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2013年07月

今週のおさむらいちゃん

新作30

人生、わかりやすいのがいちばん。
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社長の業務 ショートストーリー『湯治場の哲人 その6』

社長1 妄亭は、食料品店・近江屋の支払いだけでなく、この宿への支払いも踏み倒していった。
 金持ちの癖に一文無しでここへ来たのかというと、さにあらず、例の大宴会の夜、宿の帳場から女中から飯炊きから下働きから湯治客に至るまで、酔った勢いで有り金全部、祝儀に振る舞ったらしい。
 お陰で妄亭は宿のものには粋で気前の良い若旦那、という印象を残して去っていったのだが、何故か宿代の苦情は自分の方に持ち込まれることになった。
「あの御友達の宿代はどうしていただけるんですかね」
 しきりに番頭が談判にやってくる。「あの御友達」と発音する時は祝儀を思い出すらしく、うっとりとした顔になるのだが、「どうしていただけるんですかね」の部分に来ると渋面になって自分を睨みつける。どうも彼の頭の中では、妄亭が天使で自分が悪鬼であるという誤解が大手を振って往来しているようだ。
 近江屋からも小僧が毎日のように取り立てにやってくる。妄亭の借金のために責め殺されそうになっていたところ、うまい話がやってきた。
 この土地の素封家の息子が県下の中等学校の生徒で来年、高等学校を受験するつもりらしい。現在、夏期休暇で家に戻っている彼の勉強を見てもらえないかという話である。その報酬で宿代も近江屋も片付けることが出来るし、多少の贅沢も出来るかも知れない。
 溺れる者は藁をもつかむ。そもそも何故自分が溺れているのか釈然としないが、出来得ることはそれしかない。自分が、その話を首肯すると、宿と近江屋の番頭が抱き合って喜んだ。
 
 幻子が廊下を小走りにやってきた。部屋の敷居のところで膝をついて、なにか切なげな顔をしている。「どうした」と聞くと、やっと口を開いて
「お客様が・・・」
 と言ったきり、こらえきれなくなったらしく、
「ひーひっひっひっひ」
 と床に突っ伏して笑い出した。
 何事かと思うと、後から仏頭が現れた。ただし首から下は詰め襟の学生服という姿である。甚だ暑苦しい。
 巨大な頭である。鎌倉の大仏を困らせるとこういう顔になる。本当に、あの大仏が心配事を胸に歩いてここまでやって来たのかと思うくらいである。にわかに、この八畳が狭くなったように感ずる
「僕は大佛(おさらぎ)太郎と言います」
 と言って頭を下げた。彼は神妙にしているのだが、頭の大きさだけが彼から独立しているが如くに、自分の方へ迫ってくる。
 その頭に圧倒されながら、もし彼が首尾よく一高に入学して藤村操君のように煩悶にとらわれても、まず首吊りの方を引き受けてくれるような丈夫な枝はそこらにはあるまい、また、華厳の滝に赴くにしても、この頭を中禅寺湖まで運ぶ前にどこかで引っ掛かってしまうだろう、などと推測していた。
 幻子が茶を持ってきた。彼女も頭の中味はともかく外観は妙齢の女性である。その女性に、しとやかそうに茶を勧められて、太郎君は膝をますます固くし、顔を真っ赤にしている。「うーっ、うーっ」と呻っているようでもある。なんだか自分がガラス職人の親方になって、大きなガラス玉を吹いているような錯覚にとらわれる。
「茶でも飲みたまえ」
 と勧めてみるが、変わらず下を向いたまま苦悶の体である。幻子は盆を胸に抱いたまま、何か面白そうだという顔をして部屋の隅に座ってしまった。この女は女中ということだが、なんだか遊んでばかりいるように見える。
 相変わらず苦しげに黙っているので、
「教科書や参考書は持ってきているのかい」
 と自分から話を進める。彼は、どきっとしたように震え、傍らの風呂敷包みから幾何と英語の本を取り出した。それをめくっていると、故郷のお寺の本堂の隅っこを借りて勉強した頃が思い出されてくる。その頃の自分とこの巨大な仏頭が重なり・・・難いが重なってくる。純情そうであるし、何とかしてやりたい気持ちになってくる。
「ともかく夏休みは不得手としているところを片っ端からやっつけてやろうじゃないか」
 と元気づけるつもりで言葉を掛けてやると、うーっと呻っていたのが、やっと人間らしい口を聞いた。
「ぼ、僕、親父に殺されてしまうかも知れません」
 なんだか声が黄色くなっている。そればかりでなく、膝の上に握っている手の上に、ぼたりぼたりと汗ではなく涙がこぼれ落ちだした。尋常ではない。幻子の方は、そら面白くなってきた、と前のめりになって太郎君を観察している。
「そりゃ、どういうこったい」
「ずっと高校に落ちたら腹を切れと言われていたんです。なんせ、我が大佛家は旧幕時代には名字帯刀を許された旧家である。その家の跡取りが受験に失敗するとは家名を汚す所業であるから腹を切れって」
「そりゃ、乱暴だ」
 藤村操君になる前に命を落としてしまう。
「ところが、今回、先生の指導を受けるにあたって、『いいか、東京から来た書生なぞに笑われるようなことがあってはならんぞ。もし、一問でも出来ない問題があれば腹を切れ。だが、その前に笑いものにした書生も生かしてはおくな』って・・・」
 自分は、無理に意識下に押し込んでいた嫌な物体を意識せざるを得なくなった。
「太郎君、さっきから、君の持ってきたもうひとつの包みが気になっていたんだがね・・・」
 彼の膝の脇には、参考書を入れてきた風呂敷の他に、細長い風呂敷包みがあったのである。
「はい・・・そうなんです」
 そう言いながら風呂敷をほどくと、脇差が一本出てきた。
「お、おいっ」
「はい。一問でも出来ない問題があったら、これで先生を切った後、自決しろと・・・」
 宿代の近江屋のと言っている場合じゃなくなってきた。命に関わりかねない。幻子は、目を輝かせて成り行きを見守っている。
「君のお父上は、よほど名家意識が強いらしいな」
「もとは、そうじゃなかったんです。なんせ養子ですから」
「養子?」
「はい。気が弱くて、妻や姑からの、つまり僕から見れば、母や祖母からの苛められ方は、子供心にも可哀想なくらいでした。それが、数年前、母と祖母が相次いで亡くなった頃から、おかしくなったんです」
「つまり、家の権力を握った頃からってことか」
「はい。まるで生まれながらの大佛家の人間だったかのように、家名を振りかざし始めて、僕にも『必ずや一高、帝大を出て、国家枢要の地位につき、華族の娘を嫁に迎え、大日本帝国に大佛家ありと天下に示し』・・・」
「そりゃ、たいへんだねえ」
「さも、なければ腹を切れ、と」
「随分、武張ったお父上なのだねえ」
「とんでもありません。自分は、ちょっとトゲが指に刺さっても命に関わるような大騒ぎをする人で」
「そりゃ馬鹿馬鹿しい。お父上には、僕から、どうなりと報告するから、そんな脇差は仕舞い給え。だいたい、それじゃ勉強も頭に入らんだろう」
「でも、親父のことです。どこに、見張りの者を潜ませていないとも限らない・・・」
 思わず幻子と眼があった。意味ありげに笑って自分の鼻の頭を指さす。こいつが忍びの者とは思えないが。

 なんだか、暗い雲の下で勉強をしているような按配になった。太郎君の巨頭に影が差したようで、ゲエテのワルプルギスの山嶺を連想する。
 太郎君が躓きそうになると、自分がヒントになりそうなことを呟いて、なんとか正解に導く。横では、幻子がにまにまと笑って、時々脇差に目をやる。
 この日、最後の難問にかかる。太郎君が本当に大仏と化してしまったかのように動かなくなる。自分もヒントをほのめかすのだが、太郎君の巨大顔面は、ふたたび巨大ガラス玉となって膨れあがる。
「先生、僕、駄目です・・・」
「いーや、そんなことはない、ほらっ、ほらっ」
 斬り殺されては大変なので、身ぶり手振りも含めてヒントの発信に努める。その時、
「備前長船武満・・・いい出来じゃのう」
 という老師の声が聞こえた。どうせ、幻子が呼んだのだろう、いつの間にか入って来て、太郎君の脇差しを手に取って見ている。自分で老師と呼んでおいてなんだが、嫌な人が出てきた。
「幕末の江戸で、無頼漢達と斬り合ったことが、目の前に蘇ってくるようじゃ。明治の御世でこそ商家の隠居じゃが、年は取っても腕に年は取らせぬ。大佛家当主のご命令は、拙者がお手伝い申し上げよう。書生さん、太郎君、構わぬから、そこへ首を並べなさい。切れたか、とも思わぬうちにあの世に送ってあげるよ」
 もう鞘を抜いて構えている。はい、どうぞと言って首を差し出すわけにはいかない。
「まだ、問題が解けないと決まったわけじゃありませんから」
「臆したな!貴様ら日本男児か!恥を知れ!」
 老師が太郎君に向かって脇差しを振り下ろした。太郎君の巨大な頭が西瓜の如く切り下ろされ、辺りは血の海に・・・なるかと思ったら、備前長船の脇差が太郎君の頭にあたって、ぼきっと音がして、二つに割れてしまった。
「竹光じゃよ。太郎君、持ってみてわからなかったのかい」
「だって僕、刀なんて、持ったことなかったんです」
「あ~あ、江戸は遠くなりにけりじゃな。しかし、お父上も、大仰なことをおっしゃる割には、いざとなると気弱じゃのう」
「はあ・・・養子だからでしょうか・・・」
 お父上の気弱が何に原因するのかわからぬが、気弱でよかった。
 ほどなく、そのお父上がやってきた。ああ言ったものの、本当に息子が腹を切ったらと思うと心配で心配で、じっとしていられなくなったようである。


社長の業務 ショートストーリー 『湯治場の達人 その5』

社長1「速達です」
 と幻子が葉書を持ってきた。妄亭という学校の友人からである。一高生・藤村操氏の自殺の後、友人間で唯一、神経衰弱と縁のなかった人物である。
「本日、到着。オ迎へニハ及バズ。○月○日於T駅。妄亭」
 要するに、彼が今日、ここへ着く予定を途中の駅から知らせてきた葉書である。
「ほう、着いたかい」
 と自分の目の前に座っている妄亭が言う。
「やはり、いくら速達とはいえ、僕の方が早かったね。なにしろ、投函してすぐ汽車に飛び乗ったものだから」
「さっき突然、君が現れた時にゃびっくりしたぜ」
「いやあ、その速達を出したし、数日前には君の神経衰弱お見舞いかたがた僕も保養に来る旨、手紙を書いたんで、告知は十分だと思ったんだが」
「その手紙というのも読んでないぜ」
「うん。書くには書いたんだが、惜しいことに投函を忘れて下宿の机の上に乗ったままだ。切手も貼ってあるから、下宿の婆さんが気が付いてくれれば、いずれ着到するだろう」
「その必要もあるまい」
「そうか。婆さん宛に、投函の必要なしという葉書を出してもいいんだが、すでに投函してしまっていたら、行き違いになるからな」
「じゃあ投函したかどうか訊ねる葉書を出したらよかろう」
「うむ。考えておこう。しかし、君は思ったより元気そうだね」
「もう、だいぶよくなった」
「東京へ戻らないのかい」
「戻ろうと思っているんだが、そのたびに思いがけないことが出来して果たせないでいる」老師と幻子のことである。
「そうか。まあ、暑い東京に戻ることもあるまい。秋の新学年から学校に出ればいいだろう」(注:当時の大学は、9月に新学年が始まる制度だったようである)
 相変わらず妄亭は呑気そうである。彼の呑気さが、こちらの神経によく作用してくれればいいが、時に呑気すぎて苛々することがある。妄亭は続ける。
「さて、僕もしばし、君とともにこの湯に逗留せんとするところだが、君、食い物は何を食っているんだ」
「自炊している」と自分は答えた。
「なに、自炊?それじゃ、ろくなものが食えなかろう。いけないぜ。そりゃ神経衰弱なんぞ治りっこない。うまいものを食って肉体と精神を頑健にしなくちゃならん。といっても、こんな山の中に、ろくな食い物もあるまい。西洋料理を出せと言っても、碁盤の上に大仏を据え付けてくれと要求するようなものだろう。だが、安心したまえ。僕が、ここへ来る途中、乗換駅のT市で一番大きな近江屋という食料品店に行って、毎日、牛肉と三鞭酒(シャンパン)と麦酒を届けるよう誂えてきたから」
「そんな事して大丈夫かい。僕にゃ金なんかないぜ」
「神経衰弱の君が心配する事じゃない・・・お、下で呼んでいる。近江屋さんからお届け物だそうだ」
 そういって妄亭は立ち上がって、階段を下りていった。自分は、その豪勢さに呆れていた。そういえば彼は金はありそうである。資産家のM男爵家と親戚に当たるようなことを言っていたような記憶がある。
「僕が乗った軽便の一本後で持ってきたんだね。感心だ。麦酒とシャンパニエは冷やしておくよう言いつけておいた。葱と豆腐もそう言ってきた。散歩でもして一風呂浴びた頃には、丁度いいだろう。君、行こうじゃないか」
 なんだか、目の前の空気が急に膨らがって来たような気がした。妄亭が福の神に見えてきた。もう自分の飯に辟易していたところだ。
 いい気分で谷添いの道をゲエテだのルソオだのニイチェだのショオペンハウエルだのの人名が出てくる話をしながら散歩した。妄亭は「人物の偉さはヘソの大きさに比例するという説があるぜ。ちなみにツルゲネフのヘソは」と話した。それでも宿に戻ってくる頃には、だいぶ賢くなったような気がした。
 それから、風呂に入った。妄亭のヘソの大きさは見忘れた。
「牛肉は鍋にするのとビフテキにするのと交互に持ってくるよう言いつけたんだ」
 と、湯の中でも、あくまで肉体上の問題を精神上のことより優先する方針のようであった。それから、
「U君が細君を持つという話を聞いたかい」
 と学友のうわさ話に移った。
「知らない。僕らはまだ学生だし、家庭なんぞ持てるものか。第一、Uのやつは本郷の西洋料理屋でカツレツを八枚も平らげたやつだぜ」
「カツレツを何枚食おうが、結婚に関係ないさ。UはO県でも有数の旧家だそうで、もう東京へ出て来る前から決まっていた話なんだそうだ」
 名家とは、窮屈なものだと自分は珍しく自分の身を幸せに思った。
「Uのことを考えると、僕らも出来れば早々に家庭を持つべきだと思うんだ」
 妄亭が、Uの何に刺激されたのかわからぬが、妙な方向に話が行く。
「あの、君の部屋に世話に来る女中だが、あれは君の係なのか」幻子のことか。
「係だか知らん」
「あれは美人だ。君、そう思わないかい」
「美人なんだか、わからん。変なことばかりする。毎朝、僕を起こしに来る」
「細君でもないのに?」
「細君なものか。女中にしても変だぜ。今朝は、起きると天井から蒟蒻が吊してあった。起き抜けにももんがあに顔を舐められた気分だ。昨日は、足の指を洗濯鋏で摘まれて飛び上がって起きた。一昨日は、鼻の下に辛子を塗られて、一日中、吸う息がひりひりして参った」
「明治の婦人だけあって個性的だな」
「個性的か知らぬが、ちょっと頭がおかしいんじゃないか」
「だが、どうも物腰に洗練の風がある。どこの娘さんだろう」
「東京の下谷あたりの大店のご隠居の孫娘だと自称している」
「大店のご隠居?」
「僕の部屋の隣に滞在する爺さんだ。これも変なじじいで、僕はどうやって、あの二人から逃れようかと・・・」
 そこまで言うと、急に妄亭が湯をばしゃつかせて叫んだ。
「君、じゃあ、僕があの女中さんに求婚してもいいね。君は僕のライヴァルじゃないわけだ!」
 自分は驚いた。幻子は美しいのかしらん、と不思議に思った。よくわからないでいるうちに、その晩は大宴会になった。妄亭の着到記念だそうで、主唱も主催も主客も妄亭だ。
 妄亭はT市から、牛肉だの魚だの缶詰だのチイズだの御馳走を大量に追加するよう騒ぎ立てた。その随所にM男爵の名前がほのめかされたようである。そのために軽便鉄道の臨時便が出たらしい。
 何故か自分の部屋が宴会場になり、隠居と幻子はもちろん、温泉宿の主人や番頭やあらかたの女中や湯治客までいた。それどころか、山寺の和尚、小坊主、軽便の機関手、村内名所巡りの御者等々、確か自分の部屋は八畳敷きだったと思うのに、なんで、こんなに人が入れるんだろうと思うほど、混雑していた。維摩居士の方丈には、途方もない数の仏が出入したと言うがこんなもんだろうか。
 三鞭酒がパンと開き麦酒がポンと抜かれ、座が乱れ人々がはしゃぐ。幻子は小坊主と話しながら牛肉をぱくついている。美人かどうか知らぬが食欲は並以上にある。
 妄亭は、にやけた顔で盛んに老師に酒を勧めている。孫娘をくれとでも話しているのだろうか。馬鹿馬鹿しい。
 なれない三鞭酒のせいか、麦酒や正宗の飲み過ぎか、頭がぼんやりして妙に白けていていて妙に憂鬱だ。妙に寂しい。耳元で、妄亭が「僕は求婚するよ、するよ」と言ったような気がする。幻子は妄亭の妻になるのだろうか。

 夜中にぎゃーという、人間のものとも獣のものとも判じられない声を夢うつつに聞いた。
 翌朝は、自分の腹を台の代わりにして、老師と幻子がとらんぷで遊んでいるという起こされ方をした。ばらばらと札を振り落とすと、酒が残っている頭を掻きながら浴場へ向かった。
 戻ってくると、床はあげられ掃除も済んで、床の間に封書が置かれていた。妄亭からである。
「急ながら事情があって失敬する。秋に会おう。あの女中には気をつけ給え。柔術や忍術を使う。ひょっとしたら妖術もだ。酔った勢いで、求婚するべからず。特に入浴場付近ではいけない。是非、別の女にしたまえ、悪いことは言わぬ」
 騒いでいたのは妄亭じゃないか、と二枚目をめくると、
「追伸:近江屋への払い、立替えを頼む。余はこの夏、すぐにA画伯のお供で箱根、その後はB子爵の招きで大磯、またその他の交際で席の暖まる暇なく、為替を組む暇もあるべからず。秋に学校でお返しする。よろしくお願い申し上げる」
 自分は青くなった。なんだか、自分を下界と隔てる壁がもう一枚出来たような気がした。途方に暮れていると、幻子が
「一番の便で着いた手紙だそうです」
 と別の封書を持ってきた。また妄亭である。が、ここに見舞いに来ると書いた手紙が、今ごろ着いたのである。彼の下宿の婆さんは、完全に忘れてしまったわけではなかった。

今週のおさむらいちゃん

新作29

分身の術はあとが大変なのだ。

社長の業務:ショートストーリー『湯治場の哲人 その4』

社長1  東京へ帰ろうと思った。
哲学上の煩悶から来る神経衰弱は、だいぶよくなった。もちろん、哲学的の疑団が氷解したわけではない。なんだか忘れてしまったような気がするし、もともと、そんなものはなかったような気もする。
 それよりも、ここで老師を初めとする変人に取り囲まれていたのでは、別種の神経病になりそうな気がする。
 帰京を老師と幻子の前で宣言し、翌朝、馬車に迎えに来てもらうよう帳場に頼んだ。東京へ帰るには、まず軽便鉄道の停車場まで行き、そこから幾つか汽車を乗り継がなければならない。
 老師と幻子は名残惜しそうにしていた。もちろん、からかう相手がいなくなるのが惜しいと顔に書いてあった。

 翌朝来たのは、なんと「村内名所巡り」という名の馬車だった。ははあ、老師か幻子が手を回したなと思ったが、そこは落ち着いて、名所巡りはいらないから、軽便の停車場までやってくれないか、他に客もいないようだし、金ははずむ、それがお互い一番いいじゃないか、と交渉に掛かった。
 ところが、この御者がいやに片意地な男で、
「なに言いますだ、お客さん。おら、この名所巡りの案内を天職だと思っとりますだよ。命を賭けておりますだよ。お客さんの事情がどうあれ、おら、案内するつもりで来ただ。こうなったら、どうでも案内されてもらわないでは収まらねえ。金はいらねえから、腕にかけてでも、名所巡りしてもらうだ」
 と、強引に馬車に引きずり込まれた。
 「金返せ地蔵」というのを見せられた。昔、行き暮れて難儀した旅人が、この地蔵の前を通りかかり、供えられた賽銭を見て、「お地蔵さん、どうか、俺を助けてくだせえ。ちょっくら、このお賽銭を貸してくれろ。必ず返しに来ますだから」と伏し拝んで持っていったところ、夜中に地蔵が「金返せ~」と言ってやってきて旅人を悩ませた、という故事があるそうである。
 「成仏団子」というのを食わされた。昔、さる旅の高僧がこれを食って喉に詰まらせて、たちまち往生した、という由来があるそうである。
 「どっちつかず峠」というのにも連れて行かれた。昔、さる武将が武田方につくか上杉方につくか悩んで、この峠に立って小便をして、それがそよいでいった方につこうと占ったところ、自分に引っ掛かったので、どちらにもつかなかった、という物語があるのだという。
 他にも色々行ったが、覚えていない。というより、忘却しようと努力している。
 夕方、何事もなかったかのように宿に着いた。老師も幻子も、なにもなかったかのように迎えた。

 老師や幻子に知られたのが悪かったのだ。謀り事は密なるを以て善しとす。自分は、今度は、二人に見つからないように帳場に行って、番頭に翌日立つことを告げ、支払いを済ませた。そして、このことは他の客や女中には話さないでくれと頼んだ。馬車は、と聞かれて、慌てて首を振った。思わず、ばれたらどうする、と言うと番頭が不思議そうな顔をした
 その間、始終、幻子が傍にいないだろうなと気にしていた。なんだか、悪事をしているような気がする。知らず知らず目つきが悪くなっているような気がする。
 ともかくも、その晩は無事に食事も済ませ、早めに床を取らせて寝についた。あとは、朝、幻子が起こしに来る前に目を覚まして宿を出るだけである。
 気疲れしたせいか、すぐに眠りに落ちた。翌朝、いつもより早く目を覚まし、しめしめ、早々に顔を洗って着替えて、とばかりに立ち上がると、足を取られるようにしてひっくり返ってしまった。 
 見ると足首に紐が結んであって、その先が障子の隙間から外に出ている。さらに、廊下を伸びて階段の方へ消えていっている。
 なんだろうと思うと、とすとすとすと階段を上ってくる足音が聞こえてきて、紐をたぐりながら幻子が姿を現した。幻子の足首に、その紐の片端が結んである。
「おはようございます。なんだか、今日はお客さんがなにか考えているような気がして、工夫しました」
 なにか心霊的の能力でもあるんじゃないかと思うほど勘がいいやつだ。こうなっては仕方がない。正直に自白した。
「僕は、今日東京へ帰る」
「あら、まあ。ご隠居様~」
 と、向こうは老師を加勢に呼ぶ。
「そりゃあ、残念だなあ。お名残惜しい。ひとつ、停車場までお見送りしようじゃないか」と老師が騒ぐ。
「では、私も、お荷物などお持ちします」と幻子が続く。
 二人に付いてこられたのでは、また何をされるかわかったものではない。
「いや、見送りは結構です。荷物もカバンひとつだけですから、持ってもらうほどのことはありません」
 と、自分はきっぱりと断った。

 きっぱりと断ったはずなのに、林の中の道を老師と幻子と並んで歩いている。見送られていると言うよりは監視されているような気がする。
 カバンは幻子の手の中にあり、これも人質を取られているような気がする。
「もう、この辺までで結構です。あまり、無理をされるとお体に触りますでしょう」
「なあに、これくらいの道なんでもないさ。わしは、幕末維新をくぐり抜けてきたのだもの。現代のひ弱な青年とは鍛え方が違う。これでも、一刀流の免許皆伝だ」
「一刀流は関係ないでしょう。誰かに狙われているわけでもあるまいし」
「いや、おおありさ。まず、あの山寺の和尚だ。賭の金を、必ず払わせてやると息巻いていたからな。あの生臭坊主から純真な青年を守らねばならん」
 思わず、あなたも同じ穴の狢だろうと言いたくなる。
「まだあるぞ。村内名所巡りの馬車だ」
「僕は、もう乗りましたよ」
「いや、あいつはあれに異常な執念を燃やしているからな。客がいないと、その辺をふらふら歩いているのを連れ込んで、嫌がるのを無理に案内してしまうというぞ」
「現に、湯治のお客さんで、もう三回も成仏団子を食べさせられた人がいます」と幻子が補足する。まったく、無法地帯のような湯治場だ。
 
 本当は、和尚よりも御者よりも、老師と幻子がなにをやらかすか不安だったのだが、何事もなく停車場に着いた。はて、本当にこの二人、見送りに来ただけなのかと不思議になる。
 そのうち、線路の向こうに細い煙が見え、軽便鉄道の列車がやってきた。一台の機関車が一両の客車を引いているだけのちっぽけなもので、馬車の馬が機関車に変わっただけにしか見えない。その機関車も、馬というよりはロバと言いたくなるような頼りなげなものである。
 だが、そんなことよりも、驚いたのは機関車の運転台に乗っていたのが、あの山寺の小坊主だったことである。客席には、おばあさんが一人だけ座っている。座っていると言うより、気を失っているのである。
「女中さん、活を入れてやってください」
「心得た」
 幻子がおばあさんの後ろに回って、どこかを押すと「ひっ」と言っておばあさんが飛び起き、年寄りとは思えないような速さでどこかへ駆け出していった。自分は小坊主に、
「なんで君が運転しているんだ」
「はい、そうなんでございますよ」とやつは喋り始めた。
「機関手の吾作さんがですねえ、『東の畑の婆さんが、明日、ラッキョウ漬けたのを一樽くれるっちゅうんで取りに行かなきゃいけねえべが、汽車の方はどうするかのう』といっておられたんですが、そこにおられるご隠居が『山寺の小坊主が、どうせ遊んどるじゃろう。あれに、やらせたらいいじゃろう』『小坊主さん、汽車動かせるかのう』『そりゃあ、経も読めるし梅干しも作れるんじゃ。汽車くらい、動かせんこともなかろう』ということで、私が動かすことになりましたんですが、私、乗ったことさえあまりありませんのに、動かすのはどうかと思っておりましたが、不思議でございますねえ、手当たり次第に石炭くべたり、目の前のものを押したり引いたりしているうちに、これも仏様のお導きでございましょう、動き出しましてねえ」
 これが老師の企みかしらんと思った。
「ちゃんと運転できたのかい」
「ちゃんとかどうか・・・。さっきも、カーブを曲がる時、速度の落とし方がわからずに、車輪が半分宙に浮いておりましたし。それから、線路の真ん中で牛が昼寝をしているのを見つけましたですが、止まり方がわからず、思わず両手で目をふさいでしゃがみ込みましたでございますよ。そしたら、どういうわけか、直前で止まってくれまして、これも、ずっとお経を唱えていた御加護がございましたか」
 おばあさんが気絶していたわけがわかった。
「すると、この汽車は、仏のお導きで動いているというわけかい」
「はあ、おっしゃるとおりでございます。誠に、御仏のお慈悲は広大無辺でございますから」
 もう少し科学的の根拠に基づいて動いていて欲しかった。
「では、書生さんの前途を祝して、ばんざーい」と、後ろで老師がはしゃぐ声が聞こえる。
「ばっざーい」幻子も後に続く。 
 自分は二人の方を振り向いていった。
「帰京は、明日に延期することにします。いくら僕でも命が惜しいですから」
「これだから、明治生まれの青年は軟弱で困ると言うんじゃ。わしなんぞは、幕末維新のあの時代を・・・」
 西郷だろうが大久保だろうが、この汽車には乗りたがらないだろうと思う。
 小坊主が老師に話しかけている。
「そういえば、機関手の吾作さん、『明日も、西の谷の茂作どんがカボチャを百ばかりくれるちゅうだで取りに行かなきゃならんが、汽車の方はどうすべいかのう』とおっしゃっていましたが、明日も私が動かすのでございましょうか」
 自分の帰京の予定は、当分立たないような気がしてきた。


社長の業務:ショートストーリー『湯治場の哲人 その3』

社長1  東京の友人が雑誌を送ってきてくれた。『東京トホホギス』という雑誌で裏目送籍という英文学者が書いた「我が輩は梃子である」という小説が評判である。梃子の眼から見た人間社会を批評するという目新しい趣向の小説を読んでいると、廊下に足音がして、女中が来客を告げにやって来た。
「誰だい」
「山のお寺の小坊主さんです」
 そのお寺の住職は、飲んだくれの上に、隣の老師と時々、軍艦何隻分かの金を賭けて碁をやっているらしい。あまり、まともな人物とは言えないだろう。
「いないと言ってくれ」
「もう来ています」
 女中の陰から、小さな青い頭の小坊主が顔を出した。こうなれば、仕方なく応対する。
「なんだね」
「いえ、私は、おまんじゅうやお団子の方が好きなのでございますよ」
 いきなり、わけのわからない答えが返ってくる。返事も相槌も返しかねていると、
「でも、和尚さんがやれとおっしゃいますものですからね、梅をまず、塩に漬けるのでございます。といっても、熟していない梅や虫が食っているのは除けるのでございますよ。そして、梅酢が上がってきますからね、そろそろかな、と思っていると、だんだん、いいお天気が続くようになってきましたから、庫裏の前に筵を広げまして、ここに朝からせっせと梅を並べて干しまして・・・」
「君は梅干しの製造法を教えるためにやってきたのか」
「いえ、やっと並べ終わりまして、やれやれ用事も済んだから、昼寝でもしようか猫と遊ぼうかと思っていましたところへ、和尚さんがやって参りまして、おい、温泉宿に東京の書生が逗留しているらしいが、暇だから、そいつでもからかってやろうと思うんだが、ちょっと連れてこい、あ、本人の前ではこんなことを言っちゃいけないぞ、学問や東京のお話を伺いたいからご光臨いただければ有難い、と言って無理矢理引っ張ってくるんだぞ、と言っておりますが、来てくれますか?」
「本人とは誰のこったい」
「あ、あなた・・・そこは聞かなかったことにしてください。私は、ついつい余計なことまで喋っちゃうんですね」
「ほとんど余計なことしか言わないじゃないか。なんで和尚が呼んでいるというのを梅干しの話から始めなくちゃならないんだ」
「そういうわけで来てください」
「誰が行くか」
「それでは、無理矢理引っ張ってこいと言いつけられましたので」
 と自分の手を引っ張ろうとする。こんな小坊主に負けるわけがない。すると、小坊主は女中に向かって、
「よろしく御助力お願いします」
「合点だい」
 女中(例の幻の女の女中だが、煩雑なので幻子(げんこ)と呼ぶことにする)が、一緒になって自分の手を引っ張り始めた。いくら二人がかりとは言え、相手は女子供だ。うん、と足を踏ん張ってこらえたところへ、
「とうっ」
 幻子の足払いが飛んできた。不覚にも尻餅をつくと途端に目の前が真っ暗になって・・・。

「はい、和尚様。女中さんの見事な技で書生さんが転んだところで、見ると床の間に花瓶がありましたから、それで頭を殴りますと、きゅっと言って気を失ってしまいました。あとは階段を蹴落として、飯炊きの権助に頼んで荷車に乗せてもらい、寺まで運んできたのでございます。権助さんというのは、力がお強いですねえ。牛をかつぎ上げるのだそうですよ。こんなやせっぽちの書生さんなぞ、西瓜みたいに荷車に放り投げて、あ、そういえば西瓜といえば・・・」
 べらべら喋る小坊主の声が聞こえる。後頭部がずきずきする。身体のあちこちが痛い。こっちが気を失っているうちに、ひどい目にあわされていたようだ。
 別の野太い男の声が聞こえてくる。
「そうか、そうか。ちっちゃいの、お前も、だいぶ禅の機峰がわかってきたな」
 どうやら、ここは山の寺で、この声は住職のものらしい。機峰だかなんだか知らないが、こちらは殺されかねなかった。というよりも、生きているのが不思議なくらいである。
「ほほう、この難物をよく連れてこられたの」と、別の男の声がする。言わずと知れた老師の声である。
「で、どういたしましょうか」というのは、幻子の声だ。どうやら、温泉宿周辺の変人が集結しているらしい。これは、下手に目を覚ますと、またわけのわからない話に巻き込まれそうである。気絶した振りをしておいて、隙を見て逃げ出そうと考えた。
「どういたすとは、知れたことよ・・・」
 住職の声が一段、低くなって、底に厭な迫力がこもった。 
「身ぐるみ脱がせて皮を剥ぐのよ」
 自分の耳を疑った。いくら変人達とはいえ、山賊や山姥のような残酷なことをやる連中だとまでは思わなかった。
「大釜に湯をぐらぐら沸かして、その中に叩きこんじまえ」
「それもいいが、まだ若いようだから、このまま炭火に突っ込んで焼いてしまうというのも乙だぞ」
 これは、こうしてはいられない。殴られたり放り投げられた挙げ句、煮殺されたり焼き殺されたりしてかなわぬ。化けて出たところで、この連中では、とても怖がってもらえないような気がする。
 逃げると決心して、ばねのように跳ね上がると、縁側の方へ向かって飛び出した。
「ていっ」
 そこへ、また幻子の足払いが飛んできてひっくり返された。この女、どこでこんな技を覚えたのだろう。
「おう、書生さんが目を覚ました」
 と、山賊にしてはのんびりした調子で和尚が言った。でっぷりと肥えた、まみえの太い男である。
「皮をむいてゆでることにしましょう」
 と、幻子も山姥らしからぬおっとりとした言い方で山姥としか思えないことを言う。だが、よく見ると座っているその膝の先に笊に入った山盛りの空豆があった。木々の緑がしたたり落ちたような、鮮やかな緑色だ。
「そうじゃな。おい、ちっちゃいの、湯を沸かしなさい」
「煮るだの焼くだのといっていたのは・・・?」
 自分が訝しげに聞くと、
「うん。うまそうな空豆をたくさんもらったのでな。書生さんにも食べさせてあげようと思って呼んだのじゃ。井戸には、これも貰い物じゃが恵比寿麦酒が冷やしてあるぞ」
 自分は、へなへなと座り込んでしまった。
「呼んでいただくのは有難いが、もう少し穏やかなやり方はないものでしょうか」
「すまんすまん、禅坊主というのは、どうも荒っぽくなりがちでな」
 太い眉の下で細い眼が微笑んでいる。幻子の話から、とんでもない生臭を想像していたが、その笑顔はなんとも、人が良さそうである。まあ、幻子の話だって、一から十まで本気に取る必要はあるまい。なにしろ、浅草寺で老師と鳩の間に電流が流れて、人格が入れ替わったなどという話を平気でする女なのだから。
 そんなことを考えていると、
「四じゃな」という老師の声が聞こえた。「五」と和尚の声が続く。
「君はどうかな」
 二人が、こちらを見ている。なんのことかわからずに、ぼんやりしていると、
「なに、思いついた数を言えばいいんじゃよ」
 そこで、「七」と続けてみた。
 「三」「四」と二人が続いて、またこっちを見ている。思いついた数を言えということなので、出鱈目に「百」と言ってみる。
 そんなことが延々と繰り返される。自分はついに耐えきれなくなって、
「あの、これは、なんの遊びなんでしょうか」
「なんじゃ、わからずにやっていたのか。空豆の莢に入っている豆の数の当てっこをしてたんじゃよ」と、老師が顎で幻子の手元を示す。幻子の白い指が動くと、大きな莢の中から綿毛にくるまったような豆がころころと出てくる。
「君は、もう軍艦一隻分くらい負けているからね」と和尚が笑いながら言う。「なにしろ、百とか万とか途方もない数を言っていたからなあ、あっはっは」
 あっはっは、ではない。
「金を賭けていたんですか」
「まあ、いいよ。東京へ帰るまでに払ってくれれば」
 さっき訂正されたばかりの和尚の印象が、またひっくり返された。本当に東京に帰りたくなってきた。だが、帰る時は、老師と和尚に勘づかれないように出発しなければならない・・・幻子にも・・・。
 その午後、自分は琥珀色の麦酒と愛らしい薄緑の空豆と木々を渡る風に陶然とし、小坊主の脱線ばかりのおしゃべりに呆然とし、幻子の現実離れした話に唖然とし、老師と和尚の俗の上にも俗なる会話に愕然として過ごしたのであった。 
 

今週のおさむらいちゃん

新作28

二本差しの道は厳しいのだ。