社長の業務:スポーツ番組とコーフンについて

最近、スポーツ番組を見なくなった。
昔は、私も人並みに好きだったのだ。なんせ、王・長島の時代にモノゴコロがついたのだ。
「巨人大鵬卵焼き」の時代だ。若い人には意味がわからないだろう。「大鵬という巨人は卵焼きだった」という意味だ。
巨人が勝ち、大鵬が勝ち、ジャイアント馬場が勝っていれば、おおむね幸せだった。
空き地でゴム鞠で野球をやる時は、自分がプロの選手であるような幻想に浸り、少年雑誌で学んだカーブ、シュート、フォーク、パームボール、ナックルを投げ分け、フォアボールの山を築いた。
「魔球」を開発した子もいた。見たこともないボールの握り方、忍者か山伏が印を結んで術を掛けているような複雑な握り方を案出して投げるのであったが、足下より遠くへ届いたことはなかった。
サッカーも、人並みにコーフンして見た。フランス人のトルシエという人が日本代表の監督になって、ちっと強くなった頃だったと思う。
この監督さんが、ハーフタイムに選手の控え室で檄を飛ばしている映像が面白かった。トルシエさんは日本語は話せないのであるが、控え室の選手達のあいだをぐるぐる歩き回りながら、大声で何か言っているのである。もちろん、そのままでは選手達にはわからない(私にもわからない)。
その監督さんの後を、通訳の背の高い男がついて回って、その檄をすぐさま日本語にして叫ぶのである。叫ぶ通訳というのを初めて見たのである。
まあ、この場合叫ばないと、ちゃんと伝わらないのである。
トルシエが「何をやっているんだ!もっと敵陣深く攻め込むんだ!相手の後ろへ回れ!」とフランス語で叫んでも、通訳が冷静に「何をなさっているのですか。もっと敵陣深く攻め込みましょう。相手の後ろへ回ってください」とか言っていたのでは、檄どころかフランス語講座でも聴いているような感じになってしまうのである。
閑話休題。
それが、ここのところは、野球を見ても、サッカーを見ても、野球を見ても、およそコーフンしない体質になってしまった。コーフンしないで見るスポーツは空しい。
別に嫌いになったわけではないのだが、プロ野球を見ても、近所でやっている少年野球の練習を見ているのと同じような気持ちになってしまう。
サッカーにしても、「ああ、大勢の人がボールを取り囲んで、右に持ってったり左に持ってったりご苦労なことであるよなあ」という白けた気持ちになってしまうのである。
こういう体質になったきっかけは、10年近くも前のことだろうか。
その頃、仕事と家族の病気のことで滅茶苦茶に忙しくなり、精神的にも肉体的にも消耗してしまい、とてもスポーツを楽しむ余裕がなくなってしまったのだ。
何年かそういう時期を堪え忍んで、やや余裕が出てみると、今度はどうもスポーツ番組の空気に馴染めなくなってしまっていた。なんだか、久しぶりにあった友達と話が出来ないような、隙間風の吹くような感じなのである。
あんなに仲がよく、話が合った野球君、サッカーさん、どうしたんだい、また一緒に遊ぼうよ、と話しかけても、彼らは喫茶店の窓から木枯らし吹く道を眺めやって深い溜息をつくのであった・・・そんな情景?
本当は彼らが変わったというより、私が変わってしまったのだろう。
加えてスポーツ界は変転が早いので、知っている選手があまりいなくなってしまったと言うこともあった。
また、地上波放送であまりスポーツ番組をやらなくなる、という変化も起きていた。
やはり、私の観戦スタイルというのは、「巨人戦のナイター中継を見てコーフンしながら晩ご飯を食べる」という、いかにも「戦後レジーム」そのものみたいなものだったのだ。生活と番組のあり方がずれてきたのだ。
これは、ちょっと寂しいような気がしないこともない。
ツイッターで、私がフォローしているある人は、日頃は洞察力に富んだ発言をしているのに、サッカー好きらしく、たまにテレビ観戦しながら「ヤッター!」とか「よし!」とかコーフン丸出しのツイートをしていることがある。とたんに日頃の敬意が薄れて「実はバカなんじゃないか・・・」と思ってたりしてしまうのだが、反面そういう対象があるのは羨ましい。
仕方がないので、最近では将棋対局番組にコーフンのはけ口を見出している。
見た目の地味さでは、サッカー、野球を圧倒的に凌駕する。二人の人間が卓袱台の小さいみたいなのを真ん中にじっと向かい合っている様子は、なにか借金の相談でもしているようだ。
しかし、そこではすごい戦いが行われているのである。
私は差し手の内容は解説がないとさっぱりわからないのだが(あってもわからないのだが)、対局者の気迫はわかる。
羽生善治など、その頭脳の中で、隘路を巡り、崖をよじ登り、綱渡りをするという大冒険をしているであろう様子が伝わってきてスリリングでさえある。ぎりぎりのところを疾走している人間の顔だ。
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