みなさまと共に歩む…… (*個人的な感想です)

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今週のおさむらいちゃん

新作10

バカヤロウな年寄りはいたわる必要なし。
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社長の業務:杉浦日向子を女房にする

社長 街を歩いていると、漫画家・杉浦日向子から電話が入った。
 なんでも、彼女の過去の作品を、あるメディアで使うのだが、それに際して私が台詞をなおした方がいい、と意見を言ったことがあるらしいのだ。どうやら、
「その作品中のある台詞は色っぽすぎる。そのメディアは子供の目に触れる可能性があるのだから、直した方がいい」と言ったらしい。
 らしい、というのは、さっぱり覚えがないからである。いかにも無責任ではあるのだが。
 電話の向こうの彼女は、今まさにその決断を下さなくてはならない場面にあるらしく、私にどうしたらいいか、聞いてきたのである。
 私は、
「あなたが色っぽい要素を出す時は、まさに作品のキモとして出すのだから、そこを変えたら作品が死んでしまうだろう。変えてはならない」
 と、前に言ったらしい意見とはまるで反対のことを言って電話を切った。
 それにしても、何という作品のどんな台詞について言っているのだろう。それがわからずに話をしている私はテキトーもいいところだが・・・。
 そこで、はっと彼女はもう7~8年前に死んでいることに気がついた。ということは、今話をしたのは彼女の幽霊だろうか。死んだ後も幽霊になって、なおも仕事に追われているとは、なんと大変な、なんとやるせないことであるか。

 などと思っているところで、目が覚めた。夢であった。まだ、辺りは暗い。幽霊といえば夏、というのが相場であるのに、今は冬の、しかも、この冬一番くらいに冷え込んだ明け方だった。
 まあ、私に電話がかかってくるわけがない。私は彼女に会ったこともなければ話をしたこともない一ファンに過ぎない。

 杉浦日向子といっても、もう若い人は知らないかも知れない。生きていれば、私とほぼ同年代、年齢はちょっと下くらいの人だ。(調べてみたら、生まれた年は私と同じで、私が早生まれなので学年では一年下だ)
 江戸時代や明治のほんの始まりの頃を背景にした漫画を描いて、人気を博した。主な作品には、北斎とその娘を描いた「百日紅」、上野戦争を描いた「合葬」、怪談奇譚の掌編集「百物語」
、その他,佳篇多数。
 ある時、「隠居」を宣言し、漫画を描くのをやめて、江戸風俗研究家を名乗って文章やテレビ出演をするようになった。NHKのバラエティ番組「お江戸でござる」に解説役として出ていたのを覚えている人もいるだろう。
 どうやら、漫画を描くのをやめたのは、その頃から難しい病気に立ち向かっていたかららしい。それだけ漫画家というのは重労働であるのだろう。
 10年近く、「隠居」が続いただろうか。2005年に46歳にして逝ってしまった。長くは生きられないことを覚悟しての隠居宣言だったような気がする。

 私が、江戸時代に関心を持つようになったのは、落語、歌舞伎、浮世絵などへの興味ばかりでなく、彼女の漫画に影響されたところ大である。
 私だけでなく、彼女により江戸への手ほどきを受けた人は沢山いるだろうと思う。

 夢から覚めて冷たい空気の中で布団にくるまりながら、ふと、
「杉浦日向子に幽霊になって来てもらって、女房になってもらおうかなあ」
 と考えた。

 幽霊を女房にする話は、落語では、東京の『安兵衛狐』、上方の『天神山』がある。どちらも元は同じ話であろう。
 ある長屋に住む偏屈な男が、弁当と酒を携えて花見に出掛けたところ、途中で「花見かい?」と話しかけられて、思わずひねくれて「いや、墓見だ。墓を見ながら酒を呑むのだ」と答えてしまう。それで、本当に墓地へ出掛けて酒を呑んでいるうちに、しゃれこうべを見つける(昔は土葬だった)。それへ酒を掛けて回向してやったところ、そのしゃれこうべの正体の娘が幽霊になって長屋へやって来て女房になってしまう。
 話の後半は、その話を聞いて、やはり幽霊を女房にしようと出掛けた男が偶然、狐を助け、その狐が女に化けて女房になるという、謡曲『葛の葉』や浄瑠璃『芦屋道満大内鑑』を下敷きにした話になっていく。

 落語の男によれば、
「幽霊の女房はいいぞ。昼は出てこないから飯代が掛からないし、近所で詰まらない話をして時間を潰すこともないし、どの季節も白い単衣物だから着物代も掛からない。足がないから下駄もいらないし、髪は垂らしたままだから髪結いに行かなくてすむ」
 いいことずくめ、大変、お得なようである。
 その上、杉浦日向子だったら、江戸について色んな事を教えてもらえそうだ。江戸だけでなく、あの世についても色々話が聞けるだろう。
 彼女は、亡くなる少し前に、たった一人で世界一周の船旅に出掛けたのだそうだ。その時、デッキに寝そべって眺めた海がどのように見えたか聞いてみたい。

 ・・・こんなにおいしい話は滅多にあるものではない。
 よし、そうしよう、そう決めた。と思ったものの、どうやったら、あの世と連絡が取れるのかわからない。
 その後、電話も掛かってこない。
 

今週のおさむらいちゃん

新作9


社長の業務:からだそだてと体育

社長 どうも、学校の体育がらみの体罰で生徒が自殺したなんて話題で、世間が騒がしいのである。
 社長は個人的には、「体罰は愛の仮面を被った暴力」であり「暴力は暴力を拡大再生産する」と考えているので、絶対反対なのだが、ちょっとその前に「体育」という言葉を考えてみたいのである。
 からだという言葉と育つ、育てるという言葉が組み合わさって「体育」なのである。
 だが、学校の授業や部活でやっているのは、あれは「身体を育てる」ではなくて「スポーツ」だと思うのである。
 スポーツというのは、勝ち負けの世界である。上手な順番にヒエラルキーが作られる世界である。
 まあ、それはそれでいいのである。そういうものであり、それなりに面白かったりよかったりするのである。

 だが、やはり身体を育てる、ということとは違うと思うのである。
 身体というのは、一生、死ぬまでつきあっていくもので、強い身体にせよ弱い身体にせよ、また障害や病気をもった身体にせよ、それはその人にとってかけがえのないものである。
 去年話題になった「困ってる人」という本を書いた大野更紗さんなんて方は、ある日突然、極めて症例の少ない難病にかかってしまって、それと付き合いながら生きて行かざるを得ないことを、そういう「くじを引いて」しまったことして受け入れ、且つ拠点として生きていこうと考えておられるようである。

 そういう身体が本来、個々人にとって持っている意味と、スポーツが中心になってしまっている「体育」との間に、社長は強い違和感を感じているのである。
 運動選手を目指す人ならともかく、普通の人にとって「はい、あなたは駆けっこで何番目ですよ~」というようなことが、どれだけ意味を持つのだろうか。自分の身体を、そういう序列の中に位置づけると言うこととと、「身体を育てる」ことにどういう関係があるのか。
 いや、身体を育てるどころか、体罰問題に見られるように命を奪ってしまったり、過去にドーピング問題に見られたように、むしろ勝つために身体を傷つけてしまったりするような価値観と親和性のある「体育」って、何なんだろう、と思うのである。
 現に社長は、高校時代、がんがん野球をやっていたのに、卒業と同時に10メートル離れたコンビニにも車で行くような生活になったために、若くして心臓をおかしくしてしまった人を知っているのである。ね、N君。(イニシャルで勘弁してやる)

 社長の学生時代だから、もう太古の昔、ジュラ紀ぐらいになるが、ある友人が「別冊宝島 東洋体育の本」というものを学校に持ってきたのである。なんせ古い本なので、アマゾンでも中古品しか無いのである。津村喬という人の編著で、この人は中国気功を早い時期に日本に紹介した人の一人である。
 内容は、気功・導引術、ヨガ、体操、ストレッチ、食養生等、インド、中国、日本といった東洋で古くから伝わってきた身体に関する智恵を紹介するものであった。
 だが、もっと大事なのは、一人一人違う自分の身体に対する認識を深めることこそ、真の「体育」なのではないか、という思想が貫かれていることなのであった。
 社長は、なんだか、これで目が覚めてしまったような気がしたのである。

 ここまで書いたことで、察しがつくだろうが、社長はあまりスポーツが得意ではないのである。子供の頃から身体が弱かったせいもあるが、苦手なもんだから、体育部の体罰問題などが起こると尻馬に乗ってスポーツや学校体育の悪口を言ったりするのである。
 しかし、上に揚げた本の思想は基本的に正しいと思っている。
自分の身体への認識を深めるという思想に裏打ちされていないと、スポーツはとんでもない方向に行ってしまう可能性があるのである。

 雀百まで踊り忘れず、社長は、大昔に出会った本の影響で、今でもある種の簡単な気功法を続けている。
 といって、それで劇的に健康になったとか、超人になったとか、空が飛べるようになったとか言うことはない。
 風邪は引くしお腹は壊すし、相変わらずどんくさい身体でしかないのである。
 それに、相変わらずせっせと不養生もやっているので、なんだかわけがわからないのである。(ただ、ある慢性疾患がかなりよくなったのだが、それが気功のお陰かどうかは、証明の方法もないのである)

 いったい何のために続けているのやら知らないが、習慣になってしまっているので、やらないと気分が落ち着かないという「小言念仏」的な面がないでもない。
 ただ、一日にある時間、自分の身体と向き合っている、という感覚は持っている。そういう時間を持つことは、多くの人にとってもいいことなのではないだろうか。
 別に、東洋体育でなくてもいいのである。そういうものは、非科学的だとかオカルト的だとか言って嫌う人もいるだろう。
 歩いたって、ジョギングしたって、あるいは深呼吸やストレッチでもいいのである。もちろん、スポーツだっていいのである。イチローさんのように優れた自己認識をスポーツを通して得る人もいるのである。
 今、ここにあなたとともにあって、あなたの命が終わるまでお付き合いせざるを得ない身体と少なくも一日一回、ご挨拶をしてみるというのは、礼儀にかなったことではないかと思うのである。
 

今週のおさむらいちゃん

新作8

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社長の業務:ヘビ太郎とお話の力

社長1 その友人は、子供が小さかった頃に、夜になるとお話をせがまれたそうである。
 彼の子供がお話に求めたのは、波瀾万丈のストーリーや魅力的な登場人物や人間性に対する深い洞察などではない。
 それは「長いこと」であった。上記の大人が小説や映画に求めそうな要素はどうでもいいのであって、ひたすら長いことが喜ばれた。
 したがって、「おばあさんが川で洗濯をしていると大きな桃が流れてきましたが、おばあさんは気が付かなかったので、そのまま海まで流れていってしまいました。おしまい」というような話は最も不興を買うものであった。

 毎晩、せがまれるうちネタ切れに悩むようになった彼は、苦し紛れに「ヘビ太郎」という、長い長いヘビの話を思いついた。
 ヘビ太郎は細長い100メートルくらいあるヘビで、家の庭から海に向かって這っていくのだが、すぐに犬や猫に尻尾を踏まれて進めなくなってしまい、尻尾のところまで戻っては踏まないように頼む、という具合で、ちょっと進んでは何かが起こって、いつになっても海へ辿り着かないのだ。これなら、話の方もいくらでも長くできる。長いヘビの長い話だ。

 大人が聞かされたら拷問のような話だが、子供には大受けだったそうだ。
 繰り返し話をしているうちに、ヘビ太郎は神社の屋根裏に住んでいるとか、蕎麦が好きだという設定が出来ていく。初めは何でもいいから、ひたすら長くできることが目的だった話のはずなのに、いつの間にか肉付けができ、話が膨らんでくるところが面白い。

 子供が話を聞きたがるというのも面白い。世間話や別の遊びもいいが、やはり、「お話」を聞きたいのである。
 お父さんの方も、苦し紛れだろうとでっち上げだろうと、ともかく「お話」を作ってしまう能力があるのである。

 私も落語を作ったりお話をでっち上げたりしていると、人間の中にはお話を作る仕掛けのようなものが具わっているのではないか、と思う時がある。机に向かって考えていると、思わぬ方角からお話が降ってくることがある。
 これは、才能云々ではないのである。名作をつくるというのではない。誰もが持っている能力だと思うのである。
 まあ、誰もが失敗の言い訳をしたり、女の子を口説く時には現実の自分より大きい人間に見せたがったりするし、政治家の答弁や会社への報告書なんてのも、みんなお話であり、お話の作成例はそこら中に転がっていると言えないこともない。

 私は言い訳や答弁以前に、「自分」とか「私」というのが、そもそも「お話」なのではないかと思っているのである。
 人間の身体を構成する細胞はしょっちゅう入れ替わっており、何週間だかすっかりいれかわるらしい。そんなに入れ替わっているのに、いつの間にか山田さんが鈴木さんになってしまうということは起こらずに山田さんでいるのは、遺伝子の働きなのだろうが、これは肉体の話で、山田さんの意識がいつまでも「俺は山田だ」という意識であるのは、どういう事だろう。
 遺伝子に「俺は山田だ」と書き込まれているわけでもあるまい。

 私は、人間は時々刻々「自分」「私」というお話を作っているのではないかと思うのである。「私は山田であり、これこれの人間で」というお話を作りながら生きるのが人間なのではないのだろうか。
例えば、大きな出来事を体験して「私」像ががらりと変わるなんてことがある。「私」に関する新しいお話が出来たのである。
 多重人格なんてのも、「私」を作る機能が暴走してたくさんのお話を抱え込んでしまっているのではないだろうか。
 「私」とは、固定した確固たる存在ではなく、今この瞬間も作られ続けているお話なのだと思う。

 そして、「私」がお話であれば、その背景である世界も、やはりお話に書き込まれているはずだ。
 同じものを見ても、人によってまるで違うように見えたりするのは、それぞれの人が、それぞれの見たものに関するお話を作っているからだ。
 そういったお話同志が交流したり絡み合っているうちに、自分たちの住んでいるところや、社会や国や民族や宗教や世界や宇宙に関する共同のお話が形作られていく。
 自分たちの持っているお話と他の人達の持っているお話とが矛盾衝突すれば、時には、そのために殺し合いが起きたりもする。

 お話とは、結局、自分達を定義し制限し閉じこめるための働きしかないのだろうか。そうとすれば、諸悪の根源は「私」というお話なのか。
 しかし、子供は「お話を聞きたがる」生き物でもあるのだ。まだ、聞いたことのないお話に耳を傾ける、そういった開かれた存在でもある。
 希望があるとすれば、そこにある。だから、今夜も世界のどこかでヘビ太郎が海を目指してうねり続けるのである。

今週のおさむらいちゃん

新作7

本年もよろしくお願いいたしまする。

社長の業務:朝寝朝酒朝湯が大好きで

社長1 時々、趣味で銭湯に行く。家でシャワーや風呂を使えるのに、わざわざ出掛けるというのは趣味、道楽、物好きに他ならない。
 やはり、家の風呂に比べてのびのびと手足が伸ばせるし、上がってから家に帰るまでの道すがらも、夏は夏なりに冬は冬なりに風情がある。
 都内の銭湯の数も随分少なくなったが、我が家の周辺は多い方である。いわば有数の銭湯地帯である。家から五分のところに一軒ある。
東京都浴場組合HP

銭湯であるから色々な人が来る。
 
 外から脱衣所に入ってくるなり、椅子に腰を掛けて、やおら袋から柿を取り出して食べ始めた男を見たことがある。
 柿など家で食べてくればいいと思うのだが、柿は銭湯で食うのが一番うまい、という信念が彼の中にあるのだろうか。いまだに意味がよく分からない。 

 そうかと思うと、脱衣所の壁に背中をくっつけて、全裸でじっと立っているおじさんがいた。ちょうど、健康診断で身長測定をする時のように、頭の後ろを壁にくっつけ、背筋を伸ばし、指先をぴんと下へ伸ばしている。
 私が風呂から上がって、身体を拭いて、汗が引くのを待ってから、服を着直して出ていくまでの間、ずっとその姿勢でいた。
 あれも、何だかわからない。ひょっとして、前衛舞踏か何かのパフォーマンスをしていたのだろうか。それとも、何かの罰を食らっていたのだろうか。

 湯船に使っている私の目の前に、突然、全裸の美女が現れたこともある。もっとも、この美女は五歳くらいで、お父さんに連れられてきていたのだが。
 
 正月二日にその銭湯で朝9時から「朝湯」をやるという。
 朝湯と言うだけで、わくわくしてくる。朝に風呂にはいると言うだけなのだから、やろうと思えば家でもやれるはずなのに、なにか非日常的な興奮に取り憑かれる。
 温泉に泊まりに行った翌朝は、朝風呂と朝ビーという黄金の組み合わせがある。あれも非日常という結界を張った上でのことである。
 我が町内でそれが可能なのは、まさに正月という特別な時間であるからなのだ。

 私はすでに年末から興奮していた。
 元旦は、ただでさえ早い時間から酒を呑んでしまうものだが、わざと量を過ごすようにした。
 やや酒の残った状態で風呂に入って「うい~」と溜飲を下げるのが正しい朝湯のあり方ではないかと思われ、それを演出しようと思ったのである。

 当日、私は時間を待って家を飛び出した。いつもより歩調が早い。湯に行くのであるから、ふらつきながらのんびり歩いて、川の流れを見て過ごすなんてあり方が望ましいのだが、身体の方が逸っている。それに前の晩、あれほどお酒を飲んだのに、ほとんど残っていない。朝湯の興奮が、酒を吹き飛ばしてしまったのであろうか。
 途中で、タオルを持ったおっさんに遭遇。きゃつも朝湯に行くのだろう。ライバル登場。こいつに遅れを取ってはならない。理由はわからないが、いけないような気がする。
 さらに足は速くなる。あやうく駆け出すんじゃないかという勢いで、当のT湯に着く。
 
 9時をわずかに回ったばかりなのに、すでに大入りであった。こいつらも、前夜から興奮していたのだろうか。
 カランの前はいっぱいで、むさ苦しい男のケツがずらりと並んでいる。見上げれば、磨りガラスを通して見える真っ青な空。斜めに差し込んでくる朝の光りの中を漂う蒸気の細かいミストがきらきら踊る。
 汚いんだか綺麗なんだかわからない光景だ。

  昔の江戸っ子はカラスの行水で、入ったかと思うと出ているという速さを自慢したものだそうだが、現代の都民は、なかなか簡単に上がろうとしない。
 出来るだけ長く浸かって、湯銭450円也の元を取りたい、と思う気持ちが働くからである。といって、どれくらい浸かっていたら元が取れるのかという標準がないから、唸りながら苦悶の表情で入っている爺さんもいる。彼にとっては、すでに苦痛と快楽と相半ば、すでに苦痛が勝っているかも知れないところだ。人は老いてもなお元を取りたいものなのだろうか。

 湯から上がるとしばし呆然。身も心もふやけてしまって、もう後は酒でも飲む以外に役に立たない人間になっている。まあ、ここにいる皆がそうだろう。
 あっというまに今日という貴重な時間を無駄にしてしまう。これほど贅沢なこともあるまい。

 はい。朝寝朝酒朝湯が大好きです。
 それでつぶすほどの身上もありません。
 はあ、もっともです、もっともです。
 


プロフィール

文豪堂

Author:文豪堂
いらっしゃいませ。中川善史(自称社長)と金井哲夫(自称編集局長)が2人でしこしこ書いているふざけた電子書籍本を販売する「蕪」式会社文豪堂書店です。(社名は予告なく変更することがあります) (なおこれは個人の感想です)(効能を保証するものではありません)(おだてると調子に乗ります)

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