社長の業務 エッセイ『パパ、わたしを見て』

東京の住宅地を走る私鉄電車の中である。日曜の夕方とて車内は空いていた。
私の目の前のロングシートには二人しか座っていなかった。一人は小学校三、四年くらいの女の子で、もう一人はその父親らしい。
私は文庫本を開いて、それに目を落としていた。時に目を上げてみるが、特に変わったことがあるわけではない。
それなのに、私はいつの間にか本に集中できなくなっていた。
妙に前の女の子が気になるのである。なにか書いてあるジーンズをはいた、ちょっと下ぶくれの平凡な顔立ちの子である。目を引くほど美少女であったり、面白い顔であったりというわけではない。
女の子は、私の右後ろの車窓を見た。すぐに、今度は私の左後ろの車窓に目を移した。そして、またさっきの角度に戻した。
窓外には、もうだいぶ日の傾いた、静かな住宅地が流れていくだけである。
女の子の視線が、変に力がなくて、ふわふわと漂っているように思えた。そして、隣に座っているパパの顔を、ちら、と見上げ、また窓に戻した。
パパは、背の高い整った、知的とも言えるような顔立ちの男性で、長い足を組んでいる。30代くらいだろうか、服装もなかなかおしゃれである。
女の子は、またパパをちらりと見ては、窓外に目を漂わせる。
私の感じた妙な気配が何から来るのかわかった。
パパは、小さなゲーム機を手に持って、耳にはイヤホーンを差し、盛んに指を動かしている。そして、女の子の方を見ない。
ときおり顔を上げはするが、どうも降りる駅が近いかどうかを確認しているだけで、すぐにまたゲームに戻ってしまう。黒目がちの大きな目だが、なんだか魚の目を連想させる。
女の子は、パパに話しかけたいんだろうな、と思った。
でも、こわいんだろう。
拒絶されたり、無視されたりしたら、パパは、その瞬間、うーんと遠い手の届かないところに行ってしまう。自分よりゲームが好きだと言うことが、わかってしまう。
そんな怖い賭け、できるわけがない。
なんだか、私まで、どきどきしてきた。
こういう時、私に何かできることがあるだろうか。
老人や身体の不自由な人だったら、手を貸すこともできるだろうが、この場合、手を貸さねばならないのは、彼女の心だろう。
終点駅が近づいた。
その親子も、私も、そこで降りることになる。
空いている車内なので、同じドアから降りる巡り合わせになる。
なおも気になって二人を見たら、また、びっくりしてしまった。
パパは、片手でゲーム機を持ち、真っ直ぐ前を向いて、開いた方の手は下に垂らしている。
そして、女の子は、遠慮がちに、その袖口あたりに手を触れているのだった。
無言ながら、彼女は「手をつないで」と言っているのではないか。
パパは相変わらず、見向きもしないし、まるで女の子の手を感じていないようだった。ただ、そこにいるだけなのだ。
改札口を出ると、二人に女の人が何か言いながら近づいてきた。どうやら、ママのようだ。
ちょっと、ほっとした。当たり前ながら、女の子にはママもいるのだ。この人は、普通に会話ができるようだ。
ゲームがもたらした、新種のネグレクト(無視、育児放棄)ということを考えた。
女の子だけでなく、パパの人格に何か深刻な影響を与えているのかもしれない。
私は教育のことも心理学もゲームや社会学も、何も知らない。
だから、見た以上のことは言えない。
もちろん、私が見たのは、何かの錯覚かもしれないし、上記のことは、すべて私の想像なのかもしれない。そうであることを願う。
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