『達人伝・桃源郷の耳』第四回 (全五回)

「日が永いな」
日柄彦左衛門の家での刀披露から戻って、家の縁側でくつろいでいる。
まるで暮れるのを忘れてしまったような空が庭の垣根の向こうに広がっている。昼酒の酔いで、心地良いだるさが身体を満たしている。
先ほどまでは、道場の方から塾頭を中心とした稽古の声、音が聞こえていた。藩から拝領した屋敷だが、特別に願い出て道場を作ったのである。
今は、しんとしている。いや、ただ耳鳴りだけが相変わらずかすかな雑音をたてている。
「なにか?」
縁側に座っている成田が呟いた。少しおいて、
「それは、だらしないのう」
苦笑を浮かべている。あたかも誰かと会話をしているような調子だが、まわりには誰もいない。しかし、成田の耳には、
「お疲れになりましたでしょう。少し横になってお休みになっては」
という女の声が聞こえていた。左耳にである。ということは、耳鳴りかも知れないのだが。
「それほど言われるのなら、すこし休もうか」
成田は肘を枕に横になり、目を閉じた。
「ごゆるりとお休みなさいませ」
耳鳴りかも知れない声が、そう言った。
しばらくして、めずらしく昼寝をしている夫を見た奥方は、冷えぬように掛け物を掛けてやった。
それから、成田が出奔したという噂が秘かに流れた。出所はわからない。ともかく、彼が公の場に姿を現さなかったのは事実である。
許可なくして藩から出れば、咎めを受けなくてはならない。藩には病気という届けが出された。しかし、これは彼が姿を消したことを取り繕うため日柄家老が工作したものだ、という新たな噂が付け加わった。
さして大きくない藩とはいえ、人間の集団である。日柄にすり寄る者もあれば、反感を抱く者もある。さしたる理由もなしにそうなるのだ。
成田音成に何か失態があれば、それを推薦した日柄もただではすまないだろうと考える者も出てくる。
7 音の消えた村
柔らかいしとねの上に寝ている、と思ったら、それはぶ厚く生えた苔であった。暗い中、一面に緑色に光る苔の起伏がどこまでも連なっている。天井からも緑に光る氷柱が垂れ下がっている。
あの鍾乳洞である。何十年ぶりだろう。また来るとは思わなかった。
自分の頭の横に桃色の小袖を着た膝がある。膝の上に一菅の笛が携えられている。美しい女であった。
吹いてみせい、と成田は目で指図した。
女は、目と指で笛を調べるようにしてから、吹き口を唇に当てた。息が入っていくのがわかる。
だが音は鳴らなかった。
修行のうちに、様々な学問や芸事を身につけ、音楽にも知識のあった成田は、その女の身体の動きで、相当な吹き手であることを見抜いていた。それなのに、無音。
「吹いたのだな」
成田は確かめた。女の表情は変わらなかった。成田の息は言葉にならなかったのである。息は、確かに胸より吹き上げ、声帯を震わし口蓋内で複雑な加工が施されたが、口より出た後は、ただの息でしかなかった。
やや当惑して女を見ると、その顔には思い詰めたような色が浮かんでいた。
女は立ち上がった。成田も身体を起こした。女が身を翻して歩き始めると、成田もその後を追った。
桃の花が咲き乱れる里であるのに変わりはなかった。だが、風の音がなかった。鶏鳴もなかった。空ではけたたましく雲雀が鳴いていなかった。いや、いないのではなく、宙天に確かに小鳥が羽根を忙しく動かしているのが見える。おそらくは、囀っているのであろう。しかし、その頑張りに反して声は聞こえてこない。
鶏も同じだった。雄鳥が逞しい胸を反り返らせて、喉と首を動かしても、ただ欠伸をしているようにしか見えない。
音もなく、木の葉のざわめきもなく吹きつけてくる風は、幽霊の冷たい手で頬を撫でられているようだった。足音をたてない道には、無数の手が生えて足を引っ張っているようだった。
一天、雲のない青空も歪んで見えた。
一切の音が消えていた。
何に邪魔されているわけでもないのに、行くことに困難を感じ、呼吸もなんだか苦しかった。
五感の一つが突然消えてしまうことが、こんなにも世界の手触りを変えてしまうとは思わなかった。
あの老婆、老爺に鍛えられ、牛・角田角之進の世話をしていた家が見えてきた。何年かに渡った修行は目覚めてみれば、一夜の夢だったが、そうなると成田にとって、もっとも掛け替えのないのは夢であることになる。
(夢ではない)
今、再び家を見て、成田はひとりごちた。
だが、本来涙ぐんでもよいはずなのに、懐かしいと言うには、何かが欠けていた。それが音であることは明白だった。
桃源郷を離れて以来、老爺、老婆、牛、女房達、農夫達、それらの顔を繰り返し思い出していたが、その光景には無意識のうちに、音の記憶が付け加えられていたのかも知れない。
こんなにも近いのに、何故か遠い。
女に促されて奥へ入った。座敷には夜具が敷かれ、老婆が寝ていた。リンダだ。ずいぶん、年を取った。周囲には、村の男女が座っていた。
成田の目に、ようやく水晶玉のような大粒の涙が浮かんだ。
(夢ではない)
この桃源郷にも自分にも、確かに時間は流れていたのだ。
リンダの目の光りには、かつての鋭さが残っていたものの、動くことはおぼつかないようだった。
ルイスの姿は見えなかった。きっと酒の飲み過ぎで、とっくにおっ死んでしまったのだろう。
賑やかだった村人達は、ことりとも音をたてず、入って来た成田を不安げに見つめている。いかつい成田の姿に驚いたものではない。自分達の置かれている状況に、底知れぬ不安を感じているのだろう。
また、リンダの顔に目を戻すと、老婆はにやりと笑った。あの、少し皮肉げだが、少し照れたような笑いだ。声が出せれば、懐かしいと言っただろうか、憎まれ口を叩いただろうか。
成田は、女を振り向いた。また、リンダに視線を戻した。
(ご恩返し申し上げる)
この奇妙な状態から桃源郷を救うために、自分は召還されたのだ。叩けばごちっと音のしそうな岩のような覚悟が、臍下丹田に落ち着いた。
8 宙を飛ぶ耳
成田は山寺に向かった。
顔見知りだった白髭豊かな老僧はもはやおらず、成田と同じ年格好の精気みなぎる僧が住職になっていた。ぎょろりとした目に力があったが、やはり村人同様の戸惑いは胸の底にあるらしかった。
僧は、成田が何をしにやってきたか、すでに察しているらしく、本堂へと導いた。
本堂の中央に座ると結跏趺坐を組み、目を半眼に閉じた。あの頃も、こうして心胆を練ったのである。
朝にやってきて、午後まで座り続けた。精神が、頭のてっぺんの百会から堂の下の会陰まで、一本通った棒のようになった。
体中の穴という穴は外に向かって開き、どんな微細な気の流れをも逃さなかった。
夕暮れ近くになって、さすがに疲れを感じた様子で立ち上がった。
本堂のまわりの縁に降りると、村を一望に見渡すことが出来た。山に囲まれた小さな村である。
のどかであるべき光景だが、今は、傾いた西日が異様に赤々としているように思えた。村を覆うかのようにある満開の桃の花が、赫々たる光を受けて炎のように燃え上がっている。針の落ちる音一つ聞こえないだけに、その炎には何かの怒りが込められているようである。
(妖気だ)
邪悪なものが、この村を侵している。
すると、村のすべての木々の葉と花の花弁が輝きながら形を変えた。
(耳だ)
人間の耳であった。木々の枝に、草ぐさの茎に、無数の耳が咲いている。福耳もあれば小さな耳もある。老人の耳、子供の耳、女の耳、男の耳、尖った耳、膨らんだ耳。
すべての植物が、すべての耳をそばだてていた。音を求めているのだろうか、夕日に照らされて渇いているのだろうか。
風が吹くと、いっせいに耳がそよいで煌めいた。その光が成田の目を針のように刺して、眼球が血を浴びたようになった。
目のくらみによる紫色の雲が消えてくると、神無山と人無山の間の宙空に、城のように巨大な耳が浮かんでいた。
(住職はどこに行ったのだろう)
ふと、そんなことが気になった。この恐ろしい光景を一人で支えるのがきつかったのかもしれない。
成田は、袴の紐を締め直し、下腹に力を入れ直した。
巨大な耳は移動を始めた。上空を横に飛んで、神無山の陰に入った。
その途端、日が暮れた。藤色の空に星が輝きだした。すべての草木は単に草木で、闇の中に常の姿を隠そうとするところだった。
老婆の家に戻った。他のもの皆が、あの光景を見たのかどうか、知りたかった。
(見たか)
と聞かずとも、老婆の周囲に集まった人々がひどく緊張しているのがわかった。あの光景が、それだけで人々にどんな痛みをもたらしたかが、表情とこわばった身体に表れていた。
老婆は、強い光の宿った目で成田を見た。そして、その横に視線をずらした。そこには、あの女がいた。やはり切迫した表情があった。
(見たのだな)
女はうなずいた。言葉がなくとも、何か強いものが伝わった。
神無山へ。女は笛を唇に当てた。
その晩、東の谷の路傍の観音堂が全焼した。旅人が焚き火で失火でもしたのか、それはわからない。音もなく燃えている火を発見した百姓の田吾作は、大声で喚いて半鐘を打ち鳴らした。その音は誰にも聞こえず、誰も駆けつけなかった。堂は虚しく静かに燃え尽きた。
(つづく)
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