社長の業務:ショートストーリー『秋に思う夏の海』

縁側に面した障子が開け放たれていて、畳の上に外の光がさしていた。障子の紙の影は薄いねずみ色で、桟の影はくっきりと濃い色。
秋の空が美しい日で、雲が羽根を生やして飛んでいた。
私は、夏に海から持ってきた、サザエのような巻き貝の下の穴ぼこを右の耳に押し当てて、その洞窟を吹き抜ける風のような音を楽しんでいた。
「かな子ちゃんにあげるよ」
そう言って隣のお兄さんが、私にくれたもの。学校のプールで使う紺色の水着を着た私に手渡された時、がらんどうの貝の穴からちゃぽちゃぽと海水がこぼれ出た。
いつまでもいつまでも終わらない夏の一日。もう泳ぎくたびれてしまった私は、貝を手に持ったまま生温かいシャワーを浴びて、水着を脱いだ。
短いワンピースにサンダルという姿に着替えて、畑の中の白く続く田舎の道をくらくらするような西日に照らされて、もう何千里も歩いてきた旅人のように歩いて、宿まで戻った。
貝を耳に押し当てていると、そんな、ついこないだ過ぎ去った夏が何百年も昔のことのように思い出されて、少しだけ寂しいような気がした。
私の頭の中が、海の中になる。おとぎ話の絵本の海の中のように、海草が揺れて、あちこちにごつごつした岩があって。魚はどこにいるのだろう。
岩陰や砂の中に隠れているのだろうか。泡だけがぷくぷくと立って、何もいないと、なんだか迷子になったような気分。
水族館の隅の方の、あまり大きくない水槽の前に立って、そこには、それはそれは珍しい生き物が入っているそうなのだが、覗いてみると何もいない。どこかの陰に隠れているのかと、目を凝らして頭を傾けたり捩ったりして探してみるのだけど、寄り目になるくらい見つめても、魚一匹、貝ひとつ見つからない。
私の頭の中の水槽も、そんな感じ。私の頭が空っぽだということなのだろうか。そうでないと、いいけれど。
するっと、何かが何かを通り抜けたような感じがした。あの夏、海の岩場で小さなイソギンチャクを突っついてからかっていたら、いきなり指先をすぽりと吸われそうになった。あんな感じ。
何だろう。
庭に向かって縁側のあるお座敷に、乾いた風が吹き込む。今まで、水の中のことを考えていたので、なんだか変な感じだ。
そうだ、夏は去ったのだ。
「あれ?」
と私は、一人なのに声に出して言ってしまった。
手にしていたはずの巻き貝がない。畳の上にも転がっていない。
立ち上がって、スカートをぱたぱたとはためかせてみたが、捜し物がぽとんと落っこちて、こそこそとかすかな音を立てて少し転がってから、ぴたりと止まると畳の上にごつごつとした形のおごそかな影が浮かぶ、ということもない。
猫がくわえていったのだろうか、と、どうみてもありそうもないことを考えた。
「たま、たまや、こっちへおいで」
と呼んでみるが、しん、としている。どこかで昼寝でもしているのだろう。
私は改めて目をぱちくりさせてみた。
「あ」
ここか、と思った。まばたきの、その閉じた一瞬に映る映像。鮮やかな貝が、私の頭の中の水槽に転がっていた。目蓋をぱちぱちと上下させると、なんだか古い無声映画のように見えた。
そうか、わかった。さっき、私にいそのイソギンチャクを思い出させた、あのするっというか、ぬるっというか、変な感じは巻き貝が私の耳を通り抜けて、頭の中に入ってしまった時の感触だったのだ。
ふむ、と難事件の解決に辿り着いた私は、ちょっと生意気そうな顔になって、これは大仕事だ、といわんばかりの決意で目蓋を閉じた。
ゆらゆら揺れる昆布のような海草、頑固そうな岩の前の柔らかな砂の上に、静かに置かれている巻き貝。
だが、水槽の中は余程静かで、あぶくが上の方へ行列を作って昇っていく以外、何も起こらない。
「そうだ!」
どういう筋道で、そんなことを思いついたのか、私は箪笥の置かれた部屋に行くと、あちらこちらの引き出しを開けて、せっかく母が畳んでしまっておいた衣類を引っかき回し、散らかしながら捜し物を始めた。
いくつか目の引き出しから、あの紺色の水着が出てきた。
「あった」
私はそれをひっつかむと、箪笥の前の惨状をほっぽらかしたまま、もとの座敷に戻ってきた。
そんなところで、裸になったり、水着を着たりするのは、足やお腹がすうすうして恥ずかしいのだけれど、ともかく夏と同じ姿になった。そして、その恰好で座り込むと、水着のお尻で畳に触れるのは、なんだか変な感じだが、気合い一閃という感じで目をつぶった。
見えてきた、見えてきた。
まわりは、全部水だ。少し薄緑がかっている水がゆらゆらと揺れている。上を見てみると、透明な水がきらきら光って、あれは
太陽の光を反射しているのだろう。私は水着を着て海の底にいる。
見回せば、昆布も岩もあの通りで、あった、あった、砂の上に巻き貝が転がっている。
拾って耳に押し当ててみると、あの嵐のような音は聞こえない。ちょっとがっかりしかけたが、水の中だもの、響きが違うのは当たり前だな、と分別くさく取り繕っていると、か細い音が聞こえてきた。
ガラスの風鈴が幾つも吊されている中を、弱い風が通りすぎていくような音。寂しい女の人が小さな声で歌っているようにも聞こえる。
私は目を閉じて聞いていたが、だんだん、目蓋の裏に光が広がってきた。最初白っぽかった光が、次第に青みを帯びてくる。そして、空だ。白鳥のような雲が飛んでいる。
四角い格子のようなものが見えてくる。なんだ、あれは障子の桟じゃないの。てっぺんの二、三枚の葉が黄色くなりかけた庭の木。なんだ、家の座敷じゃないの。でも、ゆらゆら揺れている。私は水の中から、お座敷を眺めている。頭の中の水槽から、ガラスを通して見ているんだ。近いけれど遠い、遠いけれど近い。
縁側に猫のたまが姿を現した。座敷を覗き込んで、きょろきょろ見回している。私を捜しているんだ。見つかりゃしないよ。私はここにいるんだもの。ここに隠れているんだもの。
その日の夕方、私は水着姿で座敷で居眠りしているところを、外出から戻ってきた母により発見された。傍らには、脱ぎ捨てたブラウス、スカート、下着、靴下。そして、巻き貝。
母に揺り起こされると、私はまず第一にへくしょん、とくしゃみをした。
続いて母は、開けっ放しの箪笥の引き出し、散らかった衣類を発見。
水着のまま現場に連行された容疑者(私)は、母による簡単な尋問に、あっさりと犯行を自白。こっぴどく叱られた。
もっとも叱っているうちに、母も犯行の動機の馬鹿馬鹿しさに呆れたのだろう、笑い出してしまった。
「早く服を着なさい。風邪引くわよ」
その後、犯人は散らかった衣類を片付けるという刑に服した。
夕食の時、母は何度も笑いがこみ上げてくるらしかったが、訝しがる父への報告はついになされなかった。娘の愚かしさを夫に知らせるのに忍びなかったのに違いない。
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