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2014年03月

社長の業務:落語『砂絵の騒ぎ』

社長1  ある長屋に、善吉という職人と女房のお咲というのが仲睦まじく暮らしておりました。
 ところがどうしたことか、お咲が身体がだんだん砂になってしまうという奇病に取り憑かれた。
 なんせ医学の発達していない頃の話ですから、どのお医者に頼んでも薬の盛りようがない。もっとも、こんな病気、医学が発達しても手のつけようがないかも知れませんが。

 もう、砂になった身体を横たえているばかり。それでも、何とか口は聞けていたんですが、ある時、うっかりと戸を開けっ放しにしていたところへ春先の強い風が、さっと吹き込んだものだからたまらない。お咲は跡形もなく吹き飛ばされてしまいました。
 後に残された善吉の悔やむまいことか。どうかして、もう一度、お咲に会いたいと、そればかり思って暮らしておりました。

 折から聞き込んだのが、浅草の観音様の境内に出ていた大道芸人の婆さんの噂。これが、握った拳のうちから色とりどりの砂をさらさらと地面にこぼし、それで砂絵を描いてみせると言います。
 近くにあります、歌舞伎の中村座、守田座、市村座・・・いわゆる浅草三座で評判になっている芝居の一場面を、本物そっくりに描き出す。
 そればかりじゃありません、鳶の羽毛で掃いたり、火吹き竹で風を送ったりして、絵を動かしてみせる。これが本当に芝居を見ているように動くというので大評判。芝居に行く銭のないやつはもちろん大喜び。三座の方は邪魔に思うかというとさにあらず、却っていい宣伝になるというので、喜んでいるという。
 人呼んで「砂描き婆あ」。
 善さん、絵でもいいからお咲の動く姿を一目見たいってんで、この婆さんに弟子入りを頼み込んました。
 善吉の願いを聞いていた婆さん、じっと、その顔を見ておりましたが、ハタと膝を打つと、
婆「いいじゃろう。教えてやろう。だが、絵をいじって動かすなんぞは子供の悪戯に等しい。魂を込めて、本当に生きているのと同然に動かすという技を教えて進ぜよう。これは、思いが純一なものしか会得できない技じゃ。わしも伝える相手がいないので困っておったが、お前の瞳に純なるものが見えた故、教えて進ぜるのじゃ」

 さあ、それから善さん、狂ったように修行に励みます。その甲斐あってか、やがて免許皆伝。
 三・七・二十一日の精進潔斎の後、長屋の部屋に紙を敷くてえと、お咲の姿を描き出す。そして、魂を込めるや、
咲「あら、お前さん、また会えたんだね。あたしゃ、嬉しいよ」
 ってんで、お咲が口を聞いてくれた。絵から抜け出てくるてえと、また二人仲良く暮らし始めます。

 これを聞き込んだのが、隣に住んでおります独り者の八五郎。
八「なあ、善さん、その砂絵てえのを習いてえんだよ」
善「なんでだい」
八「俺は、芸者のぽん太に痛く惚れこんじまったんだ。だが、俺みてえに銭のないやつには振り向いてもくれねえ。こうなったら、砂絵でもいいから、あいつとゆっくり話がしてみてえ」
善「そうは言うが、この技は気持ちが純でなければできねえんだ」
 と、八五郎の顔を見る。瞳の奥が、らんらんと燃えさかっていますな。そりゃあ、すごいもんで、
善「いや、色ボケでもここまで来ると大したもんだ。こいつは、ものになるかも知れねえ」
 というので、婆さんに紹介する。婆さんの方でも、その目の輝きに感じ入って入門を許す。
 モテたいという一心も馬鹿には出来ません。一生懸命、修行に励んで会得してしまう。そして、三・七・二十一日の精進潔斎を済ませるてえと。
八「さあ、ぽん太ぽん太ぽん太ぽん太、出てきておくれよ」
 と念じる。
ぽ「あら、八っつあん、今晩は。お前さん、今まで気がつかなかったけど、よく見ると様子がいいよ」
 てんで、三味線を持って出てくる。
八「うひー、俺は、こんなにモテたことはねえや。そうだ、お前の妹分の小春と小梅も呼び出して、今夜はひとつ、陽気に騒ごうじゃねえか」
 これも砂絵を描くてえと、
小春・小梅「お兄さん、今晩は」
八「おう、来た来た来た来た、今晩は、寝ねえぞ。夜っぴて騒ぐぞ。ありゃありゃありゃありゃ、と」

 沖の暗いのに白帆が見える あれは紀の国 みかん船 
 あ、かっぽれ かっぽれ 甘茶でかっぽれ

 もう、とんでもない馬鹿騒ぎ。
 こうなると、災難なのは隣の善さんですな。
善「ありゃ、ひどい騒ぎだねえ。うちが揺れてるんじゃないかい? でも、婆さんを紹介しちまったのは俺だ。しょうがない、今晩一晩くらいは我慢するか」
 というので、耳を塞いで布団を被ってじっとしている。
 ところが、突然ぴたりと騒ぎが止まってしまった。
 うるさいのも困りますが、急に静かになっちまうてのも、気持ちの悪いもんで。
 善さん、隣へ行ってみる。戸を開けるてえと、中で八っつあんが一人でぼんやり座っております。
善「おう、八っつあん、随分賑やかだったじゃねえか」
八「ああ、善さんか。俺あ、あんなに派手に陽気に浮かれたのは生まれて初めてだ」
善「急に止まっちまったのは、どういうわけなんでえ。芸者達はどうした?」
八「ああ、やっぱり陽気に騒いでいたがなあ」
善「どこ行っちまったんだい」
八「あいつら、元が砂だろう」
善「どうしたい」
八「舞い上がっちまった」

お後がよろしいようで。
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社長の業務:落語『龍の与太郎』

社長1  ええ、落語のほうの大立者てえますと、馬鹿の与太郎ってことになりますが。
 この与太さん、ある日、長屋の井戸端に突っ立って、路地の入り口のほうをじーっと見ておりました。そこへ同じ長屋の者が声を掛けます。、
熊「おい、与太。なに突っ立ってんだよ。口をぽかんと開けて、相変わらず間抜けな面だぜ」
与「おや、どちらさまでしたっけ」
熊「おい、しっかりしなよ。おめえの隣の熊だよ」
与「ああ、隣の熊」
熊「呼び捨てか」
与「・・・さん」
熊「分けて呼んでやがら。なに、ぼんやりしてんだい

与「あ、あのね、今ね、ここんとこ通り過ぎていった女、いーーーーーーーーーーーい、女だったね」
熊「ずいぶん伸ばしやがったな」
与「あれは、どこのどなた様だろうね」
熊「同じ長屋の者だから、様をつけるほどのことはねえがな」
与「え? この長屋のひと?」
熊「馬鹿はこれだからしょうがねえな。ひと月ばかり前に越してきて、お前んちのこっち隣に俺が住んでいて、反対の隣に住んでいるのが、あの女じゃねえか。おめえんところにも、挨拶に来たろ」
与「じゃあ、ご近所だ」
熊「ご近所過ぎら」
与「いーーーーーーーーーーーい、女だね」
熊「また、始まりやがった。ははあ、お前、あの女に惚れたな」
与「いいや、惚れちゃいないよ」
熊「じゃあ、どうしたんだ」
与「ただ、あたいのお嫁さんになってもらって、朝から晩までずっと一緒にいたいと思っただけだ」
熊「それを惚れたって言うんだ。だが、あの女はよした方がいいぜ。あれは両国に出ている見世物の蛇女だ」

 昔はてえと、隅田川に掛かる両国橋のたもとの火除け地にいろんな見世物小屋が出て、随分と賑やかだったそうですな。
熊「それも、化粧をしたり被り物を被ったり、という作り物じゃねえ。客が見ている前で、その肌が鱗に変わっていくんだそうだ。ありゃあ、本当の化け物だ・・・考えても見ろ、女日照りの独り者がごろごろしているこの長屋で、あんないい女に誰も手を出そうって者がいねえんだ。よした方がいい」
与「じゃあ、なんだね。あたいのお嫁さんにしても、誰も文句は言わないんだね」
熊「あれ、恐くねえのかよ。ありゃ、人間じゃねえよ」
与「あたいだって、人間じゃないよ」
熊「じゃ、何なんだい」
与「あたいは与太郎さん」
熊「この野郎。おめえは、人間で与太郎なんだよ」
与「そんな一人二役は難しい」

 馬鹿に何を言っても効かないようで、その晩、女が長屋に戻ってくると押しかけて、
与「お前、よく帰ってきたね」
女「きゃっ、なんだい、お前は」
与「お前の亭主の与太郎さん」
女「おやっ。何だと思ったら隣の与太さんか。どうしたんです」
与「あのね、話せば長いことながら、あたい、お前さんに惚れちゃったの。おかみさんになってください」
女「長いことながらって、ずいぶん、短いじゃないかね。つまり、あたしと所帯を持ちたいとこう言うのかい・・・お前さん、あたしの正体を知らないんだね」
与「蛇女でしょ」
女「あら、呆れたね。知っているのかい。それを知ったら、大抵の男は尻尾巻いて逃げていくんだけど」
与「あたい、尻尾がないから巻きようがないんだい。ねえ、おかみさんになっとくれよ」
女「お前さん、馬鹿かも知れないが、本当に実があるんだね・・・お前さん、いえ与太郎さん、あたしが人間じゃないというのは本当なんです。
 あたしの正体は龍神の娘なんです。雲の上に住んでいたんですが、時々、人間の世界に遊びに来るんです。
 こないだも人間の娘に化けていろいろ見物していたんだけど、夜中になって、ふと水に入りたくなって、大川で着物を脱いで素っ裸で泳いでいたんです。誰もいないと思って。
 ところが、両国の見世物小屋の婆さんに見られていた。下界に降りて龍から人間に化けるところを見られて、跡をつけられていたんです。
 婆さんは、脱ぎ捨てていた着物を奪うと、これを返して欲しけりゃ言うことを聞いて見世物になれ、と言う。悪いことに、虹を閉じこめた水晶の玉が着物のたもとに入っていたの。
 その玉がなけりゃ、あたしは天に戻れないんです。どうか、それだけは返してくれと言ったのに、絶対に返そうとしない。隙をうかがって奪い取ろうとしても、ちっとも隙を見せないんです。
 与太郎さん、それを取り戻していただけませんか。もし、そうしてくださったら、あたしはずっと人間界にいることはできませんが、一夜だけ、与太郎さんの妻になりましょう」
与「なんだか話が長いんで、あたい、くらくらしてきちゃった。要するに、その玉を持ってくればいいんだね」
女「婆さんは、すごく陰険で用心深いんです。気をつけてください」
与「なんだか知らないけど、行ってくらあ」
 と、馬鹿は、こういう時、余計なことを考えないのがいいですな。

 こちらは、両国。例の見世物小屋の奥で、百目蝋燭の下、婆さんが今日の上がりの銭函を前にほくほく顔。水晶の玉を手に、
婆「今日も、大入り満員か。この玉さえ押さえておけば、あの女は一生、言いなりさ。まがい物ばかりの、この両国の見世物で、あいつばかりは本物なんだから、周りは霞んじまうさ。江戸が終わったら、東海道を見世物しながら上って、名古屋、京、大坂についたころには、一生遊んで暮らせる金持ちになっているね」
 と、ほくそ笑んでいるところを、掌の上の玉をむんずと掴んだのは与太郎さんであります。
 馬鹿の風格と申しましょうか、案内も請わずに、堂々といきなり入って来てしまうんで、婆さんの子分もあっけに取られる中を奥まで来てしまった。
 婆さん、慌てて玉を放すまいとしますが、馬鹿力とはよく言ったもので、そのまま婆さんごと引きずって歩きます。

 長屋に戻った頃には、婆さんをどこかに落としてきたか、それとも引きずっているうちに擦り切れてなくなっちゃったか、ともかく玉だけを「ほい」と龍神の娘に渡します。
 女の喜ぶまいことか、一夜、しっぽり契った後、夜明け前に与太郎の枕元に手をついて、
女「お名残は惜しゅうございますが、私は天に帰らなければいけません」
与「天に帰るてえと、火の見櫓かなんかに上がるのかい」
女「そうではございません。この玉に念を入れますと、私は龍の姿に変わり天に昇るのでございます」
与「そりゃ、面白いや。やって見せとくれよ」
 女だけにしみじみと衣ぎぬの別れを惜しむなど、浪漫的な別れにしたかったのですが、馬鹿の勢いには敵いません。その場で念を入れる・・・。

 ばっと、まぶしい光りが玉から出て、女は龍の姿になって天に昇る。
 馬鹿だったけれど、一夜を夫として供に過ごした男、今一度、その顔を見ておこうと、下を見ますと与太郎がいません。 ふと前を見ると、自分と一緒に天に昇りつつある。
女「お前さん、どうしたの」
与「いやあ、今まで忘れていたんだけどね」
女「何をさ」
与「考えてみたら、あたいも、ずっと昔に天から下ってきて人間に化けた龍だったんだよね。馬鹿だからすっかり忘れて、人間の与太郎のつもりでいたんだが、玉の光りを浴びたら思い出した」
女「あら、そうだったのかい。じゃあ、天上界で所帯が持てるんだね。うれしい・・・でも、ヘンだね。お前さん、人間の姿のままだよ」
与「あ、あたい、馬鹿だから龍の姿に戻るのを忘れていた」
 てえと、
与「わーーーーーーっ」
 そのまま、真っ逆さまに落っこっちまった。 
女「お前さん!ああ、なんてことだろう。せっかく龍なのに馬鹿なばっかりに命を落としてしまった」
 わっと泣いた涙が、激しい雨となって大江戸に降りそそいだと言います。

 ところが与太郎さん、馬鹿なもんだから、死んだのを知らずに生きていた。
 龍神の娘、この様子に呆れて、龍王様に申し上げると、破顔一笑、
王「わっはっはっは。我が龍の一族に、こんなに呑気なものがおったとは愉快である。もしその方に、その気があるなら、今しばらく人間界に戻って、そのものの面倒を見てやるがよい」
 龍王様の許しを得て長屋に戻り、「高砂や、この浦舟に帆を揚げて」、大家さんの媒酌で晴れてめでたく所帯を持ったという龍の与太郎の一席。
 馬鹿馬鹿しいお話でございました。

社長の業務:ショートストーリー『学校の神様』

社長1  ここは、どこだろう。廊下だと言うことはわかっているけど。前にまっすぐ、長く続く廊下だ。なんだか見覚えがあるような気がする。
 この廊下を見ただけで、ここがどこか当てなくちゃならないんだ。そういうルールを決めたような気がした。
 例えば、この右側は、ずっと窓が続いている、だから、外からの光りで、この廊下は明るい。
 でも外になにがあるか見ちゃいけない。どうしても、前に続いているし、その窓ガラスの向こうにちらちらなにか風景が見えるような気がするけど、首を動かして、そっちを見ちゃいけない。目はまっすぐ前に向いていなきゃいけない。それは、ここがどこか当ててからじゃないと見ちゃいけない。
 そういうルールなんだ。
 左側には、部屋が続いている。それも見ちゃいけない。まっすぐ前だけを見て、なるべく左右の窓や部屋の中を見ないようにして言い当てなきゃいけない。
 そう、これは、もうどうしたって知っている場所だ。だけど、本当に確かにそうだという証拠を発見してから、言い当てなきゃいけない。
 そういうルールなんだ。

「ひとり遊びだね」
 どこからか、そういう声が聞こえた。低くて、ぼんやりした声だ。それが、左側の部屋の中から聞こえてくることはわかっている。でも、そっちの部屋の中は見ちゃいけないルールだ。
「君は、いつもひとり遊びだ」
 また、声が聞こえてくる。この声に答えていいんだろうか、いけないんだろうか。
 ぼくは、どぎまぎした。見えるものについてのルールはあるけど、聞こえる音や声についてのルールは、まだ、なかったような気がする。
 ただ、見えるものから、ここがどこかを言い当てるってのが、ルールなんだ。
「うるさいよ」
 思わずぼくは、こう答えた。ルールを守るためには、この声を黙らせなくてはいけない。
「黙っていてよ。ぼくは、まっすぐ目の前に見えるものから、ここがどこかを当てなきゃいけないんだ」
 すると声がこう言った。
「俺が誰だか、知りたくないかい」
 知りたい。すごく知りたい。確かに知りたい。
 でも、ここがどこかを当てる方が先じゃないのか? そう決めたんじゃないのか? いや、ぼくが決めたのかどうか忘れたけど、そういうルールだったんじゃないのか。
 ぼくは、足の裏からジャックの豆の木が生えてきたような、焦った気持ちになった。

「見なきゃいいんだよ」 
 と声はずるがしこそうに言った。
「目をつぶってごらん。そして、そのまま、こっちを向いてごらん。そうすれば、ルールに違反しないよ」
 そりゃそうだ、目をつぶって見るのは見ることにならないものな、と思うより先に首が動いていた。目をつぶっても、ぼんやりとだけど目蓋を通して向こうが見えた。そして、ぼくは左側の部屋の中、廊下に面した窓ガラスを通して、黒板の前、教壇の上に胡座をかいて座っているそいつを見た。
 そいつは、像の顔をしていた。頭にターバンみたいなものを巻いていた。鼻の下には牙が生えていたが、鼻の横にはウナギみたいな黒い髭を生やしていた。丸いお腹。
「ガネーシャ!」
 思わずぼくは叫んでいた。この間の日曜日、お父さんと行った博物館に、こいつの石像が置いてあった。インドの神様で、なにか頭がよくなる神様だったような気がする。
 
「そう」
 とガネーシャは答えた。
「もう、目を明けてごらん」
「目を明けたらルール違反だよ」
「じゃあ、ここがどこだか言ってご覧よ。わかるだろう」
 そういえばそうだ。目をつぶっても見えるのだもの。わかり切っている。学校だ。なんだか、面白くない。せっかく苦労して守っていたルールを蹴飛ばされてしまったような気がする。
「ほら、いつも君は楽しいことよりルールが気になっている」
 ガネーシャは言った。
「だから、いつも、ひとり遊び」

「ちがうよ。みんなだって、ルールを守って遊んでいるよ」
「それは、みんなで遊んでいるんじゃない。ひとりひとりがルールを守るごっこをしている。ルールから外れたヤツをとがめるごっこをしている」

 なんとなく面白くなかったので、ぼくは目を明けた。白い光りが一杯入って来て、急に明るくなった。目の前の廊下はずいぶん長かった。こんなに長かったっけ。廊下の果てが見えないようだ。
 誰もいない。その分だけ、ますます廊下が長く見えるようだ。
 今日はお休みなのかな。休みの日には、廊下は伸びるのかな。
 ぼくは、さっさと足を大きく広げて歩き出した。
「どこへ行くんだい」
 また、ガネーシャだ。さっきの教室は通り過ぎたのに、左を見ると、そこの教室の教壇の上に、さっきのように胡座をかいている。
「うちへ帰る」
「どうして」
「休みの日の学校にいたって仕方ないもの」
「休みの日の学校にいるから面白いんじゃないか」
「見つかったら叱られちゃうよ」
「そうかな」
「そうだよ。決まっているじゃないか」
「学校なんてのは、学校が休みの日に来るにかぎるよ。俺なんか、ずっとそうやっているんだ」
 もしかして、ガネーシャも学校の生徒なのかな、と思った。生徒の癖に休みの日にばかり来るから、誰にも知られないんだ。
 先生にも生徒にも知られないんだ。
「休みの日ばかりに来ていたら、誰とも会わないだろう」
 と僕は聞いてみた。
「今、俺と君が会っている」
「そうじゃなくて、先生にも会わなければ、授業も受けないし、友達とも会わないし、給食だって食べないし」
「それがどうした」
 ガネーシャは大声で笑った。
「まったく、君は嘘ばかりついているな。君は先生には会いたくないし、友達なんていないし、授業なんてさっぱりわからないし、給食なんて食べたくもないものを無理に食べているんじゃないか」

 飛行機が落ちてくるような音が廊下に鳴り響いた。でも、気がついてみると、ぼくが泣いているのだった。
「自分が泣いているのくらい気がつけよ。じゃなきゃ、誰も気がついてくれないぜ」
「ぼく、泣いてなんかいないよ」
 といっているぼくは、やっぱり泣いていた。
「だから、自分に嘘をつくな。泣きたいなら泣け」
「ぼくは泣きたくない。泣いてなんかいない。絶対に絶対に」
 ぼくは泣いていない泣いていない、と思いながら泣き続けた。ときどき、ガネーシャがどこかへ行ってしまったのではないかと心配になって上目遣いで見てみると、ガネーシャは困ったような顔をしてぼくを見下ろしていた。だから、ぼくは泣き続けた。そしてまたガネーシャを見上げた。ガネーシャがそこにいるのがわかると、また泣き続けた。

 泣いているうちに、ずらりと並んだ教室のむこうからも、こっちからも泣き声が聞こえてくるような気がした。誰か泣いているのだろう。泣いている子それぞれにガネーシャだか、他の神様だかがくっついているのかも知れない。
 でも、ぼくはぼくが泣くことに忙しくて、そっちの方には構っていられない。
 もうだいぶ泣いて、目なんか雨に濡れたハンケチみたいにくしゃくしゃになっているのに、まだ泣き声が身体の底から湧き上がってきた。
 ちらりと上を見ると、まだガネーシャはこっちを見ていた。
 ぼくは、いつまで泣いているんだろう。

 それから、だんだん誰もいない学校に来る子供が増えてくるような気がした。いろんな神様も増えてくるような気がした。
 でも、それは誰もいない学校なんだ。だって、誰もいないんだから。

社長の業務:ショートストーリー『学校の神様』

社長1  ここは、どこだろう。廊下だと言うことはわかっているけど。前にまっすぐ、長く続く廊下だ。なんだか見覚えがあるような気がする。
 この廊下を見ただけで、ここがどこか当てなくちゃならないんだ。そういうルールを決めたような気がした。
 例えば、この右側は、ずっと窓が続いている、だから、外からの光りで、この廊下は明るい。
 でも外になにがあるか見ちゃいけない。どうしても、前に続いているし、その窓ガラスの向こうにちらちらなにか風景が見えるような気がするけど、首を動かして、そっちを見ちゃいけない。目はまっすぐ前に向いていなきゃいけない。それは、ここがどこか当ててからじゃないと見ちゃいけない。
 そういうルールなんだ。
 左側には、部屋が続いている。それも見ちゃいけない。まっすぐ前だけを見て、なるべく左右の窓や部屋の中を見ないようにして言い当てなきゃいけない。
 そう、これは、もうどうしたって知っている場所だ。だけど、本当に確かにそうだという証拠を発見してから、言い当てなきゃいけない。
 そういうルールなんだ。

「ひとり遊びだね」
 どこからか、そういう声が聞こえた。低くて、ぼんやりした声だ。それが、左側の部屋の中から聞こえてくることはわかっている。でも、そっちの部屋の中は見ちゃいけないルールだ。
「君は、いつもひとり遊びだ」
 また、声が聞こえてくる。この声に答えていいんだろうか、いけないんだろうか。
 ぼくは、どぎまぎした。見えるものについてのルールはあるけど、聞こえる音や声についてのルールは、まだ、なかったような気がする。
 ただ、見えるものから、ここがどこかを言い当てるってのが、ルールなんだ。
「うるさいよ」
 思わずぼくは、こう答えた。ルールを守るためには、この声を黙らせなくてはいけない。
「黙っていてよ。ぼくは、まっすぐ目の前に見えるものから、ここがどこかを当てなきゃいけないんだ」
 すると声がこう言った。
「俺が誰だか、知りたくないかい」
 知りたい。すごく知りたい。確かに知りたい。
 でも、ここがどこかを当てる方が先じゃないのか? そう決めたんじゃないのか? いや、ぼくが決めたのかどうか忘れたけど、そういうルールだったんじゃないのか。
 ぼくは、足の裏からジャックの豆の木が生えてきたような、焦った気持ちになった。

「見なきゃいいんだよ」 
 と声はずるがしこそうに言った。
「目をつぶってごらん。そして、そのまま、こっちを向いてごらん。そうすれば、ルールに違反しないよ」
 そりゃそうだ、目をつぶって見るのは見ることにならないものな、と思うより先に首が動いていた。目をつぶっても、ぼんやりとだけど目蓋を通して向こうが見えた。そして、ぼくは左側の部屋の中、廊下に面した窓ガラスを通して、黒板の前、教壇の上に胡座をかいて座っているそいつを見た。
 そいつは、像の顔をしていた。頭にターバンみたいなものを巻いていた。鼻の下には牙が生えていたが、鼻の横にはウナギみたいな黒い髭を生やしていた。丸いお腹。
「ガネーシャ!」
 思わずぼくは叫んでいた。この間の日曜日、お父さんと行った博物館に、こいつの石像が置いてあった。インドの神様で、なにか頭がよくなる神様だったような気がする。
 
「そう」
 とガネーシャは答えた。
「もう、目を明けてごらん」
「目を明けたらルール違反だよ」
「じゃあ、ここがどこだか言ってご覧よ。わかるだろう」
 そういえばそうだ。目をつぶっても見えるのだもの。わかり切っている。学校だ。なんだか、面白くない。せっかく苦労して守っていたルールを蹴飛ばされてしまったような気がする。
「ほら、いつも君は楽しいことよりルールが気になっている」
 ガネーシャは言った。
「だから、いつも、ひとり遊び」

「ちがうよ。みんなだって、ルールを守って遊んでいるよ」
「それは、みんなで遊んでいるんじゃない。ひとりひとりがルールを守るごっこをしている。ルールから外れたヤツをとがめるごっこをしている」

 なんとなく面白くなかったので、ぼくは目を明けた。白い光りが一杯入って来て、急に明るくなった。目の前の廊下はずいぶん長かった。こんなに長かったっけ。廊下の果てが見えないようだ。
 誰もいない。その分だけ、ますます廊下が長く見えるようだ。
 今日はお休みなのかな。休みの日には、廊下は伸びるのかな。
 ぼくは、さっさと足を大きく広げて歩き出した。
「どこへ行くんだい」
 また、ガネーシャだ。さっきの教室は通り過ぎたのに、左を見ると、そこの教室の教壇の上に、さっきのように胡座をかいている。
「うちへ帰る」
「どうして」
「休みの日の学校にいたって仕方ないもの」
「休みの日の学校にいるから面白いんじゃないか」
「見つかったら叱られちゃうよ」
「そうかな」
「そうだよ。決まっているじゃないか」
「学校なんてのは、学校が休みの日に来るにかぎるよ。俺なんか、ずっとそうやっているんだ」
 もしかして、ガネーシャも学校の生徒なのかな、と思った。生徒の癖に休みの日にばかり来るから、誰にも知られないんだ。
 先生にも生徒にも知られないんだ。
「休みの日ばかりに来ていたら、誰とも会わないだろう」
 と僕は聞いてみた。
「今、俺と君が会っている」
「そうじゃなくて、先生にも会わなければ、授業も受けないし、友達とも会わないし、給食だって食べないし」
「それがどうした」
 ガネーシャは大声で笑った。
「まったく、君は嘘ばかりついているな。君は先生には会いたくないし、友達なんていないし、授業なんてさっぱりわからないし、給食なんて食べたくもないものを無理に食べているんじゃないか」

 飛行機が落ちてくるような音が廊下に鳴り響いた。でも、気がついてみると、ぼくが泣いているのだった。
「自分が泣いているのくらい気がつけよ。じゃなきゃ、誰も気がついてくれないぜ」
「ぼく、泣いてなんかいないよ」
 といっているぼくは、やっぱり泣いていた。
「だから、自分に嘘をつくな。泣きたいなら泣け」
「ぼくは泣きたくない。泣いてなんかいない。絶対に絶対に」
 ぼくは泣いていない泣いていない、と思いながら泣き続けた。ときどき、ガネーシャがどこかへ行ってしまったのではないかと心配になって上目遣いで見てみると、ガネーシャは困ったような顔をしてぼくを見下ろしていた。だから、ぼくは泣き続けた。そしてまたガネーシャを見上げた。ガネーシャがそこにいるのがわかると、また泣き続けた。

 泣いているうちに、ずらりと並んだ教室のむこうからも、こっちからも泣き声が聞こえてくるような気がした。誰か泣いているのだろう。泣いている子それぞれにガネーシャだか、他の神様だかがくっついているのかも知れない。
 でも、ぼくはぼくが泣くことに忙しくて、そっちの方には構っていられない。
 もうだいぶ泣いて、目なんか雨に濡れたハンケチみたいにくしゃくしゃになっているのに、まだ泣き声が身体の底から湧き上がってきた。
 ちらりと上を見ると、まだガネーシャはこっちを見ていた。
 ぼくは、いつまで泣いているんだろう。

 それから、だんだん誰もいない学校に来る子供が増えてくるような気がした。いろんな神様も増えてくるような気がした。
 でも、それは誰もいない学校なんだ。だって、誰もいないんだから。