2014年06月
「わが国の民は平和に暮らしておるか」
と玉座の上から王様が大臣に尋ねます。玉座と言っても、臣下のいる床から二三段高くなっているところに美しい敷物を敷いて、その上に王様は寝転んでおられるのでした。
「は、民は誠に平和に幸せに暮らしております」
大臣は王様にひれ伏して答えました。ひれ伏してと言いますが、どう見てもうつ伏せに寝たまま、という感じです。
でも、大臣の言うのは嘘ではありません。寝そべり王国の人々は幸せに暮らしておりました。
農民は、寝転んだまま大地を耕し、種を蒔きました。牛は寝そべったまま匍匐前進して鋤を引いておりました。雲雀は、地べたにごろごろしながら賑やかに囀り続けておりました。
町では、商人が寝転んだまま物を売り、職人達も寝転んだまま仕事をしておりました。やはり匍匐前進する馬に引かれた馬車が行き交い、その中には紳士淑女が寝転んでおりました。
犬も寝転んだまま吠え、猫とネズミは匍匐前進で追い駆けっこをしておりました。
この国では、余程必要な時に立ったり歩いたりするだけで、普段は皆、ごろごろ寝そべって暮らしてたのです。
それで皆、幸せでした。
「そうか。民の幸福は、我が王国の礎である。よろしい。ところで」
と、王様は寝返りをうちました。
「我が娘と隣国の王子との結婚の話はどうなっておるのか」
「はい、かの『そっくり返り王国』から王子の肖像画を送ってまいりました」
「見せよ」
「はっ」
家来達が、しずしずと匍匐前進で、車付きの台の上に乗った、大人の男の背の高さほどもある絵を運んできました。この時代(どの時代だ?)の、いわばお見合い写真のようなものでしょう。
「うーむ。顔が見えぬな」
絵には、隣国の王子が腰に手を当てて、そっくり返って立っている像が描かれていました。しかし、胸を反らせ、さらに頭もうんと後ろに反らせているので、のど仏と顎と上を向いた鼻の穴しか見えませんでした。
「顔はわかりませぬが、健康そうなお方ではございますな」
「姫は、どう思う」
と王様は傍らにいて、うつ伏せに寝そべっている姫に尋ねました。姫は顔を地べたにくっつけたまま上げもせずに、
「私は、どちらでもよろしゅうございます。お父様のよいように取りはからって下さいませ」
この時代(だから、どの時代だ?)の王族同士の結婚などというのは、まず百パーセント政略結婚でしたから、どのみち自分の意見など通らないだろうと諦めていたのかもしれません。
(姫は結婚がいやなのであろうか・・・)
ふとそう思った王様は気遣わしげに玉座の上を、ごろごろと右に転がったり左に転がったりしていました。
さて、その頃、隣国のそっくり返り王国の宮殿の玉座では、王様が立ったまま腰に手を当てて、そっくり返ってお命じになりました。
「隣国の姫の肖像画が届いたようじゃな。ここへ持ってまいれ」
「はっ」
と大臣が直立したまま答えました。普通ですと、こういった場合、王様に向かって頭を下げるところなのですが、この国では、老若男女、すべてがそっくり返って顔を天井に向けて、いや、甚だしい場合にはそっくり返って顔が上下逆に後ろの方を向いてしまっているくらいなので、まっすぐの姿勢でも、非常に謙遜な態度といえるのです。
横長の、大人の腰くらいまでしかない絵が運ばれてきました。そこには、美しい着物、美しい冠の若い女性がうつ伏せになって寝ている姿が描かれていました。
「なんだ、これでは顔がわからないではないか」
その部屋にいた大臣や高官がざわめきました。中に、ひときわ大きな声が響きました。
「何たる無礼な絵であろうか。王様、これは我が国に対する侮辱ではありませぬか」
そう叫んだのは、そっくり返って後ろ向きに立って上下逆になった絵を見ていた将軍でした。彼は、怒りのあまりさらにそっくり返りがひどくなり、頭が両足の間から出てしまい、顔が一周回って前を向いてしまいました。
「そうだ、そうだ!我らが国、我らが王を侮辱している!」
その場にいた多くの人も叫びました。皆、怒りと興奮のあまり、どんどんそっくり返っていって、将軍と同じようにぐるっと回って両足の間から頭が出て、その様は、さながらアンモナイトが大勢集まっているように見えました。
互いの風俗習慣を知らないということは、何と恐ろしいことでしょうか。
早速、そっくり返り王国から寝そべり王国に宣戦布告がなされました。ただちに、そっくり返り王国軍の大隊が、寝そべり王国領地に攻め込みます。
寝そべり王国側とても、黙ってはおりません。兵士達は、国境付近に寝そべったまま、地面にたくさんの穴を掘りました。
そっくり返り王国の兵士達は、皆そっくり返ったまま突撃するものですから、下がよく見えません。たちまち、次々と落っこちてしまいました。ところが、寝そべり王国の兵士達も、寝そべったまま穴を掘るものですから、穴の底に寝そべったままでいて、落ちてきたそっくり返り王国の兵士に踏まれてしまいました。
この戦闘では両軍共に多くの被害を出しました。
そっくり返り王子は、勇敢にも自ら一隊を率いて戦闘に参加しておりました。
麾下の兵士達は穴や池に落ちたり、ものに躓いたりして、どんどん脱落していきます。王子も多くの傷を被りましたが、何とか、単騎、寝そべり王国の宮殿に侵入することに成功しました。
そっくり返ったまま、王宮の階段を上るものですから、何回も転びました。王子の美しい顔は、痣や傷やたんこぶだらけになりました。
宮殿の奥深くに駆け込むと、またしても王子は何かに躓いて、すっころんでしまいました。
さて、こんど躓いたものは何やら柔らかかったが、と、転んだお陰で、ようやくそれを見ることが出来ると、そこにいたのは、あの肖像画にあった寝そべり王国の姫の姿でした。
「そ、そなたは、寝そべり姫」
「そういうお声は?」
「そっくり返り王国の王子です」
「では、私と結婚するはずでいらしたお方?」
思わず姫は、久しぶりで寝返りをうって上を向きました。視線が合いました。
その途端、二人は恋に落ちました。
その後、両国は講和を結び、王子と姫の結婚式が盛大に行われたことは言うまでもありません。
二人は、それぞれの風俗習慣を互いによく理解し尊重し、尊敬しあって仲睦まじく暮らしました。
男の子が二人、女の子が二人生まれました。
二人はそっくり返っており、二人は寝そべっていました。
めでたし、めでたし。
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用談があって、古木氏の邸宅を訪ねた。
レンガの太い柱に黒い鉄扉という門を入っていくと、まるで森の小道といった雰囲気のところを歩くことしばし、ようやく芝生の前庭が開け、古木氏の宏壮な邸宅が見えてくる。
女中に案内を頼むと、今、外出中だがすぐに戻る、私の訪問については存じているとのことで、応接間に通された。
女中がテエブルの上にコオヒイを置いて出ていくと、しんとした広い部屋に一人取り残されたような気持ちになった。
庭に面して、天井から床まであるフランス窓が三つ並んである。夜は分厚いカーテンが降ろされるのだろうが、今は明るい芝生と濃い木立の色がガラスを通して見えている。窓の反対側の壁には大きなマントルピイスがあり、冬はここで盛んに火が焚かれるのだろう。
右側の壁には、大きな鏡がはめられていて、その横に廊下に出るドアがある。左側一面はこれも天井まで届く書棚に革張りの分厚い本が並んであるが、そのまん中あたりに、これまた天井まで届く大きな古い振り子時計がある。鷹揚な大男のように振り子を動かしている。
こつこつとドアを叩く音がした。
「どうぞ」
と言ってみたが、返事がない。叩く音はなお続いている。仕方がないので立って行って開けてみると、廊下があるばかりで誰もいない。
「妙だな」
ソファに戻ろうと振り返ると、時計の前に灰色の作業服を着た白髪に白い口髭という老人がいて、振り子のところの扉を開いて覗いている。いずれ使用人なのだろうが、来客中に入ってくるという法はなかろう。
「誰です、君は。どこから入ってきたのです」
「私は、この時計の修理係だよ。この時計は19世紀に作られたのだ。マーラーやストラビンスキーとも友達だ。シャーロック・ホームズや怪人二十面相もよく知っている」
時計が、それらの人物と知り合いなのか、彼がそうなのか、わからない言い方をする。
「ホームズや二十面相は架空の人物だろう」
「だからと言って友達になって悪いと言うことはない」
妙なことを言う。ちょっと頭がいかれているのかもしれない。だいたい使用人にしては、いやに態度が横柄である。
「修理係か何か知らないが、ここにいられるのは、有り難くないな。もうすぐ古木さんが帰ってくる。僕は大事な用事があるのだ」
「時計が呼んでいるから私は来る。この時計が、どんなに大事なものか古木氏だって知っているよ」
「じゃあ、さっさと用を済ませて帰ってくれ」
修理係は、時計の奥に手を突っ込んで、ごそごそ引っかき回していた。こちらは努めて庭の緑に目を向けようとするのだが、どうしてもその忌々しい老人が気になってしまう。
「やっぱり、これだ。ちょっと目を離すと、すぐ詰まるんだ」
と言って引っ張り出したのは、ウサギのぬいぐるみだった。
「おい」
相手にならないつもりだったのに、つい話しかけてしまう。
「そんなものが詰まっていたら止まってしまうじゃないか」
「いや、時計にはよくあることだよ。時が積もり積もるとウサギのぬいぐるみになってしまうものだ」
そう言いながら、ウサギを抱えたまま、私に向かい合ったソファに、さも大事業を終えた者のように腰をかけた。客に許可も得ず、そんなところに座るのは失敬である。
「おい。誰が座っていいと言った」
「ふん、これは君の椅子かね」
「君は修理係なんだろう。修理が終わったら、出ていってくれないか。さっきも言ったように、私は古木さんと・・・」
「出て行ってやってもいいが、ちょっと、その角砂糖をひとつくれないかな」
コオヒイ用の角砂糖である。銀の入れ物に入っていた。
「僕は、もういらない。僕の知ったことじゃない」
「そうかい。すまないねえ」
彼は角砂糖をひとつつまむと、かりかりと囓り始めた。
「ああ、甘いものはいいねえ。千年に一度は、これをやりたくなるんだ・・・その箱に入っているシガレットを一本もらっていいかね」
自分は煙草を吸わないので気に留めなかったが、見るとテエブルの上に寄せ木細工の煙草入れがある。
「これは、この家の物だ。僕がどうこう言うものじゃない」
「そうかい。じゃあ一本いただこう」
そう言って、マッチで火を付けると、
「いいねえ。舶来だ。エアーシップ。芥川龍之介が好きだった銘柄だ。さすが古木氏は口が奢っている。千年に一度はこういうものを味わわないと」
「君は千年、千年というが、千年生きたとでも言うのかい」
「だって、こんな古い時計を修理するのだもの、千年くらい生きてなくちゃ」
「ふん。語るに落ちたね。千年前に振り子時計があるとでも言うのかい」
「時計はなくとも、時はあるじゃないか。君は、時計が主で、時が従だというのかい。いやいや、時がなくては時計など存在価値がないじゃないか。時のことさえ考えていれば、時計のことなど自然にわかってくるものさ」
やっぱり、こいつはおかしい。
「このお菓子、もらっていいかい」
突然、彼が言った。
ふとテエブルの上を見て、思わず目をこすった。プラム・ケエキや蜂蜜のパイ、苺のジャム、アアモンドのクッキーに、チョコレエト、キャンディ、バタ付きのパン、バナナブレッドのプディング・・・お菓子が山盛りになっている。
こいつにつき合っているうちに、私も頭がおかしくなりかけているのかもしれない。
「これは幻覚だ。さっきまで菓子なんてなかった。なんで僕が幻覚を見ているのかわからないが、僕は幻覚とつき合う気はない。君がもらいたければ、いくらでももらうがいい」
「そうかい、すまないねえ」
そう言うと、彼はテエブルの上の菓子を腕いっぱいに抱えると、立ち上がって時計の中に放り込んだ。そんなことを三度ほど繰り返すと、テエブルの上はきれいに片づいた。
ウサギのぬいぐるみが挟まって不調になっていた時計に、菓子の山を放り込んでいいのだろうか。
「なに、いいのだ」
と、彼は煙草の煙を吐きながら言う。
「考えても見たまえ。時なんて、幻影みたいなものだ。どこかはっきりと掴まえられるところがあるかね。俺は時をこの手に把握した、なんて宣言した者がいるかね。そんなヤツは気違ひだよ。その意味では、さっきのお菓子をたらふく食う人間と大して変わらない」
この、どう見ても狂っている人間が、誰かを狂人扱いしようとは思わなかった。
「その幻影を計るのが、この時計という機械だ。時計誕生以後、人類は幻影の中に住むことになった。だって、計れるわけのない物を計って、それに従って生きていくのだからね。その意味では、貴君も幻影の住人、我が輩も幻影の奴隷、しかして、この地球は幻影の中を漂う惑星と成り果てたのである」
なにか反論して、この狂人をとっちめてやりたかったが、言葉が浮かばなかった。しかたなく冷めかけたコオヒイをすすっていると、
「君、自分がどういう顔をしているか、どうやって知る?鏡を見るだろう?君のその頬も、今朝、鏡を見ながら剃ってきたのだろう?鏡の中の君は現実かな?鏡の中の君を殺せば、君も死ぬのかな?時も、そのようなものと思い給え。時は鏡の中を流れているのだよ。いわば、時計は鏡さ。君は時計の中の君が殺されれば、自分も死ぬと思っている阿呆だ。時計と鏡から解放されないうちは、君は自由になれないよ」
そう言うと、彼は飛び上がって、甲高い声で笑いながら、壁の鏡に向かって突進した。
彼は鏡は幻想だと主張する。時は幻想だと主張する。鏡の中に、反対側の壁にある振り子時計が映っている。
彼は、彼が幻想だと言う物を、鏡と時と同時に破壊せんとして頭突きを食らわせるが如くに、飛びかかった。そして鏡の向こうに吸い込まれ姿を消してしまった。
あとに、時計の振り子の音が、私の首根っこを押さえつけるように響き続けた。
「やあ、失敬。待たせてすまなかった。あちこちで、面倒くさい問題が起こるのでね」
和服に着替えた古木氏が、修理係が飛び込んだ鏡の横のドアから姿を現した。まるで、入れ替わりのような気がした。修理係が着替えて、また入って来たような錯覚を覚えた。
「おや」
と古木氏は灰皿の吸い殻を見て言った。
「君、煙草は吸わなかったのではなかったかな」
私は、青い顔をしていたのだと思う。冷や汗が止まらなかった。
19世紀・帝政ロシアのペテルブルグだと思うが違うかもしれない。まあ、そんなことはどうでもいいのだ。
ある街角に、よれよれのツギだらけのフロックコート、上部が凹んでつばの取れかけたシルクハット、つま先が口を開けている靴、という姿の髭もじゃの大男が、前に空っぽの箱を置いて、道行く人に向かって
「右や左の旦那様、哀れな乞食でございます。どうか1コペイカ恵んで下さいませ。一生、ご恩は忘れません」
と、朗々たるバリトンで呼びかけた。道行く人は、どきんとしたように足を止めて、目を丸くして男を見た。商店の親父やおかみさんや職人達の仕事の手は動けなくなってしまった。確かにそれは、天から降ってきたか、地の底から湧いてきたか、ともかく魂を揺さぶるような美声には違いなかった。
男は、誰か小銭を箱に入れてくれる人があるのではないかと期待したようだが、ちゃりんとも音がしないので、今度は同じ文句を、哀切なメロディーに乗せて唱えた。というより歌った。声は、町中に響き渡り、窓ガラスをびりびり動かし、確かに雲の上で天使が耳を傾けていたと証言するものもいた。鳩や雀さえ建物の窓辺にきちんと整列して、その歌声に聞き入った。
歌が終わると、凄まじい拍手が鳴り響いた。何人かの人は泣いていた。雀も泣いていたようだが、雀の涙なのではっきりとは見えなかった。
だが、まだ箱の中には1コペイカだって入っていなかった。人々は、お金のことなど忘れて、次の曲を固唾を呑んで待っているらしかった。
男は、もうこうなったら、とことん楽しませてやる気になって、今度は、同じ文句ながら、がらっと曲調を変えて、浮き浮きするような軽快なリズムのメロディに乗せて身体を揺すぶって歌い始めた。ちょっとした滑稽なリフレインも付け加えた。
街中が喜びで爆発したようだった。
子供達や若者達はもちろん、おじさんやおばさん、老人まで、あるいは手をつなぎ、あるいは肩を組み、あるいは抱き合って、腰を振り足を踏みならし肩をゆずぶって踊り出した。鳩 や雀たちも上空で乱舞した。
終わると、先にもました激しい拍手だった。「ブラボー」という声もあちこちから聞こえた。だが、箱の中は、相変わらずコインの一枚だって入っていなかった。
男は人々が、さらなる一曲への期待で膨れあがっているのを感じた。
その時、一台の高級な馬車が男の前に止まった。人々は、その馬車の持ち主の名をささやき合った。侍女らしい女が降りてきて、男に何か話しかけた。男は首を振って渋っているようだったが、結局、馬車に乗せられてしまった。
馬車の中には貴婦人がいた。ある富裕な貴族の夫人であった。彼女は慈善好きとして有名であった。
「あなたのような真の芸術家が辱められた地位にいらっしゃるのを見てはいられないのです」
男は貴婦人の邸宅に連れて行かれ、一室をあてがわれ、もちろん、おんぼろの服を最高級のそれと取り替えさせられた。
貴婦人は彼のコンサートを自宅のホールで開くことにした。貴族、軍人、大地主等々、上流階級の紳士淑女に声がかけられた。彼女の招待にあずかるかどうかは、彼ら、彼女らの方では、世間体や自尊心のみならず、政治的経済的な問題としても影響少なからぬものがあった。
招かれなかった者達は、あらゆる手づるを回し、どうにかして招待状を出してもらおうと走り回った。
コンサート当日、彼は特別にデザインされた高級な服地を使った乞食の恰好をして例の「右や左の旦那様」を歌った。伴奏にはモスクワから呼ばれた高名なピアニストがついた。
大成功だった。
あちらこちらの貴族の家庭で音楽会が開かれ、その度に彼は呼ばれた。
彼の歌は、音楽的にも文学的にも我が国の芸術史を書き替えるものであろうと言う評論家も現れた。もちろん、貴婦人のご愛顧にあずかろうという下心があってのことである。
貴婦人に一人の息子がいた。何年もフランスに留学していたが、数ヶ月ばかり前に戻ってきたのだった。彼は、母が連れてきた奇妙な寄宿者を忌み嫌わなかったばかりでなく、非常に興味を持ったようだった。
「君の歌に、僕が歌詞を少し付け加えさせてもらって、それを友人達の前で歌ってもらえないかな」
男に否応もなかった。ある晩、息子に連れられて行った先には、なにやら風変わりな若者がいっぱい集まっていた。
新時代を切り開く英雄的芸術家なる大げさな紹介を受けて、彼は歌い始めた。
例の右や左の旦那様から始まった。歌詞は、自分の哀れさだけでなくて、大勢の多種多様な貧しき人々の生き様を歌っていた。
そして、なぜ、このような悲惨があるのか、という問いかけになり、暗示的にだが皇帝と帝政への批判が歌われた。ついには、虐げられた人々に立ち上がれと呼びかけ、最後、炎に燃え上がる首都の描写となるのだった。
息子は、フランスにいる間にすっかり自由思想だの社会主義だのというものに取り憑かれていたのだ。
集まっている若者達の中に秘密警察のスパイが紛れ込んでいた。彼らは一網打尽になった。例の息子は貴婦人の働きかけによって、数日で家に帰されたようである。
陰気に曇った日、男は、若者達と共に囚人服を着て刑場にいた。三人ずつ、塀際の棒杭に縛られて銃殺されることになっている。彼の順番は、第二のグループであった。
刑場の上空をカラスが横切って飛んでいった。
馬がどこからか走ってくる音が聞こえたような気がする。なにやら、刑場全体がコーヒーに落としたミルクのように乱れる感じがあって、どこかで減刑を意味するハンカチが振られた。
皇帝の気まぐれな温情なのか、貴婦人の工作がうまくいったのか、彼は死刑を免れ、シベリアへの流刑となった。
シベリアで彼が歌ったかどうかは、わからない。
ただ、密やかで、しかも彼にしては大きな幸福といえるのは、家族の生計のため娼婦に身を落として、首都からその地まで流れてきた少女と出会ったことである。たしかソフィアという。魂だけはあくまで無垢なのであった。
数年後、刑期を終えて、男は多分ペテルブルグだろうと思われる都会にソフィアと共に戻った。
彼は再びかつての街角に立って、前に箱を置いて例の歌を歌い始めた。
人々は粛然として聞いた。彼も彼らも数年分、年を取っていた。鳩や雀は代替わりをしているだろう。
歌が終わると、男の前に高級な馬車が止まった。あの貴婦人が降りてきた。1コペイカを箱の中に入れた。
「初めから、こうしていただければよかったのです、奥様」
しみじみとしたバリトンの声で男は言った。
(この話には、なんら寓意も教訓も皮肉も含まれていない)
「茶代はここに置きますぞ」
そう言って旅の老僧は街道沿いの茶屋を後にした。五、六本の松を背景にした、なかなか風情のある茶屋と言ってもよい。ところが、だいぶ僧の後ろに遠ざかった頃、煙をひと筋立てて消えてしまった。
それだけではない、一里塚、路傍の地蔵、庚申塚、岩、僧が通り過ぎるもの通り過ぎるもの、みな、後から後から消えてしまうのである。
「何者じゃな」
僧は立ち止まると、誰に話しかけるともなく言った。すると、もう一人、僧と同じ姿をした者が目の前に現れた。
「いたずらするでないぞ」
すると、今現れた老僧の姿がゆらゆらと揺れ始めて、透明になってきて、陽炎のような煙のような雲のような蒸気のようなオナラのような曖昧なものになった。そして、その曖昧なものから声が聞こえた。
「お坊様、私は『海のものでもない山のものでもない』という妖怪でございます。またの名を『ああでもないこうでもない』と申します。一名を『あるようなないような』ともうします。さらには『わかったようなわからないような』という名もございます」
僧は苦笑した。
「賑やかそうで結構じゃの。わしに何か用かの」
「お坊様もおわかりのように、私はいろいろなものに姿を変えて生きております。名前も、ひとつに定まりませぬ。つまり、どれが本当の私である、というものがないのでございます。これが、私には苦しくてなりませぬ」
そう言っている間にも、一名「海のものでも山のものでもない」は、煙が流れるように姿を変え続けた。
「どれか、『これが私だ』という姿があれば、こんなには苦しくないのではないかと思うのです」
「うむ。汝の苦しみはもっともなもの・・・と言いたいところじゃが、話す相手を間違えておるぞ。諸行無常は、お釈迦様がお悟り遊ばした、この世の根本的なあり方じゃ。だから、わしは、お前の在り方の方が逆に理に適っているとさえ思えるのじゃが」
「私を救ってはいただけないのでしょうか」
「わしは、単なる旅の乞食坊主。そんな立派なことはできないよ。しかし、まあ、しばらく、わしと一緒に旅をしてみるかね。飽きたら、また、どこか別のところへお行き」
「ありがとうございます。どんな恰好でお供しましょうか」
「では、小坊主にでも化けなさい」
「小坊主とはどのような者でしょうか。和尚様、その小坊主とやらの姿を思い浮かべて下さい、そうしたら、私は、それの姿になれましょう」
老僧は、小坊主を連れて次の宿場のはずれの木賃宿を訪れた。昼間、托鉢で得た銭や米や麦を差し出して泊めてもらうのだが、安いだけに部屋があてがわれるわけではない。囲炉裏の周りに、みな、雑魚寝をするのだ。
泊まりたい旨、宿の主人に言うと、「ぎゃーっ」という叫び声と共に戸が閉じられてしまった。
ふと気がつくと、連れている小坊主の顔がない。すでに、ふわりふわりに溶け出している。
「お前、一晩か二晩、小坊主のままでいることが出来ないのかい」
「まことに転変限りないのでございます。何かを見れば、そのものの姿になり、何かに感ずれば、そのものになり、ちょっとした風のそよぎで姿が変わり始めるのでございます。今、囲炉裏に掛かっている鍋の湯気を見ましたれば」
なるほど、これで人間共に交わって生きていこうと思ったら、難しいかもしれないと老僧は思った。
宿場町を通り過ぎて、山の中へ入ったあたりで、古いお堂があった。
「今晩は、ここへ泊めていただこう」
ともかく、雨露だけはしのげるのである。
老僧は、妖怪に命じて、小枝や杉の葉を拾ってこさせると、火を焚いた。頭陀袋から、縁のかけた小鍋を取り出すと、それに米と水を入れて火にくべた。どこかで拾ったのだろうが、これで粥を煮るのである。
「この世には不変なものなど、なにひとつないのじゃ。今、森の奥でフクロウが鳴いておるじゃろう。あれとて、去年には雛だったかもしれんし、来年には死んでいるかもしれない。生まれる前の姿、死んだ後の形、想像のしようもない。わしとて、そうじゃ。一所不在の托鉢僧。あした、自分がどうなっているかなど、わしにもわからんのじゃ。お前と同じ。同じじゃよ」
「それでしたら、なんで私は、こんなに苦しいのでしょう」
「お前は、いったい、何でありたいというのじゃ」
「なんでもいいのでございます。人間でも、この森の木でも、あの鳴いているフクロウでも」
「要するに、お前はお前じゃないものだったら、何でもいいというわけだ」
「はい」
「それは無理じゃな」
「と、おっしゃいますと」
「お前はお前になりきる以外に生きる道はない」
「私は私がいやなのでございます」
「好きだとか嫌いだとかいうのは一時の感情じゃ。ものの見方に過ぎない。そんなに転変きわまりないお前が、なぜ自分の感情にだけはこだわるのか不思議じゃのう。どうしようもないものを、どうにかしようというのは馬鹿げている。同時に、何のきっかけで変わってしまうかもしれぬものにこだわり続けるのも馬鹿げておる」
妖怪の声音ががらっと変わった。
「俺は不変の姿、動じない心を欲しいと申しておる」
「そんなものは、欲しがるものではない」
「では、貴様は、なんのために仏道修行をしておるのだ」
「なに、なんのためでもない。ただ、やっておるのじゃよ」
妖怪の姿が揺れ始めた。
「くそっ。このクソ坊主。いい加減なことを言いおって。少しは頼りになるヤツだと思っていたら、そこらにいくらでもいる生臭坊主と同じか」
その時、離れた山からオオカミの遠吠えが聞こえた。妖怪は、その声に感応して姿を変じた。
「ちょうどいい姿になった。この坊主めを食い殺してくれよう」
「ほう。わしを食うというのか。まあいい。出家となった時から、いついかなる死に方をしても悔いることはないと思っているのじゃ。食いたければ食え。うまくないと思うがな」
老僧は結跏趺坐を組み、目を半眼に閉じた。オオカミはその前に立ち、憎さげに見下ろして、
「こいつめ、悟り澄ましたようなことを言いおって」
飛びかかるかと思った瞬間、オオカミの姿が崩れた。火にくべておいた粥が「くっ」と煮える音を立てたため、粥に姿を変えて、地面にこぼれてしまったのである。
老僧は目を閉じたまま、指で天を差した。木立の切れ間に、大きな明月が上がっているのが見えた。地上はあまねく月光で照らされていたのである。
「あ!」
叫ぶと妖怪は姿を消した。
老僧は旅を続けた。妖怪の姿はなかった。あるいは解脱を遂げてしまったのかもしれないし、そうでないのかもしれない。
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