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2014年01月

社長の業務:ショートストーリー『井戸端の六さん』

社長1  春の夕暮れ時、長屋の若い者がぞろぞろと通り過ぎる。
「お、みんな、お揃いだね。どこへ行くんだい」
 と六さんが声をかける。
「いや、熊のところに集まって皆で一杯やっていたんだが、こうしていてもしょうがねえから、吉原でも冷やかしに行こうじゃねえかってことになったんだ」
「おう、そりゃいいな。行っといで」
「六さんも行かねえか」
「俺は行けねえよう」
「あ、そりゃ、済まなかったな。じゃあ」

 夏の日盛りの中、長屋のガキどもが井戸のまわりで飛んだり跳ねたり、はしゃいでいる。
 八っつあんのところの金坊が井戸の縁へ上がったかと思うと、ちっちゃなちんぽこを出した。
「こらっ」
 と、六さんが叱る。
「井戸に小便なんかしちゃいけねえ。おめえのウチだって、小便で炊いたおまんまを食うことになるんだぞ」
 金坊はびっくりして、小便が止まってしまったらしく、井戸から離れて照れくさそうに頭を掻いている。六さんの声が金坊の母ちゃんのお兼さんに届いたかして、
「まったく、ウチの金坊と来たらロクな事しないんだから。いいんだよ、六さん、悪戯するところ見たら叱っておくれ」
 と言いながら、金坊の頭を引っぱたく。
「べーだ」
 金坊とその一味は、あっかんべえをしながら路地を駆け抜けていった。
「六さん、そんなところに突っ立っていると暑かないかい」
「いやあ、この頃は、後ろの桐の木が大きくなってきて、ちょうど日陰になるからそれほどでもねえ」
「そうかい。六さんも大変だねえ」
 と言いながら、お兼さんは六さんの足下に水を掛けてやっている。

 長屋の女房達が、井戸端で亭主の悪口を言い合っているのを、にやにや笑って聞いていたり、それが過ぎるとなると、
「まあまあ、男なんてのは仕方のねえもんだから、ほどほどにしてやりなよ」
 と声を掛けたりする。
 そうかと思うと、話し相手のいない糊屋の婆さんの昔話を、えんえんと根気よく聞いてやる。(それも、何度も聞いた同じ話だ)
 小間物屋のお美代ちゃんが、経師屋の清さんがちっとも自分のことを振り向いてくれない、と泣くのを、泣くんじゃない泣くんじゃないと肩を抱いて慰めてやる。

 六さんは、見たところは気のいい職人風のオヤジ。だが、足首のあたりから木の根っこのようになっていて、井戸端に植わっている。
 どこでどうするものか、ちゃんと夏は単衣物、涼しくなれば袷、寒い時はどてらを着ている。雨の日は蓑に笠、という恰好でものも言わず、じっと井戸端に立って長屋の軒から雨水が垂れているのをじっと見つめている。

 路地に空き巣狙いでも入ってくれば「おいっ」と凄んでみせる。
「俺の足元を見てみろい」
 と、例の根っこを見せれば、悪い奴でも化け物にでも会ったように飛び上がって逃げていく。
 人間だけではない。よく迷い込んでくる赤犬。こいつは、六さんを木だとばかり思ったようで、その足下で片足を上げようとした。
「こらっ」
 頭をぽかっと食らわしてやると、
「うひゃあ」
 人間みたいな叫び声を上げて逃げ出していった。

 長屋に西念という坊主が住んでいる。
 家々の前に立って経を読み、一文もらうまでは動かない乞食坊主だ。ぼろぼろの袈裟の前に頭陀袋を提げて、この表には「南無阿弥陀仏」と書いてある。これをひっくり返すと「南無妙法蓮華経」と書いてある。色んな宗旨に使える便利な頭陀袋だ。もらった銭や米をこの袋に入れて歩く。
 冬の風の強い晩のことである。
「高い山から~低い山見れば~低い山のが~どうしても低い~ああ、こりゃこりゃ」
 西念がわけのわからない歌を歌いながら帰ってきた。珍しく貰いが良かったかして、どこぞで呑んできたらしい。
「西念さん、ご機嫌だね」
「や、六さん、いつもいつもご苦労さん」
「別にご苦労ってこた、ねえやな。俺は産まれた時からここにいるから、ここにいるだけさ」
「寒くねえか。や、いいドテラを着ているな」
「まあ、俺だって、四季一通りのものは持っているさね。西念さんこそ、着た切り雀じゃねえか」
「ははは、墨染めの衣だけに着たきりカラスだな、ははは、愉快だ。六さん、一杯行こう」
 と西念は貧乏徳利を示して見せた。
「まあ、やめとこう。おまえ、俺を眠らせてドテラを引っぺがして質屋に持っていこうって魂胆だろ」
「や」
「去年もやろうとしたじゃねえか」
「あ、そうだった。いくら呑ませても六さんが寝ないもんだから、俺の方が先に酔いつぶれちまったんだ。わはっ、わはっ。危うく凍え死ぬところだったなあ」
「だから、いい加減にしておけ。早いところ寝ちまいな。火の元に用心してな」
「そうすらあ、わはははは」

 これがちっとも用心しなかった。行燈の灯をつけたままで寝て、足で蹴飛ばしてしまったのである。
「火事だーっ」
 いち早く六さんの叫ぶ声が聞こえる。
「火事だ、西念のうちだ」
 たちまち飛び出してくる長屋の連中、六さんも手伝って井戸の水をどんどん汲むと、西念の戸を蹴破ってどしゃどしゃ水を放り込む。水浸しになったものの小火のうちに消し止めることが出来た。
 やれよかったと、みな喜び合っていると、今度は井戸端で火が上がっている。
 何の加減か、火の粉が飛んで六さんの着物に燃え移ったのだ。見ると、既に全身に火が回っている。
「六さんが燃えている」「六さんが火事だ」
 人が燃えている姿を見て、皆、前より慌ててしまって、桶が見つからないやら、水を掛けようとして自分の頭に掛けてしまうやら、なにがなんだかわからなくなった。
「六さん、六さん」
 ただいたずらに泣き叫ぶ女もいる。
「六さん、大丈夫か」
「どうも、大丈夫じゃねえな」
「お前さん、燃えやすいんだな」
「俺も知らなかったよ」
「今、消してやるから」
「うん、なんだか遅いようだ」
 六さんの顔も炎の中に見え隠れしていたが、だんだん影のようになって、消えてしまった。
 燃え尽きてしまうと、みな呆然として、うつろな声を発した。
「六さん、愛染明王のようだった」
「いや、六さん、火の中で笑っていたように見えた」
「かんじざいぼさつ、ぎょうじんはんにゃはらみたじ・・・」
 と西念が経を読む声が聞こえた。
「えーと、六さんは門徒だっけな法華だっけな。まあ、いいや、どっちでも。なむあみだぶつほうれんげきょう」

 春になった。
 六さんの根が残っていた。そこから若葉の芽が吹いた。
 ある朝、ほぎゃーという泣き声が聞こえた。芽は男の赤ちゃんの姿になっていた。
 みな、大あわてで産着を用意したり、隣の長屋に乳の出る女がいるというので呼びにやったりした。
 ずんずん成長して、可愛らしい男の子の姿になった。
「おらあ、六ちゃんだ」
 生まれて初めて発した言葉がそれだったので、みな驚いた。
「六さんの生まれ変わりに違いない」
 というので、長屋の連中に可愛がられた。
 だが、大人だった頃の六さんのことは、何も覚えていないようだった。
「そんなものだ、前世だとか来世なんてのは」
 と西念が言ったが、誰も聞いていなかった。


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今週のおさむらいちゃん

新作45

これでいーんじゃないでしょうか。

お社長の業務:ショートストーリー『自動車さん』

社長1  家に駐車スペースがないので、近所の月極めの駐車場を借りている。私が借りているスペースの番号は15番だが、しばらく隣の16番が空いていた。
 次はどんな車が隣に来るのだろうと思っていたが、なかなか決まらないようだった。

 ある日、駐車場に行ってみると、16番に背広を着た、頭の禿げた男が立っていた。新しく借りる人だろうか。ポケットに手を突っ込んで所在なげだったが、下見にでも来たのだろうか。
 目があったので、なんとなく会釈すると、むこうもちょこっと頭を下げて、それきり向こうを向いてしまった。

 それから駐車場に行くたびに、その人に会う。いつでも地味な背広を着て、突っ立っている。車の方は見たことがない。
 いったい、何をやっているのだろうか。気味が悪くなってきた。真面目そうに見えるものの、私の車にいたずらでもしなければいいが、と少し心配になった。

 ある休日、洗車をしようと思って行ってみると、やはり、その人は立っていた。
「いいお天気ですね」
 と声をかけてみたが、
「はあ」
 と気のない返事が返ってきただけである。
 なんとなく面白くない気持ちでドアを開けていると、別のやはり禿げ頭で口髭を生やしたブルゾン姿の男が16番にやってきた。おや誰だろうと、なんとなく気になって見ていると、口髭は、前からいた背広の男を前から後ろからじろじろ見ている。
 そんなに見られて気持ち悪くないのだろうかと思っていると、口髭は、大きく頷いて、
「よし」
 と言った。そして、背広の男の背中に負ぶさった。
 負ぶさった男がしばらく、背広の男の禿頭をなで回していたが、やがて、背広男が
「ぶるん、ぶるるるるるる、ぶううううううん」
 と言って、ゆっくり歩き出した。駐車場の出口でいったん止まり、負ぶさった男が左右を見渡していたが、やがて、背広男が
「ぶうん、ぶうん、ぶうううううう」
 と言って、走って姿を消した。

 次の日、背広男は私を見ると、決まり悪そうにそっぽを向いてしまった。私は、
「昨日は、男性を負ぶっておられましたね」
 と聞いてみた。
 男は、そっぽを向いたままである。
「あの方は、どなたですか? なんで、あんなことをなさっているんですか?」
 答える気はないようである。
 そこへ、
「私の車がどうかしましたか」
 と言う声がした。昨日の口髭の負ぶさり男である。
「車?こ の人がですか?」
「そうです。これが私の車です。こう見えても、由緒正しい自動車でしてね。こいつの家系は代々、車なんです。しかも、明治時代には南品川侯爵家に用いられた人力車、江戸時代には上大崎藩二十五万石の殿様の大名駕籠をやっていたという・・・」
 そこまでいうと、車と呼ばれた男が口髭男に耳打ちした。口髭男は大きく頷くと、
「そうそう忘れていた、平安時代には関白太政大臣・中目黒氏の牛車をやっていたんだったな」
 口髭男は、結構話し好きらしい。
 いずれドライブにでもお誘いしましょう、じゃ、失礼、というと、やはり車に負ぶさり、ぶうんぶうん、と言いながら駐車場から出て行った。
 私は、その日から16番に佇んでいる男を「自動車さん」と秘かに呼ぶことにした。

 ある夜、仕事が遅くなって駐車場に戻ってくると、隣で口髭男と自動車さんが口論をしていた。
「どうしたんですか」
 知り合いになってしまった以上、無視も出来なくて声をかけてみると、口髭男が、
「この、わしの車が、車の分際で乗せないと言うんだ」
 酔っているようだった。
「酔っぱらい運転はさせない。これは、私の自動車としての良心だ」
 と自動車さんは断固とした口調で反論した。酔っぱらい運転を許さない気持ちは見上げたものだが、考えてみれば単に男が男を負ぶって歩き回るだけのことだ。そこまで、激しく言い合う必要もないような気がする。
「車は持ち主の言うことを聞いていればいいんだ。わしは、今、車に乗りたいんだ」
「だめだ。どうしても乗りたければ、代行運転でも用意するんだな」
「代行運転か・・・」
 そう言われて、口髭男は私の方を見た。
「なあ、あなた、済まないが、私の車を運転しては下さらぬか。あなたもドライバーなら、ちょっと興味があるでしょう? お礼はしますよ。なあ、私はどうしても今乗りたいんだ」
 本来なら、冗談じゃないよと断るのだが、男の勢いに気圧されてしまったのと、好奇心もあったのだろう、つい「はい」と言ってしまった。

 考えてみれば、人の背中に負ぶさるなんて何年ぶりだろう、気恥ずかしいものだ。口髭男は、私の様子を見ながら、
「乗りましたかな? しっかりつかまって。では、私が乗りますぞ」
 そう言うと、「えいっ」と声をかけて、なんと自動車さんに負ぶさった私の背中の上に飛び乗ってきた。自動車さんは、しっかと大地に足を踏ん張ってこらえている。男の背中に男が負ぶさり、そのまた背中に男が負ぶさるという、世にも珍妙な三人組が出来上がった。
「じゃあ、行きましょう」
 と口髭が言うと、自動車さんが、ぶうんぶううん、と爆音を上げ始めた。そして、ゆっくりと歩き始めた。

 夜道とはいえ、人通りはある。人がすれ違うたびに、ぎょっとした顔で我々を振り返る。非常に恥ずかしい。
「あの、どこまで行くんですか」
「そうですな、海の方にでも行きますかな」
 口髭男は、いつも自動車さんに負ぶさったままで、よほど遠くまでも行っているらしい。ちくちくとした後悔の念が私を責め始めた。あのまま家に帰っていれば、今頃は風呂にでも入ってくつろいでいるだろうに。
 幹線道路に出た。驚いたことに、自動車さんは車線を走り始めた。
「お、おい」
 私は思わず叫んだ。
 5~60キロは出ている車の流れに乗っている。恐ろしい脚力だ。風がびゅうびゅう顔に吹きつける。
 前にテールランプ、後ろからはヘッドランプに照らされて、両脇にも車が走っている。自分が車に乗っている時には何とも思わないが、人に負ぶさって、こういう状況にあるのは実に恐ろしい。寒さだけでなく、恐怖感から来る震えが止まらない。 
 別に私が特別弱虫だというわけではないのだ。嘘だと思ったら、一度やってみるがいい。 
 口髭男は、自分がドライブしたいと言い出した癖に、私の背中でイビキをかいて寝ている。重いだけでなく不快である。
 嘘だと思ったら、一度、耳元にある中年男の口から出る酒臭いイビキを頬に受けてみるがいい。しかも、男の背中と男のお腹にサンドイッチにされながらだ。

「ぬわっ」というような声を上げて、口髭男が目を覚ました。
「喉が渇いたな。何か、飲み物が欲しい。あそこのコンビニの駐車場に入れ」
 と命令した。
 命令が突然だったからかもしれない。駐車場に止まる時、何かの加減で自動車さんはよろめいて転んでしまった。そもそも、男二人を背負って5~60キロで走ると言うことに無理があったのかもしれない。
 我々はアスファルトの地面に放り出された。
「いてて」
「大丈夫ですか・・・」
 酔っぱらいは怪我をしないものらしく、口髭男は何ともなさそうだ。私も手首をちょっとすりむいただけだ。だが、
「うーん、うーん」
 自動車さんが呻っている。足を挫いたらしい。
「大丈夫か。立てるか」
 自動車さんは、私の肩につかまって、やっと立っている。歩くと足を引きずってしまう。
「これは、乗るわけにはいかないな」
 我々三人は、自動車さんに肩を貸しながら、近くの駅まで行って、電車に乗って帰ってきた。
 電車に揺られている自動車さんは、溜息をついて、
「乗り物って、いいよなあ・・・」
 と、しみじみとした声で言った。


 
 

今週のおさむらいちゃん

新作44

勝負は勝ち負けではない。その結果をどう自分に落とし込むかだ。

社長の業務:ショートストーリー『究極捕物帖』

社長1 文政年間のある年の江戸。春である。
 隅田川を見下ろす土手の上にある掛け茶屋の露台に座った若者の口から、ぽわっと煙草の青い煙が上がった。
 「水茶屋に来ては輪を吹き日を暮らし」という川柳にあるような怠け者が、茶屋の娘をからかったりしながら日永を潰しているという図である。
 なんとなく顔つきも間抜けそうな彼が見下ろす岸辺には、初老の男が釣り糸を垂れている後ろ姿がある。これまた、どこぞの隠居が退屈のあまり家から這い出てきて、釣れても釣れなくてもいい、という感じで時々、魚が引いていても居眠りをして気づかないといった具合である。
 だが、見るものが見れば、若者の目が尋常でない光りを帯びていることがわかっただろう。

 二年前の秋、日本橋本石町の大店「小松屋」で押し込み強盗があった。大金を持ち去られた上、店の者は主人夫婦から下男下女に至るまで、惨殺されていた。
 それほどの事件でありながら、隣近所には一切気づかれていない。店の鍵が内側から開けられていること、その晩に限って土蔵の中には大きな商いの決済のため千両箱が積まれていたこと、土蔵の鍵も何者かによって開けられていたこと、などから内通者がいたものと思われるが、それが判明していない。
 これほどの仕事をするのは、「般若の矢十」の仕業に違いない、というのが奉行所や八丁堀の町与力の内々の見解であった。
 般若の矢十は、この二十年のうぢに、三回、江戸で大きな仕事をしている。いずれも、大店を狙った押し込みで、皆殺しの上に大金を取り、しかも決定的な証拠は残さない。
 大仕事の後は、江戸から離れて潜伏しているようで、京大阪にいたとか、名古屋にいたとか、あるいは、松前や長崎にいたというような情報がもたらされるが、いずれも確たるものではない。
 相当の確信を持って隠れ家らしきところに踏み込んでみれば、すでに逃げた後で、からっぽということもあった。
 いってみれば、この二十年の間、八丁堀と矢十の間で、表に現れない暗闘が続いていたと言ってよい。
 その矢十が、最近、小松屋の事件から二年しか経たぬというのに、江戸に戻ってきたという情報がもたらされた。

 水茶屋で煙草を吹かしている若者は、喜八という。八丁堀の与力・伊東清十郎の手足となって働く下っ引きである。二年前までは、若いながら腕のいい飾り職人であった。
 小松屋の事件で、店の二階へ上がるはしご段の下に、若い娘の惨殺死体があった。女中奉公に入っていたお菊という娘だった。年が明けたら、祝言をあげようと喜八と言い交わしていた仲であった。
 事件後、喜八は神田三河町の親分・全七に頼み込んで手下にしてもらい、捕り物に手を染めることになった。
「こうしていれば、いつかお菊の仇を取れる機会が巡って来ねえともかぎらねえ」

 伊東清十郎から三河町の全七親分に捜査の依頼があってから、喜八の目の色が変わった。
 寝る間も惜しむ行動力、推理と直観の冴え。錯綜する情報の中から、八丁堀が矢十に対する包囲網をじりじりと狭めていったのには、喜八の力が預かって大きいといわねばならない。
 下っ引きという立場とはいえ、次第に一目置かれ、与力・伊東の耳にもその名前が入るようになっていた。
 喜八は、お菊が自分を導いてくれていると思っている。お菊が自分の力以上の力を出させてくれていると思っている。
「矢十の野郎を挙げねえことには、冥土で菊に会わせる顔がねえ」

 あの呑気そうに釣り糸を垂れている男が矢十だ、という確信が喜八にはあった。
 喜八は、矢十を追及し続けてきた挙げ句、なにか、自分の手から出た細い糸が矢十の心に繋がっているような気がしてきている。もはや、矢十の心の小さな動揺も見逃さないだろう。
 そろそろ、矢十は動く。しかも、喜八の勘では、今日明日にでも、手下と接触して動き始めるはずだ。そこにわずかな隙が出来る。
 のどかな春の昼下がり、二人の間には、鋭い針金のような緊張感がある。

 風呂敷包みを背負った男が矢十の傍に来た。何か、話をしていたが、離れて土手の上を浅草の方に歩いていった。
 すかさず、茶屋の後ろに隠れていた喜八の仲間の源五が後を追う。喜八は呟く。
「あれは、ちがう。本当の動きはまだこれからだ」
 さすがの春の日永も、だんだん暮れ始めてきた。だが、矢十は動き出す気配もない。
「こうなったら、我慢比べだ」
 喜八は、また一服煙草を吸い付けた。

 やがて、日が暮れた。真っ暗になって釣りどころではないはずなのに、矢十は動かない。そして、夜が明けた。今日もお天道様が昇ってきた。喜八は、矢十の背中を見つめ続けている。そして、日は南中する・・・。
「先に動いた方が負けだ・・・・・・」

 月日が経った。
 満天の星空の中に、丸い月が輝いている。目の前の隅田川は、とっくに水が涸れて銀の砂がどこまでも続いている。
 喜八は、髪の毛も髭も真っ白になり、一度も刈らないので長く長く伸びている。顔はもはや枯れ木のようで、くぼんだ奥の目は閉じられている。
 相変わらず目の前には矢十が座っている。喜八同様、仙人のようになってしまった後ろ姿が青白い光を受けて光っているように見える。
 あれから、文政、天保、弘化、嘉永と時代は下ったが、二人は座り続けていた。
 その後、ペルリが黒船を引き連れてやって来て、安政、万延、文久、元治、慶応ときて、喜八達の元締めであるはずの徳川幕府が倒れて明治、大正となり、だんだん隅田川の両岸にも大きな建物が見られるようになったと思うと大震災が起こって、それらがすべて燃やされ尽くして、その後、また復旧してきたかと思うと、亜米利加のB29という爆撃機がやってきて、再び燃やし尽くし、その後、今度は前にも増して大きな建物が増えてきて・・・・・・で、あんなことやこんなことがあって、何万年かが過ぎた。
 地球の生態系も大きく変わった。様々な生物が現れては滅びていった。
 そして、かつて人類と呼ばれた生き物の最後の二匹として、喜八と矢十がこうして、かつて隅田川と呼ばれたところに座り続けているのだった。

 彼らが向いている方の空に、大きな赤い彗星が斜めに宙を突んざいた。
 その途端、千年ぶりに喜八が落ちくぼんだ目を明けた。
 相変わらず、土手の下には銀砂の隅田川に向かって矢十が座っている。まだ生きているのだろうか。もう死んでいるのかもしれない。
「おおい、般若の矢十・・・・・・」
 と、喜八は何千年か振りで、かすれた声で言葉を発した。
「いいかげんに、観念しねえかぁ」
 すると、矢十の頭がちょっと、こっちの方を向いた。まだ生きていたらしい。
「なにい、矢十ってのは、誰のこったい」
 やはり、かすれた声だ。
「俺は、薬研堀の三河屋って家の隠居で幸兵衛ってんだ」

 ・・・・・・人違いだったらしい。
 


 

新作41元旦

あけましておめでとうございます。
旧年中は文豪堂書店をごひいきに、ありがとうございました。
本年も、いっそう楽しいコンテンツをお届けしたいと思っています。
どうぞよろしく!