社長の業務:壺中の天と脳内騒動

しかし銭があったら贅沢三昧に耽るかというと、そうとも思えない。贅沢というのも、あれでなかなかエネルギーやアイデアがいるのではないかと思う。私には無何有の郷に何の役にも立たない大きな木を植えて、その下で昼寝をするくらいしか思いつかない。
目下のところ、たまに蕎麦屋に立ち寄って一杯やるくらいが、ささやかな贅沢である。
ある住宅街の中にある大きなお寺の門前に、お気に入りの蕎麦屋がある。寺から見れば門前の蕎麦屋であるが、蕎麦屋から見れば、蕎麦屋奥に寺があることになる。
歳末のある昼下がり、久しぶりで立ち寄ってみた。もう昼時は過ぎているなので、客は私一人だった。
四人がけのテーブルがふたつ、六人がけのがひとつ、入れ込みにふたつ、働いているのは旦那さんとおかみさんだけという小体な店である。
四人がけのテーブルについて、ぬる燗の酒と鴨の柳川風を注文する。
まず突き出しの蕎麦味噌と燗酒が来る。
黙って飲むのである。お気に入りの店とはいえ、私は常連ヅラをするのは好きではない。おかみさんも愛想は悪くないが無駄口を聞く性格ではないようだ。
だから、黙って飲む。店内は、厨房で料理を拵えている以外の音がしない。しんとしている。外の冷たい風の音が聞こえるかのようである。お寺の敷石の上を歩く猫の足音が耳に入るかのようである。
この静かな時が好きである。いかにも、ぬる燗の酒がよく似合う。
鴨の柳川風がやって来る。鴨肉をささがきのゴボウとともに煮込んで卵とじにしたのが浅い鍋に入って、薬味に山椒を添えて来る。
「熱いので気をつけてください」
「ほい」
というやりとりがあって、また静かになる。
鴨肉が好きである。歯ごたえのあるのが好きだ。噛めば噛むほど味が出るところが好きだ。
しみじみと「壺中の天」という言葉を思い出す。仙人の持っている壺の中に、もうひとつ別世界があるという話だ。この小さな蕎麦屋は仙人の壺だ。
男が一人入ってくる。「男が一人」などというと、物々しい感じであるが、別に強盗が入って来たわけではない。客である。
「後から、もう一人来るから」
と、おかみさんに話している。大きな声である。太っていて妙につるんとした顔をしている。黒い髪が変にてかてかしている。
なんとなく静寂が破られたのが面白くないが仕方がない。この蕎麦屋だって、私だけを相手に商売しているわけではない。どうしても他の客を入れたくなかったら、私がこの店を買い取って自分しか入れないようにするしかない。
男は取りあえず、という感じでビールを注文している。別に彼が何を注文してもいいのだが、突然のちん入者だけに気にしないわけに行かない。
貧乏揺すりをしながらメニューを見ている。頭を上げると私の方をちらちら見る。私が食べているのが何なのか気になるのだろう。もし聞かれたら、わざと知らぬ振りをしてやろうかと思う。
長々迷っていたが、結局、卵焼きと板わさと山芋の磯部揚げを頼んだ。私にはどうでもいいことなのに、全部聞こえてしまうのが忌々しい。聞こえただけでなく、今こうして文章を綴っている現在、きちっと記憶に残っているのが、さらに忌々しい。
(彼は、私の食べているものに相当の関心を持っていたようなのに、それを頼まなかったのは何故だろう)
いつの間にか、余計なことを考えている。
(食べものの名前がわからなかったか、あるいは私への敵意から、わざと頼まなかったのだろう)
さっきまで静寂を楽しんでいた心境はどこへやら、いつの間にか、男が競争相手であるかのように思っている。
店のドアが開いて、女が一人姿を現した。相当の美人である。
初め、店の中をぐるりと見回し、それから私に目をやり、最後に男の背中に目を留めた。男は、女に背を向けたままである。ちらりとも振り返らない。
その様子を見て、この女は男とは関係がないのかと思ったが、やがて女は男の前の席に向かいあって座った。
男、強気だなー、と思う。私が同じ状況なら、女の方を振り返って「ここだよ」ぐらいは言うだろうと思う。それを、あたかも無視したかのような素振りである。
口の聞き方も女の方がやや遠慮がちである。男は横柄である。「ははん」という人を馬鹿にしたような笑い方をする。
いったい、二人はどういう関係か。夫婦か恋人か兄妹か親子か上司と部下か借金取りと借り主か検察官と容疑者か。
夫婦ではない、兄妹ではない、上司と部下その他ではない。デブ男がいやに強気だが、まあ、カップルなのだろう。
迷惑メールの話をしている。なんだか、男がうまい話に引っ掛かりそうになってホテルに呼び出しを受けた、というような話である。途中で気がついて、引っ掛からずにすんだ、ということらしい。
(どうだかな)
と、私は思う。ホテルにのこのこ出掛けていったんじゃないか、それも女名前で呼び出されて、などと邪推に邪推を重ねる。
(それで美人局にでも引っ掛かったんだろう。ざまあみろ)
私の店(!)に無遠慮に侵入した男に対して、私はあくまで厳しい。
鴨を食べ終わったので、せいろを頼む。細い繊細な味わいの蕎麦である。きりっとしまっていて口の中に清涼の気が広がる。
鬱陶しい男のせいで頭がごたごたしてしまったが、蕎麦のお陰で、そこが壺中の天であることを思い出した。
いつかは本当にこの蕎麦屋を買い取ってやるという野望を胸に店を後にしたのである。
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