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2014年07月

金井哲夫のあたくし小説『ニューロイヤルトチメンボー』

あたくし1つものジョギングコースに工事中の一角があったのだが、ちょっと走るのをさぼってた間に、立派に落成していた。賃貸マンションのようだ。ありふれた軽量鉄骨二階建てで、立ち止まって観察したわけではないが、ざっと見たところ十世帯といった感じだ。2LDKで月七万円といったところか。
 建物の正面には居住者用の駐車場があり、その入口の脇の植え込みには、建物の割には大仰な看板が立てられている。そこには、やけに長い名前が書かれていた。気になった私は立ち止まり、看板の文字を読んだ。
『ニューロイヤルトチメンボーききょうが丘パート3』
 これまた建物の割には大層な名前だ、と思いながらまた走り始めた。
「ニュー」は新しい。「ロイヤル」は「王室の」という意味だが、一般に「素晴らしい」という意味に使われる。「ききょうが丘」というのは、ここからバスで10分ほどのところにある私鉄の駅の名前だ。本当は下中田と言うのだが、人気沿線のききょうが丘のほうが通りがいいし高級感があると思ったのだろう。ぜんぜんききょうが丘ではないのだが、そうなっている。ききょうが丘駅近くに無理をして高い家を買った私にしてみれば、ずうずうしいにも程がある。
「パート3」というからには、これが3軒目ということか。さらに「ニュー」と付いているのだから、ニューではないものがあるはずだ。けっこう手広い。
 住宅の間に、地主が死ねば息子が相続税対策で売却するに決まっている、やる気のない農地が点在する中を通る片側一車線のバス通りの歩道をゆっくり走りながら考えた。
 で、「トチメンボー」とはなんだ? どこかで聞いたことがあるような、ないような。最近のマンションの名前にはわけのわからないものが多いが、これはそのお手本のようなネーミングだ。どこの国の言葉かすら見当が付かない。どうせ、マンションを建設した工務店が、特徴的でユニークな名前を百科辞典か何かから引っ張ってきたのだろう。
 以前、叔父が賃貸マンションを建てたのだが、その名前が『アッペンツェルアウサーローデ馬場尻』という。スイスの地名からとったらしい。工務店がいくつか候補を持ってきて選べというので、それにしたのだそうだ。
 しかし、あれから何十年もたつが、その大家である叔父も叔母も、その名前を発音できないでいる。当然、住人たちにも不評だ。住民票にアッペンツェルアウサーローデ馬場尻と書かれているので、どうしても公式な書類に住所を書くときには、いちいちそう書かなければならない。迷惑な話だ。
 などと、とりとめのないことを考えながら走っているうちに、家に戻ってきた。
 二日後、またジョギング中に、あの賃貸マンションの前を通りかかり、『トチメンボー』のことを思い出した。
 トチメンボーとはどういう意味なのか、気にはなるが、わざわざ立ち止まって汗だくの指でスマートホンを操作して検索するほどのことでもない。それほどでもないが、やはり気になるので、なんだろうかと考える。そう言えば、私が今の家を建てる前に住んでいた賃貸のテラスハウスの名前は『ロイヤルシャトー川本』と言った。
 なにが「ロイヤル」だと言いたくなるほどの狭くて安普請の家だったが、明るく解放的で住みやすかった。女房と結婚したとき、ほぼ同時に落成したこの新築物件に入った。そして子どもが生まれた。だからその家には思い出がたくさん詰まっている。
 ただひとつの汚点は大家だった。親が兼業農家の地主の次男坊で、土地を相続したが働きたくないので楽して稼ごうと賃貸住宅を建てたと顔に書いてあった。毎月の家賃とは別に管理費を徴収するが何をするわけでもなく、年に一度ほど思い出したように庭の垣根を剪定しに来るだけだ。
 世帯ごとに小さな庭があり、そこを垣根が囲んでいるのだが、住人が大切に育てている植木までいっしょに切っていってしまう。おまけに、手入れが悪く虫がついて道路側の垣根が枯れてしまったので、仕方なく自前で木の柵を買ってきて立てていた。
 ところが家を建てて、そこを引き払うとき、ウチが木を抜いて勝手に柵を立てたから敷金で弁償してもらうと大家が言ってきた。毎月管理料だけの仕事をしていれば、大家も垣根が枯れていくのがわかったはずだし、本来、垣根は外構なので大家の負担だ。腹が立ったので管理会社を怒鳴りつけて、敷金は全部返してもらった。
 まったく、頭にロイヤルがつくほどの馬鹿大家だ。ああ、あいつのことを思い出したので、せっかくのジョギングもすっきりしないものになってしまった。
 さらに数日後、またいつものジョギングコースを走っていたときだ。またあのトチメンボーが視界に入ってきた。するとやっぱり、トチメンボーの意味が気になる。大家は何を考えてそんな珍妙な名前をつけたのだろうか。住人は物件を場所と価格と間取りで決める。条件にぴったりの物件があれば、すぐに手付けを打つ。しかし、そこには名前という落とし穴がある。
 とんでもなく馬鹿みたいな名前だったりするのだ。そのことは、しばらく生活してから気がつく。引っ越し通知や役所の届け出などを書くときに、トチメンボーがのしかかってくるのだ。
 もしかしたら、これは大家の店子いじめなのかもしれない。マンション名ハラスメントだ。けしからん。大家の顔が見てみたいものだ。
 走る速度を少し落として、駐車場から建物の様子を覗った。駐車場には小型のワンボックスカーが何台か停められていて、その向こうに見えるひとつの世帯の玄関前には、子どもを乗せるシートが付いた電動アシスト自転車と、プラスティックのピンクの小さなバケツが置かれていた。バケツには同じ色の小さなシャベルが突っ込まれている。
 うちもロイヤルシャトー時代はあんな風だった。電動アシスト自転車はなかったが、子どものバケツとシャベルはあった。紙おむつをした丸いお尻でペタンとしゃがんで、ぎこちなくシャベルを持って砂をバケツに入れてはまた出して、こっちを見て笑う。そんな娘の写真が、どこかにあったはずだ。
 あそこに小さな子どものいる若い夫婦が住んでいるのだろうと想像した。まさに人生これからという、幸せいっぱいの家族の生活がそこにある。子どもが最初に覚える住所はトチメンボーだ。彼らにとってもっとも輝いている時期の楽しい思い出は、すべてトチメンボーだ。そう考えると、あまりトチメンボーを悪く考えるのは失礼なような気がしてきた。トチメンボーはこの家族にとって大切な、神聖な場所なのだ。
 そんなことを考えながら、駐車場の入口を通過すると、大きな植木ばさみで垣根の手入れをしている男性と出くわした。狭い歩道なので、私が近づくと男も気がつき、手を止めて体を垣根に寄せて道を譲ってくれた。
「すいません」と、首にタオルを巻いた男は愛想良くいった。私はそのまま走り抜けるのは失礼と思い、ちょっと立ち止まって「すいません」と挨拶した。
「暑いのに、大変ですね」と男が言う。
「いやいや、そちらこそお仕事、大変ですね」と私が答える。
「大家としては、これくらいしないと。管理費をいただいている以上はね。へへへ」と彼は照れ臭そうに笑った。
「はは、そうですか」とだけ言って、私はまた走り始めた。少し走って急に気がついた。あの顔は、ロイヤル馬鹿だ。あれから十年。頭はすっかり白くなっていたが間違いない。それにしても、ずいぶん愛想がよくなったもんだ。しかも植木の手入れも堂に入っていた。人は変わるもんだ。この十年、いくつもの賃貸マンションを持ち、プロの大家として成長したようだ。それに引き替え、十年間、あのロイヤル大家だけでなく、世の大家というものに恨みを持ち続けてきた自分が少しだけ恥ずかしくなった。この調子なら、あの若い一家はここを出るときに大家とケンカをせずに済むだろう。
 胸の小さな閊えが取れたようで、帰りの行程はすっきりした気分で走ることができた。もうトチメンボーのことは気にならなく……、あ、そうか、大家に聞けばよかったのだ。

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社長の業務:ショートストーリー『白昼堂々② 古戦場の怪』

社長1  とある郊外の野原のまん中に交通不便、買い物不便、その他諸々不便、物件ガタガタ、ただし家賃格安という絶好の悪条件の借家に住んでいるのは、三文文士、いや近未来の大作家・山田文豪氏である。
 (ただし、近未来と彼の寿命とどちらが先に来るかは保証の限りではない)

 さて、今日も今日とて、氏は人類が未だ触れたことのない空前の文学の創作に余念がないはずなのだが、一閑張りの机の上の原稿用紙には、うっすらと埃がたまっている。
 肝心の氏は、庭に向かって胡座をかいて顎を突き出し、
「暑い・・・」
 手の先には、もうあおぐのも疲れ果てました、とばかりに団扇が垂れ下がっている。
 口の中とおでこには、冷蔵庫の製氷皿で製造された四角い氷が溶けかかりつつ、乗っかっている。この陋屋にも、電気という文明の恩恵は、かろうじて届いていると見える。

 そこへ「いよっ」と案内も乞わず入って来た者は、文豪先生の旧友・妄亭という男である。
「創作に打ち込んでいると思いきや、なんだい、そのざまは」
「創作は一頓挫だ。この暑さには敵わん」
「君の一頓挫は長いからな。月のうち、30日くらいは一頓挫だろう」
「君は暑くないのか」
「暑いだなんてのは、生きている人間の贅沢だ」
「あ」
 と、ようやく、文豪先生は力無く顔を上げて、旧友の方を見た。
「妄亭、君は死んだんだったな」
「思いだしてくれたかい。幽霊には不思議と暑さは感じないようだ」
「羨ましい限りだ」
「君もいっぺん死んでみたらどうだい」
「そうしようかしら。夏の間だけ死んでいるというわけにゃいかんのか」
「そんな都合のいい死に方ってのはないさ。まあ、せっかく授かった命だ。せいぜい大事に暑がるがいい」
「君は、曽呂利の所にある手紙が気になって成仏できなかったんじゃないのかい。あの手紙はどうなった。あいつの所に行かなかったのか」
「うむ、行ったんだがね。曽呂利の言うには、あの手紙は自分が持っていても仕方がないから、葬式の時、僕の棺桶の中に入れたというんだ。そういえば、焼かれる時、棺桶のはじっこの方で紙が燃えていたような気がする」
「じゃあ、もともと手紙のことで、大騒ぎするには当たらなかったじゃないか」
「まあ、そういうことだ」

「だったら、もうこの世に未練はないだろう。さっさと成仏するがいい」
「ところがそうはいかないね。僕は、もともと美学者として『美学原論』なる大著を書こうという構想を持っていたのは、君も知っているだろう」
「書く書くと騒ぐばかりで、一向に書く素振りさえなかったじゃないか」
「それは腹中深く構想を練っているからだ。どうにも、あれを書き上げるまでは成仏するわけにはいかない。これをこの世に残していかないのは、僕の人類に対する義務を果たさないことになるからな」
「そんなもの残さない方が、世の中は丸く納まるぞ」
「それは読んでから言いたまえ」
「じゃあ、こんなところにうろうろしていないで、さっさと家に帰って書くがいい」
「そりゃ、僕の元の家の書斎が一番、書きやすいさ。しかし、僕がこの姿で現れたら、家族がびっくりするだろう。うちは、皆、繊細な神経のものばかりだからな」
「僕に神経がないような言い方だな」
「まあ、怒り給うな。そこで目をつけたのが、君の机と原稿用紙とペンだ。君が、ここで長期の一頓挫をしている間に、あれを借りて書き上げちまおうと思ってね」
「君に貸すのはいやだ」
「いいじゃないか。君は、そうやって夏バテにいそしんでいればいい」

「しかし、随分、参っているご様子だね」
 と、妄亭君、やや文豪先生のくたびれ方が哀れになったものらしい。
「うむ。昼間も暑くて困るが、夜も眠れないのだ」
「そうかね。この家なんざ、風通しだけはよさそうだが」
「どうも、悪い夢ばかり見て、一向、寝た気がしない」
「どんな夢だい」
「人が斬り殺されて、血まみれの死体なぞが出てくる」
「ふーん。なるほど・・・そうか、やっぱりなあ」
 妄亭君、腕組みをして深くうなずいた。
「何か、心当たりでもあるのかい」
「君、知らんのか。このあたりは、昔は古戦場だったんだぜ。鎌倉への通り道であるばかりじゃなく、こういうだだっぴろい野原があるんだもの。いかにも古戦場向きじゃないか。まあ、昔の侍の血が染み込んでいる土地といってもいいね」
「気味の悪い言い方するなよ」
「ちょっと掘り返せば、人骨がごろごろ出てくるそうだぜ。この借家が安いのも、あたりに家が建て込まないのも、案外、そのたたりがあるからかもしれないぜ。こう見えても、僕は幽霊の専門家、というより当事者だからな。僕の言うことは聞いておくがいい」


 ♪高い山から~ 低い山見れば~ 低い山の方が~ どうしても低い

 わけのわからない歌を歌っているのは文豪先生である。
 都会の中心地に用事があって、珍しく出かけていった帰り、最終電車で駅に着いた。いささか酩酊の様子で、手には料理屋の折り詰めをぶら下げているといった、古典的な酔っぱらいの様式を守っている。

 野原のまん中へ来て立ち止まり、夜空を見上げた。雲が多く、お月様に暈が掛かって霞んでいる。妙に水蒸気の多い夜である。
 静かだと思っていた野原が、鳴動しているようであった。足下から何か響きが伝わってくる。
「地震かな」
 いや、そうではない。地震にしては、いやにリズミカルである。
「馬の蹄の音だ」
 そう、直下の足下から、初めは一頭、そのうちに数頭、さらに増える。だんだん、近づいてくるらしい。
「あれだ」
 向こうの方に、火がちらちら見える。だんだん、大きくなる。馬に乗った男が、松明を掲げているものと見える。
 ふと脇に、大きな獣がいるような気がした。見ると、人間である。大きな男である。鎧兜の姿で、よろよろと槍を杖代わりにすがって歩いている。顔は真っ暗で見えない。が、かすかに血の匂いがする。
 馬に乗った男達が近づいてくる。彼らもやはり、鎧に身を固めている。
 地上の男を馬がぐるりと取り囲んだ。やにわに馬上の一人が大刀を抜く。地上の男は構えようとする。
 その途端、後ろにいた馬上から槍が、びゅうと音を立てて地上の男の身体に突っ立つ。
 男は倒れかかるところを、大将らしき男がぐいと引き寄せて、その首を馬の鞍の前の方に押しつける。小刀を取り出して、首に斬り込む。兜をつけたままの首が胴体から離れる。
 よく見ると、馬上の男の腰のあたりから、いくつも首がぶら下がって、馬が動くと不器用に重たげに揺れる。あれらが、あの男の「手柄」ということになるのだろうか。
 馬たちが囲みを解いた。首のない侍はまだ立っている。まだ、槍にすがって立っている。そのうちに、二歩、三歩と歩き出した。
 文豪先生は、ぞっとした。思わず、這いつくばって低いところに隠れた。
「まだ、一人いたようだな」
「下総守ではございますまいか」
「探せ」
 また、文豪先生はぞっとした。確か自分は下総守ではなかったか。自分の首が狙われているのか。どうしても自分が下総守であるような気がしてきた。

 文豪先生が隠れたのは、小川の土手の斜面らしい。足の方が下に向かって傾斜して、その底から水音が聞こえる。
 馬の蹄の音は、まだばらばらと聞こえる。恐ろしくて、顔を上げて確かめてみる気がしない。
「雨が降ればいい」
 と文豪先生は思った。
 なにかに、雨が降ると人の気配が消えると書いてあった。さっき見上げた空には、雨雲が漂っていたではないか。
 そう思っているうちに、頬に、しずくが落ちてきた。雨だ。
「もっと、もっと降れ」
 この際びしょぬれになっても構わない。四滴、五滴、雨の滴を感じる。いよいよ本降りになるか。
 
 と思うと、それきり雨は止まってしまった。その代わり、馬の蹄の音も消えてしまった。どこかへ行ってしまったのか。
 小川の流れる音が、変わっている。小川を歩いて、こっちへ来る者がいる。
 さっきの武士であろうか。
 恐ろしくて目が上げられないが、今のうちに逃げなければとも思う。だが、身体が動かない。
「下総守」
 と、声がした。さっきの馬上の武士の声だ。
「父の敵。お主が、どんな卑怯な手段で我が父上を殺したか、忘れたとは言わせまいぞ」
 そうか、俺はこの武士の父を殺したのか。卑怯な手段で殺したのか。
 どんな殺し方だったのか、思い出してしまいそうだが思い出したくない。
「覚悟」
 と、首筋にひどい衝撃が走った。首が飛んだ。不思議に自分の首が飛ぶところが見えた。首は途中で斜面に落ちると、ごろごろと転がって、顔半分が小川の水に浸かった。
 首のあったあたりから、だらだら、というより洪水のように熱い血が吹き出てきた。
 悲しくてならなかった。首がないはずなのに、どこから出てくるのか、止めどもなく涙が流れた。涙は流れとなって、小川に注いだ。きらきらしている。
 雲が晴れて月が出たのだろうか。

 朝だった。文豪先生は、小川の斜面に倒れている自分を発見した。首はついていた。
 首が転がっていったと思われる小川のあたりには、折り詰めが川の水に洗われていた。

「たたりじゃないだろうか」
 と、家に帰った文豪先生は妄亭君に、ことの次第を話した。
 妄亭君はなにやら考え深そうに聞いていたが、話が終わると破顔一笑して、
「馬鹿馬鹿しい。そんなことがあるわけないじゃないか」
「だって、古戦場・・・」
「ああ、ありゃ嘘さ」
「嘘・・・?」
「出鱈目だよ。ちょっとからかってみただけだ。落ち着いて考えてみたまえ。この科学万能の世の中にさ」
 と、妄亭君はいかにも可笑しいというように身体を揺すって笑いながら、
「幽霊なんているわけがないじゃないか」 
 お前が言うな、と文豪先生は思った。

 

金井哲夫のあたくし小説 『夏の時間』

 文豪堂書店編集長の金井哲夫が短編「あたくし小説」を書くことにしました。これらちょいちょい公開しますので、どうぞよろしく。これは第一回金井哲夫賞短編小説部門賞候補の筆頭作品です。



夏の時間

 ある夏のよく晴れた日、自宅の二階にある小さな仕事部屋で、南側の窓の脇に置いた小さな机に向かって座り、とくに急ぎではない仕事をなんとなくやっていた。
 時計を見ると2時10分。
 女房は朝から仕事で、娘は学校。誰もいない日中は、電気代がもったいないのでエアコンは付けず、家中の窓を開け放っている。
 窓から見えるのは隣の家の屋根とその脇に黒々とした木立と、あとは青い空と白い雲。そうした夏の景色が温かい空気の四角い塊となって窓からゆっくり侵入し、部屋の中で拡散し、反対側の部屋のドアを通って階段の向こうの北側の窓からまた四角くなって出て行く。
 ここは都心から電車で三十分ほどのいわゆるベッドタウンなので、昼間は緩やかな坂道を行き交う車や、ときどき上空を通過するヘリコプターの音がひとつずつ聞こえる程度に静かだ。
 隣の家の屋根の向こうの方から、売る気のない竹竿売りの軽トラックが「20年前の値段」だと主張し、さらに向こうの小学校からは、子どもたちの歓声がふわふわと届く。夏はそれに遠くや近くのセミの声が重なる。
 しばらくキーボードを叩いていたが、気がつくと、窓の外の音が止んでいる。車もヘリコプターも子どもも竹竿屋もセミも、さっきから黙っている。

 時計を見ると2時10分。あ、そうかと思った。
 夏の昼過ぎには、ときどきこんなことがある。日差しが強すぎて時間が止まるのだ。幼稚園ぐらいのときだったか、都内の小さな家に住んでいたボクは、ちょうどこんな真夏の昼過ぎに二階の窓から下の細い道路を眺めていた。すると、左の突き当たりの床屋の角から水色のリヤカーが現れた。麦わら帽子をかぶったおじさんが、リアカーを黙ってゆっくりゆっくり引いてくる。リヤカーには丸い金魚鉢がいくつも並べてあり、リヤカーの動きに合わせて中の水と赤い金魚が揃ってたぷんたぷんと揺れる。その上には水色のペンキを塗った蔓棚のようなものが組んであり、ガラスの江戸風鈴がたくさん吊り下げられている。風鈴は滅多に鳴ることがなく、水色のリアカーはゆっくりと目の下を通過していき、右のほうの豆腐屋の突き当たりを曲がって消えた。
 その間、普段は満遍なく聞こえている車の音も飛行機の音も、セミの声も止んでいたように覚えている。だからこそ、そんな当時としてはありふれた光景の印象が強く残っているのだと思う。
 リアカーが豆腐屋の角に消えると、それらの音が、空の盥に水が流れ込むように戻ってきた。そのときボクは、幼い頭で、時間が止まっていたのだと感じた。

 しばらく仕事の手を止めてそんな夢想に浸り、無音の時間をぼんやりと過ごしていた。我に返ると、あのときと同じように、夏の音が戻ってきて窓の外の街に満ち、窓からふわりと流れ込んできた。
 時計は2時10分を指していた。やっぱりだ。時間は止まっていた。
 そして、窓からゆっくりと流れ込むいつもの音に包まれてキーボードを叩き始めた。
 日が傾き、外が少し黄色くなってきた。玄関のドアを開ける音がして、女房が帰ってきた。ボクは階段を下りて女房を迎えた。暑い暑いと言いながら冷蔵庫から取り出した缶ビールを氷入りのコップに注いで飲む女房の隣に座り、今日あったことなど雑談を交わした。時間が止まったことについては、取り立てて伝えるべき話題でもないので話さずにいた。特別なことではあったが、まったく個人的な事件だ。
 しばらく話したあと、すっかり日は傾き、女房は夕飯の支度を始めた。ボクは2階の仕事部屋に戻った。薄暗くなった壁の時計を見ると、2時10分を示していた。
 なんだ、時計が止まっていたのか。

 
  おわり

社長の業務:ショートストーリー『白昼堂々 手紙を返せ』

社長1  郊外の電車の終点から、余程歩いたところに、不意に草ぼうぼうの野原が拡がる。
 今時、資本の開発からどういう按配か逃れ得た、ともかく何もないところのまん中に、古ぼけた家が一軒建っている。

 家の主、といっても借家だから借り主ということになるが、痩せて顎が干上がりかけた顔つきの中年男、名を山田文豪という。
 一応、作家である。明治以来の日本の三文文士の伝統をあくまで固守するつもりとみえて、頭は蓬髪、着流しの和服、一閑張りの机を庭、というか野原の続きなる空間に向いた部屋に据え、パソコンなぞ、まだ食ったことがないという顔つきで原稿用紙をひろげ、こればかりは秘蔵の、いや愛用の、秘蔵にして愛用のウオーターマンなる太軸の万年筆を、あたかも一刀流の剣豪の気組みで構え、これから虚空より芸術をひねり出して御覧に入れますという手品師見たような了見・・・・・・とはいえ、ちぎれ雲の如く脳内に浮かぶ思想もイメエジも、たちまち野原を吹く風に持って行かれるようで、原稿用紙上の文字は、一向に増える気配がない。

 そこへ玄関の方から、
「頼もう」
 という、これまた古風に取り次ぎを頼む声。
 文豪先生の方は、高尚なる文芸に取りかかっている関係上、俗事の交渉は短くすませたいらしく、
「通れ」
 と簡単なひと言のみ。
 現れたのは、金縁眼鏡にちょびひげという男、絽の着物に扇子を使いながら入って来て、
「相変わらず客扱いの悪い男だ」
 文豪先生、ちらりと見て、
「なんだ、妄亭君か」
 妄亭というのは、この先生の友人らしい。
「なんだとは、ご挨拶だな。しかし実に交通の便の悪いところだね。よくまあ、人が住むものだ。安達ヶ原の鬼婆にお似合いといったところだ」
 文豪先生と違って口が軽いらしく、ぺらぺらと悪口を言い立てる。
「別に来てくれと頼んだわけじゃないぜ」
 と、こちらは一貫して愛想がない。
「そりゃああんまり、つれなかろう。友あり遠方より来たる、また楽しからずや。ちっとは喜び給え」
「あまり嬉しくない」
「ところで、今日は用事があって来たんだ」
「君に用事があるとは珍しいな」
「うむ、手紙を返してもらおうと思ってね」
「手紙たあ、なんだい」
「とぼけちゃいけない。僕が蓮子さんに宛てた恋文だ」
 蓮子さんというのは、両人に共通の女性の知人らしい。
「君が蓮子さんに出した手紙をなぜ、僕が持っているんだ」
「ほら、僕らの同級生だった曽呂利、当初、あいつに渡したんだ。なんでも蓮子さんの遠い親戚だとかいうんでね。下手に投函して、彼女の家族の目につくよりいいと思ったんだ」
「じゃ曽呂利に言ったらよかろう」
「ところが、彼は、『自分から蓮子さんに渡すと、彼女は勘違いして自分に恋心を抱いてしまうかもしれない』と、こう言うんだ」
「相変わらず自惚れの強い男だな」
「そこで余計な面倒が起こらないように文豪君に頼もう、というのだ。文豪なら、間違っても女性に好かれることはないから、とね。ところが、その後、蓮子さんが手紙を読んだ様子が見られない。これは、君の所で留め置かれているということだ。だから、君が持っているわけなんだ」
 文豪先生は、黙って妄亭の話を聞いていたが、伸び上がって大きな欠伸をすると、
「何だ、馬鹿馬鹿しい。曽呂利からそんな話は聞いたことないぜ」
「何だって。じゃあ、曽呂利のやつ、ほっぽらかしていたというのかね」
「あれも頼りにならんやつだからな。だいたい、君、なんだって今頃、手紙のことなんか言い始めるのだ」
「いや、どうも、ああいうものが残っていると思うと、気になるやら恥ずかしいやら、その・・・」
 と妄亭は眼鏡をハンカチで拭きながら。
「成仏できなくてね」

 文豪先生は、しばらく顎に手を当て天井を睨んで考えていたが、
「おい、妄亭。君、死んだのじゃなかったっけ」
 妄亭の方は、どうということもない調子で、
「死んださ。今頃、気がついたのかい」
「君が、あまり気楽そうにやってくるから」
「死んだからと行って、無理に重々しくする必要もないじゃないか・・・おい、第一、僕の葬式で弔辞を読んでくれたのは君だぜ」
「うむ。そういえばそうだ」
「忘れたのか。頼りない男だな」
「僕がせっかく、真剣に読んでいるのにくすくす笑うやつがいた」
 と文豪先生、思い出したと同時に怒り出す。妄亭はにやにやしながら、
「笑うやつがいたどころじゃないさ。君の声が変な具合に裏返るのだもの。場内、大爆笑さ」
「悲壮な名文だったのだぜ」
「名文だけに、余計可笑しいや。僕の両親だって腹を抱えて笑っていたぜ。坊主なんか、お経が続けられなくて、笑いながら泣きそうな顔をしていた」
「怪しからん坊主だ」
「あんなに陽気な葬式は珍しいと、あとで評判だったそうだ」

「じゃあ、君は幽霊かい」
「うむ、幽霊だ」
「幽霊なら幽霊らしく、夜に出てきたらどうだい。こんな白昼堂々現れないで」
「そんなのは旧弊な幽霊だ。新時代の幽霊じゃない。幽霊だって人間を原料として製造されているからには、同等の権利を主張すべきだ」
「君なんぞにうろうろされると迷惑だから、さっさと成仏するがいい」
「だから、手紙が気になってさ。時に、蓮子さんはどうしているかね」
「元気だ。結婚して幸福に暮らしている。相手は君より余程真面目な男だ」
「ふうん。悔しいね。取り殺してやろうかしら」
「やめたまえ。蓮子さんには何の罪もないじゃないか。だいたい、君は蓮子さんへの恋に煩悶して死んだとでもいうのかい」
「いや、急な病いだ」
「じゃあ、ますます関係ない」
「それじゃあ、方角を変えて、曽呂利にでも取り憑くか」
「そうするがいい」
「曽呂利ならいいかね」
「あいつなら死んでも世の中の損失というような男じゃないから」
 文豪先生、自分に関係ないと思うと、至極気軽に取り憑き先を推薦する。
「よし、じゃあ、これから曽呂利のところへ行って、手紙を要求してこよう。返してくれるなら、僕も成仏するし、なければ取り殺すまでだ」
「曽呂利が死んでも、弔辞は御免蒙ることにする」
「やつの住所はどこだっけ。文豪君、ちょいと教えてくれるかい。幽霊もなかなか忙しいや」

 それから数日、相変わらず文豪先生が紙切れの上に芸術の幻花を現出させんと苦悶しているところに、妄亭が呑気な顔で飄然と舞い込んできた。
「なんだ、君、まだ娑婆にいたのか」
「うむ、僕としても早いところ西方浄土へ赴きたいのは山々なんだけれどね」
「なんだい、まだ何かあるのかい」
「例の手紙なんだが」
「曽呂利の所へ行かなかったのか。所番地まで教えてやったじゃないか」
「すまんが、君、一緒に来てくれないか」
「幽霊と同行なぞ、ぞっとしない」
「まあ、そう言い給うな。あの辺の道は入り組んでいて、わかりにくいのだ」
「それがどうした」
「いまだに迷って成仏できない」

社長の業務:ショートストーリー『漫才をする二人』

社長1  お盆に帰るバスである。
 さっきから長いトンネルを走っている。トンネル内部に響くバスの走行音にじっと耳を傾けていると、うるさいというよりは、却って気持ちが落ち着いてきて、眠りに誘われそうになる。
 無意識の音、沈黙の音というのは、案外、こんなノイズのようなものなのかもしれない。

 俺は、一番後部の窓側の席に座っている。隣にいるのはジーパン姿の若い女で、バスが走り出す前から目を閉じてじっと動かずにいる。眠っているのだろうか。
「まさか死んでいるわけじゃ」
 と思いかけて、あまり趣味のいい冗談じゃないと思い、自分で打ち消した。
 こんな女が帰るのは、どんな家なのだろうか。

 一番前の座席の老人二人が立ち上がって、こちらを向いた。そして、お辞儀をした。
 一人は小柄で丸い眼鏡をかけて、鼻の下に髭を生やしている。もうひとりは、大柄ででっぷり太っている。
 何をしようというのだろう。俺が不思議に思っていると、前の方の席の間から盛んな拍手が起きた。団体だろうか。何をしようと自由だが、集団で騒がれるのは迷惑する。
 なおも車内を観察してみると、バスの前の方には年配の客が多く、後ろの方は比較的若い客が多いようだ。俺は何の気なしにバス会社の指定した席に座っているのだが、なにか意図がある配置なのだろうか。
 
 立ち上がった男二人が、老人の癖によく通る声で会話を始めた。私的な会話にしては、こちらにわざわざ聞かせるような雰囲気がある。
A「じゃ君、水原君というのは?」
B「水原茂ですか。えーと、あれはね、父親の子です」
A「え、父親の子と言いましたれば、つまりは君とは兄弟やな」
B「いやア、そう深い関係はありません」
A「深いも浅いもない、父親の子やったら、君の兄弟やないか」
B「それが、父親の子というても、これがおかしいんです。水原の父親の子ですから」
A「え? 水原の父親の子としましたれば、君とは全然赤の他人や」
B「まあ、平たく言えば」
 
 前の方の席からは、時折、笑い声や拍手が起きる。俺にはわけがわからない。
A「ショートへ入りました。タッチならず、セーフ、セーフ」
B「これ、やっぱり政府の仕事ですか」
A「何を喋ってんな。バッテリー間のサインきわめて慎重、第四球」
B「第四球」
A「投げました」
B「投げました」
A「打ちました」
B「打ちました」
A「大きな当たり」
B「大きな当たり」
A「ヒット、ヒット」
B「ひっと殺しや」
A「球はグングン伸びてます」
B「伸びてます、伸びてます」
A「伸びてます、伸びてます」
B「来年まで伸びます」
A「なんでやねんな。ランナー二塁から三塁」
B「二塁から三塁」
A「三塁を越えてホーム」
B「ホームを越えてレフト」
A「おい、ちょっと待て。ホームへ入ったランナーが、何でレフトあたりへ行くねん?」

 うるさいと言って止めさせるには、いやに前の方のノリがいい。俺の周囲の他の客も、別に怒った様子はない。
 このバスは、こういうアトラクション付きなのだろうか。俺だけが気づかず乗ってしまったのだろうか。
「なんだよ、こりゃあ」
 思わず口に出して言ってしまった。すると、隣で眠っていたかに見えた女が、
「これは『お笑い早慶戦』。昭和11年(1936年)、横山エンタツ、花菱アチャコのコンビによって演じられた漫才。当時、大人気だった大学野球を題材にしているの。さっき水原という人名が出たけれど、慶応大学の人気選手だったの。戦後はプロ野球でも活躍したわ。この漫才は、現代の漫才のいわばルーツとも言うべき作品ね」
 俺は、びっくりした。というか、呆れた。
「随分、くわしいんですね」
「そう。変でしょ。わたし、漫才が大好きで大好きで、それで昔の漫才や、歴史なんかまで調べていたのよ。この音源を見つけた時は、スマホに入れて、それこそ一日中、繰り返し聞いていたわ」

A「もう、ここで野球はしまいやがな」
B「面白かったね」
A「君、面白いて、この野球はどっちが勝ったんや?」
B「え、どっちが勝ったとは?」
A「2対3で、どっちが勝ったんや?」
B「2対3で?じゃ君、3が勝ちや」
A「ほな、3の学校は?」
B「3の学校ですか? 早稲田・・・」
A「あっ、あれっ」
B「いや、慶応・・・」
A「慶応か?」
B「いや、失礼しました」
A「どっちや?」
B「しばらくお待ちを願います」
A「どっちや分からんのん?」

 俺は彼女に聞いた。
「あの二人が、その、なんでしたっけ、やった人なんですか?」
「エンタツ・アチャコ? 若い頃の白黒の写真で見ただけだから、よくわからないけど、そうかもしれない。みんな、懐かしそうに笑っているわね」
「でも、昭和11年て、随分、昔ですよね」
「そう、80年くらい前ね。エンタツもアチャコも、1970年代に亡くなっているわ」
「知らないわけだ」
「だから、今ウケているお客達も、20歳の時聞いたとしても、生きていたら、もう100歳よね。実際には、もっと上でしょうね。彼らの子供だって孫だって、かなりの高齢のはず。そういえば、さっき、誰かが『わしの孫も、もう年だし病気がちなんで、お盆に帰るのは今年で最後になるかもしれない。その下は、わしも知らない世代だし。『こんどは、孫がこっちへ来る番だな』って言ってたわ」
 なるほど、そう言う人達も「家に帰るために」乗っているわけか。

「あなたは、どちらへ帰るんですか」
「もちろん家よ。父と母、弟が残っているわ。馬鹿な娘だと思っているでしょうね。例のエンタツ・アチャコを夢中になって聞ききなあら、街を歩いていて、車に跳ねられちゃったんだもの。今回が初盆よ」
「俺も、交通事故でした。バイクに乗っていて」
 盛んな拍手が聞こえてきた。漫才が終わったらしい。
 トンネルの先がほのかに明るくなったようだ。あれが『現世』の光りかもしれない。
 俺達を乗せた「お盆に帰るバス」は疾走を続けていた。

*『お笑い早慶戦』の台本は鶴見俊輔『太夫才蔵伝』所載のものに若干手を加えました。

社長の業務 ショートストーリー『トランプをする二人』

社長1  空、あくまで青く、大地、錆びたような赤である。
 どちらも、地の果て、空の果てを競うように、どこまでも拡がっている。
 三枚羽根のひょろ高い風車が回っている。風力発電用の風車である。回るごとに、ぐわーん、よわーんと音を立てている。その足下の発電機から電線が一本伸び、丸太で出来た電柱に繋がっている。
 電柱から電線が伸び、次の電柱に繋がっている。
 その電柱から電線が伸び、次の電柱に繋がっている。
 その電柱から電線が伸び、次の電柱に繋がっている。
 その電柱から電線が伸び、次の電柱に繋がっている。
(以下、数十行ないし数百行、同じ文が続く)

 ついにその電線が達するところは、相変わらずの空の下、大地の上である。ただし、こんどは緩やかに高度を落とし、一軒の掘っ立て小屋に繋がった。この荒野で、唯一、人間くさい風景である。
 その小屋の前に、デッキチェアが二つ並んでいる。その間には、テーブルがあって、上にビールが二本と、トランプのカード、そして、金貨が積んである。
 デッキチェアに寝そべっているのは、一人は、白い髭の小柄な老人。オーバーオールのジーンズに、麦わら帽を禿頭に載せている。
 もう一人は、犬。耳の垂れた、体毛の豊かな、巨大な犬である。立ち上がったら、老人より遥かに大きいだろう。
 二人とも、トランプのカードを手にしている。
「フルハウスだ」
「ワン(わるいな、ロイヤルストレートフラッシュ)」
 犬は老人が賭けていた金貨を自分の方に引き寄せた。
「がう(もう一戦やるかい)」
 こんどは、犬がスリーカード、老人はカスばかり。

「少し休もう」
 そう言って、老人はビール瓶に口を付けて、ぐびりと飲んだ。犬も同じようにする。
「今日は雲がない」

 老人が、そう言うのを聞いて犬は目を細める。まったく、まぶしすぎる太陽だ。
「昨日は、うさぎ型の雲が出ていた」
 そう聞いて、犬は昨日のうさぎ型の雲を脳裏に思い浮かべる。
「おとといは、猫の形の雲だった」
 犬は、おとといの猫の形の雲を思い浮かべて、ちっと舌を鳴らす。
「その前の日は、夕焼けに蛇型の雲が出ていたな」
 そうだ、確かにそうだ。あの蛇型の雲、美しかった。よく、あれを思い出させてくれた。犬は老人の方を向いてウインクをする。

「さて、今度は何をするかい。また、ポーカーにするかい。他のゲームにするかい」
 これまで、いろいろと やってみたのだ。チェスやバックギャモン、囲碁や中国の象棋、日本の将棋、だが、どうも、この空の下で頭を使いすぎるのは良くないようで、すぐに勝負の決まるポーカーなどに落ち着いてしまうのだ。
「ばう(トランプ占いをやってみてくれないか)」
 老人の占いはちょっとした腕である。
「何を占うね」
「わう(明日のこととか)」
 老人はカードを卓上に並べ始める。いろいろ動かしたり、めくったりした挙げ句、
「何も起こらない、と出た」
「くううん(明後日のことは)」
 また、老人の手とカードがややこしく動く。
「・・・・・・何も起こらない、と出たな」
「くう(あんたの占いはよく当たるからな)」
 犬は、またビール瓶を口に持っていったが、
「かうう(そうだ、今日、これからのことを占ってみたら」
「よし、じゃあ、やってみよう」
 老人は、しばらくカードを繰っていたが、
「おう、やつが来るぜ」
 犬は、チェアの上で背伸びをすると、
「わん(じゃあ、ちょっと働いておくか)」
 犬は、下に降りると(もちろん)四つ足で歩き始めた。老人が、その後からついていく。しばらく歩いたところで、犬が、
「わお、わおおおおおううううう」

 と、遠吠えのような声を上げる。そして、地面を掘り始める。かさかさした土に混じって、時々、きらっとした輝きが掘り返される。
 それを老人は、見逃さず拾って腰につけた革袋に放り込む。  
 どうやら、この荒野には、誰が埋めたのか、無数の宝石が埋まっているらしい。しかも、それを掘り返すことが出来るのは、この犬だけで、しかも老人がついていないと駄目なのだ。

「わおーん」
 また、犬が遠吠えのような声を上げる。だが、今度は宝石ではなくて、遥か遠くから近づいてくる爆音を聞き分けたのだ。
 青い空に、毛穴のような一点が見え始める。それがだんだん大きくなって、ついにはヘリコプターの姿になる。着陸すると、中から、でっぷり太った、フロックコート姿の黒い髭をもじゃもじゃ生やした男が、二人の若い従者を連れて降りてきた。それぞれ、箱や袋を抱えている。
「や、遅くなってすまん。昨日には来ようと思っていたのだがな」
 そう言ってから、手にしていた袋を、どすんとテーブルの上に置く。
「これが、この間の代金の残りだ。あと、あいつらに持たせているのが、頼まれていた食料や日用品だ」
 と二人の若者の方を振り返った。
「小屋の中の、いつもの場所に運び込んでおいてくれ」
 老人が答える。そして、
「これが、今回の獲物だ」
 と宝石の入った革袋を、ひげもじゃに差し出した。
 ひげもじゃは、袋を覗き込むと、次から次と宝石を摘み上げては、じろじろと見回し、日に透かしてみたりした。
「うん、結構。上物だ。これが、やがて都会の奥様方やご令嬢方を美しく飾り、そして俺達はたんまり儲ける、というわけだ」
「お前だけ、儲けを独り占めしようなんて思うなよ。この犬は、正確にお前さんののど笛を食いきるぜ」
「おい、俺は、そんなに悪いやつじゃないよ。今の俺があるのは、あんた方のお陰だということは、肝に銘じている。俺は、あんた方の味方だぜ。困ったことがあったら、何でも言ってくれ」
「そうか。じゃあ、俺が死んだら」
「縁起でもない話しだが、あんたが死んだら・・・

「この犬の新たな飼い主を世話してやってくれ。こいつも、もう老いぼれなんで、長くは生きないと思うが、幸せに死なしてやってくれ」
「それは引き受けた。俺のうちで世話してもいい。女房も娘も優しい女だ」
「この犬の方が先に死んだら、俺は小金を貯めているから、都会へ移ろうと思う。その時、すっきりしたいい家を世話してくれないか」
「合点だ。俺は郊外に、こじんまりした瀟洒な家を持っているんだ。あれが、あんたにはいいだろう。心配ない。俺に任せてくれ。俺は恩を知らない人間じゃない。そんなに悪いやつじゃないよ」
 二人と一匹は、ひげもじゃが運んできた上等のワインで乾杯した。
 やがて、ひげもじゃはヘリコプターに戻った。

 たちまち、老人と犬の住む小屋が小さくなる。
 ヘリコプターは、電線と電柱の列に沿って飛ぶ。
 その果てしない電線と電柱の列の果てに、ぬっと風車が、ひとつ目の仁王が手を振り回しているように現れる。
 風車が回るゆわーん、ゆよーんという音は、ヘリコプターの爆音にかき消されて聞こえない。
 来し方を振り返っても、もちろん、老人と犬の小屋は、これっぽっちも見えない。