社長の業務:ショートストーリー『井戸端の六さん』

「お、みんな、お揃いだね。どこへ行くんだい」
と六さんが声をかける。
「いや、熊のところに集まって皆で一杯やっていたんだが、こうしていてもしょうがねえから、吉原でも冷やかしに行こうじゃねえかってことになったんだ」
「おう、そりゃいいな。行っといで」
「六さんも行かねえか」
「俺は行けねえよう」
「あ、そりゃ、済まなかったな。じゃあ」
夏の日盛りの中、長屋のガキどもが井戸のまわりで飛んだり跳ねたり、はしゃいでいる。
八っつあんのところの金坊が井戸の縁へ上がったかと思うと、ちっちゃなちんぽこを出した。
「こらっ」
と、六さんが叱る。
「井戸に小便なんかしちゃいけねえ。おめえのウチだって、小便で炊いたおまんまを食うことになるんだぞ」
金坊はびっくりして、小便が止まってしまったらしく、井戸から離れて照れくさそうに頭を掻いている。六さんの声が金坊の母ちゃんのお兼さんに届いたかして、
「まったく、ウチの金坊と来たらロクな事しないんだから。いいんだよ、六さん、悪戯するところ見たら叱っておくれ」
と言いながら、金坊の頭を引っぱたく。
「べーだ」
金坊とその一味は、あっかんべえをしながら路地を駆け抜けていった。
「六さん、そんなところに突っ立っていると暑かないかい」
「いやあ、この頃は、後ろの桐の木が大きくなってきて、ちょうど日陰になるからそれほどでもねえ」
「そうかい。六さんも大変だねえ」
と言いながら、お兼さんは六さんの足下に水を掛けてやっている。
長屋の女房達が、井戸端で亭主の悪口を言い合っているのを、にやにや笑って聞いていたり、それが過ぎるとなると、
「まあまあ、男なんてのは仕方のねえもんだから、ほどほどにしてやりなよ」
と声を掛けたりする。
そうかと思うと、話し相手のいない糊屋の婆さんの昔話を、えんえんと根気よく聞いてやる。(それも、何度も聞いた同じ話だ)
小間物屋のお美代ちゃんが、経師屋の清さんがちっとも自分のことを振り向いてくれない、と泣くのを、泣くんじゃない泣くんじゃないと肩を抱いて慰めてやる。
六さんは、見たところは気のいい職人風のオヤジ。だが、足首のあたりから木の根っこのようになっていて、井戸端に植わっている。
どこでどうするものか、ちゃんと夏は単衣物、涼しくなれば袷、寒い時はどてらを着ている。雨の日は蓑に笠、という恰好でものも言わず、じっと井戸端に立って長屋の軒から雨水が垂れているのをじっと見つめている。
路地に空き巣狙いでも入ってくれば「おいっ」と凄んでみせる。
「俺の足元を見てみろい」
と、例の根っこを見せれば、悪い奴でも化け物にでも会ったように飛び上がって逃げていく。
人間だけではない。よく迷い込んでくる赤犬。こいつは、六さんを木だとばかり思ったようで、その足下で片足を上げようとした。
「こらっ」
頭をぽかっと食らわしてやると、
「うひゃあ」
人間みたいな叫び声を上げて逃げ出していった。
長屋に西念という坊主が住んでいる。
家々の前に立って経を読み、一文もらうまでは動かない乞食坊主だ。ぼろぼろの袈裟の前に頭陀袋を提げて、この表には「南無阿弥陀仏」と書いてある。これをひっくり返すと「南無妙法蓮華経」と書いてある。色んな宗旨に使える便利な頭陀袋だ。もらった銭や米をこの袋に入れて歩く。
冬の風の強い晩のことである。
「高い山から~低い山見れば~低い山のが~どうしても低い~ああ、こりゃこりゃ」
西念がわけのわからない歌を歌いながら帰ってきた。珍しく貰いが良かったかして、どこぞで呑んできたらしい。
「西念さん、ご機嫌だね」
「や、六さん、いつもいつもご苦労さん」
「別にご苦労ってこた、ねえやな。俺は産まれた時からここにいるから、ここにいるだけさ」
「寒くねえか。や、いいドテラを着ているな」
「まあ、俺だって、四季一通りのものは持っているさね。西念さんこそ、着た切り雀じゃねえか」
「ははは、墨染めの衣だけに着たきりカラスだな、ははは、愉快だ。六さん、一杯行こう」
と西念は貧乏徳利を示して見せた。
「まあ、やめとこう。おまえ、俺を眠らせてドテラを引っぺがして質屋に持っていこうって魂胆だろ」
「や」
「去年もやろうとしたじゃねえか」
「あ、そうだった。いくら呑ませても六さんが寝ないもんだから、俺の方が先に酔いつぶれちまったんだ。わはっ、わはっ。危うく凍え死ぬところだったなあ」
「だから、いい加減にしておけ。早いところ寝ちまいな。火の元に用心してな」
「そうすらあ、わはははは」
これがちっとも用心しなかった。行燈の灯をつけたままで寝て、足で蹴飛ばしてしまったのである。
「火事だーっ」
いち早く六さんの叫ぶ声が聞こえる。
「火事だ、西念のうちだ」
たちまち飛び出してくる長屋の連中、六さんも手伝って井戸の水をどんどん汲むと、西念の戸を蹴破ってどしゃどしゃ水を放り込む。水浸しになったものの小火のうちに消し止めることが出来た。
やれよかったと、みな喜び合っていると、今度は井戸端で火が上がっている。
何の加減か、火の粉が飛んで六さんの着物に燃え移ったのだ。見ると、既に全身に火が回っている。
「六さんが燃えている」「六さんが火事だ」
人が燃えている姿を見て、皆、前より慌ててしまって、桶が見つからないやら、水を掛けようとして自分の頭に掛けてしまうやら、なにがなんだかわからなくなった。
「六さん、六さん」
ただいたずらに泣き叫ぶ女もいる。
「六さん、大丈夫か」
「どうも、大丈夫じゃねえな」
「お前さん、燃えやすいんだな」
「俺も知らなかったよ」
「今、消してやるから」
「うん、なんだか遅いようだ」
六さんの顔も炎の中に見え隠れしていたが、だんだん影のようになって、消えてしまった。
燃え尽きてしまうと、みな呆然として、うつろな声を発した。
「六さん、愛染明王のようだった」
「いや、六さん、火の中で笑っていたように見えた」
「かんじざいぼさつ、ぎょうじんはんにゃはらみたじ・・・」
と西念が経を読む声が聞こえた。
「えーと、六さんは門徒だっけな法華だっけな。まあ、いいや、どっちでも。なむあみだぶつほうれんげきょう」
春になった。
六さんの根が残っていた。そこから若葉の芽が吹いた。
ある朝、ほぎゃーという泣き声が聞こえた。芽は男の赤ちゃんの姿になっていた。
みな、大あわてで産着を用意したり、隣の長屋に乳の出る女がいるというので呼びにやったりした。
ずんずん成長して、可愛らしい男の子の姿になった。
「おらあ、六ちゃんだ」
生まれて初めて発した言葉がそれだったので、みな驚いた。
「六さんの生まれ変わりに違いない」
というので、長屋の連中に可愛がられた。
だが、大人だった頃の六さんのことは、何も覚えていないようだった。
「そんなものだ、前世だとか来世なんてのは」
と西念が言ったが、誰も聞いていなかった。
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