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みなさまと共に歩む…… (*個人的な感想です)

日本アクション純文学シリーズ7「大山椒魚対大河童」

「がおー!」
 夏の避暑地として賑わう湖畔の街に、突如として巨大な山椒魚が現れた。
「がおー!」
 すると、街からそう遠くない湖の中から巨大な河童が出現した。
 湖に面したお洒落な街並みを踏みつぶし、のし歩いていた大山椒魚は、大河童の咆哮に反応して振り返った。そのとき、大きな尻尾が高くそびえる高級リゾートホテルのタワー部分をなぎ倒した。
 大河童は大山椒魚の存在に気がつくと、両手で水を掻き分け、ざぶざぶと街に近づいてきた。大河童が立てた大きな波にもまれて、係留されていたボートが次々と沈んだ。
 湖底を歩いてきた大河童は、腰のあたりまで水上に姿を現した。すると大山椒魚は、尻尾と両足を使ってジャンプし、大河童に飛びかかった。
 大山椒魚は短い手足を広げ、大河童めがけてボディープレス。大河童は背後に倒れ、大山椒魚もろとも湖に没した。
 少しして、大河童と大山椒魚は上体を起こし、水面に上半身を表すと、今度は大河童が反撃に出た。大河童は水かきのある両手を使って、ばしゃばしゃと大山椒魚に水をかける。
 大山椒魚も負けずに、短い両手をぐるぐる回して大河童に水をかける。
 大河童を大山椒魚が追いかける。大山椒魚は短い両手を必死に動かして逃げる。二匹は輪になって浅瀬でばしゃばしゃと走り回る。
 そうかと思うと大山椒魚が大河童を追いかける。河童は深いところへ逃げると、大山椒魚は大きな尻尾を動かして泳いで追いかける。
 そんな繰り返しが続き、湖畔の街は水浸しになってしまった。しかし、それに構うことなく両者の激しい戦いは続いた。大山椒魚に水をかけられた大河童は、水がかからないよう片手で顔を覆いながら、もう片方の手で水を掻いては大山椒魚に水をかける。
「きゃー!」
「きゃははは」
 楽しそうな咆哮が響く。もしかしてこいつらは、戦っているのではなく、遊んでいるのか……?

 そのときだ、一台の戦車が水浸しの街に現れた。地球防衛隊だ。
 しかし、戦車は大砲を発射することなく、じっと大河童と大山椒魚の動きを伺っている。同時に二匹の巨大生物が出現して暴れ回るという、前代未聞の緊迫した状況を目の前にして、戦車の中ではこんな会話が交わされていた。
「たいちょー、お茶、ここ置きますね」
「うん」
 戦車内の座敷では、隊員と隊長が ちゃぶ台を挟んで番茶を飲んでいた。作戦会議だ。
「二匹もいたんじゃ、どっちを撃っていいかわかりませんね」
  ちゃぶ台に向かってあぐらをかいた隊員は、湯飲みを片手に持ち、後ろの茶箪笥に寄りかかっただらしない態勢で言った。
「そうだな」
 隊長は隊員の顔を見ずに、お茶を一口すすってから、うわのそらで答えた。
 作戦行動の前、隊長はいつも無口になる。作戦を考えているのだ。今度は二匹。かなり高度な技が要求される。
 隊長はもう一口、お茶をすすった。
 隊員は、それとなくハッチの方を見ると、開けたままにしていたハッチから、パラパラと雨が落ちてくるのが見えた。
「あ、降ってきたかな」
 隊員はゆっくりと腰を持ち上げ、ハッチを閉めた。
 やっぱり雨だ。湖のほうを見ると、それまで激しく動き回っていた大河童と大山椒魚は、慌てて岸に上がってきた。
 大河童は岸から少しあがったところの地面に、湖に向かって腰を下ろし、両手で膝を抱えた。
 大山椒魚はその脇に並んで、やはり湖に向かって横たわった。
 その様子を戦車の窓から見ていた隊員は言った。
「面白いもんですね。プールで雨が降ると、みんな上がってくるじゃないですか。水の中で泳いでいるのに、雨に濡れないように水から上がってくるって、おかしくないですか? だけど、なぜか雨が降るとプールに人がいなくなるんですよね。大河童と大山椒魚も、雨に気がつくと慌てて湖から上がってきましたよ。あいつらも同じなんですね」
 隊員は笑いながらそう言うと、元いた場所にあぐらをかいて冷めたお茶を飲み干した。
「今のうちに攻撃しちゃいましょうよ」
 隊員はそう持ちかけたが、隊長はあぐらをかいたまま、両手を後ろの床について天井を見上げ、ふんと鼻で息を吐いてから、隊員の顔を見ずに答えた。
「何もしてないんだろ?」
「ええ、雨が止むのを待ってるみたいです」
「じゃあ気の毒だ。無抵抗の相手を撃つのは気が引ける」
「それもそうですね」
 隊員は同意して、 ちゃぶ台の上の菓子鉢から柿の種を左手でひとつかみ取った。あぐらをかき、背中を丸めて両方の腕を ちゃぶ台にのせた姿勢で、手の中から、右手で柿の種をいくつか取り出し、肘をついたまま口に放り込む。カリカリと柿の種を噛む。
 また、握った手から柿の種をいつまみ出し、口に入れ、カリカリと噛んだ。
 戦車の中では、カリカリが続いていたが、あるとき隊員は左手を開き、握っていた柿の種を見た。やっぱりだ、ピーナッツがない。
「隊長、ピーナッツだけ食べたでしょ」
 座椅子にもたれかかり、何かを考え込むように目を閉じている隊長からは返事がない。そうだ、隊長は作戦を考えているのだ。こんな話で邪魔をしてはいけない。隊員は思った。
 そのとき、「んが」と鼻を鳴らす音がして、隊長の体がぴくりと動いた。
 隊長は目を開けて言った。
「あ、イビキかいてた?」
 寝てたみたいだ。
「いやー、自分のイビキでビックリして起きちゃうことって、あるよね」
 誰にともなく、照れ臭そうに言うと、隊長は上体を起こして菓子鉢の柿の種をひとつかみ取り、そのまま口に放り込んだ。
 しばらくカリカリと柿の種を噛んでいた隊長は、ちょっと眉を寄せた。
「おい、お前、ピーナッツだけ食べただろう」
 隊長からの意外な言葉に隊員は慌てた。
「えー! 食べてませんよー。それ隊長でしょう」
「そんなはずがあるか。無意識のうちに食ってんだよ、ピーナッツだけ」
 そう言うと隊長は、菓子鉢の柿の種を人差し指でかき混ぜて、ピーナッツを探したが、ひとつも残っていない。
「やっぱり」
「ええー、食べてませんから」
 まったく身に覚えがなく、濡れ衣を着せられた気分の隊員は、少し腹を立てた。
「じゃあ、最初からピーナッツの量が少なかったということか。どこの柿の種だ」
「蒲田の東急ストアで買ったやつですけど」と言いながら、隊員は座ったまま茶箪笥に手を伸ばし、いちばん上の小さな引き戸を開けて柿の種の袋を取り出した。
「ほら、いつものやつです」
 隊員は柿の種の袋をぽんと ちゃぶ台に置いた。
 隊長はそれを手に取り、眉間にしわを寄せてやや顔を上げ、遠近両用メガネの下の方を通して袋の裏書きの細かい文字を読みながら言った。
「柿の種とピーナッツは五対五が理想なんだ。ピーナッツが少ないなんて、おかしいじゃないか」
 五対五って……、『そりゃなくなるよ!』と隊員は心の中で叫んだ。柿の種とピーナッツの比率は、大抵、柿の種のほうが多い。今は柿の種とピーナッツは六四が黄金比とされ、メーカーもそのあたりの配合にしている。だから五対五で食べ続ければ、ピーナッツが先になくなるのは当然だ。
 犯人は隊長じゃないかー、と隊員は思ったが、口には出さなかった。言ってはいけない。そんな雰囲気が隊長にはあった。隊長が怖いからではない。むしろ、隊長には傷つきやすい雰囲気があった。傷つきやすいであろうと思わせる雰囲気があるだけであって、実際に傷つきやすいかはわからない。それは隊員が勝手に感じているものであったのだが、そう感じさせる何かが隊長にはあった。 
「苦情係に電話してみるか」
「いや、そこまでしなくても」
 隊員は慌てた。柿の種とピーナッツは五対五で入っているものと思い込んでいるのは隊長のほうで、メーカーは何も悪くない。それなのに苦情の電話なんて入れたら、恥をかくのは隊長だ。そんなことを隊長にはさせられない。
「お前、電話してみろ」と隊長が言った。
「自分っすか?」
 隊員はすっとんきょうな声をあげた。
「えー、そんな、隊長が電話してくださいよー」
「うーん、知らない人に電話するのは苦手なんだよね」
「でも、苦情があるのは隊長でしょ。自分はまったく文句ないんですから。誰かの代わりにケンカするみたいなの、いやですよ」
「ケンカしろとは言ってない。苦情を伝えてほしいだけだ。じゃあ、私が電話をかけるから、かかったら、あとは替わってくれ」
「おんなじですよ」と隊員が言っている間に、隊長はもう自分の携帯電話に番号を打ち込んでいる。
「ほらかかった!」と隊長は、時限爆弾でも渡すように、携帯電話を隊員に放り投げた。
 隊員は慌てて携帯電話を拾い上げ、耳に当てた。
『お電話ありがとうございます。鶴山製菓お客様係担当の米田でございます』
 感じのいい女性の担当者が出た。
「あ、すいません。あのじつは、柿の種のことで、ちょっとおうかがいしたいのですけど」
『はい、どのようなことでしょうか』と担当者が言うのと当時に、隊長が「おうかがいじゃなくて、苦情だぞ苦情」と小声で口を挟んだ。
「あ、はい?」
 両方の耳にからそれぞれ違う人間の話を同時に聞かされたので、隊員はすっかり混乱してしまった。
『私どもの柿の種に何かございましたでしょうか』と担当者が聞き返すのと同時に、隊長が「ピーナッツの量が少ないと言え」と言った。
 たまらず隊員は、電話のマイクを手で覆い、隊長に向かって「ちょっと黙ってて」とほとんど声を出さずに、その代わりわざと大きく口を開けて言った。
 隊員はすぐにまた電話を耳に当てた。
「あの、柿の種はとてもおいしくて、いつも愛用させてもらってるんですけど」
『それは、いつもありがとうございます』と担当者。するとまた隊長が同時に「下手に出ると舐められるぞ」と言った。
 隊員は隊長の声を聞かないようにして話を進めた。
「あの、柿の種とピーナッツの配分なんですけど、ピーナッツがちょっと少ないような……」
『はい、当社ではお客様のご意見をもとに』
「おいおい、ちょっととはどういうことだ」
『柿の種とピーナッツの適正な割合を求めておりまして』
「五対五じゃないといけないんだ、そこをハッキリ言え」
『現在は柿の種六に対しましてピーナッツ四の割合でご提供しております』
「お前のところでは厳格に五対五の割合を守っていないのかと問い詰めろ」
 苦情係の担当者の話が右の耳から、隊長の話が左の耳から同時に聞こえる。何を聞いているのかわからなくなり、「ええ、はいはい」と隊員はやっと答える。
『もちろん、それですべてのお客様にご満足いただけないことは、承知しています」
「甘い甘い、不良品を掴ませやがって、ピーナッツが足りない分、金を返せと言え」
 担当者の一言一句に隊長の言葉がかぶる。隊長がモンスタークレーマーのようになってきた。
「はい、そうですね」と答えるのが隊員にはやっとだった。
『ピーナッツが少ないというご不満ですが、そうしたご意見にも添えるよう、今後とも精進して参ります』
「甘い顔してりゃつけあがりやがって、お前じゃ話にならないから、もっと上の人間を出せと言ってやれ」
 誰もつけあがってなんかいない。隊長には担当者の声は聞こえていない。勝手に妄想を膨らませて怒っている。
「あ、はい。今後ともよろしくお願いします。頑張ってください」と、隊員はなんだかよくわからない挨拶をして電話を切ると、携帯電話を ちゃぶ台の中央に叩きつけるようにして置き、隊長を睨み付けた。
「わかんないですよ! 電話中に横からあれこれ言われても。あっちも話してるし。なんのために電話したのか、ぜんぜんわかんないですから」
 興奮する隊員に、隊長は小さく言った。
「だから、もっとガツンと言ってやればよかったのに」
「ガツンとかなんとか、そういう話じゃないし。だいたいピーナッツの数は……」
 そこまで言いかけて、隊員は口をつぐんだ。隊長が隊員の剣幕に押されて、少したじろいだように見えたからだ。ビックリしたモグラのような顔をしている。
「外の様子を見てきます」
 隊員は深く息を吐いて立ち上がり、ハシゴを登ってハッチを開いた。
 雨はまだ降っていた。 
「あれー?」
 隊員は周囲を見回した。そして、ハシゴに登ったまま頭をハッチの中に入れて、隊長に向かって大きな声で言った。
「二匹ともいなくなっちゃいました!」
 隊員はハッチを閉めてハシゴを下り、あらためて隊長に報告した。
「どっか行っちゃいました」
「あら、そうなの」
 隊長は少し考えて言った。
「たぶん、雨が止まないから、諦めて帰ったんだな」
「なーんか、緊張の糸が切れちゃいましたね」
「まあ、とくに被害がなくてよかった」
「そうですね」
「帰るか」
「はい」
 隊員は操縦席に向かった。
 隊長は、菓子鉢に残った柿の種を掴んで口に入れた。カリカリという音が、操縦席に座った隊員の耳に届いた。
「あれ、隊長、ピーナッツの入ってない柿の種でも食べるんですか」
「ん? ああ。ピーナッツなしでもうまいな」
 じゃあ、さっきのアレはなんだったんだ、と隊員は思ったが、それは自分の胸に納めておくことにした。これでいい。今日も一件落着だ。
 隊員はそう自分に言い聞かせ、戦車のアクセルを踏んだ。

おしまい




  
 



  


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社長のショートストーリー『とある蘭学者の行く末』

社長1 蘭学者の看板を上げたばかりの太郎は、どうも分けのわからない憂鬱な気持ちに襲われていた。

 大阪の緒方洪庵の蘭学塾で塾頭だった福沢諭吉という男が、江戸に出てくる途中、開港間もない横浜に立ち寄ったときのことが、蘭学者仲間で話題になっている。
 西洋人の居住する地域に立ち並ぶ商店や会社の看板に、ひとつも読めるものがなかったというのだ。もちろん、福沢の蘭語の能力が低かったわけではない。
 横浜の開港地でひとつも蘭語を見いだせなかったのである。幅をきかせていたのは英語だった。これは、日本と条約を結んだ英米仏露蘭の5カ国の内の世界での幅のきかせ方を自ずから反映しているものだった。
 もう蘭語の時代ではない、と福沢は英語を勉強する手立てを講じ始めたというのである

 太郎は、朝江戸を発して、横浜に向かっていた。
近ごろ小さな蘭学塾を開いたばかりである。これまで、愚直に蘭語を学んできた。なんだか、蘭語によって人にしてもらったという恩義のようなものさえ感じている。
 蘭語の時代は終わったという福沢の言葉は、本当だろうか。それを自分の目で確かめないわけにはいかない。

 侍の家の長男として生まれ、本来なら家を継がなければならない立場であったが、子どもの頃の太郎は愚鈍であった。なにしろ一四歳になるまで文字というものの存在に気づかなかったのである。
あまりに愚かなので、親は太郎に家を継がせるわけにはいかない、と判断して、お上には病弱ゆえ次男を跡取りとすると届け出て許された。長男でありながら冷や飯食い、日陰の身になってしまったのである
 勢い遊び相手も年下の子供達ばかりになり、それも自分より小さな子に鼻面引き回されるという具合だった。
 その日も、年下の友達・たっちゃんと一緒に街を歩いていた。ふと、たっちゃんは立ち止まり「うなぎ」と言った。
 太郎は、道の上にウナギがのたくっているのだろうか、と思ったが、そんなものはいない。たっちゃんは、とある店先の看板を指して再び、「うなぎ」と言った。怪訝な顔をしている太郎を見て、
「字だよ。ウナギって書いてあるんだよ」
「字?」
 たっちゃんは、看板上のうねうねとした模様を指さして、何度も「うなぎ」と発音した。確かに、その妙な模様はウナギに似て無くもないが、などと思っていたが、どうも、その模様が「う・な・ぎ」という音に結びついているらしいと悟ったとき、太郎の頭に稲妻が走った。
 この世は、実に「字」に充ち満ちているようなのである。それを教えてくれた恩人はたっちゃんであり、場所は鰻屋の店頭であった。
 太郎は、一四歳にして寺子屋に上がり、数ヶ月にして漢学塾に転じた。学んでも学んでも学び足りないくらい文字があるということに驚愕していた。世界が一変してしまった。

 文字を読み慣れている人にとっては、耳で聞く音と目で見る形が当たり前のように結びついているらしい。目は目であり、耳は耳である。なぜ、別々のものが一緒になるのか、その不思議さが太郎を言葉の世界に引きずり込んでいる。引きずり込むと同時に壁となって立ちはだかっている。
 さらに偶然、蘭語という言葉の存在を知る。ここで、さらに頭の中の扉が開いた。言葉という世界の不思議が、また太郎の背中をくすぐる。その言葉を学びたくてたまらなくなった。
 しかし、親は多くの日本人と同様、外国嫌いだった。蘭学など汚らわしき洋夷の学問と心得ていた。気分は攘夷だったのである。
 ある日、太郎は親から受け取った漢学塾に納めるはずの謝礼金を持って、とある蘭学塾に駆け込んだ。
 幸い先生は親切な人で、太郎を受けいれたばかりでなく、住み込みを許した。親との間も取り持ってくれた。大名のお抱え学者という他に収入源のある人だったので、むしろ塾の方は蘭学を世に広めるためという使命感の上でやっている。当時しばしば見られたタイプである。
 蘭語の本を筆写すると、それがいくらかになった。そんなアルバイトをしながら勉強を続け、ついには自らの小さな塾を持つことが出来た。
 蘭語が自分を人にしてくれた恩義を感じている、というのには、そんな思いがある。
 福沢のように、時代遅れだからと言って蘭語から英語に乗り換えるという器用さは太郎にはなかった。

「だが・・・・・・」
 ここのところ自分の感じている憂鬱は、英語と蘭語の問題だけだろうか。それだけだったら、両方勉強すればいいということにもなる。いや、言葉の不思議さに突き動かされてここまで来た自分であれば、むしろ英語のみならず仏語、露語などまで手を伸ばすのもやぶさかでないつもりだ。
 横浜に住み込んで、今日はあっちの先生、明日はこっちの先生とかけずり回る生活だって構わないという気持ちもある。それはそれで、ひとつの道なのだろう。
 だが、それだけではない。自分の心の、もっと奥深いところに何か引っかかるものがあるように思えてならないのだ。

 朝、江戸を出て、品川、大森と過ぎ、六郷川を渡って、川崎を越えた。今日は神奈川宿で一泊するか、できれば横浜に入ってしまいたい。
空は晴れ渡り、左手にはずっと静かな遠浅の海が続いている。
 街道をそれ、海岸に出て一服した。もうすぐ、西洋の船が見えてくるはずだ。
 横浜に出て、自分は何をするのだろう。もちろん、ただの遊山ではない。何か、蘭語に礼を言いたい。出来れば、蘭人に会って話をしたい。
 漠然としていると言えば漠然としている。かといって江戸にじっとしていられる気分でもなかった。重い気持ちを引きずってでも行かねばならぬ、と思っていた。

 子供達の声が聞こえてきた。なにやら興奮している感じである。
 見るとその辺の漁村の子供達が、何かを取り囲んで騒いでいる。平べったい岩のように見える。かなり大きなものである。
 ウミガメだった。
 あんな大きな亀が江戸湾にいたのか。もっとも、イルカだってクジラだって迷い込んでくることがあるのだから、いても不思議はないが。
 子供達は、棒きれで亀を叩いたり蹴飛ばしたりしている。太郎は立ち上がった。
 大きい図体の癖に、年下の子供達にいじめられていた昔の自分が、その亀に重なったのである。

 亀は涙を流していた。そして口を聞いた。
「助けていただいて、ありがとうございました」
 亀も言葉を話すのか。もしかすると、カメ語というものが存在する可能性がある。西洋各国の言葉の先にさらに学ばなければならない言葉あるかもしれない、ということに太郎はめまいを覚えた。
 亀は続けて言った。
「蘭学者の浦島先生ですね」
「確かに私は蘭学をやっている浦島太郎だが、私を知っているのか」
「はい。実は先生がお通りになるのをお待ちしておりました」
「なぜ」
「先生を乙姫様のおられる竜宮城へご案内したいのです

「私は、これから横浜へ行くのだ」
「乙姫様の言いつけなのです。竜宮城へ行ってみたくはありませんか」
「竜宮城など行きたくはない。横浜へ行く。学問のためだ」
「私の背中に乗れば、海の外へ出て行けるのですよ」
 とカメはやや狡猾そうに言った。
「海の外・・・・・・しいて言えば、オランダへ行きたい。もっとも海外渡航は許されないだろう。ペルリがやって来たとき、吉田松陰という男が密航を企てて、牢に入れられたという話だ」
「私は世界の海を巡っているのです。竜宮城に来ていただければ、ついでにオランダでも英国でも連れて行って差し上げます」

「この方が浦島様」
 乙姫は太郎を見るや、しがみつかんばかりに寄ってきた。そして、自ら手を取ると宮殿の奥へと誘い、しとねのような席に座らせた。侍女に命じて酒を持って来させ、手ずから酌をした。花のように香り立つ酒だった。蘭語でいうところのWijn、葡萄から醸した酒かとも思ったが、違うものかも知れなかった。
 そして、乙姫はその酒のような美女だった。その微笑みに、人は酔ってしまうかも知れなかった。
 にもかかわらず、浦島の憂鬱は去らなかった。むしろ、くっきりと心の中に形を表してくるかのようだった。
「お待ち申し上げておりました」
「なぜ私を。誰かとお間違えなのではないですか」
「いえ、浦島太郎様、あなたです」
「私は、武士の家に生まれながら廃嫡されたような愚かな男です。そんな者を待っていたとは・・・」
「あなた様は、ご自分の価値がまだおわかりになっていないのです」
 乙姫の目が、今一段、熱を帯びた。
「わたくしと、めおとになって下さいませ」
「わからない。私は貧乏学者ですよ。お姫様と釣り合うわけがない」
「いえ、本来、わたくしこそ、あなた様と釣り合うようなものではないのです。いえ、この宮殿にいるものすべてを合わせても、あなたの足下にも及びません」
 太郎は、乙姫の目の輝きの中に狂気めいたものを感じた。その狂気は確かに美しいのかもしれなかった。だが、やはりそれは太郎を憂鬱にさせた。
「私は横浜に行かなければならない。いや、亀は私をオランダに連れて行くと約束したのだ」
「オランダに何がありましょうか」
「わかりません。だが、私はオランダに恩義がある」
「あなた様は、ご自身の価値がわかっておられないのです」
「価値などと言うほどのものはない。ただ、教え教えられ、学んでいくだけだ」
「ですから、あなた様は、そのようなものを遙かに超えた方だと申し上げております」
 侍女やサカナたちは、息を殺して二人を見つめていた。男女の睦言になるはずが、妙に緊迫した議論になってしまっている。
 そういえば、ここは妙な空間だ・・・と、乙姫とのあいだの会話が途切れたところで、浦島は辺りを見回した。
 海の中の筈なのに、息も苦しくないし、着物も濡れない。あたりは、薄青い帳で包まれたようで、そこここに赤や黄や緑や橙の灯が点っている。行灯のようでもない、鬼火のようでもない、西洋にあるというガス灯のようでもない。ただ、ぼんやりと冷たく、しかし十分な光度を供給している。
(なにか、まだ私の知らない理学があるのだろうか)
 乙姫は、いささか青ざめた顔で伏し目になっていた。泣いているのかもしれない。侍女が二人近づいてきて、乙姫の手を取り立たせた。そして、何処か奥へと行ってしまった。その後ろ姿を見て、太郎は何か悪いことをしたような気になった。
 取り残された太郎に別の侍女が近づいてきて、酌をした。
「浦島様。折角おいでになったのです。竜宮をお楽しみ遊ばせ」
 侍女が袖を振って合図すると、あたりにいたサカナたちが一斉に空間に散った。不思議な音楽が流れ、珊瑚や海草までもが踊った。なるほど、それは見ようと思っても見ることのできない豪奢な光景だった。
 しかし、それが美しければ美しいほど、華やかであればあるほど、太郎の旨には影が広がっていくのをどうしようもなかった。

「私は、やはりここにいるべきものではないような気がする。オランダとは言うまい、せめて元の海岸に戻して欲しい」
 太郎は侍女の頭に言った。
「申し訳ございませんでした」
 と言ったのは、いつの間にか傍らに戻っていた乙姫だった。
「確かに、あなた様は竜宮さえも超えたお方なのですわ。龍神の娘である私ならば、あなたを虜にできると考えたのが浅はかでした」
 そして、螺鈿をちりばめた箱を渡し、
「これは玉手箱です。きっと、あなた様のお役に立つはずです」
 乙姫は、鮮やかに身体を巡らすと、太郎から離れていった。
「浦島太郎様、もう今生でお会いすることはないでしょう」
 乙姫とは、この竜宮を照らす無数の灯のひとつであったか、と浦島太郎には思えた。

 もう、夕暮れだった。あたりの海面は、赤々とした光線を受けて輝き波立っていた。ただ、どちらに日が沈むのか見当が付かない。自分がどちらへ向かっているのか、わからない。
 陸地は見えなかった。日本に向かっているのなら、いずれ富士山が見えてきそうなものだと思った。
「元へなど、戻れやしない」
 亀がぼそっと呟いた。それきり口を聞かなくなった。ただ、真っ黒な大きな塊になってしまったようだ。
 向こうの海面から、何か黒いものが現れた。巨大なサカナか。どんどん、海中からその姿を現して、天へと向かっていくのだった。
 鳥か。巨大な鳥が海中から現れて、天へ向かっていくのか。
 鳥はどんどん、その大きさを増した。天を覆ってしまいそうだった。事実、燦めいていた海面は、その光を失っていった。
 そして、全天が覆い尽くされたとき、真の暗闇が太郎を隠した。亀はいなくなっていた。もはや、足の下に海はないようだった。といって、地面に立っているのとも違った。
 暗い虚空に、太郎がただ一人いるようだった。
「どうしたのだ。これが、私の帰るべき故郷、日本なのか」
 
 いや、ただひとつ、乙姫から渡された箱があった。その箱に埋め込まれた螺鈿は、自らほのかな光を放って、箱が手の内にあることを主張していた。
 太郎は、箱を開けた。なかから、光る煙が出て、太郎にまとわりついた。
 その煙の中で、自分の手を見ると、それは若者のそれではなく、骨の上に皺だらけの皮膚を貼り付けたようなものだった。太郎は、思わず自分の顔に手をやった。やはり、肌の張りは失われ、老人の頬が、そこにあった。のみならず、頬は深い髭に覆われているようだった。
「年を取ってしまった」
煙が消えると、ただひたすら暗かった。螺鈿の箱も消えてしまった。
「暗い」 
自分しかいなかった。あたりは空虚に満たされているとも言えたし、自分が空虚を満たしているかのようでもあった。
なるほど、自分の心を満たしていた憂愁は、この闇から立ち上ってきたものなのかと思えた。

 太郎は、しばらく黙ったまま立ち尽くしていた。そうして、どれくらいの時間が経ったことだろう。それは、一秒かもしれないし、一兆年かもしれなかった。
 もう、この暗さに耐えられそうもなかった。太郎のかさついた唇が動いた。
「光あれ」
 すると光があった。
始めに言葉ありき。
 

社長のショートストーリー『京の桃太郎』

社長1  江戸から遠いといえば遠い、近いといえば近い、関東のべったりと広がった平野のどこかに、お爺さんとお婆さんが住んでいた。
 お爺さんは山へ柴刈りに、山といっても日本アルプスのような山ではなく、雑木林が小高くなっているという程度のものだ。
 お婆さんは、川へ洗濯に行った。爺さんと自分の分だけでなく、近所の分も引き受けて駄賃をもらうのである。爺さんも婆さんも畑仕事の合間に細々した仕事を引き受けて、せっせと稼ぐのである。
 すると上流から、一抱えもある大きな桃が、どんぶらこどんぶらこと流れてきた。(文献によっては、どんぶらこっこすっこっこ、と流れてきたとするものもある)
 それが、お婆さんの前まで来て止まった。洗濯がしやすいように、お爺さんが石を積んで水を堰いてくれたのに引っかかったのである。普通の婆さんなら腰を抜かして、桃と一緒に流されてしまったかもしれないが、この気丈な婆さんは、さらにひとつふたつ桃の下に石をかって動かないようにしておいてから、お爺さんを呼びに行った。
 桃を割ってみると、中から男の赤ん坊が出てきた。子どものいない二人は大喜びで、赤ん坊を育て始めた。

 さて、こんな田舎でも、海の外の噂が出るご時世になった。
 もちろん、こんな平野の真ん中でどちらを見回しても海なんぞは見えはしない。一日か二日歩けば、江戸湾が見えるところまで行けるのだが、海なんて見たことがないという者は大勢いる。お婆さんもその一人だ。
お爺さんの方は若い頃、江戸の商家に飯炊きとして奉公していたことがあるので、見たことはある。
「なに、どうってことはねえ」
 お爺さんはお婆さんから海のことを尋ねられると、いつもこんな風に答える。
 そんな村で、なぜ人びとが海のことを気にするようになったか。
 横浜である。
 横浜が開港して以来、西洋人が日本の絹をひどく気に入って、喜んで買っていくというのである。絹の貿易でお大尽になった者もいるらしい。
「桑、植えるベさ」
 村人は色めき立った。もっとも、お爺さんに言わせると
「なに、どうってことはねえ」
 なのだった。
 こんな風に、人びとが、それまで気にしなくて良かったことを気にし始めた頃の話である。

 さて、桃から生まれた男の子は、桃太郎と名付けられた。
 桃から生まれた桃太郎。いい名前である。いかにも丈夫に育ちそうだ。
 そして、丈夫に育った桃太郎が、毎日、棒きれを振り回して野山を駆けまわっているうちに、近所の子供達は、皆、その威に服し家来になった。
 そのあたりは彼の天下となった。戦国時代の大人だったら、さらに隣国に攻め入り、やがて京に上って、と考えるところだが、さすがに子供はそこまで考えなかった。
 こうなると、桃太郎の戦さごっこの相手がいなくなってしまった。まわり中、手下だらけである。どんな悪ガキでも、彼の顔を見ると卑屈に揉み手をせんばかりの態度になる。
 桃太郎が小規模ながら天下人になった結果は、退屈となって現れた。彼は、だんだん子供達と顔を合わせるのも、うんざりするような気持ちになってきた。

 だが、なにがあるかわからないもので、やがて一目置かざるを得ない好敵手達が現れた。
 一人は、犬であった。このあたりの豪農が飼うコロという犬である。人一倍、いや犬一倍度胸が据わっていて、一度噛みついたら殺されても離さないというような肝の太さがある。それでいて、弱いもの小さいものに対しては、この上なくやさしい。
 二人目は、猿だった。群れから離れた猿らしい。いつも村の周辺の林を孤独に徘徊している。時に樹上でただ一匹つくねんと月を眺めて座っている姿、あたかも高僧のようである。だが、戦いとなると変幻自在、あたりのものを枝でも柿の実でも武器として使いこなす。
 三人目は雉であった。まず、その優美な姿が目を引く。その色彩たるや、錦絵に描かれた若武者の如し。美なるのみならず、ひとたび敵に立ち向かうや、翼を振るって飛び立ち、その鋭き嘴、爪をよく防ぐもの、また、なし。
 一人と二匹と一羽は、自然に互いに認め合うところとなり、いずれは天下に押し出して働きたいものだと話し合うようになった。

 コロの飼い主の豪農、古田徳兵衛は、一方では平田国学の徒でもあり、また屋敷内に道場を建てて近在のものとともに稽古に励む兵法者でもあった。江戸も後半になると、侍がだらしなくなる代わりに、農、商の階級に却って熱心なものが出てくるのである。
 徳兵衛の流儀は自然無心流といった。
 一人と二匹と一羽は、いや、めんどくさいから四人と呼ぶことにするが、四人は揃って、徳兵衛の道場に入った。桃太郎はともかく、犬、猿、雉がどうやって束脩(謝礼金)を払ったのか文献に記録がないが、可愛い飼い犬と、その友達という事であれば、徳兵衛は金など受け取らなかっただろう。
 また、桃太郎と猿はともかく、犬と雉がどうやって竹刀を握ったのかが不明だが、どうにかしたのだろう、数年して、四人とも自然無心流の目録を頂戴することになったのである。

 さて、古田徳兵衛は国学者であるから、当然、京の朝廷への思い入れが深い。倒幕などという大それたことは考えないが、幕府はもっと朝廷を尊ぶべきだと考えている。
 そこへ来て、もう何年も開国以来の騒ぎが続いているのである。
 嘉永六年にペルリがやって来て、神州の地に踏み込んできたのみならず、次にはハリスなるものが下田、そして江戸に居座り通商の条約まで結んだ。
 しかも、夷狄がやってきてから、コロリが流行る、地震が起こる、物価が跳ね上がると、ろくなことがない。
 徳兵衛の道場でも、若い者が議論となると、攘夷という勇ましい言葉が飛び交い、今にも飛んで行きそうにする。徳兵衛さえ、押さえるのに苦労した。
 だが、そんな時には、コロの重々しい、
「わん・・・」
 というひと言が、青二才共の跳ね上がりを押さえた。あくまで冷静沈着、軽々には動かない人格者、いや犬格者のコロであった。
 
その四人が、揃って姿を消した。
 お婆さんは、いつかこんな日が来るのではないかと思っていた。
 桃太郎ときたら、地道に田畑で働けと言っても、苦そうに微笑むだけだった。 
 ある時、村に紛れ込んだ泥棒を取り押さえるという手柄を立ててから、まるで村内取り締まりを仰せつかったが如く、肩で風を切って歩いている。そして村人に、「しっかり働けよ」などと声をかけて通り過ぎていく。言われた方にしてみれば、どの面下げて、と言い返したくなるが、その勇気を持つものはいない。
 お前はこれから、どうするつもりか、と問うと、俺はいずれ鬼退治に行く、鬼退治に行って、鬼の宝を持ち帰るから楽しみにしていろ、という答えが返ってくる。
 あるいは、鬼の島を治める大名になるかもしれん、そうなったら呼び寄せてやろう、と言う。
 道場での噂も聞こえてくる。寄ると触ると「攘夷」だそうな。いつからか志士の間で流行っているらしい「君、僕」という呼称を使っているとか。こんな田舎で君、僕もないものだ、と密かに笑っている村人もいる。

 横浜で異人が斬られたという。英国公使館になっていた東禅寺という寺が浪士の襲撃を受けたという。
 村という天地しか知らなかったお婆さんの胸を無気味に掻き立てる風聞がいやでも耳に入ってくる。
 その世の中の激流に桃太郎が身を投じてしまうのではないか、という気がしていたが、それが本当になってしまった、とお婆さんは悄然とした。
「わしらには、もともと子がなかったんじゃ。あんな桃は流れてこなかったと思え。元に戻ったと思えば、なんでもない」
 お爺さんは、そんなことを言った。だが、それはお婆さんに言うというよりも、自分に向けての言葉のように聞こえた。
 桃太郎と過ごした年月が消えるわけではないのだ。明らかに、お爺さんは鬱々としていた。お婆さんを心配させるほどに。そして、ちょっとした風邪をこじらせてから、寝付くようになり、やがてほどなく死んでしまった。

 一人で暮らさねばならなくなったお婆さんの元に、桃太郎から手紙が届いた。字の読めないお婆さんは、古田徳兵衛の家に行って読んでもらうことにした。

 なんと、桃太郎ら四人は京にいるという。
 なんでも公方様(将軍)が二百年ぶりに京へ入るというので、それを警護するために、清河八郎という人が、浪士を募ることを策定したそうな。桃太郎ら四名は、その組織に身を投じたのである。
 ところが、京に着くや否や、再び江戸に戻って攘夷の行動を起こそうとする清河の一党と、京に残ることを主張する芹沢鴨、近藤勇の一派が分裂し、桃太郎達は京に残ることを選んだ。
 清河は、浪士達を率いて横浜を襲撃することを画策しており、幕府の力を利用して浪士を集めたのも、そのためらしい。その後、彼は幕府に危険視され、謀りごとにはまって斬られたそうな。
 桃太郎達は、新撰組という名の下に、京を騒がす不逞の輩を取り締まる役に就くことになった。
 だが、それもつかの間、今度は隊長を務めていた芹沢が、その横暴を憎まれ、これを暗殺した近藤勇、土方歳三という人たちの元で組織は強力に統制されることになった。
 よくわからぬが、文章から血の臭いが立ち上るようである。読み終えた徳兵衛も、膝に手を置き考え込んでいた。新撰組に入った愛犬コロのことを案じているのであろうか。それとも、何か政治向きのことを考えているのだろうか。

 それからも、桃太郎はたびたび手紙を送ってきた。しかし、詳しかった最初の手紙に比べて、「拙者息災にて、御心配御無用に御願い奉り候」とだけ書いてくるのであった。
 学問などなかった桃太郎が、難しい文を書けるようになったものだ、と感心すると同時に、あまりに短いので、何か書けないようなことが彼の身の回りにたくさん起きているのではないか、と「御心配」せずにはいられなくなる。
 そして、手紙には必ず金子が添えられていた。お婆さんが触れたこともない小判である。新撰組というのは、よほど景気がいいのだろうか。この金は、どうやって得られたのだろうか。それさえも、お婆さんの不安を増すばかりであった。
 
 徳兵衛が、池田屋騒動と言うことの風の噂を耳に入れてきた。彼も国学者の端くれなれば、いろいろな情報が入ってくるものと思われる。
 幕府に良からぬことを企てる一味が、池田屋という宿屋で会合を開いたその現場に新撰組が踏み込むという大捕物があったそうな。
 隊長の近藤が獅子奮迅の活躍をしたそうだが、その下にあって、桃太郎、犬、猿、雉は抜群の働きをしたという。動物たちが攻め込んでくるとは思わなかった浪士達をひどく狼狽させたらしい。
 国学者でありつつ、村を治める役も担っている徳兵衛は、この幕府と反幕府の対立に非常に困惑していたようである。
 お婆さんは、ひたすら桃太郎のみを案じていた。だが、しばらくすると、相変わらずの「御心配御無用」の手紙と共に、多額の金が届けられるのだった。
 近ごろでは、お婆さんも、「御心配御無用」という字だけは読めるようになってしまった。

 手紙ではさっぱり様子がわからないのに引き替え、徳兵衛が聞きつけてくる風の噂の方が具体性を帯びてきた。
 京の御所の蛤御門というところで、長州と薩摩、会津の間で戦争があったとか、逃げる長州を幕軍が追い討ちに行ったとか、そのうちに、こんどは長州の方が盛り返してきた、とか色んなことを聞き込んでくるのである。
 日本にとっては大事件なのかもしれないが、それが桃太郎や犬、猿、雉と関係があるのかどうかさえ、お婆さんにはわからない。
 次に、徳兵衛は憂鬱そうな顔で新撰組の噂を聞いてきた。
 組の中の規律が峻烈を極めている。なんでもかんでも、切腹だの斬首だのに
なるそうな。

 そして、噂はついに桃太郎周辺に及んでくる。
 猿が、切腹になった。上層部の立てた作戦を、知恵者の彼が鼻で笑ったというのである。
 雉は、隊に嫌気がさして、空を飛んで脱走してしまった。追っ手がかかったが、山野に隠れて、そのまま行方が知れなくなった。
 犬が、雉の脱走の手引きをしたのではないか、という疑いがかかった。実を言えば、そうなのである。犬のコロは、この時期、組の行く末、日本の将来について、なんらかの見通しを持っていたものと見える。
「腹を切った。武士らしい立派な最期だったそうな」
 そういう徳兵衛の目には涙が浮かんでいた。
 桃太郎については、なお何の噂もない。「御心配御無用」と金だけは送られてくる。このごろ、お婆さんはいちいち徳兵衛に見せなくなっていた。手紙を一瞥すればわかるのである。

 やがて、あれよあれよ、という間に大政奉還となる。公方様が天子様に政権をお返ししたというのである。徳兵衛にとっては、嬉しいことのようであったが、お婆さんにはやはり何のことか、わからない。
 そのうち、奉還後の天子様の元での主導権を巡って、薩長と徳川が鳥羽伏見で戦争をすることになった。

 お婆さんは、相変わらず畑をやったり、洗濯をしたりしていた。
「はて、桃太郎から送ってくる金があろうに、あの年で、そんなに稼がなくてはならんかな」
 と、徳兵衛などは首をかしげていた。
 実は、鳥羽伏見のあたりから、桃太郎の手紙はぱったりと途絶えていたのである。
 お婆さんも寄る年波なのか、洗濯物を抱えて道端で息をついて休んでいる姿が見られるようになった。しかし、だんだん、その姿さえも見かけなくなってきた。
 なんとなく徳兵衛が気にしていると、あるギラギラ太陽が照りつける日、村の道を女乞食が歩いているのが見えた。よく見るとお婆さんだった。
 声をかけると、振り向きざま、ばったりと道の上に倒れた。徳兵衛はびっくりして、自分の家に引き取ることにした。
 お婆さんは、あまりものを言わなくなっていた。そして程なく、なにか蝋燭の炎が細くなり消えるようにして亡くなってしまった。
 お婆さんが後生大事に抱えている風呂敷包みがあった。徳兵衛が持ってみると、ずしりと重かった。
解いてみると、桃太郎が京からよこした手紙が全部出てきた。それとともに、送ってきた金がまったく手つかずのまま出てきた。お婆さんは、ひとつも使わずに取っておいたのだ。
 これでは、窮迫するはずである。だが、なぜ使わなかったのだろう。徳兵衛は考えた。少しわかったような気がした。だが、またわからなくなった。そんなことを繰り返した。
 桃太郎は村の厄介者だった頃、いずれ鬼達から宝物を持ち帰ると豪語していた。なるほど、お婆さんが取っておいたおかげで、それが本当になったのかもしれなかった。

 近藤勇は明治元年、流山で捕縛、板橋で処刑さる。土方歳三は、榎本武揚らとともに箱館五稜郭に立てこもり明治二年に戦死。
 桃太郎の行方を示すものは、ついになかった。

社長のショートストーリー『文福磯だぬき』

社長1「ちっくしょう」
 たぬ吉は忌々しげに呟いた。今日も、海に転げ落ちてしまった。俺も、そろそろ年貢の納め時か。

 「文福磯タヌキ」に属するたぬ吉の身体は鉄で出来ていて、羽釜の形をしている。羽釜の両脇から首とシッポが出て、回りに四肢がついている。全体の形は亀に似ていなくもない。
したがって、潮風にも海水にも弱い。若い頃はそうでもなかったが、だんだん身体に錆が回ってくるのを感じている。
 日本に生息するタヌキは、通常我々がタヌキと呼んでいる種と、胴体が鉄製であるのが特徴の文福タヌキの2種に別れる。文福タヌキの存在が人間によって認識されたのは比較的新しく、14世紀の終わり頃、群馬県館林市の茂林寺の住職によるとされている。
 文福タヌキは、また様々な亜種に別れる。形態別には、茂林寺で発見されたのは文福茶釜タヌキであったが、その他、鍋タヌキ、釜タヌキ、茶瓶タヌキ、片手鍋タヌキなどである。いずれも背中に出来た空洞で湯を沸かせるのが特徴である。
 また、生息場所によっても亜種がある。山野に棲むもの、平地に棲むもの、様々であるが、中に海岸に生息域(ニッチ)を見いだしたのが、文福磯だぬきである。。海岸の岩場に巣を作り、貝類や海草、小魚を食物とする。甚だ厳しい環境ではあるが、外敵による捕食圧を受けにくいという場所ではある。
 一般に臆病とされているタヌキだが、文福磯だぬきは取り分け気が弱く、本来火に強く水に弱いはずの彼らが、いわばタヌキ界を追い出されていくように、海岸に生きる場を見いだしたのである。
 こういう環境と身体であるから、文福磯だぬきの生涯は忙しい。というより、はかない。
 忙しく生まれ、忙しく成長する。大きさも羽釜としては小ぶりである。そして、忙しく子孫を残すと、身体に錆が回ってきて、赤茶けた骸を海岸に晒し、波か風に掻き消されてしまうのである。
 
 たぬ吉は、じっと沖を見つめていた。この湾の入り口である。その狭い海峡に、煙を上げているでかいクジラみたいなのがいる。
 見た事のない生き物である。四匹いるようだが、煙を上げているのは、うち三匹である。
「文福タヌキの仲間ではないか」
 たぬ吉は直感した。煙を上げ、白い湯気を出しているからには、中で湯を沸かしているに違いない。
 文福タヌキの中で海に進出したものはいないはずだった。たぬ吉の一族の間に伝わっている叙事詩『移民の歌』では、苦難の旅の果て海に生きる決断をした磯だぬきの先祖を讃えているが、それはあくまで海岸線にまで進出したことを指しているのであって、海上に悠々と浮かぶということを意味しているのではない。
「あいつらの秘密は何だろう」
 彼らが平然と海に浮かんでいられる理由がわかれば、そしてそれを磯だぬきの生活に利用することが出来れば、錆と戦っては虚しく死んでいくという我々の苦難の歴史に終止符を打つことが出来るかもしれない。
 たぬ吉は、命がけで泳ぎだした。あの四匹が遊弋する浦賀水道に向けて。

 確かに命がけだった。羽釜の形なので、浮力には事欠かないはずだが、波が荒ければひっくり返ってしまう。磯だぬきにとって、もっとも恐るべき事態である。
 だが、遠浅の海は凪いでおり、引き潮は彼を、あの四匹のところへ都合良く運んでくれるかのようであった。
「おーい、おーい」
 たぬ吉は必死で声を上げた。彼らの巨大な身体に当たる波が、意外に強くたぬ吉を揺さぶっていた。このままでは転覆である。
 すると、真っ黒い身体の端の方がにゅるりと動いた。つづいて巨大なワカメのような目蓋が開き、その後ろから青い目玉が現れた。
「助けてくれ。このままじゃ、溺れ死んでしまう」
 鼻っ柱のようなところから、何か降りてきた。たぬ吉にはわからなかったが、それは鎖に吊された碇だった。
「これにおつかまりなさい」
 たぬ吉は、なんとか碇によじ登ると、その上に腰掛けた。
「大丈夫?震えているわよ」
「ありがとう、助かった。おいらたぬ吉っていうんだ

「私の名前はサスケハナ。アメリカのノーフォークってところからやってきたの。マシュー・ペリーって人間のおっさんを乗っけてね」
「升?ぺろり?おっさん?なんだい、そりゃ」
「なんでも、この国、あなたが住んでいる国に開国を迫るとか言ってるみたい」
「なんのことか、俺にはさっぱりわからねえ」
「なんであんな、危ない事したの」
「見てたのかい?」
「そう、あなたが陸から私たちの方をじっと見ているときから気づいていたわ。いつでも、陸に近づくときは、人間達から注目されるけど、あなたのような小さな動物に見つめられるのは初めてよ。可愛いと思ったけど、なんで、そんな必死な顔で見ているのかは、わからなかった」
「俺は、文福磯タヌキなんだ

「イソダヌキ?

「おいらの仲間は身体の中で湯を沸かせるんだが、どうも、その辺のところが、お前さんと似ているんじゃないかと思って会いに来たんだ」
「仲間だと思った、それだけ?それだけで、あんな危ないことを?」
 サスケハナを改めて見ると、クジラのようでもあるが、奇妙な巨大な輪っかが同体の真ん中に着いている。手足はないらしい。その輪っかで水を搔いて進むのか。そうしてみると、陸上で移動する手段を持っていないように見える。
「お前さんは、陸には登らないのかい」
「そうね、時たま、身体の手入れをしてもらうために、ドックに入るわ。でも、だいたい海に浮かんでいるわね」
「するてえと、お前さんはタヌキじゃないのかな」
「タヌキ?よくわからないけど、人間達は私のことをShipって呼ぶわ。Sheを使って呼んだりする

「そう言えば、上の方で人間の声が聞こえるな。それも、大勢いる」
「そう、私たちShipは人間や、その荷物を載せて海の上を運ぶために作られたのよ」
 たぬ吉は失望した。あれほどの危険を冒して、磯だぬきの仲間だと思えばこそ海を渡って会いに来たのに。
今来た凪いだ海面が霞んできた。思わず涙がこぼれた。すると、あとからあとから止まらなくなって、鎖にすがって男泣きに泣いた。
「あら、どうしたの?泣くのはおやめなさい。何か、わけがありそうね」
 たぬ吉は、磯だぬきの苛酷な生活、また、先祖が亜種としての地位を確立するまでの苦難の歴史を語った。
「俺は、お前さんを磯だぬきの仲間だと思ったんだ。海にずっと浮かんで波しぶきを受け続けても錆びない磯だぬき。鉄張りの身体のお前さんが、なぜ平気でいられるのか、その秘密を教えてもらえれば、俺たち海岸に棲む磯だぬきの苦しみが終わると思ったのさ」
「そう・・・あなた達の生き方がかかっていた・・・

 サスケハナは目を細めた。
「あなたが、海岸から海の上に飛び降りるのを見て、なんて無謀なことをするんだろうと思った。だけど、必死に泳ぎ始めたのを見て、小さいのに、なんて勇気があるんだろうと思った。なんどもひっくり返りそうになるたびに、ハラハラしたわ。私を操縦する人間が気づいて、助けに行ってあげればいいのにとも思った。なんとか、あなたが私にたどり着いて、抱き上げたとき、ほっとした。長い航海の果てに、初めてやったことがそれ。私、正直言うとちょっと感動してたのよ

 サスケハナは、陸の方、つまり三浦半島の海岸線を見渡した。そして、視線をぐるりと転じて湾の奥の方、すなわちエドと呼ばれるこの国の首都があるらしいあたりも見やった。
「私ねえ、実は鉄で出来ているんじゃないの。もちろん、湯を沸かすためのお釜や、その動力を伝える部分は鉄製だけどね。外側は木造なのよ」
「木?じゃあ、俺たちの国の人間が操っている船と同じじゃないか。なんで、そんなに黒いんだ。そして腐らないんだ?」
「そう、あなた方へのアドバイスになるといいんだけど、ピッチというねばねばしたものを塗っているのよ」
「ピッチ?」
「石油や木から作るらしいんだけど。ある種の木をお釜に入れて蒸し焼きにするの。そう、もしかすると、あなたの身体に向いているかもしれない

 サスケハナは知っている限りの知識を伝えた。たぬ吉は、賢そうな丸い目をして訊いていたが、次第にその目に熱が籠もってきた。
「ありがとうよ、サスケハナ。俺、早速戻って、試してみるよ」
「どうやって戻るの」
「もちろん、泳いでさ。さっきと同じだ」
「おやめなさい。あなたは疲れているわ。とても、泳ぎ着けやしないわ。しばらく待ちなさい。やがて、こちらの方からボートを下ろして上陸を試みるか、陸の方からあなた達の国の人がやってくるか、そのどちらかになると思うの。その時、ボートに紛れ込んで戻るほうがいいわ」
「俺、腹ぺこになっちまう」
「私の身体には海草や貝がこびりつくし、サカナも飛び込んでくるかも知れないから、それを食べて過ごすのよ」
 その後、ことはサスケハナの忠告通り進み、たぬ吉は礼を言うのもそこそこに陸への帰路についた。
 もちろん、ただちに海岸に隣接した林に入り、木を採集すると、それを背中に放り込み蓋をした。そして、とある農家に忍び込み、素知らぬ顔をしてかまどの上に乗った。
 その後、農家の人びととの多少の、いや、大変なすったもんだはあったものの、たぬ吉は文福磯タヌキ界で初めてピッチの精製に成功したのである。
 磯だぬきの錆との戦いの苦難の歴史に終止符が打たれた。嘉永六年六月三日、西暦でいうところの一八五二年七月八日である。
 人間にはミシシッピ号、サラトガ号、プリマス号と共に「黒船」と呼ばれて恐れられた蒸気外輪フリゲート艦サスケハナは、磯だぬき界ではピッチをもたらした恩人、いや恩船として長く語り伝えられることになった。

 翌年、寒風吹きすさぶ三浦半島の海岸で、たぬ吉は浦賀水道の方を凝視していた。
 昨年、サスケハナは10日に満たない日々をエド湾で過ごして、浦賀水道の彼方に姿を消した。それを見送るたぬ吉の目には、サスケハナが「また来る」と言っているように思えてならなかった。
翌日から、たぬ吉は岩山に登り、じっと浦賀水道の彼方を見つめる日々が始まった。磯だぬきを救ってくれたサスケハナへの礼をまだ述べ尽くしていないような気がしていたのである。
いや、礼だけではない。自分の思いを、もっともっと伝えたい。それを受け止めてくれるのは彼女だけのように思えた。そして、彼女が見てきた自分の知らない世界のことを話してもらいたい。
八ヶ月のあいだ、来る日も来る日も、雨の日も嵐の日も、風が綿雪をちぎってぶっつけてくる日も、たぬ吉は待った。磯だぬき仲間では、彼が気が触れたのではないかという噂が立った。
 そして、ついに嘉永七年一月一六日、西暦一八五四年二月一三日にサスケハナは、その懐かしい姿を現した。サスケハナの同僚は六匹に増えていた。(その後、さらに三匹加わることになる)
 もう、たぬ吉は海に飛び込むようなことはしない。
いや、実は、ピッチを身体に塗って海に強くなった自分を、サスケハナに見てもらいたいような気が少しばかりしたのだが、また彼女に心配をかけるのは気が引けた。それに、人間共のボートに密航するのはお手の物になっていた。
 サスケハナは前回より遙かに長く、数ヶ月エド湾にいた。その間、たぬ吉は機会を捉えては、彼女に会いにいった。そこで、何を話したのか。サスケハナが湾を離れたとき、たぬ吉の姿は、もはや三浦半島にはなかった。
 その後、サスケハナは箱館に寄り、下田に寄港し、琉球へと向かい、やがて永久にこの国から姿を消した。海鳥の群れが、その甲板上をたぬきがちょろちょろと駆け抜けるのを目撃した。
 たぬ吉は、磯だぬき界にピッチを紹介した偉人、いや偉狸として名を留めたが、初めて海外渡航をした磯だぬきでもあったはずである。だが、そちらの方は「文福磯だぬき年代記」には記載がない。
 アジアを離れたサスケハナは地中海での任務に就き、さらには南北戦争のアメリカで北軍艦として働き、南米大陸へも赴いた。そして、一八六八年に退役した。日本では明治維新の年にあたる。
 たぬ吉が、どうなったのか、わからない。人間の栄光と愚劣をしっかりとその丸い目に収め、上記のいずれかの場所でサスケハナに看取られて生涯を終えたのだろうか。
 サスケハナは一八八三年に売却されスクラップにされたそうである。

 参考文献:Wikipediaの各項目、および「文福磯だぬき年代記」(磯だぬき刊行会)

社長のショートストーリー『能三郎の舟』

社長1「能・・・てめえってやつは・・・」
 そう言ったっきり、政五郎の口から次の言葉が出てこない。 政五郎は大工の棟梁である。
 能三郎は、政五郎の前で膝に手を置き、腰をかがめたまま動かない。額に脂汗が湧き出てきて、ぽたぽた地面に落ちた。彼は政五郎の下で働く大工である。
「棟梁、すまねえ」
「能よ、てめえってやつは・・・」
 政五郎は、また同じ言葉を繰り返した。言うべきことがいっぱいありすぎて、頭の中でこんぐらかっている。
 ここは両国橋の東側のたもと、橋の下である。見上げると太い柱に支えられた巨大な橋の裏っ側が見える。あの上には、今日も大勢の江戸の市民が行ったり来たりしているのだ。その足音がどろどろと雷様の腹っ下しのように聞こえてくる。
 その橋桁の下に巨大な・・・城のようにも見える、神社仏閣のようにも見える、須弥山のようにも見える、という建造中の舟がある。並みの千石船より、遙かに大きい。この馬鹿でかい代物を能三郎が一人で作っていたというのか。
 近ごろ、でかい舟の話と言えば四年前、嘉永六年に浦賀にやって来たペルリの黒船ということになる。実は政五郎自身、神奈川あたりまで出掛けていって、遠くで煙を吐いている鯨のような蒸気船を見物してきた物好きの一人なのだが、なんだかあれよりも、これの方が大きいような気がする。 
 両国橋の裏側ははっきり見えているのだが、この舟のてっぺんの方は、ぼうっと霞んでいて、どう橋の下に収まっているのか、よくわからない。収まっていないようにも見える。橋の上に突き抜けて、その先の天空まで伸びてしまっているようにも見える。その辺がはっきり見えないというのは大工としては情けないところだが、どう目をこらしても見えない。いや、目をこらす勇気が挫ける。
「おめえは、黒船見物には行かなかったクチだな」
「へ」
 蚊の鳴くような声をさらに飲み込んだような返事だった。もともと真面目なやつだ。物見高い連中に混じって騒ぐよりも、現場に残って守る方を選んだはずだ。
 その真面目なやつが、このところちょくちょく仕事を休むので政五郎としても気になるのだ。
 去年、つまり安政二年の大地震からこっち、江戸は却って復興景気に湧き、大工どもは有卦に入っていた。普段、銭を持ちつけないやつらの金回りがよくなると、やることはきまっている。仮営業をしている吉原の上得意は大工を初めとする職人どもとなり、二日酔いで仕事に出てこないやつが続出する。政五郎は腹も立て、呆れもし、困惑もしたが、能三郎だけはちがうと思っていた。むしろ、やつこそ最後の頼みの綱だ。それが、ぽつぽつ出てこない日が目立ってきたので、棟梁も焦った。やつまで茶屋酒の味を覚えやがったか。
 そこで、今日は気が進まないことではあったが、能の跡をつけることにしたのだ。道具箱を担いで長屋を出た彼は、現場の方には向かわず、両国橋の下に姿を消した。それを追って土手を下ってみると、幻のようなものが姿を現した。
「能・・・てめえってやつは・・・」
 三度目である。まだ、言いたいことが言葉にならない。
 こんなもの、お上に知れたらどうなる。幕府は長い間、大船の建造を禁止してきたが、黒船が来て以来、その禁を解いた。雄藩は建造に向かっているという。とはいえ、それは、あくまで大名相手を想定してのことではないか。能三郎のような一庶民が、こんなことを始めるとは思ってもいないに違いない。これが知れたら、能の家族はおろか、俺の方までどんなお咎めがあるかわかったものじゃない・・・。
ふと政五郎は首をねじって大川の水面に目をやった。何艘もの舟が上り下りしている。中には昼っぱらから浮かれ騒いでいる能天気な屋形舟も出ている。その向こうには、もわっとした水蒸気の中、復興めざましい江戸の屋根屋根が見えている。
「おかしかねえか」
政五郎は誰にいうともなく呟いた。あれらの舟に乗っている連中は、能三郎の大船を見て、何とも思わないのだろうか。驚く様子もなく行き来している。それとも、連中の方が俺より肝が据わっているのだろうか。今、屋形舟の舳先に出てきて真っ赤なだらしない顔をして踊り狂っているやつの方が、江戸でもちょっとは名の知れた、この政五郎より度胸があるというのか。それはいくらなんでも、飲み込めねえ。
舟だけじゃねえ。橋の上からだって、両岸からだって見えなくちゃならねえはずのもんじゃねえか。いや、それなら、この俺だ。この十日ばかりの間に、二度や三度は両国橋を往復したはずだ。その俺の目にあたりの景色は変わりなく写っていたのだ。
「飛んだ酔狂だぜ」
「へ」
能三郎はそれだけ言って、さらに身を縮めた。汗があぶくのように顔面を覆っている。
政五郎はなんだか酔っぱらったような足取りで土手の方へ向きを変えると、身体が一尺ばかり浮かんでいるような足取りで登っていった。
そして、どこをどう歩いたのか、日暮れに家に帰ってきたときには、その日にあったことをすっかり忘れていた。

能三郎には、三人の息子がいた。一二歳の仙助、一〇歳の半助、八歳の弥平である。すでに仙はある職人に弟子入りし、半は御店の小僧、弥平は寺子屋に通っていたが、ある時、それらをすべて辞めさせた。
そして、末っ子の弥平はもっぱら、虫けらだのネズミだの小さな生き物を出来るだけ多くの種類、生きたまま捕まえてくるように言われた。捕まえた動物は、両国橋の下に持っていくことになっていた。
 真ん中の半助は、イヌ、猫、ウサギ、イタチなぞを出来るだけ多くの種類、生きたまま捕まえてくるように言われた。捕まえた動物は、両国橋の下に持っていくことになっていた。
 長男の仙助は大変だった。毎日、どこかから、牛やウマ、シカやイノシシ、はてはオオカミまで大きな動物を出来るだけ多くの種類、出来るものなら虎や象まで、両国橋の下に持っていくことになっていた。
しかし、両国橋の上では、行き交う人びとの喧噪は聞こえてきても、動物の声は、にゃんともぷーとも聞こえなかった。

能三郎はやがて、政五郎の現場には行かなくなった。長屋も引き払ってしまった。女房は、三人の息子と共に舟の上部の部屋に入り、もう、とか、がー、とか賑やかな動物たちの世話に明け暮れることになった。箱船の中は、多くの部屋に仕切られ、それなりの秩序を持って動物が分類された。
舟の長さは300キュビト、幅は50キュビト、高さは30キュビト。
「能ちゃーん、どう?もうすぐだよー。だいぶ、出来たー?

といって、両国橋の下に降りてきたのは、ずいぶん小さい男で、烏帽子に水干、沓という神主のような格好をしていた。もっとも衣裳は擦り切れているし、沓には穴が空き、烏帽子もだいぶずっこけている。
「うん、だいぶ出来ているねえ。さすが、能ちゃん、腕がいいや

「ありがとうございやす。もう仕上げに掛かっております」
「よろしくね。『その日』は、必ず来るんだからねー」
「しかし、あっしでいいんでございやすか」
「なにが?」
「あっしは、船大工でもねえ、家を建てる方の大工なんですが」
「だって、こうして立派に舟が出来上がっているじゃない」
「でも、舟を作るなら、そっちの方でもっと腕のいいやつが・・・」
「あのね、能ちゃん、腕だけの話じゃないの。お前じゃなきゃだめなの」
「なぜ、あっしが・・・」
「お前だからだよ」
「でも・・・」
「お前が、ああだこうだと言えないの。お前は選ばれる方で、選ぶ方じゃないんだから」
能三郎は問うのを諦めた。
「八月二十三日から降り始めるからね」
「は?」
「雨だよ、雨。二十五日の暮れ方から大雨になる。それまでには、動物は全部舟に入れ、食べ物なんかも積み込んでなきゃだめだよ。あ、もちろん、家族も入っていてね」
「それまでに、親父やお袋の墓参りに行ってもいいでしょうか」
「もちろん、舟さえ仕上がれば、能ちゃんの勝手だよ」
「恩になった政五郎棟梁にも挨拶に行きてえ」
「行きたければ、そうするがいいさ」
「いや、そうすると、別れが辛くなる・・・ねえ、あっしらの代わりに政五郎棟梁の一家を舟に乗せるってわけにはいかねえんですかい」
「だめだね」
「棟梁はいい人なんですよ」
「そうかもしれないけどね、選ばれていないんだからね。もう一度言うけど、選ぶのはお前じゃないんだからね。お前があれこれ考えるべき事じゃないんだよ


暑さの中に秋があり、透き通った秋の空を背景に眩しい花をお咲かせている百日紅は夏の名残だった。
きらきらする陽光の差し込む庭を背にして姐御、つまり政五郎棟梁の女房が座っている。
「え、棟梁は成田に?」
 と能三郎はうろたえた。
「そうさね。あっちの方で揉め事が起きて、棟梁にどうしても顔を出してもらわなきゃならないってんで、旅に出たんだよ」
「そ、それは・・・」
「能さん、挨拶に来たって言うけど、何の挨拶だい

 さて、そう言われてみると、何の挨拶と言っていいのかわからない。ただ、どうしても政五郎に会っておかなければならないような気がしたのだ。
「いえ、それなら、またいずれ参りやす・・・できれば・・・」
「なんだい、できればってのは。お前、どこかに行っちまうような言い方だねえ」
責めるような言い方だが、目には笑みが宿っている。
「棟梁は、能さんを若い頃から大工として育て上げてきたんだ。腕もいいが真っ直ぐな気性のいい職人になったってんで、喜んでいたんだよ。それが、ここんとこ仕事場に姿を見せないんで、あれで内心しょげていたんだよ

能三郎は姐御の顔を見上げることができない。目を上げれば、そこには、少々トウが立ったとはいえ、美しい顔があるだろう。小股の切れ上がった江戸前の女というのは、姐御のことだ。肌は、少々浅黒いが、黒曜石のように光る瞳、気の強そうな口元、娘の頃から、いざとなれば男顔負けの啖呵がその口からぽんぽんと飛び出してきたものだ。口は悪いが心根は優しくて・・・・・・。
「どうするんだい。旅にでも出るってのかい。旅に出ても、しょうがなかろうよ。棟梁の元で、もっといい仕事をおしよ」
能三郎の唇が震えた。両国橋の下では、今頃、女房や息子達が最終段階の準備に大わらわだろう。そして、八月二十三日には雨が降り始めるのだ。そうなれば、この姐御も棟梁も・・・。
「男が決めたことなら、あたしが言っても無駄かも知れないけどね、どっちにしてもね、能さん、黙ってほかの棟梁の下で働くような、政五郎の顔を潰すことだけは、しちゃいけないよ。わかっているだろうけど・・・・・・あら、どうしたんだい。能さん、いけないよ、泣いているのかい」


『武江年表』安政二年の項には、「八月二十三日、微雨。二十四日、二十五日、続いて微雨」とある。
それが、
「二十五日、暮れて次第に降りしきり、南風烈しく、戌の下刻より殊に甚だしく、近来稀なる大風雨にて、喬木を折り、家屋塀牆を損ふ。又海嘯により逆浪漲りて、大小の舟を覆し、或ひは岸に打ち上げ、石垣を損じ、洪波陸へ溢濫して家屋を損ふ。この間、水面にしばしば火光を現はす。此の時、水中に溺死怪我人算ふ(かぞう)べからず」
安政大地震の翌年、再び江戸を襲った天災である。大地震の時には、下町に被害多く、山の手は「安泰」だったが、今度の洪水は江戸中に被害をもたらしたとある。
そして、翌二十六日の朝には晴れ始めたとあるが、実はそうではなかっただろう。むしろ、次の文章の方が真実を伝えているのである。
「洪水四十日地にありき是において水増し方舟を浮めて方舟地の上に高くあがれり。而して水瀰漫り(みなぎり)て、大に地に増しぬ方舟は水の面に漂へり。水甚大に地に瀰漫りければ天下の高山皆おほはれたり・・・・・・凡そ地に動く肉なる者鳥家畜獣地に匍ふ諸の昆蟲および人皆死り・・・・・・」(旧約聖書・創世記)
水は百五十日の間、地にはびこったという。時期が来ると能は、舟の窓を開けて鴉を放った。さらに、鳩を放ったが、それは留まるところを見いださなかった。その七日後に再び鳩を放ったところ、暮れになって若葉の生えたオリーブの枝をくわえて戻ってきた。能三郎は、水の減りつつあるを知った。

 従って、その二年後から三年後に起こった、安政の大獄という事件は実はなかった。主導した井伊直弼も、処刑された橋本左内も吉田松陰も頼三樹三郎も、すでに水中に没していたからである。
従って万延元年の桜田門外の変もなかった。その後の幕末の混乱もなく、大政奉還もなく、明治維新もなかった。
これを書いている私も、これを読んでいるあなたも、実はいるのかどうだか、よくわからない。
能の方舟の一家は、その後、どうなったか。いずれ何処かの地に降りて、動物たちを放ったのだろう。
そして、数千年を経て、ベツレヘムの地にてヨセフの妻・マリアは、イエスと名付けられることになる男の子を身ごもったのである。西暦紀元元年ということになる。


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Author:文豪堂
いらっしゃいませ。中川善史(自称社長)と金井哲夫(自称編集局長)が2人でしこしこ書いているふざけた電子書籍本を販売する「蕪」式会社文豪堂書店です。(社名は予告なく変更することがあります) (なおこれは個人の感想です)(効能を保証するものではありません)(おだてると調子に乗ります)

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