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2012年11月

社長の業務:スポーツ番組とコーフンについて

しゃちょう

最近、スポーツ番組を見なくなった。
 昔は、私も人並みに好きだったのだ。なんせ、王・長島の時代にモノゴコロがついたのだ。
 「巨人大鵬卵焼き」の時代だ。若い人には意味がわからないだろう。「大鵬という巨人は卵焼きだった」という意味だ。

 巨人が勝ち、大鵬が勝ち、ジャイアント馬場が勝っていれば、おおむね幸せだった。
 空き地でゴム鞠で野球をやる時は、自分がプロの選手であるような幻想に浸り、少年雑誌で学んだカーブ、シュート、フォーク、パームボール、ナックルを投げ分け、フォアボールの山を築いた。
 「魔球」を開発した子もいた。見たこともないボールの握り方、忍者か山伏が印を結んで術を掛けているような複雑な握り方を案出して投げるのであったが、足下より遠くへ届いたことはなかった。

 サッカーも、人並みにコーフンして見た。フランス人のトルシエという人が日本代表の監督になって、ちっと強くなった頃だったと思う。
 この監督さんが、ハーフタイムに選手の控え室で檄を飛ばしている映像が面白かった。トルシエさんは日本語は話せないのであるが、控え室の選手達のあいだをぐるぐる歩き回りながら、大声で何か言っているのである。もちろん、そのままでは選手達にはわからない(私にもわからない)。
 その監督さんの後を、通訳の背の高い男がついて回って、その檄をすぐさま日本語にして叫ぶのである。叫ぶ通訳というのを初めて見たのである。
 まあ、この場合叫ばないと、ちゃんと伝わらないのである。
 トルシエが「何をやっているんだ!もっと敵陣深く攻め込むんだ!相手の後ろへ回れ!」とフランス語で叫んでも、通訳が冷静に「何をなさっているのですか。もっと敵陣深く攻め込みましょう。相手の後ろへ回ってください」とか言っていたのでは、檄どころかフランス語講座でも聴いているような感じになってしまうのである。

 閑話休題。
 それが、ここのところは、野球を見ても、サッカーを見ても、野球を見ても、およそコーフンしない体質になってしまった。コーフンしないで見るスポーツは空しい。
 別に嫌いになったわけではないのだが、プロ野球を見ても、近所でやっている少年野球の練習を見ているのと同じような気持ちになってしまう。
 サッカーにしても、「ああ、大勢の人がボールを取り囲んで、右に持ってったり左に持ってったりご苦労なことであるよなあ」という白けた気持ちになってしまうのである。

 こういう体質になったきっかけは、10年近くも前のことだろうか。
 その頃、仕事と家族の病気のことで滅茶苦茶に忙しくなり、精神的にも肉体的にも消耗してしまい、とてもスポーツを楽しむ余裕がなくなってしまったのだ。
 何年かそういう時期を堪え忍んで、やや余裕が出てみると、今度はどうもスポーツ番組の空気に馴染めなくなってしまっていた。なんだか、久しぶりにあった友達と話が出来ないような、隙間風の吹くような感じなのである。
 あんなに仲がよく、話が合った野球君、サッカーさん、どうしたんだい、また一緒に遊ぼうよ、と話しかけても、彼らは喫茶店の窓から木枯らし吹く道を眺めやって深い溜息をつくのであった・・・そんな情景?

 本当は彼らが変わったというより、私が変わってしまったのだろう。
 加えてスポーツ界は変転が早いので、知っている選手があまりいなくなってしまったと言うこともあった。
 また、地上波放送であまりスポーツ番組をやらなくなる、という変化も起きていた。
 やはり、私の観戦スタイルというのは、「巨人戦のナイター中継を見てコーフンしながら晩ご飯を食べる」という、いかにも「戦後レジーム」そのものみたいなものだったのだ。生活と番組のあり方がずれてきたのだ。

 これは、ちょっと寂しいような気がしないこともない。
 ツイッターで、私がフォローしているある人は、日頃は洞察力に富んだ発言をしているのに、サッカー好きらしく、たまにテレビ観戦しながら「ヤッター!」とか「よし!」とかコーフン丸出しのツイートをしていることがある。とたんに日頃の敬意が薄れて「実はバカなんじゃないか・・・」と思ってたりしてしまうのだが、反面そういう対象があるのは羨ましい。
 
 仕方がないので、最近では将棋対局番組にコーフンのはけ口を見出している。
 見た目の地味さでは、サッカー、野球を圧倒的に凌駕する。二人の人間が卓袱台の小さいみたいなのを真ん中にじっと向かい合っている様子は、なにか借金の相談でもしているようだ。
 しかし、そこではすごい戦いが行われているのである。
 私は差し手の内容は解説がないとさっぱりわからないのだが(あってもわからないのだが)、対局者の気迫はわかる。
 羽生善治など、その頭脳の中で、隘路を巡り、崖をよじ登り、綱渡りをするという大冒険をしているであろう様子が伝わってきてスリリングでさえある。ぎりぎりのところを疾走している人間の顔だ。
 
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今週のおさむらいちゃん

おさむらいちゃん2

そんなわけで。

社長の業務:ドラえもんと桶屋の謎

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 人生は謎に満ちている。この世は不可思議なことだらけだ。

 例えば、ドラえもん。
 ドラえもんは有袋類ではないのか。お腹に袋がついているではないか。
 未来の世界の猫型ロボットなどというが、猫型だったら、何故袋がついているのだ。
 それとも、未来の猫には袋がつくのだろうか。品種改良で、袋付きの猫が出来るのか。何でそんなことをする。何も猫に袋をつけなくてもいいではないか。らんちゅうという金魚を作りだしたのと同じくらい不可解な感性だ。
 それとも、現実に袋付きの猫というのがいるのだろうか。例えば、オーストラリアあたりに。
 なんだかオーストラリアなら、いそうな気がする。なんせ有袋類と言えばオーストラリアだ。オーストラリアと言えば有袋類だ。有袋類の有袋類による有袋類のための国、オーストラリア。
 オーストラリアにはフクロネコというような動物がいるのだろうか。
 フクロオオカミというのはいたような気がする。フクロウというのもいたような気がする。「フクロ・ウ」だ。袋のついた鵜だ。捕まえた魚を袋の中に入れて保存しておくのだね。早く食え、腐っちまうぞ。
 フクロとつけば、なんでもオーストラリアにいるような気がする。フクロゾウ、フクロウシ、フクロタヌキ、フクロカンガルー。あ、カンガルーは「フクロ」がつかなくても有袋類か。
 いいな、カンガルーは。なんか、フクロオオカミに比べて得しているような気がする。
 フクロオオカミなんか、名前でもって「フクロですよ。有袋類ですよ」とわざわざ主張しないと有袋類と認めてもらえないのだ。
 それに比べて、カンガルーなんか黙っていても有袋類だ(逆に喋り始めたりしたらびっくりするくらいだ)。
 ああ、いいですね。あんたは大将、万人が認める有袋類。世界がひれ伏す有袋類。恵まれているね、特権階級だね、へへーんだ、エライよ、立派だよ、ちぇっ、いい気になりやがって。
 と、ドラえもんについて考えていたはずなのに、いつの間にかカンガルーに嫉妬している私も謎といえば謎。

 世界は謎に満ちている。謎と不可思議の隙間にかろうじて人間の知りうることがあるのだ。

 例えば、「風が吹けば桶屋が儲かる」という諺だか慣用句。これにも謎が含まれている。
 意味は、「風が吹くと、埃が立つ。土埃が目に入って、目の悪い人が増える。すると、盲人は三味線を弾くことになっているから、三味線需要がぐっと増えて、皮に使う猫が大量に捕られる。すると、ネズミが増える。増えたネズミが桶を囓るので、桶屋が儲かる」という屁理屈だ。
 誰が考えたんだ。なんだか、いかにも私が考えそうな屁理屈だ。屁理屈ばかり捏ねている自分を少しは反省しよう。
 さて、反省が終わったところで(早い)、風が吹けば桶屋は儲かることになっているのだが、考えてみるまでもなく、風なんて地球上至る所で、四六時中吹いているではないか。完全な無風状態なんて、世界中でも夏の夕方の瀬戸内海くらいではないか。だから、瀬戸内海を世界遺産に登録するという運動を・・・とか言っていると、また話が逸れるので、問題は、それだったら桶屋さん、年がら年中ビジネスチャンスではないかということだ。
 桶屋さん、大もうけだ。笑いが止まらない。今日も桶屋の笑い声が聞こえる。桶屋に参入する業者も日を追って増えてくる。
 桶屋さんは今日もフル操業だ。工場用地を求めて海外進出する桶屋も出てくるくらいだ。「OKEYA」という日本語が世界語として通用する今日この頃だ。
 この状態はバブルではないか、いずれ桶バブルが破裂して不況に突入するのではないか、とか、原材料を求めて、世界の森林が破壊されるのではないか、等の心配をする人も出てくるが、桶屋の勢いは止まらない。
 六本木に「オケ・ヒルズ」とよばれる、桶を積み上げたような形の高層ビルが建って、中の住人は皆、桶産業でひと山あてた人ばかり、いつもいつも歌声が聞こえる、「何でいつも歌声が聞こえるんだい」「ほれ、桶屋さんだけに趣味はカラオケでございます」というような小話が流行るほどの絶好調。
 となっていもいいはずなのに、大金持ちの桶屋さんを見掛けることがないのは、何故だろうか、というのが謎だ。(謎を説明するだけで何でこんなに字数がかかるのか、も謎)

 おそらく、アスファルトだと思うのである。
 アスファルトで道が舗装されたために、埃が立ちにくくなり、目の悪い人が増えなくなり、三味線が売れなくなり、猫は捕られなくなり、ネズミの殺戮を欲しいままにし、桶を囓る生き物がいなくなり、桶屋さんが儲からなくなったのではないだろうか。
 今日も、桶屋さんはアスファルトの上で地団駄を踏んでいる。その地団駄の音が聞こえてきそうなものなのに聞こえないのも謎。

今週のおさむらいちゃん

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今週のおさむらいちゃんだよー。これから毎週月曜日に掲載します。おたのしみに。あー面白いったらありゃしない。

社長の業務:後頭部について考える

ねぎ
ふと気がついたのであります。最近、自分の後頭部を見ていない、ということに。
美容院に行かれる方は合わせ鏡で見るなんてこともあるのでしょうが、私はそういうこともやっておりません。

何ヶ月見ていないでしょうか。
下手すると、何年も見ていないのではないでしょうか。
久しく疎遠になっております。なんか、心配であります。

一応、手で触れば「ある」ということはわかりますから、どこかで落としてしまったとか、行方不明になってしまったとかいうことはないようです。
ただ、元気でやっているか、なにか悩み事はないのか、などということになると、はっきりとわかりかねるのが現状であります。

わからないからといって、後頭部に当ててメールを出したり、手紙を書いたりというわけにも行きません。
そうです。私は後頭部のメールアドレスも知らなければ、住所も電話番号も知らないのです。(たぶん、ないと思いますが)

親しいと思っていた人のことを、ほとんど知らなかった、ということに気づくなんてことありませんか。
今、私はそんな気分です。
「お父さんには、私のことなんて何にもわかっていないんだわ!」と、後頭部に言われた気分です。

身体の中で一番、監視や世話の行き届きかねるのが後頭部ではないでしょうか。
せいぜい、時々、頭を掻いたりする程度です。
広告などでも、「あなたの後頭部の悩みを解消する」とか「美しい後頭部のためのエクササイズ」などというものも見掛けません。
皆さん、後頭部のことは「なかったこと」として考えているのでしょうか。

不思議なことに、後頭部というのは、自分ではわからない癖に、他人からはよく見えるのです。
背中やお尻なら、身体の柔らかい人なら身体をねじって一部にしろ見ることも可能でしょう。
でも、後頭部はそうはいきません。頭をねじって、後頭部を見ている人なんて見たこともありません。
いたとしても、あまりお付き合いしたい気がしません

後頭部にゴミがくっついていても、髪の毛がヘンな形になっても、後頭部が裂けて歯が生えて、そこらにいる犬猫鴉および人間などを丸飲みにしていても自分ではわからないのですが、他人からはよく見えるのです。
「よく原因がわからないが、他人から避けられる傾向がある」などとお思いの人は、後頭部に重大な関心を向けるべきでしょう。

いや、そうでなくとも、後頭部に、もう少し気を使ってあげてもいいのではないでしょうか。
後頭部に気を使える人は、他人からも「目立つところばかりでなく、目立たないところにも気配りが出来る人」→「内面的に豊かな心の優しい人」→「神の慈悲と仏陀の智恵を兼ね備えた人」→「精神界の王、宇宙の支配者」と評価してもらえるかも知れません。
そうなれば、やりたい放題ですね。宇宙の支配者に逆らおうなんてやつは滅多にいませんから。

後頭部なんて、何の役にも立っていないと思ってはいませんか。
とんでもない。
後頭部には、「寝る時に枕にあてる」という大変重要な使命があるのです。
いわば、あなたの睡眠を支える縁の下の力持ちとも言えるのです。
地味な仕事です。報われない仕事です。
でも睡眠不足は、86もの病気の原因になるという研究もあるそうですよ。

http://rocketnews24.com/2012/01/25/175052/

どうですか。後頭部の偉大さに少しは気づいていただけたでしょうか。
後頭部がなかったら、あなたは86の病気にかかってしまうかも知れないのですよ。死んじゃいますよね。

わかりましたね。今晩、寝る時に後頭部に感謝して寝ましょうね。
え?
「自分は、うつぶせで寝るタイプ」?
はいはい。そうですか。


4コマまんが集「おさむらいちゃん傑作選」公開!

まんが
あの伝説の4コマまんが「おさむらいちゃん」が帰ってきました!
もののふとは何か。剣の世界に生きるとは如何なることか。
侍界のゆるキャラ「おさむらいちゃん」が、弱く、情けなく、時にほっこりと追求したりしなかったりする武士道。
ほらほら、そこ行くお兄さん、お姉さん、ココロしてこのマンガを読みなさい。
お茶とおまんじゅうでも用意してね。

社長、実験台になるの巻

社長
 ええと、まあ、気に掛かっちゃったわけですよ。
 ああ、先週取り上げた野口晴哉『風邪の効用』の中のお風呂の件です。

 「・・・石けんをつけて洗うというのは、大便が毎日出ているのに浣腸しているようなものです」というお言葉を、ご紹介したわけですが、ええと、別に「大便」という言葉を連呼したいわけではないのでして、そこは野口さんが仰っているので、文句は野口さんに持っていってもらいたいわけですが、いずれにせよ、お食事中の方、ごめんなさい。
 
 要するに、石けんを使うというのは、やりすぎである、と。
本来、身体が持っている、排泄力を奪ってしまう、と仰っていて、ご本人も石けんで身体を洗ったということは「四十年間一度もない」などと威張っておられるわけです。

 なんか、この人、世間の一般的な入浴の仕方に恨みでもあるのか、等と思ったりもするわけですが、それよりも、これは本当か? という話ですよ。
「皮膚の排泄力」って、そんなにすごいのかい? ってことですよ。

 野口さんの言うようなことでいいのであれば、世間で時々お見かけする、あの肌が茶色っぽくなって髪が何か重量感のあるねじくれ具合になっている、ああ、レゲエのおじさんという言い方がありましたね、路上で生活なさっている方々の汚れっぷりというのはどうなるんだ、という気がするわけです。

 そこで、社長、身体を張って実験してみることにしました。
 はい? そうです、この一週間、石けんを使わずに暮らしているんです。
 シャンプーもやめちゃいました。髭を剃るときのシェービングフォームもやめちゃいました。

 自らがレゲエ化する危険に身をさらしているわけです。
 電車に乗っている時、隣の人が臭いに顔をしかめるかも知れません。
 お店に入った時、店員さんの応対が微妙に苦しげになるかも知れません。
 もし、相手が「うっ」と言って顔をそむけでもしたら、ただちに逃げ出そう、通せんぼれたら突き飛ばしてでも脱出しよう、捕まったら手足をばたばたさせて声の限りに叫ぼう、と覚悟して始めたのでした。

 かくのごとく、社会的に抹殺される危険を冒して始めたわけですが(だんだん、大げさになってくるな)。
 結果として、「うっ」という事態は起こっていません。(もしかしたら、我慢してもらっているのかも知れないですが)
 自分でも、肌をくんくん嗅いでみたり、頻繁に髪の毛を気にしたりしているのですが、どうもレゲエ化は進んでいないようです。(もしかしたら、錯覚かも知れないですが)

 風呂に入った時に、指先で腕の皮膚を、ごーりごーりとこすってみるのですが、垢がボロボロということもないのです。
 手に二、三箇所、ぽつぽつが出来た事がありましたが、すぐ収まってしまいました。

 野口さんの言うこと、本当なのかもしれません。(まだ、断言は出来かねますが)
 皮膚の排泄力って、あるのかもしれません。

 石けんを使わないだけで、風呂へ入ったり、シャワーを浴びたりはしています。丁寧に汗を流すという感じですかね。
 頭は、お湯でよく洗うようにしています。今までよりこまめにブラシをしたりしてますね。
 私は髪が短いので、長い人にとってはまた事情は変わるかも知れません。

 大変なのはひげ剃りで、二枚刃と言うやつを使っているのですが、この刃の間に細かい髭が詰まるのですよ。
 シェービングフォームを使うと、きっと界面活性剤というののせいですか、水の中で振っただけで取れるのですよ。
 仕方ないから、爪楊枝でホジホジして取り除いています。背中丸めて。陰気な顔して。
 あまり、朝の爽やかな雰囲気に相応しくない行為ですが。

 化粧をする人とか、石けんの香りが大事だと思う人なんかは別ですけど、私くらいなら別にいらないんじゃないかと思ってしまいます。
 石けん会社の人に怒られちゃうかも知れないですけど。

 じゃあ、レゲエのおじさん達は、どうしてああなっちゃったんだろう、と不思議になります。
 もしかして、湯または水で洗う機会を提供するだけでも、かなり清潔を保てるんじゃないかという気もしてきましたね。