社長の業務 ショートストーリー『年の功より亀の甲』

こんな、ペーペーの僕に何の用だろう。社長の姿なんて、会社行事の時に離れたところから見たことしかない。緊張して、ドアをノックする手が震えた。
社長は大きなデスクの向こうに座っている。60を過ぎて、頭は禿げ上がり、少しお腹が出ているが、力のある目の光りと精悍な顔つきは、まさに会社をここまで大きくした人のそれだ。
僕にソファに座るよう指示すると、深みのある声で、
「経理の山本君だね」
「は、はい」
思わず立ち上がってしまう。
「まあ、いいから座りなさい。君、これから私と昼食に行かないか」
「で、でも仕事が・・・」
「社長命令だ。上司には何とでも言ってあげよう」
社長命令とあらば仕方がない。社長車は黒塗りの高級車だ。後部座席の社長のとなりに乗り込むと地下の駐車場から滑り出た。
「あ、あの、どちらに」
「今にわかるよ」
と言ったきり、社長は前を向いたまま黙ってしまった。なぜ僕が指名されたのか聞きたかったが、ためらっていると、
「ほら、年の功より亀の甲っていうだろう」
と社長が呟いた。
意味がわからない。それに、その諺だったら「亀の甲より年の功」なのではないだろうか。
車は高速道路に入って、どんどん郊外に向かっていく。昼食のために10時から出発するのだから、目的地はかなり離れているのだろう。
やがて、車は海岸に出た。海鮮料理でも食べさせてくれるのだろうかと思っていると、社長はどんどん砂浜に降りていく。年の割にフットワークが軽い。
冬の海からやって来る風は冷たかった。社長は、海を前にすると砂の上に四つんばいになった。僕は慌てて、
「社長、どうなさったんですか」
「山本君、私の背中に乗りなさい」
「そんなこと、できません」
「いいから乗るんだ。社長命令だよ」
また、社長命令か。そう言われては従わざるを得ない。僕は恐る恐る、お馬ごっこをする子供のように社長の背中に跨った。
「しっかり掴まっていなさい」
そういうと、社長はその姿勢のまま海に向かって這い出した。
「社長、そっちへいくと海に入ってしまいますよ」
冬の冷たい海で濡れるのはかなわない。
「大丈夫だ。しっかり掴まっていたまえ」
社長のスピードがだんだん速くなってきた。危ない、と思ったその時、海は二つに割れて間に道が出来た。
両側に水の壁を見ているというのは不思議なものだ。だんだん深いところへ来るにつれ、上にも水の天井が見えてきた。下にも、深く暗い海が拡がっている。僕たちのまわりだけ水がないらしい。
社長は這うのをやめて、平泳ぎのような動きをしている。
「社長は、なぜ、こんなことがお出来になるのですか」
僕はそう聞かざるを得なかった。社長は、ふふふ、と低い声で笑うと、
「年の功より亀の甲だよ」
と、また言った。今度も意味がわからない。
そのうち、前方に光が見えだした。光りの中に、だんだん色や形が見えてきて、それはおとぎ話に出て来る東洋風の宮殿のようだった。
その前に着くと、社長は降りるように言った。宮殿の入り口に額がかかっていて、『竜宮城』と書いてあった。
美しく着飾った女性が出てきて挨拶をした。
「乙姫だよ」
と社長が言った。乙姫は、大勢の侍女を連れていて、それがまた、いずれ劣らぬ美しい女性ばかりで、僕は、その華やかさにぼうっとしてしまった。
豪華な調度のある大きな部屋に通されて酒や料理がでた。あまり酒には強くはない方なのだが、それはおいしくて、酔い心地が素晴らしく、いくらでも飲めた。
社長の隣には乙姫が座り、僕のまわりにも美しい侍女が数人かしづいてくれた。満腹になると、心地良いベッドで昼寝をして、目が覚めると、侍女達が色々なショーを見せてくれ、これがまた、地上で見たこともない素晴らしいものだった。
こうして夢見心地で何日経っただろう。会社のことなど忘れかけていると、社長が、
「そろそろ帰ろうか」
と不意に立ち上がった。僕は後ろ髪引かれる思いだが、社長には逆らえない。
仲良くなった女性達は別れを惜しんで泣いてくれた。乙姫が、僕に土産だと言って、玉手箱をくれた。
再び社長は四つんばいになり、僕を乗せた。
「社長、ありがとうございました」
と礼を言うと、
「なに、年の功より亀の甲だよ」
やはり意味がわからない。
海岸に戻ると、社長車が迎えに来ていた。
だいぶ長い間席を空けて、さぞ上司は不機嫌だろうと思い、
「遅くなりました」
と侘びると、なんだかきょとんとした顔をしている。同僚達も、何事もなかったかのように仕事をしている。
席に戻ってパソコンを立ち上げてみて、びっくりした。日付が、社長に誘い出された日なのである。時刻は、午前10時。秘書から電話がかかってきた時だ。
パソコンがおかしいのかと思って、隣の同僚に「今日、何日だっけ」と聞いてみると、答えはパソコンと同じだった。
僕が竜宮城に行っていた時間が消えてしまったのだろうか。しかし、手元には確かに乙姫からもらった玉手箱がある。
混乱していると、デスクの上の電話が鳴った。社長秘書からだった。
「社長が、玉手箱を持って来るようにとおっしゃっております」
社長室に入ると、ソファに座るよう言われた。この間と同じだ。違うのは、僕の手に玉手箱があることだけだ。
「山本君、その玉手箱を開けてみたまえ
と、社長が言った。僕は、箱にかかっている緒をほどきかけたが、手が止まった。
「社長、玉手箱というのは、開けると白い煙が出てきて、お爺さんになってしまうのではないですか」
「そうだよ」
「ちょ、ちょっと、それは勘弁して下さい」
「君が年を取ったらどうなるか見たいんだが」
「老人になるのはいやです」
「出来ないというのかい」
「それは困ります」
社長はデスクから立ち上がり、前に来て腕組みをしながら僕を見下ろした。
「ほう。出来ないというのか。君にそんな口が聞けるのかな。この私に、この社長である私に、四つんばいなどという屈辱的な恰好をさせておいて、あまつさえ、その背中に乗り、乗り物代わりに乗り回し・・・」
「で、でも、それは社長命令だとおっしゃったから」
「君は社長命令だと言えば、何でも従うのか。私が、人を殺せと言えば殺すのか」
「そ、そんな」
「私は待っていたんだよ。君が『社長、むしろ、私の背中に乗って下さい』と言い出すのを。それが社員として当然の態度じゃないか。それなのに、平然と行きも帰りも私の背中に乗って・・・私は屈辱感に涙が出そうだった・・・それなのに今更玉手箱が開けられないだなんて」
怒りに赤くなった顔がぐっと近づいてきて、僕を睨みつけた。僕は恐ろしくて言葉が出ない。
「山本君」
「は、はい」
「君は、ウミガメが涙を流すという話を聞いたことがあるかい」
「は?」
すると怒っていたはずの顔が、にやっと笑って、
「ほらね、年の功より亀の甲、だよ」
うーん、意味がわからない・・・・・・。
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