2013年06月
湯治場で神経衰弱の療治をしていると、東京から友人が手紙を送ってくる。
A君は、ハムレットなぞを持ち出して、「生きるべきか死すべきか」と哲学的煩悶の心情を綿々と綴ってくる。
そこで、「飯を食って寝て厠に行くを繰り返していれば、生きるのは難しからずと存じ候」と返事を出した。なんとなく、ここへ来てから老師に感化されたような気もする。
B君は、自分が女の後ろ姿の幻影を見るのを羨ましがっている。「僕も幻の女を見たい。できれば、後ろ向きでなく前向きで。できれば美人がよい。できれば裸体がよい。だが、これは色情的の意味で言うのではなく、あくまで理想的の美を追及する意味で言っているのだから誤解しないでくれ給え」
立派な「新手の色情狂」である。こんなやつに東都にうろうろされては困る。「妄亭に相談し給え」と返事を出した。
第三の手紙は、まさしく、その妄亭からである。
「小生モ明治ノ青年タル証拠ニ、近頃ハ哲学的ノ問題ニ煩悶致シ候」とある。ほう、と思って続きを読む。「小生ノ逢着シタル問題ハ『何故、鰻ト梅干ハ食ヒ合セナルヤ』ト云フ、ソクラテスモ考へザル大問題也。小生、愚考スルニ、鰻ガ梅干シノ酸ニヤラレテ、腹中デノタ打チ回ルガ原因ナランヤ。敢テ、コレヲ妄亭ノ第一仮説ト名ヅクルニ至ル・・・」
こいつは鰻を丸のまま飲み込むのか。返事は出さなかった。
「先生のお若い頃は、如何に生きるべきかという問題に悩むことはなかったのですか」
自分は、友人達の手紙を紹介しながら、老師に聞いてみた。いつの間にか、老師を先生と呼ぶようになっている。
「ないね」と老師はあっさり云う。
「迷わなかったのですか」
「わしは、こう見えても旗本の倅じゃ。侍の子供は侍になる以外、考えないさね」
言われてみれば、老師は旧幕時代に青春を過ごしたに違いない。まだ、刀を差したり、ちょんまげを頭に載せた人が、その辺を歩いていた時代である。
「むしろ、ご一新の時じゃな、大変だったのは」
そういえば、明治になって禄を失った武士の「士族の商法」などという笑うに笑えない悲喜劇の話はよく聞く。
「いやいや、わしは商売なぞは考えなかった。上野の山に立てこもった組じゃよ」
自分はびっくりした。明治元年、新政府に従うのを潔しとしない旧幕臣が薩長と戦った上野戦争である。そのようにはとても見えない。
「徳川様の恩に報いなければならん。薩長にも、ひと泡吹かせてやりたい。なにより、武士として自分の死に場所を捜さねばならん」
老師は瞑目しつつ語る。おりから日露戦争の頃である。自分は粛然として座り直した。
「だが、相手は装備が違う。最新式の銃に大砲じゃ。まわりで同志が、ばたばたと倒れていく。最早これまでと、わしは若い者に落ち延びて会津に行けと命じてから、弁慶よろしくアームストロングという大砲の前に仁王立ちじゃ。そのまま立ち往生するつもりじゃった」
「・・・」
「大砲が火を噴いたまでは覚えておる。新式兵器のなんという威力であろう。わしは、その弾に吹き飛ばされてしまっての」
「はい・・・」
「気がついたら、筑波山まで飛ばされていた」
「・・・・・?」
なんだか、話がおかしくなってきた。
「まあ、今更、江戸、いや東京か、東京に帰るのも忌々しくなってな。筑波山の天狗に弟子入りしたじゃ」
「はあ」
「そこで、天狗の団扇の製法を教えてもらってのう。これを売り出したら大当たり、いや、儲かったの儲からないの、笑いが止まらん」
死に場所を求めて上野山に立て籠もった人の言葉とは思えないが、自分は一応聞いてみた。
「天狗の団扇というと、空を飛べるとか言う?」
「いやいや、そんなつまらんもんじゃないよ」
「では、天狗の眷属を呼び集めるとか言う?」
「そんな無風流なもんじゃないよ」
「すると・・・?」
「それを使って、あおぐとな・・・」
「・・・あおぐと・・・?」
「風が来るんじゃよ」
自分は二度と老師の話をまともに聞くまいと心に決めた。
「お目覚めあって然るべし」
目を明けると、すぐそこに女中の顔が見下ろしている。例の幻の女の女中である。自分は、どきんとして飛び起きた。
青年に朝寝をさせておいてはいかん、という老師の言いつけで、毎朝起こしに来る。しかし、ぬれ手拭いで顔を撫でたり、鉄瓶を額に載っけたりと、ろくな起こし方をしない。そのたびに、自分は豚に顔を舐められたり、帝釈様に踏んづけられたりという夢にうなされる。
顔を洗ってきてから、掃除をしていた女中に、
「お隣のご隠居は、どういう人なんだい」と聞いてみた。
「山のお寺のご住職の紹介で、ここに来たんです」
「お寺があるのかい」
「そりゃ、人が死ぬところには、どこでもありますわ」
一度お寺を訪ねてみるのも良かろう、と思った。俗塵を離れたところの坊さんに仏道について話を聞くのも悪くはあるまい。住職のことを聞いてみる。
「はあ、それは、もう、お酒と博打が好きで、隣のお爺さんも時々出掛けていっては、賭け碁をしてくるそうです。それも、軍艦一隻買えるくらいの金額を賭けて」
自分は、高僧と清談をするという希望をただちに放棄した。
「二人は、そんな金を持っているのかい」
「持っているものですか。払うつもりがないんですわ。この間なんか、軍艦三隻分の借りが出来てしまったって言っていましたから」
「なんだ、馬鹿馬鹿しい」
「いずれは勝った金で軍艦を国家へ寄付し日露の戦役に貢献するつもりである。自分ほどの愛国者もあるまい、とか言っていました」
どうも老師の駄法螺にはきりがない。
「あのお爺さんは東京の大きなお店のご主人だったのですが、今は息子に跡を譲って隠居しているんです」
「僕には、元は旗本だって言ってたぜ。上野の山の戦争に行ったんだって」
「あら」
「大砲で筑波山まで飛ばされて、そこで天狗に団扇の作り方を習って、それが大売れに売れて・・・」
「いやだわ、書生さんともあろう方が、天狗だのなんだのって、そんな旧弊なことを信じるんですか」
「いや、信じるわけじゃないが・・・」思わず、たじたじとなる。女中は続ける。
「少なくとも明治になってからは、真面目に一生懸命商売をして、店を大きくして、家族にも奉公人にも贅沢は一切させず、自分も一切せず、石部金吉と人から言われるほど堅くって、冗談も嘘も悪戯も大嫌い・・・」
「それは、別の人の話じゃないのかい」
「本当です。それで、隠居してからのある日、孫娘の手を引いて浅草の観音様に参詣したんです。すると、遥か上空から一羽の無責任そうな顔をした鳩が飛んできて、お爺さんの禿頭に止まって・・・」
「鳩にも無責任なのがいるのかい」
「そりゃ、鳩にだって真面目なのもいれば、そうでないもいますわ。ところが、その鳩がとまった途端に、お爺さんの頭と鳩との間に電流が流れて、ぼんっという大きな音がして煙が立って・・・それで、煙が晴れた時、お爺さんの頭の上の鳩はきりっとした顔になって、お爺さんの方は、なんだかへらへらした顔になっちゃって、それから、前と人柄が変わっちゃったんです」
「鳩と人格が入れ替わったのだろうか」
「なんせ電気が走ったんですから」
「ちょっと待て。君は、なんでそんなに克明に知っているんだ」
「だって、見ていたんですもの」
「見ていたって、君がその鳩か?」
「まさか。その時、お爺さんに連れられていた孫娘が、私なんです」
「嘘つけ」
「嘘じゃないわ。その証拠に、今でも浅草には、真面目な鳩の子孫がいて、市中の見回りをしているのよ・・・ハトロールっていうんですって」
「馬鹿なことを言うんじゃない。そんな大店の娘さんが、こんな山奥で女中をやっているわけないじゃないか」
「何故?やりたければやるんじゃなくて?」
そう問い返されると、何故なのか自分でもよくわからない。苦し紛れに、
「だいたい、家族が許すはずが・・・」
そこまで言いかけて、あの老師だったら何をやるかわからないと思った。いや、それは老師が本当に家族だったらの話だ、と打ち消した途端、そういえば、この女中も、あまり山出しの娘という感じがしない、自分が幻の女と取り違えるくらいだから、案外、都会の女なのかもしれない、という気がしてきた。
「いや、違う、違う、違う」
「何と何が違うの?」
何と何が違うんだろう。老師や女中の話はどこまでが本当なんだろう・・・。朝っぱらから、頭がごちゃごちゃしてきた。神経衰弱がぶり返しそうだ。
女中は、さっさと掃除を済ませてしまうと、「失礼しました」と言ってにやりと笑った。そして、幻の女の後ろ姿をちらりと見せて行ってしまった。
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カッパさんガッカリだよーん。
明治三十六年、藤村操なる一高の学生が宇宙や人生を「不可解」と断じて華厳の滝に身を投じてからの数年、青年の間に哲学的の煩悶というものが麻疹のように流行った。人生とは何か、人間如何に生くべきかと悩み悶えるのである。
気が付いてみると自分の周囲の友人もすべからく煩悶病に取り憑かれており、そうでないのは自分と、友人間で最も軽薄とみなされていた妄亭という男だけだった。
自分は焦った。妄亭の同類には見られたくない。煩悶党の同志となるほうがましであると考え、哲学書を相手に昼寝をしてみたり、禅寺に通って公案と相撲を取ってみたり、つまりは煩悶のまねをしているうちに、本当に神経が衰弱してしまった。
顔色が悪くなり、呼吸が浅くなり、手が震えだした。そればかりか、幻を見るようになった。女の幻である。背の高い後ろ姿のきれいな女がすっくり立っているのだが、声を掛けたり手を伸ばしたりすると、ふと消えてしまう。こりゃ華厳の滝も近いわい、と心配になって友人に相談してみた。
「そりゃ、君、狸にでも化かされているんじゃないか」と言ったのは、妄亭である。自分が不服そうな顔をすると、
「そうでなければ、新手の色情狂だ」
他の友人は、知っている温泉宿があるから、そこへ行ってしばらく療養するがいい、大勢の人間や電車や人力の行き交う東京は君の神経に悪い、と言ってくれた。もちろん、自分は妄亭の意見を棄て、こちらに有難く従うことにした。
どんよりとした空が続き、濃い緑を雨が濡らしている時期だった。詰まらなそうな顔をして雨を眺めながら湯に浸かって過ごした。
夜は、何も見えない闇の中で雨の音だけを相手に過ごした。東京の喧噪も自分の神経を逆こぎにするが、この重たい闇も自分の心を左官屋のように塗り込めてしまう。
しょうことなしに掛けてあった手拭いを取り、風呂へ向かうと、洋燈ひとつが灯る薄暗い湯船の中にむこう向きに、あの女が立っていて裸の背中を見せていた。自分は、また神経衰弱がぶり返してくるのを感じ、部屋に戻ると布団を被った。
あの女は、何かの象徴か、神経の作用か、狸の悪戯か、新手の色情狂か。また煩悶していると夢の中に女が出てきた。仰向けに寝ている自分に覆い被さるようにしてこちらを見下ろしているが、その顔がわからない。これを見定めれば、新たな境涯が生まれる、と信じて一心に睨みつけていると、その顔がじじいの顔に変わった。
ぎゃっと叫んで起きてみると、もう日はだいぶ高くなっていた。珍しく日が差しているようだ。
夢だった、夢だった、と思っていると、肝心のじじいの顔がいつまでも消えない。つるつるの大きな頭に銀縁の眼鏡、山羊のような白い髭を生やしたじじいである。
「だいぶ、うなされておったな」
と、じじいの顔が口を聞いた。もう消えないつもりと見える。
「わしは、お隣に泊まっているものじゃ。ひと風呂浴びようと思って廊下に出たら、障子の向こうから、うんうんうなる声が聞こえたもんで病気かと心配して入って来たのじゃ。どうじゃ、一緒にひと風呂」
風呂場には誰もいなかった。窓外の木の葉が雨の露をきらきら光らせている。湯気が明るい朱の光を受けてゆらゆらしている。
じじいに問われるままに、自分が学生であること、哲学上の問題を抱えてここにやって来たことなぞを、なるべく日の光を横顔に受けて哲人らしく見える角度を考慮しつつ、さりげなく喋った。じじいは、
「そういえば、しばらく前に一校生が自殺して、そのまねごとをする若い者が絶えないと新聞に載っておったな」
と言った。図星だった。狼狽した自分は、話題を変えようとして思わず、
「この湯に女は入りますか」
と「新手の色情狂」的なことを口走った。もちろん、そういうつもりではなく、昨晩、湯船で見た女の幻の真相を考えようとしたのである。
「なに、湯治の婆さんばかりじゃよ。もっとも夜遅くには宿の女中が入るかもしれんがな」
なんだ、女中だったのか・・・と、納得もし、安心もし、がっかりもした。あの幻は温泉場まではついてこなかったと見える。
「若い人は、一心に思い詰めるからのう。少し、ここでのんびりしていくがよい」
湯船に差し込む柔らかい光りのせいか、そういうじじいの顔が、その薬缶頭や山羊髭のせいもあるのだろうが、大慈悲の高僧のように見えた。自分は哲人の前で哲人ぶって見せていたのだ、と急に恥ずかしくなった。これから、この人を心の中で老師と呼ぶことにした。
湯を上がって、飯を食い終わると、老師が碁を打ちにきた。
自分はへぼであるがが、妙な煩悶にとらわれているよりはいいと思い相手になることにした。
それに、高徳の哲人と碁盤を囲むのは、なにやら雅な趣がある。自分が南画の世界に入り込んだような気がする。何より退屈しのぎになる。
初めの数手を見るに、構えが大きく懐が広いように思えた。しばらく進むと、今度は奇手が連続した。仙界より現れ出でたような思いもつかない手である。
自分はどう対応していいかわからなくなり、仕方なく出鱈目なところに石を置いてみると、老師は鋭い目でこちらを睨んだ。まるで、心の中を見透かされているようで「どうせ打つなら、一手たりともゆるがせにせず、真剣に打て、と諭されているようだった。
老師は囲碁を通じて、宇宙の大哲理を教えてくださろうとしているにちがいない。負けるにしても堂々と負けなければならなぬ。それから尋常に勝負していって、予想通り負け・・・と思ったら勝ってしまった。普通なら取れるはずのない地を次々に取って逆転してしまったのである。
これは、わざと勝たせてもらったのだろうか、と老師を見ていると、悔しそうに、ああすればよかった、こうすればよかった、とぶつぶつ言っている。
「先ほど、私が打った後、私の顔を睨みつけておられたように思いますが」
聞いてみると、しばらく考えていたが、「ああ」と言って、
「いや、君のおでこに蠅がとまっていたんで、叩くべきか否かと迷っておったのじゃよ」
結局のところ、老師は、自分に勝るとも劣らないヘボ碁であることが判明した。
しばらくして、自分は宿の飯でなく、自分で米や味噌や野菜を買って自炊することにした。
野菜を煮たので飯を食おうと思っていると、呼んでもいないのに老師が茶碗と箸を持って入って来て、
「お相伴つかまつる」
と言うなり勝手に食い始めた。禅の公案には、いきなり人の頭を引っぱたくような乱暴な坊さんがいっぱい出てくるが、これもそれに劣らず乱暴である。
「君が自炊を始めると聞いて、作れるのかと心配しておったんじゃよ」
と、もぐもぐ口を動かしながら言う。
「飯がまずいと、身体をこわして神経衰弱をぶり返しかねんからな。これなら、大丈夫。ああ、飯をお代わり。うん、自炊しようという意欲が出てきたこと自体、よくなっている証拠じゃな。第一、自炊は経済によろしい。そういうことにも頭が働かないと天下国家を背負う人物にはなれんぞ。ああ、うまかった。ごちそうさま」
それから、老師は毎日飯を食いに来た。経済上、一番助かっているのは老師ではないかと思われた。悔しくなった自分は、部屋に食い物を持っていかないで、湯治客の自炊用台所の隅で飯を食ってしまってから部屋に戻った。
部屋では飯茶碗と箸を持った老師が涙ぐんだまま座り込んでいた。
ある朝、風呂に誘おうと老師の部屋を覗いてみると、荷物がすっかり片づいて掃除が終わっている。がらんとしたのを見ながら、女中に老師はどうしたのかと聞くと、
「昨日の晩、馬車でお発ちになりました」
自分は唖然とした。せっかく仲良くなったのに、随分とつれない仕打ちであると思った。同時に、あの御仁が何者であるか、全く知り得ていないことに今更ながら気づいた。碁石の数を誤魔化されぬよう監視したり、飯のただ食いを如何に防ぐかに忙しくて、そういうことを聞きそびれていたのである。
「あら、お客様は、お孫さんでいらっしゃるんでしょう」
と女中が言う。自分がきょとんとしていると、
「宿代は孫が万事、心得ているからとおっしゃってお発ちですわ」
と言いながら、一通の手紙を渡した。中を見てみると、「孫ヘ。以下ノ支払ヒ方ヨロシク頼ム。祖父」とあって、法外な金額が書いてある。驚いて、
「こりゃ困る」
と言った自分の鼻先に、もう一通女中が手紙を出してくる。それには、
「嘘ダヨ。祖父」
とあった。
脳髄が錐もみになったようなわけのわからん状態で立ちつくしていると、女中はにやりと笑って「失礼しました」と向こうに行ってしまった。
その後ろ姿を見送って、「あっ」と思った。あの女中の後ろ姿、幻の女にそっくりである。どうやら、自分の神経衰弱は妄亭の言った如く、狸か狐に化かされたものらしい。
午後、何もなかったような顔をして、老師は碁を打ちに来た。のみならず一目いくらで金を賭けよう、と提案してきた。
落語の『抜け雀』というのをご存じか。一文無しの絵師が描いた雀が絵から抜け出て空を飛ぶという話じゃ。
この町にも似たような話があるんじゃ。
今では、この通り寂れてしまっているが、昔は港を抱えているということで、あたりでは一番の繁華な町じゃった。
江戸時代のこと、鳶山雀斎という貧乏な絵師が住んでおった。ご存じかな。なに?この町に住んでいるのに知らないのか。
この男、腕はいいのだが、偏屈な男で気に入らないとなると、高禄の武士や豪商から頼まれてもハナも引っかけない。その代わり気が向けば、子供の凧の絵でも喜んで描いてくれて、そういう時の雀斎は、実に優しいものだった。
千代という幼い娘が一人いた。生まれて一年、経つか経たないかの頃、母親、つまり雀斎の女房が亡くなってのう、男手ひとつで苦労して育てた。と、言いたいところじゃが、本当に苦労したのは千代の方じゃなかったかのう。やせっぽちな娘だったそうじゃ。
なんせ雀斎は偏屈もの、自分から頭を下げて歩くような男じゃない。
おまけに、筆やら墨やら絵の具やら、これだけは、この土地で手に入る限りのものを欲しがる。江戸に、和蘭渡りの絵の具があると聞くとそわそわする。
それでも、親子の仲は睦まじいものだったそうじゃ。
雀斎の家の壁にいつも飾ってあった絵があってのう。一見したところ、芋に目鼻でも付けたように見えるのじゃが、これが千代が三歳の時、生まれて初めて描いた絵で、しかも、雀斎の顔を描いたものだそうな。
数少ない知り合いが来ると、必ずこの絵を見せて「わしは、千代に絵を教えようと思う」と言ったそうじゃ。客の方では、挨拶に困っただろうよ。
千代が六才か七才になったくらいかのう。町に大火事があったんじゃ。
雀斎の家のあたりは、被害の一番ひどいところでのう。もちろん、家は丸焼け。雀斎も千代も行方知れず。おそらく、焼け死んだのじゃろうと言われておった。
それが、しばらく経ったある夕暮れ、親子連れだって、その頃の町名主・鷹野屋鵜兵衛の家の裏口に立ったというのじゃ。
実は、この鷹野屋、秘かなる雀斎の支援者じゃ。いや、名主という役目上、雀斎を快く思わないお偉方との付き合いも多いので、あまり表沙汰には出来ない。
遠慮に遠慮を重ねての支援なんじゃが、おそらく今に残っている雀斎の絵の多くは、この人の手を経たものじゃろう。
迎えた鵜兵衛は、なんだか雀斎も間が抜けてしまった、という感じがしたそうだ。時には狷介孤高というほどだった彼が、乞食坊主の背負う頭陀袋のように見えたという。
飯を食わせ、ある一部屋に寝かせた。その晩くらいは、雀斎とゆっくりと酒など呑んで語り合いたいと思ったが、何日もどこかを彷徨っていた千代の疲れを思って休ませたのじゃ。
夜、鵜兵衛は、ふと目覚めた。大火事以来、こういうことはよくある。今だ、気が立っているのだろう。夜中に起きた時は、一応、手燭を持って屋敷内を一通り見回ってから寝るということにしていた。
すると、一部屋だけ、灯りがともっているところがある。普段から、燈油を無駄遣いしないように家中に言いつけてあるのに、と、近づいてみると、例の雀斎親子を泊まらせた部屋である。
ようやく屋根の下に落ち着くことの出来た親子にしてみれば、いろいろ語ることもあるであろう、だが、この深夜に灯りをつけていることは、他の奉公人の手前も、一言言わないわけにもいかない。
その部屋の前に立ち、わずかに障子を開けてみる・・・すると、部屋の隅にあった文机に向かっている千代の背中が見える。なにやら、一心にものを描いているようである。
絵の稽古であろうか。だが、それなら昼間にやればいいものを。
やはり、ひと言注意すべきであると思い、障子をさらに広げてみると、その部屋の押入の襖いっぱいに、大きく人の姿が落書きがしてあるのが目に入った。
「これは、なんと」
声を抑えようとしながらも、怒気を含んだ溜息のようなものが出た。千代が振り返った。顔がひきつっていた。
「千代や。お前、なんてことをするんだい。私は、雀斎さん大事と思えばこそ、かくまうことにしたんだ。それをなんだい。人の家の襖に、こんな落書きをするとは。言いたくはないが、恩を仇で返すような悪戯だよ」
千代は、もう、気が動転して、ごめんなさい、ちがうんです、と繰り返すばかりで、さっぱり要領を得ない。もちろん、幼い娘のことであるから、そんなに道理の立った説明が出来ようとも思えない。
「ともかく、今晩は、もう寝なさい。このことは、明日もう一度話を聞きましょう」
そう言って、鵜兵衛は自室に戻り、横になった。あの娘をどうすべきか、あれこれ考えて決まらなかったが、そういえば、雀斎の姿が見えなかったことに気が付いたことは、だいぶ時が過ぎてからだった。
翌朝、鵜兵衛の部屋に呼ばれた千代は脅えきって、ひたすら畳に頭をすりつけている。許してもらえるなら、百回でも二百回でもこすりつける気と見える。
一緒に来た雀斎は、尋常に座っている。朝の空気を楽しんでいるが如くに、ふわふわと微笑んでいる。そのあまりの対照に鵜兵衛は変な気がした。
こうなると、反省しきりらしい千代よりも、まず雀斎を問いたださずにはいられない。
「雀斎さん、娘の絵の稽古は結構だが、やっていいことと、悪いことはあるだろう」
すると、雀斎は、なんだか間の抜けた微笑みを浮かべて、
「ほう、なんのことじゃろう」
その顔を見て鵜兵衛は急に雀斎が憎くなった。いったい、今まで、曲がりなりにも、この町で絵師として飢えなかったのは誰のお陰か。
「しらばっくれるのかい。いいさ、こっちへおいで。お前さん方が泊まっていた部屋だ。ほんの悪戯かもしれないが、雨露をしのげるようにしてあげた私に、こんな馬鹿にした話はないだろう」
二人を連れて、例の部屋を開けると
「おや」
昨晩、たしかにあった襖の落書きはなかった。
「あれは、夢だったのだろうか」
と震えた声で言う鵜兵衛に、雀斎が
「夢じゃないよ」
鵜兵衛はびっくりした。なんで、雀斎が自分の夢のことを云々するのだろう。よくわからなくなっていると、雀斎が、その心を見澄ましたように、
「あれは、わしだ」
つまりこういうことじゃ。
大火事の夜、いったん逃げ出した千代だったが、なにを思ったか、また火の中に入っていって例の三歳の時に初めて描いた父親の絵を持ち出そうとしたんじゃ。雀斎が助けに飛び込んだが、却って煙に巻かれて死んでしまった。
千代は不思議に助けられた。誰が助けたか。あの千代が手にしていた紙の中から絵の雀斎が抜け出て助けたのじゃ。芋に目鼻の雀斎がよ。
鵜兵衛の世話になることが出来た雀斎は、ほっとして襖の中で絵に戻って休んでいたというわけだ。
その後、鵜兵衛は襖を絵の雀斎の居所として提供し、千代の養育も引き受け、この辺りでは珍しい女流の絵師に育て上げたというな。
ほれ、ここにあるのが、千代の絵じゃ。『父娘図』という、おそらく雀斎と幼い頃の自分を題材にしたものだろうな。
なに?本物か?もちろん、本物じゃ。なんじゃ疑うのか・・・なに?そもそも、絵から人が抜け出るなんて話からして怪しい?失敬な。そんなことをいう輩に見せたくはないわ。帰れ帰れ。
全く近頃の若い者は・・・のう、千代や。怪しからん奴らは帰りおったわ。わししかおらん。
お前も出てくるかい。

煙幕弾の実演でござる。
ずぶ六は、丘の上で鰯雲を見上げて寝転んで「ちくしょう、ちくしょう」と呟いている。丘の麓の田んぼでは人々が刈り取った稲を干している。
ずぶ六は、こんなに肩幅の広い、胸板の厚い男なのに、こんな忙しい時にごろごろしている。誰も彼に働いてもらおうなどと思わない。村人から愛想を尽かされているのだ。
もともと、怠け者で、粗暴で、喧嘩と博打に明け暮れている。金がなくなると、遠くの村に行って馬を盗んて売り飛ばして稼いでいたようだ。
数ヶ月前、田植えの頃、ずぶ六は村を出奔した。あの村総出でクソ忙しい時期だというのに、誰もそれに気がつかなかったというのは、いかにあてにされていないかの証拠であった。
今の世の中、どこかの侍の下で働いて認められれば、やがては一国一城の主になるのも夢ではない、という噂を聞き込んで、真に受けたのである。また、一国一城は無理としても、戦さのどさくさに紛れて略奪に励めば、うまい酒が飲めるという、いくらか現実的な話も聞いた。
戦さと言ったって、喧嘩の大きいやつだろう。喧嘩に泥棒と来れば、天職みたいなものだ。なんで、これに早く気づかなかったのか、いや、こんなうまい話が、俺の耳に届く前、一体どこをうろうろしていたのだろう、と嬉しいような悔しいような気持ちで村を飛び出したのである。
どこで渡りをつけたものか、ある侍大将の陣屋に入り込むことが出来た。何が出来るか、と聞かれて、馬が扱えると答えたら、早速採用であった。馬泥棒の経験が役に立ったのである。人生、誠に無駄というものはひとつもない。
故郷の村で地面に這いつくばっている百姓どもがますます馬鹿に思えてきた。
そもそも、こんな戦さ続きの世の中で地道に百姓なんぞやっても、いずれは戦さのために燃やされたり、略奪されたりするだけなのに、働くだけ馬鹿らしい。
秋になって、大きな戦さに旦那の馬を引いていった。それまで日本でなかったような大きなもので、日本中の大名が東西に別れて戦うのだそうだ。
ずぶ六は、単に馬の世話をして、この戦さを過ごす気はなかった。戦場となれば、その辺に討たれた兵の持っていた刀や槍がごろごろしているだろう。それをぶんどって、敵の首を取ってやるのだ。
出過ぎた真似、と叱られるかもしれないが、旦那の手柄にしてやれば悪くは思われまい。いや、見所ありとして侍に取り立ててもらえるだろう。それが出世の第一歩だ。
その日、朝霧が晴れて来るにつれ、小高い丘に囲まれた平原に、信じられないような大量の人間が、あちこちにびっちりかたまっているのが見えてきた。山の上に陣を構えているのもいれば、平地で頑張っているひと群れもある。鎧兜の緋色や青、武具や馬具の金や銀、毒々しいまでに鮮やかにずぶ六の目を射た。
早くも、向こうの方では小競り合いが始まっている。だが、ずぶ六の旦那はじっと動かない。
ずぶ六の方は、例の目論見を実現させたくてじりじりしてくるのだが、旦那はあくまで泰然として戦さの成り行きを見守っている。ずぶ六は焦るような思いで旦那を見上げていたが、やがて、この肝が据わって動じないところが侍の侍たるゆえんではないか、と尊敬の念が湧いてきた。旦那についていけば何とかなる。
昼頃まで、じっとそうやっていた。どうやら、味方が押しているらしい。
と、やおら旦那が動き出した。肝が据わっていたのではなく、どちらに付いたら得か成り行きを見ていたらしい。場合によっては、味方を裏切ることも考えていたのだろう。
これでなくっちゃ、と、ずぶ六はますます頼もしげに旦那を見上げた。
ずぶ六は、馬に添って戦場に進んでいった。
だが、まずは、刀だ。ずぶ六は地面ばかり見ながら進んだ。戦さなんだか、落とし物捜しなんだかわからない。
そのうち、横手の山が動いたような気がした。山に陣取っていた大軍が地響きを立てて下りてくるのである。あれは、味方の軍勢だったはずだが、と思っていると、周囲がいやに慌ただしくなった。
「コバヤカワ殿、寝返り」
と叫ぶ声が上がった。味方だったはずのあの大軍は裏切ったものらしい。男達の野太い声が金切り声に変わった。どちらに付こうか日和見をしていた旦那の計算は全く裏目に出た。
それからは、敵の兵が固まりとなって鉄砲水のように押し寄せてきた。滅茶苦茶だった。向こうの方で旦那が馬から引きずり降ろされるのが見えた。あたりに黒煙が立ち、昼なのに薄暗くなった。火薬と血の匂いが濃くなった。
わけもわからず逃げた。今まで同じ隊にいて言葉を交わしていた仲間を踏んづけて逃げた。しかし、逃げながらも、死体から刀や短刀を奪うのを忘れなかった。もはや、敵を倒すためではない。これだけでも売り飛ばして金に換えなければ。
泥水をすすり、時には百姓や商人を脅しながら逃げた。もう少しで故郷の村というところまで来て、持っていた刀や短刀や金といった獲物は、すべて野盗に巻き上げられた。結局、命ひとつだけ持って帰ってきた。
ずぶ六は起きあがって、あ~あ、と欠伸をした。飽きたのである。何もやる気にならないが、何もやらないことにも飽きたのである。
村人に立ち混じって収穫の手伝いでもやればいいものを、彼は和解のワの字も知らなければ詫びのワの字も知らない。
地面の草の禿げたあたりが、じりじりと動いているように見えた。
蟻であった。驚くほどの蟻があっちへ行ったりこっちへ行ったりぶつかったりしている。
「戦さだ」
よく見ると、蟻の半分くらいは、心持ち赤っぽい。赤方と黒方が戦っている、と、ずぶ六には見えた。
「あれが桃配山、これが松尾山、これが南宮山・・・」
地面の小さな凹凸が、彼が逃げ回ってきたあの大地に見えてきた。
・・・かたや黒方、総大将。徳川家蟻を初めとして、前田蟻長、伊達蟻宗、加藤清蟻、福島正蟻、細川蟻興、池田輝蟻、井伊蟻正、藤堂蟻虎、いずれ名だたる猛将なり。
こなた赤方、総大将は毛利蟻元の下、黒方に劣らぬ豪傑揃い、上杉景蟻、島津蟻久、宇喜多蟻家、石田三蟻、大谷蟻継、小早川秀蟻、長宗我部蟻親、真田蟻幸・・・。
早朝より両軍、蟻が原に対陣して睨み合うことすでに一刻、黒方、先鋒・福島正蟻、触覚を振り上げ振り上げ、駆け出さんとする横を、その時早く駆け抜けたるは井伊蟻正。福島正蟻、かっと目を見開いて呼ばわるは
「やあ、そこな井伊殿、総大将・徳川家蟻公より先陣を仰せつけられたるは、我ら福島隊なるぞ。そを抜け駆けせんとは卑怯なり。返せや戻せ、戻せや返せ」
「何をおっしゃる、福島殿。それがし、ただ物見に出たるのみ。敵の様子を探るは戦さの習い。それを知らぬ福島どのにては、よもあらじ。されど、物見じゃとて敵が掛かってくれば、その限りにあらず。堂々戦って大将首挙げ申すべし」
「憎っくきかな、憎っくきかな。者ども、井伊殿の抜け駆け許すな。急げや急げ」
ここに蟻が原の戦いの幕は切って落とされたり。迎える赤方。宇喜多秀蟻、一歩も引かず・・・。
蟻どもは飽きずに戦っている。ずぶ六は飽きた。どうも戦場より帰ってから飽きっぽくなっている。
よいしょ、と草鞋を履いた足を上げると、蟻の一番多そうなところに、どしんと降ろした。
黒方、赤方、奮戦奮戦また奮戦、敵の頭といわず尻といわず食いつき食いつき、辺り一面、足のない蟻首のない蟻ちぎれたる蟻、無惨なるかな、凄まじきかな、それでも両軍、少しもひるまず・・・
「あれを見よ」
「空が落ちてくる」
空より草鞋を履いた足が落ち来ては蟻をありありと踏みにじり、上がってはまた踏みにじる、たちまち辺りはアリ叫喚のアリ地獄、
「ひるむな、油断すな」
だが、その声も空しく、別の方より、
「逃げろ、今度は大水だ」
生き残りし蟻たちに、じゃあじゃあ降り注ぐは無情の雨ならずして、ずぶ六の立ち小便。
小便を終わり、ぶるっと身体を震わせると、
「ばかめ。ざまあみろ」
蟻相手に、さも憎々しげにそう言うと、ずぶ六は丘を下りていった。
その晩、ずぶ六は生き残った一匹の蟻に、あちらを食われこちらを食われ、一睡も出来なかったという。
ずぶ六は、丘の上で鰯雲を見上げて寝転んで「ちくしょう、ちくしょう」と呟いている。丘の麓の田んぼでは人々が刈り取った稲を干している。
ずぶ六は、こんなに肩幅の広い、胸板の厚い男なのに、こんな忙しい時にごろごろしている。誰も彼に働いてもらおうなどと思わない。村人から愛想を尽かされているのだ。
もともと、怠け者で、粗暴で、喧嘩と博打に明け暮れている。金がなくなると、遠くの村に行って馬を盗んて売り飛ばして稼いでいたようだ。
数ヶ月前、田植えの頃、ずぶ六は村を出奔した。あの村総出でクソ忙しい時期だというのに、誰もそれに気がつかなかったというのは、いかにあてにされていないかの証拠であった。
今の世の中、どこかの侍の下で働いて認められれば、やがては一国一城の主になるのも夢ではない、という噂を聞き込んで、真に受けたのである。また、一国一城は無理としても、戦さのどさくさに紛れて略奪に励めば、うまい酒が飲めるという、いくらか現実的な話も聞いた。
戦さと言ったって、喧嘩の大きいやつだろう。喧嘩に泥棒と来れば、天職みたいなものだ。なんで、これに早く気づかなかったのか、いや、こんなうまい話が、俺の耳に届く前、一体どこをうろうろしていたのだろう、と嬉しいような悔しいような気持ちで村を飛び出したのである。
どこで渡りをつけたものか、ある侍大将の陣屋に入り込むことが出来た。何が出来るか、と聞かれて、馬が扱えると答えたら、早速採用であった。馬泥棒の経験が役に立ったのである。人生、誠に無駄というものはひとつもない。
故郷の村で地面に這いつくばっている百姓どもがますます馬鹿に思えてきた。
そもそも、こんな戦さ続きの世の中で地道に百姓なんぞやっても、いずれは戦さのために燃やされたり、略奪されたりするだけなのに、働くだけ馬鹿らしい。
秋になって、大きな戦さに旦那の馬を引いていった。それまで日本でなかったような大きなもので、日本中の大名が東西に別れて戦うのだそうだ。
ずぶ六は、単に馬の世話をして、この戦さを過ごす気はなかった。戦場となれば、その辺に討たれた兵の持っていた刀や槍がごろごろしているだろう。それをぶんどって、敵の首を取ってやるのだ。
出過ぎた真似、と叱られるかもしれないが、旦那の手柄にしてやれば悪くは思われまい。いや、見所ありとして侍に取り立ててもらえるだろう。それが出世の第一歩だ。
その日、朝霧が晴れて来るにつれ、小高い丘に囲まれた平原に、信じられないような大量の人間が、あちこちにびっちりかたまっているのが見えてきた。山の上に陣を構えているのもいれば、平地で頑張っているひと群れもある。鎧兜の緋色や青、武具や馬具の金や銀、毒々しいまでに鮮やかにずぶ六の目を射た。
早くも、向こうの方では小競り合いが始まっている。だが、ずぶ六の旦那はじっと動かない。
ずぶ六の方は、例の目論見を実現させたくてじりじりしてくるのだが、旦那はあくまで泰然として戦さの成り行きを見守っている。ずぶ六は焦るような思いで旦那を見上げていたが、やがて、この肝が据わって動じないところが侍の侍たるゆえんではないか、と尊敬の念が湧いてきた。旦那についていけば何とかなる。
昼頃まで、じっとそうやっていた。どうやら、味方が押しているらしい。
と、やおら旦那が動き出した。肝が据わっていたのではなく、どちらに付いたら得か成り行きを見ていたらしい。場合によっては、味方を裏切ることも考えていたのだろう。
これでなくっちゃ、と、ずぶ六はますます頼もしげに旦那を見上げた。
ずぶ六は、馬に添って戦場に進んでいった。
だが、まずは、刀だ。ずぶ六は地面ばかり見ながら進んだ。戦さなんだか、落とし物捜しなんだかわからない。
そのうち、横手の山が動いたような気がした。山に陣取っていた大軍が地響きを立てて下りてくるのである。あれは、味方の軍勢だったはずだが、と思っていると、周囲がいやに慌ただしくなった。
「コバヤカワ殿、寝返り」
と叫ぶ声が上がった。味方だったはずのあの大軍は裏切ったものらしい。男達の野太い声が金切り声に変わった。どちらに付こうか日和見をしていた旦那の計算は全く裏目に出た。
それからは、敵の兵が固まりとなって鉄砲水のように押し寄せてきた。滅茶苦茶だった。向こうの方で旦那が馬から引きずり降ろされるのが見えた。あたりに黒煙が立ち、昼なのに薄暗くなった。火薬と血の匂いが濃くなった。
わけもわからず逃げた。今まで同じ隊にいて言葉を交わしていた仲間を踏んづけて逃げた。しかし、逃げながらも、死体から刀や短刀を奪うのを忘れなかった。もはや、敵を倒すためではない。これだけでも売り飛ばして金に換えなければ。
泥水をすすり、時には百姓や商人を脅しながら逃げた。もう少しで故郷の村というところまで来て、持っていた刀や短刀や金といった獲物は、すべて野盗に巻き上げられた。結局、命ひとつだけ持って帰ってきた。
ずぶ六は起きあがって、あ~あ、と欠伸をした。飽きたのである。何もやる気にならないが、何もやらないことにも飽きたのである。
村人に立ち混じって収穫の手伝いでもやればいいものを、彼は和解のワの字も知らなければ詫びのワの字も知らない。
地面の草の禿げたあたりが、じりじりと動いているように見えた。
蟻であった。驚くほどの蟻があっちへ行ったりこっちへ行ったりぶつかったりしている。
「戦さだ」
よく見ると、蟻の半分くらいは、心持ち赤っぽい。赤方と黒方が戦っている、と、ずぶ六には見えた。
「あれが桃配山、これが松尾山、これが南宮山・・・」
地面の小さな凹凸が、彼が逃げ回ってきたあの大地に見えてきた。
・・・かたや黒方、総大将。徳川家蟻を初めとして、前田蟻長、伊達蟻宗、加藤清蟻、福島正蟻、細川蟻興、池田輝蟻、井伊蟻正、藤堂蟻虎、いずれ名だたる猛将なり。
こなた赤方、総大将は毛利蟻元の下、黒方に劣らぬ豪傑揃い、上杉景蟻、島津蟻久、宇喜多蟻家、石田三蟻、大谷蟻継、小早川秀蟻、長宗我部蟻親、真田蟻幸・・・。
早朝より両軍、蟻が原に対陣して睨み合うことすでに一刻、黒方、先鋒・福島正蟻、触覚を振り上げ振り上げ、駆け出さんとする横を、その時早く駆け抜けたるは井伊蟻正。福島正蟻、かっと目を見開いて呼ばわるは
「やあ、そこな井伊殿、総大将・徳川家蟻公より先陣を仰せつけられたるは、我ら福島隊なるぞ。そを抜け駆けせんとは卑怯なり。返せや戻せ、戻せや返せ」
「何をおっしゃる、福島殿。それがし、ただ物見に出たるのみ。敵の様子を探るは戦さの習い。それを知らぬ福島どのにては、よもあらじ。されど、物見じゃとて敵が掛かってくれば、その限りにあらず。堂々戦って大将首挙げ申すべし」
「憎っくきかな、憎っくきかな。者ども、井伊殿の抜け駆け許すな。急げや急げ」
ここに蟻が原の戦いの幕は切って落とされたり。迎える赤方。宇喜多秀蟻、一歩も引かず・・・。
蟻どもは飽きずに戦っている。ずぶ六は飽きた。どうも戦場より帰ってから飽きっぽくなっている。
よいしょ、と草鞋を履いた足を上げると、蟻の一番多そうなところに、どしんと降ろした。
黒方、赤方、奮戦奮戦また奮戦、敵の頭といわず尻といわず食いつき食いつき、辺り一面、足のない蟻首のない蟻ちぎれたる蟻、無惨なるかな、凄まじきかな、それでも両軍、少しもひるまず・・・
「あれを見よ」
「空が落ちてくる」
空より草鞋を履いた足が落ち来ては蟻をありありと踏みにじり、上がってはまた踏みにじる、たちまち辺りはアリ叫喚のアリ地獄、
「ひるむな、油断すな」
だが、その声も空しく、別の方より、
「逃げろ、今度は大水だ」
生き残りし蟻たちに、じゃあじゃあ降り注ぐは無情の雨ならずして、ずぶ六の立ち小便。
小便を終わり、ぶるっと身体を震わせると、
「ばかめ。ざまあみろ」
蟻相手に、さも憎々しげにそう言うと、ずぶ六は丘を下りていった。
その晩、ずぶ六は生き残った一匹の蟻に、あちらを食われこちらを食われ、一睡も出来なかったという。

夢枕に立つほうも苦労するのだ。
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