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2013年08月

社長の業務 (ナンセンス)ホラーファンタジー『毒ずきんちゃん その2 カエルになった王子様及び毒ずきんちゃんの野望のこと』

社長1 森の奥には森があって、そのまた奥は森で、その森をさらに進むと森でした。
 黒い森という名前だけあって、お日様の光りが地面まで届くところは、ここにちょこっと、ずっと向こうにちょこっと、という具合で、まるでそこだけお日様色の光りの固まりがあるように見えました。
 その中を毒ずきんちゃんと、その家来になった眠り姫は歩いていきます。ふたりは、こんなに真っ暗な中でも互いのいるところがわかりました。
 というのも、毒ずきんちゃんの毒々しい頭巾には蛍光色が含まれているらしく、毒ずきんちゃんが歩くごとにちらちら光るのです。
 眠り姫の方は、そのからだからお月様のような青白い光りが出ていて、それがまたドレスのあちらこちらにちりばめられた宝石に差してぴかぴかするのです。
毒「なんでお前、光るんだい?」
姫「輝くばかりの美しさなのですわ」
 と眠り姫はぬけぬけと言いました。
 もっとも正気でそんなことを言ってるのかどうかわかりません。姫は夢遊病の気があるらしく、眠りながら歩いて寝言を言っているかも知れないのです。

 そういいながら、しばらく歩くと森です。やはり森です。どうしたって森です。何がなんでも森です。
毒「いったい、どっちへ行ったら森から抜けられるのかなあ。おい、家来、ちょっと偵察に行ってこい」
姫「わたくし、役に立ちませんことよ」
毒「そんな自分で役に立たないと、平然として威張っている家来があるかよ」
姫「だって、わたくし、両親から、ただひたすら可愛く美しくあればいい、と言われ、その通り育ったものですから」
毒「両親・・・?そうだ」
 毒ずきんちゃんは、何か思いついたようです。
毒「おい、家来。お前だって姫と呼ばれる者の端くれだろう」
姫「端くれなものですか。ど真ん中ですわ。ストライクですわ。姫の中の姫、ざ・姫でございます」
毒「そんなこと言ったって、今はあたしの家来じゃないか」
姫「あそこでご主人様にキスされてしまったのは、わたくしの一生の不覚でございます」
毒「その前に魔女に魔法をかけられて眠らされた方が不覚じゃないのか」
姫「冷静に考えればそうなのですが、第一感としてはご主人様のキスの方が不覚でございます」
毒「まあ、そんなことはどうでもいい・・・お前の両親ならば、王とか王妃とかの端くれだろう」
姫「端くれではございません。ど真ん中でございます」
毒「それなら、お前のお城に行こうじゃないか。どう行ったらいいのか教えろ」
姫「覚えておりませんの」
毒「自分の城だろう」
姫「魔女の魔法で森の中で眠らされていたのでございますから、どうやって来たのか覚えているわけがございませんわ。ご主人様とあろう方が、そんなこともおわかりになりませんの?」
毒「お前の言い方、言葉遣いが丁寧なだけに、逆にイラッと来るぞ」
姫「寝言だと思って、お聞き棄て下さいませ。ぐー」
毒「寝言かよ」

 毒ずきんちゃんが眠り姫との会話に虚しさを覚え始めたところ、不意に森が終わりました。二人は、美しい池の畔に出たのです。久々の青い空と輝く水面と、明るいものが突然押し寄せてきたようで、毒ずきんちゃんも誰かにこの気持ちの良さを話さないではいられません。
毒「家来、起きろ。森を出たぞ。水だ。目を明けて見てみろ」
姫「ふ・ふ・ふ。実は起きていたのです」
毒「めんどくさいやつだな」
 すると、「おい」という呼び声が聞こえました。まるでけろけろというような声です。見ると水際の岩の上に、大きなカエルが座っていました。とても大きくて、毒ずきんちゃんと同じくらいの背丈があります。そして上等な服を着てタイツをはいて、まるで王子様みたいです。
カエル「その通り、俺の正体は王子様なんだ」
 あたかも地の文が聞こえたかのようにカエルは言いました。
カ「俺は、悪い魔女に魔法をかけられてカエルの姿にされてしまったんだ。本当はすごいイケメンの王子様なんだ」
 聞かれてもいないのにカエルはべらべらと喋り続けます。
カ「美しいお姫様が俺にキスしてくれると、元の姿に戻れるんだ。そして、俺はその女の人をお后に迎えて、一生楽しく暮らすことになるんだ」
 そこでカエルは眠り姫の方へ目を向けました。
カ「ああ、待っていた甲斐があった。なんて美しいお姫様だろう。姫よ、わたしにキスをして魔法を解いてください」
姫「ぐー」
カ「寝ているのですか!」
姫「正体がイケメンだろうがなんだろうが、両生類にキスするなんてまっぴらです」
カ「起きているのですか」
姫「ぐー」
カ「どっちなんです」
 その時、毒ずきんちゃんがカエルに飛びかかって地面に押さえ込みました。
カ「な、何をする」
毒「お前を、喋るカエルとして見世物小屋に売り飛ばしてやる」
カ「さ、さがりおろう、身分卑しき娘よ。俺は、高貴な方のキスでないと王子に戻れないんだ」
毒「誰がキスすると言った。身分差別的な魔法だな。言っとくが、あの姫は、今あたしの家来なんだ」
カ「だって、お姫様じゃないか」
毒「お姫様だけど、あたしの家来だ」
カ「じゃあ、お前はなんだ」
毒「今のところ、両親に追い出された7歳の捨て子だ。だから、あの姫は捨て子の家来で高貴な方なんてもんじゃないのだ」
カ「やだーい、やだーい。あのお姫様に一目惚れしたんだーい。ほかのやつにキスされたりしたら、カエルのままでいた方がましだい。王子になんて戻ってやるもんか」
毒「まったく、あっちでもキス、こっちでもキス、大騒ぎしやがって、鬱陶しいやつらだ。これだから西洋の童話はイヤだ」
カ「これ西洋の童話だったのか」
毒「やかましい! そんなにキスが好きなんだったら、これを食らえ!」
 毒ずきんちゃんはカエルを押さえつけると、ぶちゅーーーーーっとキスをしてしまいました。
カ「あ」
毒「なにが、あ、だ」
カ「あああああああああああああ」
毒「うるさい! 泣くな。あたしの身にもなって見ろ。まだ7歳だっていうのに、ファースト・キスがあの女、セカンド・キスがカエル、泣きたいのはこっちだ」
カ「俺はもう元に戻れなくなってしまった」
毒「なぜだ」 
カ「さっき、あのお姫様のキスじゃなきゃ王子に戻らないって、自分で自分に呪いをかけちゃったんだ」
 毒ずきんちゃんは、眠り姫に向かって
毒「あんなこと言ってるが、家来、試しにこのカエルにキスしてやれ」
姫「絶対、イヤです」
毒「お前、家来の癖に、ひとつもあたしの言うこと聞かないな・・・まあ、カエル、そういうことだ。あきらめて、カエルとして幸せに暮らしてくれ」
 毒ずきんちゃんは、呆然とするカエルをしばらく見ていましたが、なんの考えに至ったのか
毒「お前、もう、ずっとカエルなんだから、こんな服も要らないな」
 と王子様の服を脱がせてしまって、自分がその服に着替えました。
毒「どうだい。ちょっと生臭いが、ぴったりだ。これで、あたしも立派な王子様だ」
姫「何を考えていらっしゃいますの」
毒「お前の城に着いたら、王様と王妃様に『私がお姫様にキスして魔法を解いてあげた王子です』って名乗り出るのさ。そうすりゃ、あたしとお前は結婚することになる。ゆくゆくは、あたしは跡を継いで王様だ。一国の支配者だ」
姫「な、なんという野望・・・でも、それは難しゅうございます。第一、それでは赤ちゃんが出来ませんわ」
毒「まったく、お前は本当にねんねえだな。何も知らないんだ」
 と毒ずきんちゃんは、心底、軽蔑したように眠り姫を見て、
毒「赤ちゃんはコウノトリさんが運んでくるんだぞ! おぼえとけ!」
姫「・・・突然、7歳の女の子みたいな発言!」
 あまりの急展開に眠り姫は寝たふりをするのも忘れてしまいました。
 毒ずきんちゃんは、かなり無理な野望を胸に、どこにあるのかわからない姫の城に向けて歩き出しました。それでも、あの毒々しい頭巾だけは脱がなかったようです。

 ちなみにその頃、森の中で迷子になった脳たりんのお父さんは、眠り姫が寝ていたあのベッドを発見して、
「やれやれ、くたくたになったところで、こんなベッドが見つかった。全く、俺は日頃の心掛けがいいんだなあ」
 と、ぐっすり寝入ってしまったそうです。
(つづく)
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今週のおさむらいちゃん

新作33

まあ、そのとおりですわ。

社長の業務 (ナンセンス)ホラーファンタジー 『毒ずきんちゃん その1 毒ずきんちゃんが家を出て眠り姫を家来にしたのこと』

社長1  黒い森のはずれに一軒のおうちがありました。おうちには、脳たりんのお父さんと意地悪なお母さんと百人の子供達がいました。
父「百人は多すぎるな」
母「あんたが作ったんじゃないのさ」
父「いや実は・・・あんな事で出来るとは思わなかったんだ」
 お父さんとお母さんは子供達を減らす相談をしました。長男には、鬼ヶ島に行って鬼退治をしてくるように言いつけて、家から追い出しました。長女には、お前の本当の家は月なのだから早くお帰り、と言って追い出しました。
父「だいぶ減らしたな。これで何人になった?」
母「まだ、98人もいるよ」
父「98人?増えたのか?」
母「あんたは相変わらずバカだね。二人減ったんだよ」
父「お前、そんな計算が出来るのか。すごいな。で、二人減ると何人になるんだ」
母「98人だよ」
父「さっきと同じじゃないか」
母「だから、100人から二人減ったから98人になったんだよ」
父「えーと・・・」
母「考えるな!あんたは考えちゃ駄目なの・・・しかし98人でも、まだまだ多いねえ」
父「よし、思い切って減らそう」
 二人は思い切って減らしました。
父「何人になった?」
母「50人になったよ」
父「ええと、98人と50人では・・・」
母「減っているよ。しかし、ずいぶん思い切って減らしたのに、まだいっぱいいるねえ」
父「よし。じゃあ、ここは一発、ぶあーっと減らしてしまおう」
 二人は、ここは一発、ぶあーっと減らしました。
母「ほら、もう、あんたにも数えられるくらいの人数になったよ」
父「えーと・・・」
母「3人だよ、3人」
父「そ、そんなにいるのか」
母「あんたは、何人だったら数えられるんだい」
父「まあ、これくらいの人数だったら、なんとか誰が誰だかわかるな」
母「じゃあ、この辺で手を打つかい」
父「ちょっと待った。実は、この中に末っ娘の毒ずきんが入っているんだ。俺は、あいつが嫌いで嫌いでしょうがないんだ」
母「だったら、なんで最初に毒ずきんを・・・その・・・減らさなかったんだい!」
父「いや、俺は食べ物でも好きなものから先に食うタイプだから」
母「なんで、あんたは毒ずきんが嫌いなんだい」
父「あいつは、毒キノコのような毒々しい色の頭巾を被っているだろう」
母「あれは、あんたが被せたんじゃないのかい?

父「いや、いつか棄てるだろうと思って被せたんだが意外に気に入ってるらしい。変わり者だろう?」
母「あんたも変わり者だよ」
父「どうやって減らそうか」
母「『おばあさんのお見舞いに行っておくれ』と言って追い出してしまおうじゃないの」
父「そんなおばあさん、いたっけ?」
母「嘘だよ。出鱈目だよ」
父「ということは、いないのか?」
母「そうだよ」
父「いないおばあさんをお見舞いに行けるかな?」
母「だから、あんたは物を考えちゃいけないって言うんだよ。ともかく、そうすれば毒ずきんが家からいなくなるじゃないか」
父「本当か?」
母「長男も長女も同じようなやり方で追い出したじゃないか」
父「長男?長女?それ、誰だっけ」
母「まったく、この人は。もう覚えていないんだね」

 そこで、お母さんは毒ずきんちゃんを呼んで言いました。
母「毒ずきんや、おばあさんのお見舞いに行っておくれ」
毒「おばあさんって、だあれ?」
母「いいじゃないか、誰だって」
毒「どこに住んでいるの?」
母「この黒い森の向こうの、ほろ酔い谷を越えて、酔っぱらい山を越えて、泥酔ヶ原を越えて、二日酔い川を越えて、肝臓障害の森の奥だよ」
毒「わたしは、まだ七歳の女の子よ。一人でそんなに遠くに行けないわ」
母「大丈夫だよ。そんなに遠くないの。それに地図も書いてあげるわ」
毒「途中でお腹が減ったらどうしよう」
母「お弁当に美味しいパンを持たせてあげるから大丈夫だよ」
 いよいよ、いるかいないかわからないおばあさんのお見舞いに行く日が来ました。お母さんは、お弁当の入ったバスケットを持たせてくれました。でも、お母さんはそれには石を入れて、美味しいパンは自分たちの昼ご飯用にとっておいたのを毒ずきんちゃんはこっそり見ていましたので、出掛ける間際にパンと石を取り替えておきました。
 後でお母さんは、戸棚に石が入っているのを見て腹を立てましたが、試しにお父さんに出してみると、お父さんはぺろりと平らげてしまいました。お父さんには、パンと石の味の違いがわからなかったのです。お母さんは、これからはお父さんには石を食べさせようと思いました。
 
 さて、七歳になる女の子、毒ずきんちゃんは、こうして森の奥に入っていきました。頭には、毒々しい赤や汚らしい茶色や気が滅入るような青や発狂しそうになる緑色や、その他、表現に困るようないろんな色の頭巾を被っています。お気に入りです。
 ここいらでパンでも食べながら地図を見てみるか、と思い木の根方に腰を下ろしました。地図を広げてみると、なんにも書いてありませんでした。
「思った通りだぜ」
 ちっ、と舌打ちをした毒ずきんちゃんは、パンを囓りながらまた歩き出しました。
 森の奥に進んでいくと、暗い森の中に光が見えました。不思議だと思って近づいていくと、美しい天蓋つきの宝石をちりばめたベッドがあって、それが光を放っていたのです。
 ベッドには、その宝石よりも美しい若い娘が、美しい着物を着て横たわって目をつぶっていました。
「ねえ」
 と言って、毒ずきんちゃんは、その娘を揺さぶって起こそうとしました。道を聞いてみようと思ったのです。
 でも、娘は目を覚ましませんでした。何度やっても同じなので、毒ずきんちゃんは、だんだん面倒くさくなってきました。
 そこで、蹴飛ばしたり押したりして、美しい娘をベッドの下に落っことしてしまいました。
「やれやれ、なんだかくたびれちゃったぜ」
 毒ずきんちゃんは、あ~あと欠伸をすると、開いたベッドに大の字になって寝てしまいました。
 森の奥から人影が現れました。それは、一人の王子様でした。王子は、ベッドに近づいて、期待と欲望に溢れた顔で横たわる人の顔を覗きました。
「げっ」 
 そういうと王子は腰を抜かして、その場に尻餅をついてしまいました。
「なんてこったい。伝え聞いた話では、黒い森の奥に、魔女の呪いで眠りに落ちた美しい眠り姫がいて、彼女に最初にキスした者が、その呪いを解いて、彼女を妻に出来ると聞いてきたんだ。その娘と結婚した者は、無上の富と幸福を得られるんだ。でも、見てみたら寝ているのは、三十年前の大井町の場末の飲屋街の公衆便所みたいな色の頭巾を被ったちんちくりんの女の子じゃないか」
 それを聞いた毒ずきんちゃんは目を開けて言いました。
「ふーん、それじゃ、あんたは、その眠り姫と結婚したいんだね」
「もちろんだ。そのため、僕は命を賭けて、ここまで旅をしてきたんだ」
「ほお・・・面白れえ」
 というや、毒ずきんちゃんは、ベッドの反対側に落っこちていた姫に、ぶちゅーーーーーっとキスをしました。
 姫は目を明けると、
「ここはどこ?わたしにキスをして起こしてくださった方はどなた?」
 と言いました。王子様は絶望して頭を抱えて、
「なんてこったい。そんなところに姫は隠れていたのか。おまけに、キスは、その三十年前の大井町(以下略)の女の子に奪われちまった」
 王子様は、ふらふらと森の奥に消えていきました。
 後に残されたのは、毒ずきんちゃんと眠り姫です。眠り姫は言いました。
「あの、確か起こしてくださるのは、イケメンの王子様という話になっていたような気がするんですけど」
「そりゃ、お前が悪い夢でも見たんだろう。お前は、最初にキスをした人の家来になる決まりになっていたんだ」
 と毒ずきんちゃんは聞いた風なことを言いました。
「えー・・・わたし、寝不足でよく頭が働かないんですけど」
「今まで、さんざん寝ていたじゃないか」
 という毒ずきんちゃんの言葉は、もう眠り姫には聞こえていなかったと思います。その時には、枕に顔面を押しつけて寝入っていたのですから。
 こうして毒ずきんちゃんには、家来が一人出来ました。出来ないほうがいいような家来かも知れませんが。

 そのころ、毒ずきんちゃんのお父さんは、毒ずきんちゃんが戻って来やしまいかと心配になって森を見張りに行って、道に迷って迷子になっていたと言うことです。
(つづく)



今週のおさむらいちゃん

新作31

友だちがガリガリくんで「あたり」を出したことをうらやんで詠めり。

社長の業務 ショートストーリー『我は紙なり』

社長 彼の部屋は、テーブルがひとつ、その前に椅子が一脚あるきりの殺風景な部屋だ。四方も白い壁で、窓すらない。
 今、彼は椅子に腰掛けている。テーブルの上には、何枚かの白い紙と一本のペンがある。
 彼はペンを取り上げると、紙の上に「宇宙」と書いた。
 すると、天井にも床にも四方の壁にも、大宇宙の様子が映し出された。恒星が輝き、星雲が妖しい光を放ち、彗星が流れ、UFOが飛び交った。あの重苦しい黒い部分はブラックホールだろうか。
 彼は、その「宇宙」と書いた紙を折り始めた。星も星雲もブラックホールも畳まれていく。一分も経たないうちに、彼は宇宙で出来た紙飛行機を手にしていた。手首を軽く振ると、紙飛行機は指先を離れ、くるっと軽快に一回旋回すると鼻先を白い壁にぶつけて落ちた。
 彼は愉快そうな笑みを浮かべて、
「宇宙は宇宙の果てにぶつかって落ちた」
 と呟いた。そして、
「我は神なり」と続けた。
 今度は紙の上に「人類」と書いた。上下、四方のあらゆる方向に、人類史始まって以来の人類の姿が現れて蠢き始めた。
 石器時代人もいれば現代人もいる。英雄もいれば乞食もいる。全てが全ての場所で、他の全ての者に影響を与えながら動いていた。戦争もあれば、愛を交わし新たな人間が生まれることもあった。
 彼は、紙を二つに引き裂いた。
「人類は分裂した」
 二つに裂いた紙を重ね合わせた。
「再び融合」
 重ねた紙をくしゃくしゃに丸めた。
「混乱、そして」
 丸めた紙を床の上に放り棄てた。
 次に、「青い空」と書くと、テーブルに登って天井に張り付けた。あたりが爽やかな蒼穹の下の草原に変わった。「風」と書いた紙を、そっと宙に滑らせた。心地良いそよ風が吹いてくる。彼は、その中で椅子の背に凭れ、目をつぶりまどろんだ。
 目蓋がぴくぴくと神経質そうに動いた。再び目を開けた時、瞳に焦燥と不安が浮かんでいた。
 しばらくためらっていたが、紙の上に小さな字で「店・客」と書いた。あたりが、ファミリーレストラン・チェーンのとある店舗の内部の光景に変わっていた。そればかりでなく、彼自身がユニフォームを着て、その中を動き回っていた。手には、料理の載った皿やビールのジョッキを持てるだけ持って、テーブルからテーブルへと忙しく移動している。そして、テーブルを離れる時は、最敬礼を忘れない。ふん、と鼻先で返事をする客もいれば、視線さえ向けない客もいる。だが、必ず最敬礼を欠かさないことになっている。
 彼は、あるテーブルの横で腰をかがめている。テーブルには、でっぷり太った初老の男が腕組みをしてふんぞり返り、目に怒気を浮かべ大声で何か言っている。
 些細なこと、些細なこと、ミスとも言えないこと、むしろ客の側に非があるようなこと・・・彼は、そんなことは口に出さず、謝り続ける。
「お客様は神様だって、この店では教育していねえのかよ」
 男は怒鳴る。白髪の間に透けてみる頭皮が生々しいピンク色だ。
「こっちは、金払っているんだよ。金払えばお客様だろう。お客様は神様なんだよ、このバカ!」
 彼は、紙をびりびりと細かく引き裂き始める。店内に名状しがたい混乱が起こる。食器や窓ガラスの割れる音、客や店員の悲鳴・・・。引き裂いて丸めてしまった紙を彼は床に叩きつける。
 再び、紙に「客」と書く。あの男が現れる。顔に驚愕と恐怖が浮かんでいる。ゆっくりと、紙を皺だらけにし、切れ目を入れ、穴を開け、細かく引き裂いていき、最後に丸めてしまい、また床に叩きつける。
 それから、彼は床に落ちた紙や天井に貼った紙の掃除を始める。明日は、燃えるゴミを出す日だ。


 


今週のおさむらいちゃん

新作32

なぜか今週は土曜日に今週のおさむらいちゃんだよーん。

新作32

なぜか今週は土曜日に今週のおさむらいちゃんだよーん。

社長の業務 ショートストーリー『湯治場の哲人 その8 最終回』

社長  今日は、大学構内をひとまわりして、その後不忍池に降りて蓮の花を眺めてきた。大佛太郎君とお父上と爺やと婆やと楽隊五人を引き連れてである。
 のべつ誰かが迷子になりそうになる。楽隊がやたらに『美しき天然』と『宮さん宮さん』を演奏したがる。巡査が飛んでくる。巡査に怒られる前に、「演奏やめーい!」と怒鳴って回る。巡査には謝る。非常に疲れた。
 そして、今日も全員が自分の下宿の六畳間に戻って、押し合いへし合い、ひしめき合っている。「うぎゃー」と爺やの声が聞こえた。部屋の何処かで誰かに押しつぶされたのだろう。
 自分は机の上からお父上に問うた。
「なんで、ここにいるんですか。宿屋に移ったらいいじゃないですか」
「いや、そうしたいが、楽隊がここを気に入っているようだから」
 なんで楽隊の要望が優先されるのかわからない。
 夏の狭い部屋の中、人いきれに蒸し上げられているところへ、なんと妄亭が顔を出した。部屋の様子に一瞬ぎょっとしたようだが、
「帰ったな」と言った。
「おう、昨日の夜着いたばかりだ」
「そうか、元気そうで何よりだ」
 と妄亭は隙間もなさそうな部屋にずかずかと入ってきたのみならず、どっかと胡座をかいた。どこかで、ぎゃーという声がした。また爺やが犠牲になったらしい。
「君、喜んでくれたまえ。僕はいよいよ結婚するぞ」
 そういえば妄亭は、あの湯治場に来た時も、そんなことを言って騒いでいたような気がする。あの時も、幻子に結婚を申し込むと言っていたが。
「あの湯治場の君、例の女中に、驚くなかれ、今日、上野で会ったよ」
「えっ?僕らは今日、不忍池にいたんだぜ」
 妄亭は「へえ」と言って、改めてあたりを見回して楽隊に目を留め、
「そうか、下の方から時々楽隊の音が聞こえてきたが、君たちだったのか。だが、僕の方は君たちみたいに気楽な話じゃないんだ」
 と人の気も知らないで、こちらを一方的に気楽と決めつけてから、
「僕は今日、上野の山の清水堂を散歩していたと思い給え」
「うん」
「あそこは、景色がいいからな。今日みたいな晴れた日は、こっち側は本願寺から待乳山、隅田川、はるかに筑波山も見えるし、反対側は池を挟んで本郷台、駿河台、ニコライ堂、目を転ずれば品川の海まで見渡せる」
「うん」
「また、あそこの茶屋に座ると、苦いお茶に羊羹の厚く切ったのを出してくれるんだが、その羊羹がまたうまいんだ。君、食ったことあるか」
「君は羊羹の話をしに来たのか」
「いやいや。僕が休んでいると、薄紫の涼しげな着物を着た女がやってきた。僕がひょいと見ると、例のあの女だ。下谷の商家の娘だとか言っていたようだが、本当かも知れんな。僕らは、あまりの奇遇に呆然としてしばし見つめ合ったよ」
「それで」
「すると、あの女が茶屋に言いつけて、筆と料紙を取り寄せて、さらさらさらと書いて僕に渡すんだ。その中味がこれさ」
 と妄亭は懐から短冊を取り出した。「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の」としてある。
「これは、崇徳院の歌だよ。下の句は『われても末に 会わんとぞ思う』というのだ。つまり、今は本意なくお別れしますが、いずれまたお会いします、という心を表しているのだな。その時の気持ちを想像してくれ給え。もう僕は、ぼうっとしてしまって、それから何がどうなって、どこを歩いてきたのかわからない。気が付いてみたら、君の下宿の傍にいた・・・」
「しかし、変だな」
「何が変だ」
「彼女が君のことを好きなら、別にそこでお別れしなくてもいいじゃないか」
「何か用事があったんだろう」
「だいたい君は、湯治場でもプロポオズしたんじゃないか

「うん。まあ、あれは失敗だ。君にも言っておく。いくら逆上したからと言って、柔術を使う女を風呂場まで追い掛けていっちゃいかんよ」
「もうひとつ変なことがある。昨日、僕らが東京へ出発をする時、彼女は僕らを見送ってくれた。僕らが東京に着いたのは夜だ。あの後に東京に向かう便なんてないだろうに、何故、今日、早くも東京にいるのだ」
「だって、いたんだもの。しょうがないじゃないか。こうなると僕は、明日にでも彼女を訪問したい」
「家がわかっているのか」
「わからん。ぼうっとして聞くのを忘れた。僕としてはうかつだったが、ここへ来てよかったよ。楽隊がいるじゃないか。これを使って、例の歌を宣伝して歩けば、必ず見つかるだろう」
「なんだか、落語の『崇徳院』みたいな話だな。だいたい楽隊は僕のじゃないぜ」
 妄亭は狭い中、ぐるりと大佛のお父上の方に向き直って談判を始めた。ところどころでM男爵の名前をちらつかせたようである。しばらくして、まとまったようで、
「じゃあ、僕は今日はここに泊まらせてもらう」
 と横になってしまった。不可能事としか思えないことをやってのける。どうせ、どこかで爺やがまた、圧迫を受けているのだろうが今度は声も上げない。もう、誰がどうなって寝ているのかわからない状態で夜を過ごした。

 宮さん宮さんが鳴り始める。その間に、「瀬をはやみ」という歌を読む声が聞こえる。だんだん離れて小さくなって、ついに聞こえなくなってしまった。確かにあれなら人目を引くには違いない。
 自分は一人部屋に残った。大佛家は全員、妄亭の幻子捜索について行ってしまった。久しぶりに一人になって、ほっとした。ようやく東京に帰ってきた気がした。
 二晩、わけのわからん姿勢で寝ていたので、畳の上に大の字になって、うんと背伸びをした。
 ひと眠りして、目を覚ますと誰かが見下ろしている。ぎょっとして目をこすると、その顔が幻子の顔になったので、ますますぎょっとした。
「な、なんで君がいるんだ」
「大変、失礼しました」
 と幻子は珍しく神妙に頭を下げた。
 改めて対座すると、大変もじもじして見える。湯治場とは別人のようだ。
「昨日、上野で妄亭と会ったのだそうだね」
「はい・・・」
 言葉が少ない。埒が明かないので、自分が続けた。
「ここは、どうやって知ったんだい」
「今日歩いていると、妄亭さんのご一行が歌を唱え太鼓やラッパを鳴らしながら歩いてくるのに会ったんです」
「ほう。今日も会ったのかい」
「でも、慌てて傍らの木に登って隠れてしまいました」
 隠れ方だけは幻子らしいが、
「君は、妄亭に会いたかったんじゃなかったのかい」
 幻子はそれには答えず、
「後に、こんなビラが落ちていましたので、こちらがわかったのです」
 幻子が差し出した紙を見ると、連絡先としてこの下宿の住所と自分の名前が書いてある。
「妄亭のやつ、人の名を勝手に使いやがって・・・しかし、君は妄亭に崇徳院の歌を渡したんだろう」
「はい。でも、それは半分だけなのです」
「知っている。下の句が書いていないのだろう」
「いえ、そういう意味ではなく、もう一首書いてお渡しするつもりでしたのに、妄亭さんたら最初の一首を受け取っただけで、ふらふらと歩いて行かれてしまって、お渡しできなかったのです」
「それは、どんな歌なの?」
「そ、それが・・・」
 と赤い顔をして下を向いてしまった。不思議なこともあるものだ、と自分が下から顔を覗き込もうとすると、
「いやーっ」
 と叫んで自分を突き飛ばし、部屋から走り出てしまった。自分は、机の向こうの開いた窓から転げ落ちそうになって、窓枠に足を引っかけてかろうじて転落を逃れた。この辺は湯治場で訓練を積んできている。
 そろそろと身体を部屋の中に戻していると、
「やあ、書生さん」
 と言って、今度は老師が入って来た。
「先生、あなたも東京に帰っていらしたんですか」
「わしは、孫娘と一緒じゃよ」
「あの時、僕らを軽便の停車場で見送っていたはずですが」
「急に孫娘が東京に行きたいと言い出したので、発車間際に、機関手の吾作に頼んで客車の屋根に乗ったんじゃよ」
 幻子とその祖父だけのことはある。「T市からは、三等に乗ってきた」
「じゃあ、僕らと一緒に着いていたんですか。ここは、やはりビラで?」
「孫娘はそうらしいが、わしは湯治場にいる時から調べはついていた」
「どうやって?」
「君の部屋に下宿から転送された郵便物が置いてあった。その表に書いてあるんだもの」
「そんなもの見なくてもいいじゃないですか」
 自分は少し機嫌を悪くして言った。
「いや、すまない。しかし、孫娘の未来の旦那様だと思うと、思わず知らず・・・」
「へ?」
 自分は、きょとんとした。老師は笑って、
「孫娘が妄亭さんに渡したかったもうひとつの歌というのは左京太夫道雅『今はただ 思ひ絶えなむとばかりを』だ。心は下の句にある。『人づてならで 言うよしもがな』、人づてではなく、直接申し上げる方法はないものか、直接会ってお話ししたい、その思いを妄亭さんに運んでもらうつもりだったんじゃな」
「じゃあ・・・別れても末にお会いしましょう、という相手は妄亭じゃないんですか?」
 その時、「いやーっ」という声とともに、幻子が飛び込んできた。階段の下から「ちょっと待って下さい」という妄亭の声が聞こえる。幻子は部屋の中に隠れ場所を探していたようだが、ないと見切るや、机に足をかけて二階の窓から飛び降りた。驚いた自分が窓から覗くと、足袋はだしの幻子が道を走っていく後ろ姿が見える。あの着物で、よくあの動きが出来るものだと感心していると、今度は妄亭が後ろから自分の背中と頭を踏み台にして飛び出していった。「わーっ」という声が聞こえて、下を見ると妄亭が気絶していた。
 大佛家一同が後からようやく階段を上ってきて、部屋の入り口に立って、こちらを覗いている。
 老師は自分に向かってぺこりと頭を下げて言った。
「孫娘をよろしく」
(完)


社長の業務 ショートストーリー『湯治場の達人 その7』

社長1 「お目覚めに・・・なりましたか・・・」
 暗闇の中に、蝋燭が二本、灯っていて、ゆらゆらと動いていた。蝋燭の光りの間に、髪をおどろに振り乱した女の顔があるのがかすかにわかる。起きようとしたが、腕も足も鉄の棒になってしまったように動かない。声も、喉が潰れたように出てこない。金縛りというのだろうか。
「朝には、まだ早うございます」
 言うなり女の半身が、こちらに覆い被さってくるように思えた。それにつれて自分の目蓋もまた、否応なく閉じていった。暗闇が戻っても、まだ何処かで蝋燭の火がちらついているように思える。ぎりぎりぎり、と何かが擦れるような捻れるような音が聞こえた。
 まるで身体が宙に浮いているようで、心細い。どちらの方角かわからぬが、にわかに非常な風が吹いてきた。かまいたち、と自分はとっさに思った。身体が闇の中で錐もみをする。上も下もわからなくなる。ぎゃーという叫び声が聞こえる。

「やあ、書生さん、おはよう」
 と、老師の声が離れたところから聞こえる。気が付いてみると、明るくなっている。目に宿屋の建物の二階が映じている。ただし、逆立ちをしている。その二階の廊下に浴衣を着た老師が立ってこちらを見ている。これも逆立ちをしている。老師の脇の障子の向こうから、やはり逆立ちをした幻子が、物干し竿ほどの長さの竹の太いのや、削いだようなのを何本も担いで現れた。片方の手には鋸や縄を持っている。
 自分は、自分の部屋の外の正面に生えている木に、逆さになってぶら下がっていたのである。
「おや、今朝は、その竹でバネ仕掛けを拵えて、書生さんを跳ね飛ばしたのかい。書生さん、怪我はないかね」
 まだ怪我があったかどうか確かめる余裕もない。夢かと思っていたが、昨晩の蝋燭の女は幻子だったらしい。夜中に忍び込んで、かなり大掛かりな仕掛けを作っていたと見える。掛け布団も、廊下の欄干に引っ掛かっているのが見える。
 老師や幻子の悪戯には、だいぶ馴れたとはいうものの、そろそろ逃げ出さないと命に関わりかねんな、と逆さまになった頭で考えた。今までは、試みるたびに二人に妨害されていたのだが。

 その日も、大仏顔の大佛太郎君の勉強を見てやった。勉強が終わると、彼は頭をきちんと下げて、紙に包んだ謝礼を置いていく。おかげで、例の妄亭に端を発する借金問題はあらかた片づいた。
 太郎君は来るたびに東京に関する質問をする。その時、ふと彼を同道して東京に向かえば、さすがに邪魔はされないのではないか、という考えが浮かんだ。
「僕は、もうすぐ帰らなきゃならんのだが、どうだい、その時、一緒に来て東京を見物しては」
 太郎君の顔が一瞬、ぱっと明るくなった。自分はそれを見逃さない。
「いずれ、高校に入れば東京で暮らさなければならないだろう。それなら、少しでも見聞していった方が後のためになる」
 と押してみる。
「でも・・・」と、明るくなった太郎君がまた沈んだ声になる。
「勉強の方は大丈夫さ。君の学力なら、合格間違いなし。僕が請け合おう」
 本当の学力がどうあれ、東京に引っ張っていくまでは、やる気をなくされては困る。
「大学構内を案内してやろう。電車にも乗せてやろう。銀座を見物しようじゃないか。西洋料理も御馳走してやる」
「でも・・・僕の父は、そういう東京の軽薄な空気に染まるのは好ましくない、っていうんです」
「だって、末は帝大を出て国家枢要の人物になるんじゃなかったのかい」
「だから、ここから東京へ毎日通えばいいって言っているんです。太政官の乗るような立派な専用の馬車を買ってやるから、それで通えって」
「そんな重要人物があるか」
 この機会をとらまえなければ生涯東京に戻れないような気がした。そこで、お父上をご招待して説得することにした。と言っても場所はこの部屋だが、近江屋に言って牛肉の良いところを奮発することにした。
 翌日の夕方、早速、お父上はやって来た。幻子に給仕をしてもらうことにした。老師は呼ばなくても、御馳走の匂いを嗅ぎつけて勝手にやってきた。
 二人をおびき寄せたのにはわけがある。大佛のお父上に太郎君の東京行きを納得させてしまえば、それがそのまま老師と幻子に、もう邪魔はさせないぞという宣言にもなる。
 自分はお父上に恵比寿麦酒を注ぎながら、説きに説いた。世界と日本の趨勢、世の中の動きは日進月歩であること、国家的人物たるためには早くから東京に馴れることが肝要であること、華族の娘を嫁さんにするためには等々。お父上は腕組みをして考えていたが、
「わかりました。ですが、大佛家としても、それなりの準備が必要です。何日か、ご猶予を下さい」
 せいぜい数日乃至一週間東京に行くのに大げさであると思ったが、自分は首肯した。

 老師と幻子から逃げる、じゃなかった太郎君を東京に案内する日がやってきた。自分は支払いも済ませ、帳場に祝儀も渡して、清々した気持ちで玄関の椅子に腰掛けて、太郎君が迎えに来るのを待っていた。老師と幻子が見えなかった。
 外が騒がしくなった。太鼓がどかどか鳴る。ラッパがキイキイ響く。大太鼓と小太鼓とシンバルとトロンボンとトランペットの5人の楽隊が、明治35年に作られた田中穂積作曲『美しき天然』を演奏するのの後ろから、それこそ太政官でも乗りそうな黒塗りの馬車が静々と続いてくる。御者は、金モールのたくさん着いた上着に、大きな羽根飾りの付いた帽子を被っている。
 あっけにとられていると、中学校の制服を着た太郎君とフロックコートにシルクハットというお父上が降りてきた。
「いや、山の中とて、これしきの物を揃えるのに手間が掛かってしまいましてな」
「あの、準備というのは、このことだったんですか」
「さよう。息子を東京にやろうというのに、大佛家としてみっともないまねはできませんからな。後ろの馬車には爺やと婆やが乗っております」
 ふと見ると、後ろにも同じような馬車が続いている。
 馬車が動き出すと、沿道に連なった村人達から万歳の声が上がった。みな、手に日の丸と大佛家の家紋の入った小旗を以て振っている。楽隊の音楽は『宮さん宮さん』に変わった。自分は、下を向いて外からあまり顔が見えないようにした。

 楽隊は軽便の停車場まで山里に楽の音を響かせっぱなしであった。もっとも、曲は『美しき天然』と『宮さん宮さん』しか出来ないらしい。
 停車場には、大勢の人が集まっている。入り口には、「祝・大佛太郎君、東京見物出発」という横断幕が掛かっていた。
 人混みの中に、老師と幻子もいた。老師は、紋付きの羽織袴に扇を手にして立っていた。その横の幻子は、紫の袴をつけ、革の編み上げ靴を履いて、髪にリボンを飾っている。
 機関車にも、リボンや花が飾られ、正面には「大佛太郎号」という大きなヘツド・マアクがついている。
 すぐに乗れるのかと思ったら、ホームに並ばされた。
 まず、国旗掲揚があった。続いて、ホームに置かれた台の上に村長というのが上って祝辞を読み始めた。
「この度の大佛太郎君の東京見物は、誠に壮挙であり快挙であり、万感胸に迫るを禁じ得ないのであります」と言うようなのがあって、「大佛太郎君の東京見物に実り多からんことを祈って、ばんざーい」と万歳三唱があった。周囲の人も万歳を繰り返しているので、自分も万歳をした。太郎君は、あたりに向かってぺこぺことお辞儀をした。
 その後、驚いたことに「書生さんの前途を祝して」と万歳三唱があった。村長さんは、これでも物足らないらしく、さらに「日露戦役大勝利万歳」と「大日本帝国万歳」を続けてやった。そのたびに、人々の両手が上がったり下がったりする。
 これで汽車に乗れるかと思ったら、まわりは直立したままである。今度は、村の校長先生というのが台に上がって演説を始めた。内容は、壮挙であって快挙であって感涙禁じ得ず、と前とあまり変わらない。そして、太郎君と自分と日露戦争大勝利と大日本帝国に向けて万歳三唱があった。
 このあと、村のなんとか長というのと、かんとかの世話役というのと、どうとかの理事長というのから、快挙の壮挙のと言う祝辞があり、万歳三唱が繰り返された。
 続いて余興、ということになり、何があるのかと思ったら楽隊が出てきて『美しき天然』と『宮さん宮さん』を演奏した。

 へとへとになって客車に乗り込んだ。いやに社内が狭苦しいと思ったら、太郎君ばかりか、お父上も乗り込んでいる。さらに爺やと婆やも乗っている。呆れたことに楽隊まで乗り込んでいる。小さな箱の中に人間が充満している。
 それだけならいいのだが、汽車の始動とともに楽隊が演奏を始めた。目の前でトロンボンが伸びたり縮んだりする。耳の横でシンバルがはじける。太鼓が雷様のように暴れる。そして『美しき天然』と『宮さん宮さん』が繰り返される。
 目の前が真っ赤になるような思いをして、T市の駅に着いた。ここで、官営鉄道の汽車に乗り換える。ホームに降りると、自分の影が青く見えた。

 お父上の計らいで、生まれて初めて一等車に乗ることになった。夏の青々とした田んぼがどこまでも広がる中、汽車は快走する。どんどん東京が近づいてくる、と思った。
 それはいいのだが、お父上も爺やも婆やも楽隊も一等車室に乗り込んでいる。
 見送りはT市までかと思っていたので、乗ってきた時は少し驚いた。発車ベルが鳴れば降りるだろうと思っていると、まるでそういう気配がない。ついに汽車はそのまま動き出してしまった。発車と同時に楽隊が演奏を始めたが、さすがにそれは車掌に止められた。

 実に久しぶりで、本郷西片町の下宿に帰ってきた。だが、なぜか六畳一間の部屋には、人がひしめいている。太郎君と父上と爺やと婆やと楽隊が膝を縮めるようにして小さくなっている。
「なんで、付いてきたんですか」
「いやあ、息子が心配で」
「なにも、こんな大勢で来ることはないでしょう」
「大佛家の格式からして、これくらいしないと沽券に関わる」
「もとから太郎君は引き受けるつもりでしたが、他の方は宿屋でも取ったらいいでしょうに」
「宿屋がどこにあるかわかりませんのでなあ」
 自分は場所がないので机の上に座っている。下宿に帰ったと言うよりは、伝馬町の牢名主にでもなったような気がする。(次回たぶん最終回)


「美しき天然」を聞きながらお読み下さい。