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2012年12月

社長の業務:壺中の天と脳内騒動

社長1 私はあまり贅沢をする方ではない。というより、銭がないのでできない。
 しかし銭があったら贅沢三昧に耽るかというと、そうとも思えない。贅沢というのも、あれでなかなかエネルギーやアイデアがいるのではないかと思う。私には無何有の郷に何の役にも立たない大きな木を植えて、その下で昼寝をするくらいしか思いつかない。
 目下のところ、たまに蕎麦屋に立ち寄って一杯やるくらいが、ささやかな贅沢である。
 ある住宅街の中にある大きなお寺の門前に、お気に入りの蕎麦屋がある。寺から見れば門前の蕎麦屋であるが、蕎麦屋から見れば、蕎麦屋奥に寺があることになる。
 
 歳末のある昼下がり、久しぶりで立ち寄ってみた。もう昼時は過ぎているなので、客は私一人だった。
 四人がけのテーブルがふたつ、六人がけのがひとつ、入れ込みにふたつ、働いているのは旦那さんとおかみさんだけという小体な店である。
 四人がけのテーブルについて、ぬる燗の酒と鴨の柳川風を注文する。
 まず突き出しの蕎麦味噌と燗酒が来る。
 黙って飲むのである。お気に入りの店とはいえ、私は常連ヅラをするのは好きではない。おかみさんも愛想は悪くないが無駄口を聞く性格ではないようだ。
 だから、黙って飲む。店内は、厨房で料理を拵えている以外の音がしない。しんとしている。外の冷たい風の音が聞こえるかのようである。お寺の敷石の上を歩く猫の足音が耳に入るかのようである。
 この静かな時が好きである。いかにも、ぬる燗の酒がよく似合う。
 鴨の柳川風がやって来る。鴨肉をささがきのゴボウとともに煮込んで卵とじにしたのが浅い鍋に入って、薬味に山椒を添えて来る。
「熱いので気をつけてください」
「ほい」
 というやりとりがあって、また静かになる。
 鴨肉が好きである。歯ごたえのあるのが好きだ。噛めば噛むほど味が出るところが好きだ。
しみじみと「壺中の天」という言葉を思い出す。仙人の持っている壺の中に、もうひとつ別世界があるという話だ。この小さな蕎麦屋は仙人の壺だ。

 男が一人入ってくる。「男が一人」などというと、物々しい感じであるが、別に強盗が入って来たわけではない。客である。
「後から、もう一人来るから」
 と、おかみさんに話している。大きな声である。太っていて妙につるんとした顔をしている。黒い髪が変にてかてかしている。
 なんとなく静寂が破られたのが面白くないが仕方がない。この蕎麦屋だって、私だけを相手に商売しているわけではない。どうしても他の客を入れたくなかったら、私がこの店を買い取って自分しか入れないようにするしかない。
 男は取りあえず、という感じでビールを注文している。別に彼が何を注文してもいいのだが、突然のちん入者だけに気にしないわけに行かない。
 貧乏揺すりをしながらメニューを見ている。頭を上げると私の方をちらちら見る。私が食べているのが何なのか気になるのだろう。もし聞かれたら、わざと知らぬ振りをしてやろうかと思う。
 長々迷っていたが、結局、卵焼きと板わさと山芋の磯部揚げを頼んだ。私にはどうでもいいことなのに、全部聞こえてしまうのが忌々しい。聞こえただけでなく、今こうして文章を綴っている現在、きちっと記憶に残っているのが、さらに忌々しい。
(彼は、私の食べているものに相当の関心を持っていたようなのに、それを頼まなかったのは何故だろう)
 いつの間にか、余計なことを考えている。
(食べものの名前がわからなかったか、あるいは私への敵意から、わざと頼まなかったのだろう)
 さっきまで静寂を楽しんでいた心境はどこへやら、いつの間にか、男が競争相手であるかのように思っている。
 店のドアが開いて、女が一人姿を現した。相当の美人である。
 初め、店の中をぐるりと見回し、それから私に目をやり、最後に男の背中に目を留めた。男は、女に背を向けたままである。ちらりとも振り返らない。
 その様子を見て、この女は男とは関係がないのかと思ったが、やがて女は男の前の席に向かいあって座った。
 男、強気だなー、と思う。私が同じ状況なら、女の方を振り返って「ここだよ」ぐらいは言うだろうと思う。それを、あたかも無視したかのような素振りである。
 口の聞き方も女の方がやや遠慮がちである。男は横柄である。「ははん」という人を馬鹿にしたような笑い方をする。
 いったい、二人はどういう関係か。夫婦か恋人か兄妹か親子か上司と部下か借金取りと借り主か検察官と容疑者か。
 夫婦ではない、兄妹ではない、上司と部下その他ではない。デブ男がいやに強気だが、まあ、カップルなのだろう。
 迷惑メールの話をしている。なんだか、男がうまい話に引っ掛かりそうになってホテルに呼び出しを受けた、というような話である。途中で気がついて、引っ掛からずにすんだ、ということらしい。
(どうだかな)
 と、私は思う。ホテルにのこのこ出掛けていったんじゃないか、それも女名前で呼び出されて、などと邪推に邪推を重ねる。
(それで美人局にでも引っ掛かったんだろう。ざまあみろ)
 私の店(!)に無遠慮に侵入した男に対して、私はあくまで厳しい。

 鴨を食べ終わったので、せいろを頼む。細い繊細な味わいの蕎麦である。きりっとしまっていて口の中に清涼の気が広がる。
 鬱陶しい男のせいで頭がごたごたしてしまったが、蕎麦のお陰で、そこが壺中の天であることを思い出した。
 いつかは本当にこの蕎麦屋を買い取ってやるという野望を胸に店を後にしたのである。
 
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今週のおさむらいちゃん

新作6

今週のまんがだぴょーん。矢文は矢文で返すのが武士道なのだ。

社長の業務:歌舞伎の掛け声初級編

社長
 亡母が歌舞伎好きだったので、晩年は年に何回か、歌舞伎座に連れて行くことにしていた。いつの間にか、こっちも面白くなってきて、今でもひとりで見に出掛けることがある。
 歌舞伎は視聴者参加型の演劇である。ただ、鑑賞するだけでなく、観客の方でも盛り上げるのである。その点、普通の演劇よりもロック・コンサートに似ていると思うことがある。踊ったり、のべつ喚声を上げると言うことはないが、掛け声や拍手で客の側から盛り上げていくのである。
 なかんずく、掛け声である。いいところで「音羽屋!」などと声を掛ける、アレである。あれは、役者や囃子方、大道具、小道具などと並んで、歌舞伎の一要素に含まれると思う。掛け声のうまいお客は、出演料をもらってもいいくらいだ。
 ところが、その掛け声が衰退しつつあるように思う。掛け声の掛かり方が少なくなったように思う。中には、全然掛からない日もあった。
 こうなると歌舞伎も間抜けなもので、役者が見得を切っても、ただ、わけもなく力んでいる人みたいになってしまう。「人生、もっと肩の力を抜いて生きようよ」などと、相田みつをのニセ者みたいな事を言いたくなってしまう。
 だいたい、年配の男性が声を掛けることが多い。別に年齢制限があるわけでなく、誰が掛けてもいいのだが、どうしても歌舞伎通となるとそれなりの年配になってしまうのだろう。
 掛け声が減ったと言うことは、この年齢層の方達が順繰りに列を作ってあの世へあの世へと行進しているということではないか。若いファンも増えているようだが、女性が多いし、若い男性は「恥ずかしいです」ということになる。
 歌舞伎界はもっと危機感を持った方がいい。さらに、これは歌舞伎のみならず伝統芸能の危機であり日本文化の危機である。
 国は、徴兵制などという下らないことを考えるくらいだったら、高校生から精鋭を募って、半年ぐらい歌舞伎漬けにして「大日本少年少女掛け声隊」を結成した方が、日本を世界にアピールするのに役立ち、ひいては世界平和に貢献するのではないか。
 
 そこで、私は「そろそろ私が声を掛ける側に回らねばならぬ年齢なのではないか」と、別に誰に頼まれたわけでもないのに、使命感を感じてしまったのである。「日頃、ご恩になっている歌舞伎界にお返しをするためにも」と、別に何をしてもらったわけでもないのに燃えてしまったのである。「中村勘三郎丈亡き後の歌舞伎界を背負って立つのは私しかいない・・・」
 まあ、もともと、ちょっとやってみたかったのであるが。
 某日、私は、初めての掛け声をするべく、東京は半蔵門の国立劇場に向かった。行きの電車の中で、すでに緊張感で身体が痛いくらいである。なにしろ、衆人環視の中で大声を出すのである。普通はあまりやってはいけないとされていることである。
 ホントは恥ずかしい。バカにされたらどうしよう。笑われたらどうしよう。私の掛け声がひどかったために、劇の進行は停止、その日の上演は中止、観客の怒号飛び交う中、係員に劇場付属の体育館の裏に引っ張っていかれて、そこには学ランを着て顔に隈取りをしたお仕置き係がいて・・・。
 着いて、すぐにプログラムを手に入れる。この日の演目は「鬼一法眼三略巻」、主演は中村吉右衛門。頭に血が上った状態で調べたところ、吉右衛門の屋号が「播磨屋」、中村芝雀が「京屋」ということだけ、なんとかわかった。
 掛け声は屋号でやるのが基本である。「中村さ~ん」とかやると、書留か宅配便みたいで、吉右衛門が印鑑を持って飛び出して来かねない。
 序幕、ここには吉右衛門は出てこない。となると、狙いは「京屋」だけである。途中からお姫様の形で出てくる。声を掛けねば、と思ったが、見事に出てこない。掛け損ねたということで、余計に緊張する。
「とりあえず、序幕は様子を見ることにして、次の幕から掛けることにしようかな」
 と、弱気になる。
 だが、最後、京屋が花道から去っていくところで、他の客から二、三、声が掛かったのにくっついて、慌てて「京屋」と言ってみた。初掛け声である。緊張の割にあっけなかった。
 休憩になると、三席ほど離れた席のご老人が、
「先ほど、声を掛けられていたのは、あなたですか」
 と話しかけてきた。「これは体育館裏かな」と思ったが、そうです、と答えると、
「それは、どうもありがとうございました」
 とお礼を言われた。掛け声を掛けるというのは、お礼に値するものらしい。ちょっと、誇らしいような気がする。帰りに何か奢ってくれるかな、と図々しいことまで期待する。
 食事を終えて、「他の役者の屋号も調べて、すこし守備範囲を増やさないと」と思いながら席に戻ってくると、プログラムがない。席の周辺も捜してみたが、ない。席にカバンをひとつ置いたままだったので、すわ盗難かと青くなってカバンの中を見てみると、プログラム以外にはなくなったものはない。被害総額800円である。それとも、休憩時間中に私がどこかへ置き忘れたのだろうか。
 自分のボケも疑いつつ事件は早くも迷宮入りするのだが、播磨屋と京屋以外のレパートリーが増える可能性はなくなった。
 二幕目で中村又五郎という役者が頑張っていたので、声を掛けたいと思ったが、中村さ~んでは印鑑になってしまうし、又五郎さ~んでは親戚のようだ。人の後にくっついて、まねして声を掛けようと思ってみたが、それもなかなか難しい。
 あきらめて他の人の掛け声を聞いていると、実にうまいところで掛けているのがわかってくる。ちょっとした台詞の切れ目とか思いがけないところで掛かるのだが、それがまた見事に決まっているのである。これは、とても掛け声一年生にかなうわけがない。
 ともかく、播磨屋が出て来るところ引っ込むところ、明らかに「どうぞ、声をお掛け下さい」と見得を切ったところ、と、わかりやすいところで声を掛けることにした。一度声を掛けてしまうと、声を上げること自体への恥ずかしさはなくなる。
 ともかくも、終演まで、5,6回、声を掛けることが出来た。たったそれだけの労働量なのだが、へとへとにくたびれた。
 あのご老人が帰りに天ぷらでも奢ってくれないかと淡い期待を胸にあたりを見回したが、もうその姿は消えていた。
 

今週のおさむらいちゃん

新作5

今週のまんがだよいーん!

社長の業務:無用の楽しみ

社長
 このところ週に一回、某ファミレスに立ち寄ることになっている。
 安ピザをつまみに安ワインを飲み、テーブルの上にノートを広げては沈思黙考の体なのである。といって、別に哲学的思索に耽っているわけでもなければ、借金の算段をしているわけでもない。
 何を考えているかというと、「役に立たないバカなこと」を考えているのである。
 その役に立たなさ加減やバカっぷりは、文豪堂書店の出版物を御覧になれば見当はつくことと思う。
 善用も出来ない代わりに悪用も出来ない。有効活用も出来ないが、戦争目的に役立つわけもない。

 まあ、そういうことを考えてはノートに書き付けているのだが、ふと目を上げれば、某ファミレスの店員さん達が忙しく立ち働いているのが目に入るのである。
 客を席に案内したかと思えば、次の瞬間、レジに立ち、注文を受けに行ったかと思いきや、すでにテーブルの片付けに手をつけている。
 コスト低減のためか、少ない人数で八面六臂、縦横無尽。何か忍者のような活躍ぶりである。これで、お幾らの時給をもらってらっしゃるのか知らないが、不器用でどんくさい私にはとても出来ない仕事だ。三歩、歩いただけで足が縺れて転ぶだろうと思う。
 その奮闘ぶりを見た後で、手元のノートに目を戻せば、私は何をやっておるのか。私はスパイに情報を盗まれないように速記術を改良した暗号で書いているのだが・・・とでも言い訳しなければ、とても字とは思えないような悪筆で、例のバカなことを書き殴っているわけである。
 横を見れば、可愛らしい女学生がドリンクバーの飲み物を脇に置いて、参考書やノートを開いて真剣に勉強あそばされている。別の方では、ビジネスマンがパソコンを開いて、眉根に皺を寄せてお仕事中である。さらに向こうの席では、おにいさんがせっぱつまった表情で、一生懸命、おねいさんを口説いていらっしゃるのである。
 勤勉、勤労、人類の繁栄。有用、有効、生活の向上。
 役に立つことに励んでおられる方々に取り囲まれ、典型的気の弱い日本人である私は「お前もちっとは世の中のため役に立たんかい」という無言の同調圧力を自分で勝手にひしひしと感じてしまうのである。

 追い詰められた私はやおら立ち上がった。そして、店内に向かって、
「皆さん、聞いてください。お話があります。
 昔々、ある人が『うちに生えている木は、馬鹿でかいばかりで、曲がりくねっているし瘤だらけだし、材木にもなりゃしない役立たずだ』と愚痴りました。
 それを聞いた荘子という人は、『そんな木は、何もない広い野原に植えて、その下で昼寝を楽しめばいいじゃないか』と答えました。
 愚痴っぽい人は、さらに『でも、スモモや桃みたいに果実がなるわけでもない役立たずだよ』
 荘子は『役に立つ木だったら、とっくに伐られたり枯らされたりしていたよ。役に立たないから生きながらえて大きく枝を伸ばし、その下で人が憩ったり、その枝で鳥が巣作りをしたり出来るんだ』
 また別の愚痴っぽい人が『うちで瓢(ひさご)の実がなったんだが、あまりに巨大で器には使えないんだ』
 荘子は『そういうのは、中をくりぬいて湖に浮かべて、その中で寝転がって大空を眺めるのに使ったらいいんだよ』
 皆さん、この話から『荘子の周りには愚痴っぽい人が多かった』ということ事がわかります。
 いやいや、違います。そうじゃなくって、こういう話を聞くと心が広がっていくような気がしませんか。
 荘子はこんなことも言っています。
『大地というのは、果てしなく広いが、人間が使っているのは、その内の自分の足が載っているほんの小さな面積だ。しかし、それ以外のところは無駄だとか必要ないと言って、足の大きさだけ残して大地を消してしまったら、人間は立っていることさえ出来なくなってしまうだろう』
 要するに人間の目から見た有用なものというのは、もっと大きな無用なものがあってこそ成り立っているというのです。人間の目から見た有用、無用の区別、有と無の対立なんてのは小賢しい浅知恵の生み出したものに過ぎないのであって、もっと大きなところに目を向けなければならないというのです。皆さん、我々はそういう観点から自分の生き方を見直してみる必要があるのではないでしょうか。」
 私の演説に、店内の人達は目を丸くして聞き入っている。やがて、一人が手を叩き出すと次々とそれに続いて拍手の輪が広がっていった。
「ありがとう、ありがとう。私の言わんとするところをご理解いただいてありがとう・・・」

 気がつくと、ワインが効いたのか、うたた寝をしていたのであった。古代中国の『荘子』に出ていた話をちょちょいとアレンジして、夢の中で演説していたものらしい。まあ、現実に演説したのでなくてよかった。恥ずかしいったらありゃしない。
 そう思いつつ、ふと横を見ると女学生は、勉強の手を止めてスマホを見て、何やら微笑んでいる。友達から嬉しいメールでも届いたのだろうか。
 ビジネスマンも仕事が一段落したのか、和らいだ表情でコーヒーを飲んでいるし、ぎらぎらした感じだったおにいさんも、今は楽しげにおねいさんとおしゃべりをしている。店の人さえ、相変わらず忙しそうであるが、動作のはしばしに余裕が生まれているような気がする。
 なんだか、みんなからせかせかした感じが消えているのである。
 まさかとは思うが、私の夢が漏れ出てみんなに伝染したのだろうか。それとも、これは夢の続きなのだろうか。いや、実は本当に演説していたのかも・・・。

今週のおさむらいちゃん

新作4

今週は江戸時代のSFだよーん。

社長
ある夜のことであった。
神「文豪堂書店・社長よ。目を覚ますがよい。我、汝に尋ねたきことあり」
社「はい? なんですか? ・・・うわっ、神だ、神様だ、神様が俺の枕元に降臨された・・・なんで、俺、この人を神様だと思ったんだろう? ・・・まあ、いいや、何かお尋ねとのことですが」
神「うむ、汝、文豪堂書店社長、神よりの問いじゃ、心してうけたまわれ」
社「はは~(ひれ伏す)」
神「たぬきとは、なんじゃ」
社「・・・は?」
神「たぬきとは何じゃ」
社「神よりの問いってから何かと思ったら・・・たぬき、ですか? あのイヌ科の動物の? 日本の野山を駆け回っている?」
神「ううむ。やはりそうであるな。日本の野山を駆け回っているイヌ科の動物・・・聞け、文豪堂書店・社長、人間の身でありながら、我をたばかりし者あり。汝、我に代わって、その者を成敗せよ」
社「ちょ、ちょっと、成敗って穏やかじゃないな、何があったんです?」
神「我、去る日、とあるソバ屋に立ち寄りて、たぬきそばなるものを食せり」
社「神様がですか? ソバ屋、びっくりしていたでしょう」
神「さにあらず。我、サラリーマンに姿を変えたれば。然るに、たぬきそばに載っていたのは、どう見ても日本の野山を駆け回っているイヌ科の動物にあらず。そは、天かすなり。これ、我をたばかりしこと明白なり。汝、文豪堂書店・社長、我に代わってソバ屋に押しかけ、ソバ代を返してもらってこい」
社「私がですか?」
神「汝、神に選ばれし者、行くがよい」
社「そんなことで選ばれても嬉しくありませんけどね。第一、それは騙したんじゃないですよ。それ、たぬきそばですよ」
神「たぬきが載っていなかったぞ」
社「あなた、何を期待していたんですか。たぬきそばに、たぬきが載っているわけはないじゃないですか」
神「(衝撃を受ける)・・・たぬきそばにたぬきが載っているわけがない・・・そんな矛盾撞着を平然と口にするとは、神をも恐れぬ所業・・・この世は、乱れておる。おのれ、ソバ屋の前に汝を亡ぼしてくれよう。ついでに人類を滅亡に・・・」
社「ちょっと待ってください。何で、たぬきそばで人類が滅亡しなくちゃならないんですか。だって、きつねそばを見てご覧なさい。きつねが載ってる訳じゃありませんよ」
神「え、載ってないの? おのれ、たぬきそばのみならず、きつねそばまで我を騙すとは・・・一体、何を信じたらよいのだ。神も仏もない・・・」
社「あんた、神様でしょ」
神「あ、そうじゃった。危うく神が神の存在を否定するところだった。無神論に陥るところじゃった」
社「いちいち、いうことが大げさですね。だいたい、きつねそば、たぬきそばだけじゃないでしょ。おかめそばに、おかめが載っていますか? 鴨南蛮に、ポルトガルやイエズス会が載っていますか?」
神「え、違うの?」
社「あんた、どういうソバを想像しているの?」
神「ソバ屋というのは、欺瞞の巣窟じゃな。よく汝らは黙っているな。消費者センターに電話すればいいのに」
社「そんなことしたら、笑われますよ。当たり前だって」
神「なにー、消費者センターまでソバ屋とグルなのか? 一体、社会正義というのはどこにあるのでしょう。皆さん、おかしいと思いませんか。我々は、今、目覚めなければならないのです。立ち上がらなければならないのです。怒りもてソバ屋を糾弾しましょう」
社「あなた、誰に演説しているんですか。だいたい、ソバ屋でびっくりしていたら他の店に行けませんよ。ハンバーガー(Hamburger)なんて、『ハンブルグの人』って意味なんですから」
神「ハンブルグの人? つまり、ドイツ北東部のエルベ川に面した港湾都市ハンブルグの出身もしくは居住の人ってこと?」
社「正解です」
神「わーい♪」
社「それを食べるんです」
神「えーっ。罰が当たるぞ。人間が人間を食べるなんて・・・」
社「そこで驚くんなら、さっきのイエズス会のところでも驚いて欲しかったですね。でも、食べるんですよ、ハンブルグ人を。逃げようとするやつを両手でしっかと押さえ、大口開けて噛み付き、食いちぎり、咀嚼し、唾液を混ぜてぐちゃぐちゃにし、嚥下し、胃液を掛けてどろどろに・・・」
神「ハ、ハンブルグ人は怒らないのか」
社「怒る? ハンブルグ人に怒る権利なんてありません。やつらは商品に過ぎません。金銭で売買される存在に過ぎないのです」
神「じ、人身売買じゃないか、そんなこと許されるのか」
社「許されるどころか、世界中で堂々と行われていますよ。今、この瞬間も世界の色々なところで大量に売買され、そして食われていますよ」
神「かわいそうなハンブルグ人・・・神も仏もない・・・あ、また言っちゃった」
社「しかし、おかしいと思いませんか。ハンブルグの人口は約180万人、これで世界中の需要を満たすというのは無理でしょう」
神「な、何が言いたいのだ」
社「世界中にハンブルグ人ショップを展開する某多国籍企業は、工場でハンブルグ人を大量生産しているのです」
神「大量生産? もしかして、遺伝子操作? そ、それは神の領域に土足で踏み込む行為じゃないか」
社「某多国籍企業はハンブルグ人の製造法を公開しておりません。けけけけ」
 神は、姿を消した。噂では、その後、ハンブルグ人解放運動の闘士になったとも、無常を感じてハンブルグ人の菩提を弔うため出家したとも伝えられている。(最後まで、何の神だかわからなかったが)

今週のおさむらいちゃん

osamurai3

ああ、悪の大魔王は孤独なのだ。