかもしれん」 
「それはちがいます」 
 カムパネルラが言いました。いつもの溌剌とした、それでいてどこか遠くから聞こえてくるような声でした。 
「僕は、先生がそんな人じゃないってこと、知っています」 
 ジョバンニはふと、カムパネルラは先生と会ったことがあったのかな、と思いました。 
「ありがとう、君は優しいね」 
 先生はしみじみと言いました。 
「食べるのは、もうこれでお仕舞いにしよう」 
 そういうと、目の前の皿が消えて、クロスも真新しいものに変わりました。 
「おしゃべりに付き合ってくれてありがとう。僕は、これで失敬する」 
 先生は窓を開けると、そこからひょいと飛び降りました。 
「あ」 
 ジョバンニはびっくりして窓の外を見下ろしました。上も下も左も右も、大宇宙が広がっていて、その何もない中を線路が二本延びて、ずっと向こうのどこかへ消えています。 
 ジョバンニが思わず手を伸ばそうとした次の瞬間、先生は小さな飛行船のようなものに跨がってふわりと浮き上がりました。そして、すごい速さで星々の間に消えてしまいました。 
「お客さん!お勘定!」 
 食堂の奥から叫び声が聞こえました。  

 気がつくとテエブルは消えて、ニスの塗られた肘掛けに薄いシートの三等客車になっていました。 
「この方が落ち着くな」 
 と言ってから、ジョバンニはちょっと後悔しました。カムパネルラの家は裕福ですし、三等車なんかには乗らないだろうと思ったからです。 
「うん。僕は君と一緒に乗っているのが一番落ち着くよ」 
 カムパネルラはいいました。 
(やっぱり、カムパネルラは心の大きな子だ。僕はちょっといじけているな) 
 そう思うと、なんだか泣きそうになりました。
「乗車券を拝見します」 
 声に振り向くと、青い制帽制服の車掌が立っていました。目深にかぶった帽子は顔のほとんどを隠していて、前照灯のように光る目が見えるだけです。 
 カムパネルラはなんでもないように薄緑色の切符を出して見せました。 
「はい、白鳥停車場までですね」 
 車掌は切符に検印を押して言いました。そして、ジョバンニの方を向きました。 
「ぼ、僕は切符を買っただろうか・・・」
「お持ちでなければ、今お求めください」 
 車掌はちょっとイライラして、ぴょんぴょん跳びはねながら言いました。 
「僕、お金、持っていないよ」 
「まさか、無賃乗車というのでは」 
 車掌は、今度は足をぱたぱたさせながら言いました。ジョバンニは頬が真っ赤になって心臓がどくどく打つのを感じました。 
「ジョバンニ、胸ポケットに入っているのはなんだい」 
 言われて胸を探ってみると、紙切れに当たりました。 
「あ、これは特別な乗車券ですね。宇宙一周が可能です」 
 ジョバンニはほっとすると同時に、カムパネルラと行き先が違うのが気になりました。 
 車掌もほっとした顔で、 
「いや、失礼。安心いたしました。実は一等車両でも同じような問題が起こっておりまして」 
「一等車があるんですか」 
「はあ、お一人しか乗っていないのですが、その方が乗車券をお持ちでないのです。お身なりも、立派なフロックコオトに山高帽子の紳士ですし、ご職業はイーハトーヴォ大学校の教授ですし、まさかとは思うのですが」 
 いかにもウチダ先生のようですが、先生ならさっき宇宙空間に飛び去ったはずです。それとも、あれは夢か何かだったのでしょうか。 
「その方がおっしゃるには、無賃乗車ではない、単なる切符の購入遅延であるとおっしゃるのです。私が、では今ここでお買い求めください、というと、 
『それは構わん。では、切符を頂戴しよう』 
『では、代金をいただきましょう』 
『気にするな、月末に払う。しかも月末は一年に12回ある。二年なら24回、10年なら120回、いずれ任意の月末でよかろう』 
『そういう販売方法は行っておりませんが』 
『こちらではそういう購入方法を行っておる。私は麦酒なぞ買うのだって月末払いだ。これはいいぞ。第一、君がいちいち代金を受け取る手間が省ける。この忙しいのに金を数えたり、しまったり、落とさないように気をつけたり、山賊や海賊に出会わないよう用心したりしなくてすむ。遅ければ遅いほど、君にとって便利だ』などと言うのです」 
「で、その人は今、どうしているのです」 
 ジョバンニは、もうこれはどうしてもウチダ先生に違いないという気がして聞き返しました。 
「一等車に放ってあります。ただし、出入り口に鍵をかけて。つまり、体のいい軟禁状態ですな」 
 車掌が話している間に、窓の外を飛行船に乗ってふわふわ浮かんでいるウチダ先生が見えたのでジョバンニはひっくり返りそうになりました。 
 車掌が行ってしまうと、先生は窓から入ってきました。飛行船はたたむと、カバンのような形になりました。 
「車掌さん、怒っていましたよ」 
「なに、僕は乗車券なぞ必要ないのだ。僕は飛行船に乗っているのであって、列車には乗っていないのだから」 
 見ると飛行背のカバンは先生の尻の下に敷かれていました。 
「単に飛行船に乗って車内を通過したり、時々休憩しているだけだ。いわば自前で移動しているのであって、列車の運賃を払う必要はないのだ。この飛行船、よくできているだろう?イーハトーヴォ大学校のクーボー大博士が拵えたものだ」 
 ジョバンニは頭の中がしわくちゃになったような気がしました。  

 列車が白鳥停車場に近づきました。 
「ジョバンニ、僕、ここで降りなくちゃならない」 
「いやだよ。もっと一緒に乗っていようよ」 
「だめだよ。僕はここまでの切符しか持っていないんだ」 
「じゃあ、僕も降りる」 
「だめだよ。白鳥の空気は君たちには吸えないんだ。息が出来ないんだよ」 
「構うもんか。死んだって構うもんか」 
「さよなら、ジョバンニ」 
 ジョバンニは風に吹かれるようにして出入り口の方へ行きました。ジョバンニは急いで後を追いました。ホームを歩いて行くカムパネルラの背中が見えました。ジョバンニはその背中向けて飛び降りました。 
 
「苦しい。息が出来ない」 
 ジョバンニはもがきました。なにかに顔を覆われて鼻や口が塞がれています。獣のうめくような恐ろしい音が鳴り響いていました。 
 ジョバンニは必死で顔を離そうと、うんと腕を突っ張りました。 
 途端に息が出来るようになりました。目の前に、ウチダ先生の大きな身体があって、鼾をかきながら居眠りをしていました。 
 どうやら、ジョバンニも先生の背中にもたれて顔を埋めたまま眠っていたようです。ウチダ先生も、ほわあと大きな欠伸をして目を覚ましました。 
「なんだ、ジョバンニ。まだ星祭りに出掛けないのか」 
 そうでした。ジョバンニは星祭りに出掛けるつもりで先生と話をしているうちに眠ってしまったものと見えます。 
「ああ!それじゃ・・・」 
 そうです。夢の中でカムパネルラは川に落ちて死んでしまったのでした。それが夢だとすれば、カムパネルラが死んでしまったのも夢の筈でした。急に嬉しさがこみ上げてきました。それなのに、後から変な胸騒ぎも湧き起こってくるのでした。 
 カムパネルラは死んじゃいない。そのはずだ。でも、なんだか死んでしまったような気もするのです。 
 ジョバンニは曲がった鉄砲玉のように、ドアから飛び出そうとしました。星祭りの灯りがきらきら見えるようでした。なんだか、妙に歪んでいるようでした。思いっきり走ろうとするのですが、地面がパンのようにふかふかして、どうもうまく進めないのでした。 
「これに乗っていきたまえ」 
 ヒャッケン・ウチダ先生はカバンの中から小さな飛行船を取り出すと、ジョバンニの方へ押しやりました。

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文豪堂

Author:文豪堂
いらっしゃいませ。中川善史(自称社長)と金井哲夫(自称編集局長)が2人でしこしこ書いているふざけた電子書籍本を販売する「蕪」式会社文豪堂書店です。(社名は予告なく変更することがあります) (なおこれは個人の感想です)(効能を保証するものではありません)(おだてると調子に乗ります)

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