社長の業務 ショートストーリー『夢十夜 第十一夜』

いつの時代とも知れぬが、戦さが続く世であった。
自分は、轟と鳴る風の吹く崖の下の、小さな浜の波打ち際に屍となって倒れていた。
陸の戦さであったのか、海戦だったかも記憶にない。ただ自分は侍として戦さに出て、屍をさらすことになったという自覚だけがあった。
周りには、敵もいないし味方もいない。生きている者も死んでいる者もいない。馬もいなければ、武具馬具、旗指物も転がっていない。寂しい松の生えた崖と砂浜があるばかりである。
自分の右足と右腕は無くなっていて、切り口が海水に浸かっている。誰にどこで切られたのかはわからないのは、武士として恥辱だったが、足掻くにも足掻けない。ただ、無性に水を蹴ってみたいという意志が切り口の先に残っている。
手足が残っている身体の左側は、砂浜の上に乗っている。これはどうにも動かないことがわかっている。手足は、ある方より無い側の方が強い意志を帯びるものであった。
空に太陽が二つ浮かんでいて、西の海へと傾いていく。どちらか一方の太陽が偽物である。偽物は真物の太陽の影か、鏡の像のようなものであるに違いない。どちらが偽物であるか、海に沈む時にわかるだろう。
浜辺の砂を踏む音が聞こえてきた。さくさくという音が、だんだん自分に近づいてくる。その人物は、自分の頭の脇に座ったらしい。女の顔が自分の顔の上に現れて、自分を覗き込んだ。
源平時代の女でもなければ、元亀天正の世の女でもない。現代の・・・明治の女である。
女は水色の着物を着ている。座っているので見えないが、裾には背の高い茎の、花の柄が描かれているだろうと思った。
日は、既にひとつの太陽が沈んでいた。真物の天道が先に沈み、偽物が水平線の上に残っていた。茜に染まるべき西の空が、翡翠色に輝いている。夕日というよりは、月の光を強くしたような光線が女の顔に差して、青白く滑らかだった。
女の長い睫毛が偽の天道に照らされて、木の下闇のように黒い影を作っていた。海鳴りがその奥の瞳から聞こえて来ると思った。
そのような眼をかつて見たことがあったと、その時はっきり自覚した。
自分は大学で文学を講じていた。
外は曇っているのに、雲が嫌にびかびか光って奇態に明るかった。窓に接するように大きな木があって、それが雲の光を反射して、窓際の席は青い影に包まれていた。
「凡そ文学的内容の形式は(F+f)なることを要す・・・」*
自分の講義は文学論としては、風変わりで突飛だったかもしれぬ。だが、自分は真面目であった。真面目以上であった。志士のように殺気立っていた。触れるものは斬り殺すつもりであった。
「・・・Fは焦点的印象または観念を意味し、fはこれに付着する情緒を意味す」*
その学生は、窓際に座っていた。顔つきも体つきも細くて華奢だった。しかし、その女のような顔の向こうに、なんとしても動かない頑固なものがあった。
何が起こったのか、自分は覚えていない。多くのことがあったようであり、何も起こらないようでもあった。透き通った大入道が我々の間を荒々しく通り過ぎていったような気がした。
自分は彼の方を向いたまま、しばらく次の講ずべき言葉を発しなかった。
学生は、滑らかな顔を一層白くして、青い影の中で浮き上がって見えた。朱の口唇は一層赤くなり、真一文字に結ばれ震えた。長い睫毛の目元はますます深くなった。
ノオトを取るためのペンをつけていたインキ壺が倒れていた。青いインキはノオトの罫紙を汚し、机を汚し、机から床の上へとぼたぼたと落ちて拡がった。
「敵討ちでございます」
頭の脇に座っている女が言った。この女は、その言葉を告げに来たのだろう。
自分を討った武将の顔が思い出されてきた。馬を駆ってくる顔は美しく、戦場らしくもない表情のない冷たい顔だった。自分は、それにたじろいだ。その時、武士としての自分は終わった。
あれがこの女であったということが、今、はっきりと得心された。確かに自分は仇を討たれたのだろう。憎まれていたのだろう。だが、なんの咎によるものなのか、ついに知らぬ。
日は暮れて、女の顔も見えなくなった。
優しい手が自分の身体を押した。自分は、舫を解かれた小舟のように水の上に滑り出して、だんだん沖に出て行くらしい。
夜空に星が広がり輝いている。
生からも死からも遠ざかっていくのだと思って、自分は目を閉じた。
(*夏目漱石『文学論(上)』岩波文庫)
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