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2015年02月

『達人伝・桃源郷の耳』第四回 (全五回)

桃源郷46 日柄家・刀披露より帰宅して

「日が永いな」
 日柄彦左衛門の家での刀披露から戻って、家の縁側でくつろいでいる。
 まるで暮れるのを忘れてしまったような空が庭の垣根の向こうに広がっている。昼酒の酔いで、心地良いだるさが身体を満たしている。
 先ほどまでは、道場の方から塾頭を中心とした稽古の声、音が聞こえていた。藩から拝領した屋敷だが、特別に願い出て道場を作ったのである。
 今は、しんとしている。いや、ただ耳鳴りだけが相変わらずかすかな雑音をたてている。
「なにか?」
 縁側に座っている成田が呟いた。少しおいて、
「それは、だらしないのう」
 苦笑を浮かべている。あたかも誰かと会話をしているような調子だが、まわりには誰もいない。しかし、成田の耳には、
「お疲れになりましたでしょう。少し横になってお休みになっては」
 という女の声が聞こえていた。左耳にである。ということは、耳鳴りかも知れないのだが。
「それほど言われるのなら、すこし休もうか」
 成田は肘を枕に横になり、目を閉じた。
「ごゆるりとお休みなさいませ」
 耳鳴りかも知れない声が、そう言った。
 しばらくして、めずらしく昼寝をしている夫を見た奥方は、冷えぬように掛け物を掛けてやった。

 それから、成田が出奔したという噂が秘かに流れた。出所はわからない。ともかく、彼が公の場に姿を現さなかったのは事実である。
 許可なくして藩から出れば、咎めを受けなくてはならない。藩には病気という届けが出された。しかし、これは彼が姿を消したことを取り繕うため日柄家老が工作したものだ、という新たな噂が付け加わった。
 さして大きくない藩とはいえ、人間の集団である。日柄にすり寄る者もあれば、反感を抱く者もある。さしたる理由もなしにそうなるのだ。
 成田音成に何か失態があれば、それを推薦した日柄もただではすまないだろうと考える者も出てくる。


7 音の消えた村

 柔らかいしとねの上に寝ている、と思ったら、それはぶ厚く生えた苔であった。暗い中、一面に緑色に光る苔の起伏がどこまでも連なっている。天井からも緑に光る氷柱が垂れ下がっている。
 あの鍾乳洞である。何十年ぶりだろう。また来るとは思わなかった。
 自分の頭の横に桃色の小袖を着た膝がある。膝の上に一菅の笛が携えられている。美しい女であった。
 吹いてみせい、と成田は目で指図した。
 女は、目と指で笛を調べるようにしてから、吹き口を唇に当てた。息が入っていくのがわかる。
 だが音は鳴らなかった。
 修行のうちに、様々な学問や芸事を身につけ、音楽にも知識のあった成田は、その女の身体の動きで、相当な吹き手であることを見抜いていた。それなのに、無音。
「吹いたのだな」
 成田は確かめた。女の表情は変わらなかった。成田の息は言葉にならなかったのである。息は、確かに胸より吹き上げ、声帯を震わし口蓋内で複雑な加工が施されたが、口より出た後は、ただの息でしかなかった。
 やや当惑して女を見ると、その顔には思い詰めたような色が浮かんでいた。
 女は立ち上がった。成田も身体を起こした。女が身を翻して歩き始めると、成田もその後を追った。

 桃の花が咲き乱れる里であるのに変わりはなかった。だが、風の音がなかった。鶏鳴もなかった。空ではけたたましく雲雀が鳴いていなかった。いや、いないのではなく、宙天に確かに小鳥が羽根を忙しく動かしているのが見える。おそらくは、囀っているのであろう。しかし、その頑張りに反して声は聞こえてこない。
 鶏も同じだった。雄鳥が逞しい胸を反り返らせて、喉と首を動かしても、ただ欠伸をしているようにしか見えない。
 音もなく、木の葉のざわめきもなく吹きつけてくる風は、幽霊の冷たい手で頬を撫でられているようだった。足音をたてない道には、無数の手が生えて足を引っ張っているようだった。
 一天、雲のない青空も歪んで見えた。
 一切の音が消えていた。
 何に邪魔されているわけでもないのに、行くことに困難を感じ、呼吸もなんだか苦しかった。
 五感の一つが突然消えてしまうことが、こんなにも世界の手触りを変えてしまうとは思わなかった。

 あの老婆、老爺に鍛えられ、牛・角田角之進の世話をしていた家が見えてきた。何年かに渡った修行は目覚めてみれば、一夜の夢だったが、そうなると成田にとって、もっとも掛け替えのないのは夢であることになる。
(夢ではない)
 今、再び家を見て、成田はひとりごちた。
 だが、本来涙ぐんでもよいはずなのに、懐かしいと言うには、何かが欠けていた。それが音であることは明白だった。
 桃源郷を離れて以来、老爺、老婆、牛、女房達、農夫達、それらの顔を繰り返し思い出していたが、その光景には無意識のうちに、音の記憶が付け加えられていたのかも知れない。
 こんなにも近いのに、何故か遠い。

 女に促されて奥へ入った。座敷には夜具が敷かれ、老婆が寝ていた。リンダだ。ずいぶん、年を取った。周囲には、村の男女が座っていた。
 成田の目に、ようやく水晶玉のような大粒の涙が浮かんだ。
(夢ではない)
 この桃源郷にも自分にも、確かに時間は流れていたのだ。
 リンダの目の光りには、かつての鋭さが残っていたものの、動くことはおぼつかないようだった。
 ルイスの姿は見えなかった。きっと酒の飲み過ぎで、とっくにおっ死んでしまったのだろう。
 賑やかだった村人達は、ことりとも音をたてず、入って来た成田を不安げに見つめている。いかつい成田の姿に驚いたものではない。自分達の置かれている状況に、底知れぬ不安を感じているのだろう。
 また、リンダの顔に目を戻すと、老婆はにやりと笑った。あの、少し皮肉げだが、少し照れたような笑いだ。声が出せれば、懐かしいと言っただろうか、憎まれ口を叩いただろうか。

 成田は、女を振り向いた。また、リンダに視線を戻した。
(ご恩返し申し上げる)
 この奇妙な状態から桃源郷を救うために、自分は召還されたのだ。叩けばごちっと音のしそうな岩のような覚悟が、臍下丹田に落ち着いた。


8 宙を飛ぶ耳 

 成田は山寺に向かった。
 顔見知りだった白髭豊かな老僧はもはやおらず、成田と同じ年格好の精気みなぎる僧が住職になっていた。ぎょろりとした目に力があったが、やはり村人同様の戸惑いは胸の底にあるらしかった。
 僧は、成田が何をしにやってきたか、すでに察しているらしく、本堂へと導いた。
 本堂の中央に座ると結跏趺坐を組み、目を半眼に閉じた。あの頃も、こうして心胆を練ったのである。
 朝にやってきて、午後まで座り続けた。精神が、頭のてっぺんの百会から堂の下の会陰まで、一本通った棒のようになった。
 体中の穴という穴は外に向かって開き、どんな微細な気の流れをも逃さなかった。

 夕暮れ近くになって、さすがに疲れを感じた様子で立ち上がった。
 本堂のまわりの縁に降りると、村を一望に見渡すことが出来た。山に囲まれた小さな村である。
 のどかであるべき光景だが、今は、傾いた西日が異様に赤々としているように思えた。村を覆うかのようにある満開の桃の花が、赫々たる光を受けて炎のように燃え上がっている。針の落ちる音一つ聞こえないだけに、その炎には何かの怒りが込められているようである。
(妖気だ)
 邪悪なものが、この村を侵している。
 すると、村のすべての木々の葉と花の花弁が輝きながら形を変えた。
(耳だ)
 人間の耳であった。木々の枝に、草ぐさの茎に、無数の耳が咲いている。福耳もあれば小さな耳もある。老人の耳、子供の耳、女の耳、男の耳、尖った耳、膨らんだ耳。
 すべての植物が、すべての耳をそばだてていた。音を求めているのだろうか、夕日に照らされて渇いているのだろうか。
 風が吹くと、いっせいに耳がそよいで煌めいた。その光が成田の目を針のように刺して、眼球が血を浴びたようになった。
 目のくらみによる紫色の雲が消えてくると、神無山と人無山の間の宙空に、城のように巨大な耳が浮かんでいた。 
(住職はどこに行ったのだろう)
 ふと、そんなことが気になった。この恐ろしい光景を一人で支えるのがきつかったのかもしれない。
 成田は、袴の紐を締め直し、下腹に力を入れ直した。
 巨大な耳は移動を始めた。上空を横に飛んで、神無山の陰に入った。
 その途端、日が暮れた。藤色の空に星が輝きだした。すべての草木は単に草木で、闇の中に常の姿を隠そうとするところだった。

 老婆の家に戻った。他のもの皆が、あの光景を見たのかどうか、知りたかった。
(見たか)
 と聞かずとも、老婆の周囲に集まった人々がひどく緊張しているのがわかった。あの光景が、それだけで人々にどんな痛みをもたらしたかが、表情とこわばった身体に表れていた。
 老婆は、強い光の宿った目で成田を見た。そして、その横に視線をずらした。そこには、あの女がいた。やはり切迫した表情があった。
(見たのだな)
 女はうなずいた。言葉がなくとも、何か強いものが伝わった。
 神無山へ。女は笛を唇に当てた。

 その晩、東の谷の路傍の観音堂が全焼した。旅人が焚き火で失火でもしたのか、それはわからない。音もなく燃えている火を発見した百姓の田吾作は、大声で喚いて半鐘を打ち鳴らした。その音は誰にも聞こえず、誰も駆けつけなかった。堂は虚しく静かに燃え尽きた。

(つづく)




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ショートストーリー『達人伝・桃源郷の耳』第三回 (全五回)

桃源郷3 4 桃の花の咲く村(続き)

はあ~ 帆前舟にて 海山越えりゃよ~
 そこは海山越えたとこ~

はあ~ どこのお人か後ろから見れば
 尻と背中と頭の後ろよ~

 一瞬、耳鳴りがひどくなったのかと思ったが、人の唄声であった。唄にする意味があるのかどうか、わからないような唄である。先ほどの酔っぱらって寝ていた老人・ルイスであった。老婆は口の端で笑って、
「ダーリン、ご機嫌なのは結構じゃが、わしに捨てられかかっていることを忘れるなよ」
「あ、リンダちゃん、こりはこりはスビバセンね。僕ね、お酒いっぱい呑んじゃって、酔っぱらっちゃったの。不思議だね、なんでお、お酒飲むと酔っぱらうのかな。あ、あのね、怒っちゃいけませんよ。ご機嫌直しに舞いを一差し舞って進ぜますよ」
 と懐から扇を一本取り出すと、さっと開いて、

 とうとうたらりたらりら たりらりらんのこにゃにゃちわ

 音吉の耳にいやらしく響く声で謳いながら、あっちへ行ったりこっちへ行ったり動き回っている。今度は、二人がかりで俺を馬鹿にするつもりか。
「このジジイ、ぶち殺してくれようか」
 すかさず老婆、いやリンダがどこから取り出したか、棒を一本、音吉の足下に放り投げ、
「怒ったかの。その棒できゃつを殴り殺してくれ。酒臭いばかりのこいつの代わりに、新しいダーリンが欲しいと思っていたところじゃ」
「ジジイの次は、ババアだ」
 
 鳴るは瀧の水 鳴るは瀧の水 とうとうたらり

 舞うと言うよりふらついているルイス目がけて思い切りうちかかった。
 手首に痛みとも言えぬ痛みが残って、棒を取り落とした。のみならず天気のよい空に身体が二、三回舞ったかと思うと、しとねのように降り積もった桃の花弁の上に背中から落ちた。花弁がぱっと、灰神楽のように立った。
 ジジイは相変わらず謡い舞っている。ババアはつまらなそうに見ている。
「なんじゃ、ぶち殺してくれるのじゃなかったのか。お前を新ダーリンにしてやってもよいのじゃぞ」
 音吉は絞め殺したいような屈辱感を抑えながら、旧ダーリンの動きにじっと見入った。
 どうも、今、何かの技をかけられたようだが、さっぱりわからない。
 矮小な身体、短い手足、老人性及び泥酔性の危なっかしい足取り。体の大きな音吉が棒を以てかかれば、そのリーチにおいてかなわないわけがない。
 曲者があるとすれば、あの扇らしい。開いたり閉じたり、くるりと回って持ち替えたり、あれが音吉を幻惑し、間合いを狂わせてしまうのかもしれない。あれをまず、叩き落とそう。
 音吉は、じっと扇を持つ手を注視した。あまり、きつく見つめたので、それ以外のものが視界から消えていくようだった。当然の結果として、老人の手首が世界大に拡大したように見えた。
「これならたやすいこと。どこを打っても、扇を打ち落とすことが出来る」
 昔、例の故郷の村の物知りに聞いた弓の名人の話を思い出した。師匠から蚤を射通すように命ぜられ、まず蚤を凝視する訓練から始めたところ、次第に蚤が大きく見え始め、ついには牛のように大きく見えるようになり、容易に射当てることが出来たそうである。
 今の自分がまさにそうではないか。名人と同じ境地に達したのだ。ルイスをせせら笑ってやりたいような気がした。
「えい!」
 気合い一閃、音吉は打ちかかった。途端に扇が消え、どす、と、みぞおちに重い衝撃が走り呼吸が出来なくなって、桃の花弁を巻き上げながら仰向けに倒れた。
 老人が音吉の胸に頭突きを食らわせたのである。あるいは、ふらついて頭がのめったところに、音吉の胸が差し出されたとも見えた。
 いずれにせよ、音吉は戦闘不能になって、老人達の飼っている牛の角田角之進の背に乗せられ、彼らの家へと連れて行かれた。


5 牛の角田角之進
 
 翌日から、牛の角田角之進に水をやったり、原っぱに連れて行って草を食わせたりするのが音吉の仕事になった。
 故郷へ帰りたい、帰る道を教えてくれと言っても、「知らないものには教えない」と例の返事が返ってくるばかりだった。
 かといって、なにか兵法について教えてくれる様子もない。ルイスは朝から酒を呑んで寝ているし、老婆も村の女房達とのたわいもないおしゃべりに興じ、やがては、やはりどこからか酒が出てきて宴会になる。その宴会の騒ぎが音吉の耳を突っついて、耳鳴りが大きくなる。
 彼は座敷を離れ、角田角之進の牛小屋の隅っこで丸くなって寝るのだった。

 毎日、牛を追って野良に出る。角田角之進が草を食べるのを眺め暮らし、日が暮れると連れて帰る。
(楽な仕事といえば楽な仕事だが・・・)
 こんな日を続けていて、どうなるというのだろう。
「どうする、どうする」
 と耳鳴りがジジイの声で答えた。宴会での囃子言葉が耳に張り付いて取れなくなってしまった。
(俺は一流の兵法者になれる器ではないのだろうか)
 また耳鳴りが答える。
「お前にお前のことがわかって、たまるかよ」
 皮肉っぽい婆の声だ。後ろで笑いさんざめく女達の声もある。
(あの娘の声も混じっているだろうか)
 音吉は耳鳴りに耳をそばだてた。
 村に一人、美しい娘がいた。どこの娘か、知らない。昼間は見かけるが、ババア達の宴会に来たことはない。それとなく老婆に聞いてみたが、にやにや笑うだけで答えない。翌日から、村の女達みんなが彼を遠ざけるような素振りをし始めた。
(おもしろくない)
 その晩、牛小屋で牛に踏まれる夢を見た。

 桃の実りと新緑の季節がやってきた。不思議なことに、実がなっても花は散らないのであった。いつまでたっても、この村の桃の花の季節は終わらなかった。
 音吉は強くなるどころか、身体が鈍く重くなったような気がした。耳鳴りも相変わらずひどい。

 ある時、角田角之進を見て、変な感じがした。どことなく、前と比べて小さくなっているような気がしたのである。艶もいいし食も進んでいる。そんなことは世話をしている音吉が一番よく知っている。健康にして溌剌たる牛である。
 健康にして溌剌たるまま、縮んで見えるのである。翌日には、また一回り小さくなっていた。
(おかしいのは耳だけかと思っていたら、目まで怪しくなったか)
 と情けなさに溜息をついていると、
「おいおい、俺を育てるのはお前の仕事だろう」
 という声が聞こえた。角田角之進が、にやにや笑ってこちらを見ている。牛が笑ったのを見たのは初めてだ。いや、それより牛が言葉を喋るのを聞くのは初めてだ。
(これは耳鳴りに違いない)
 そう思いこもうとした。
「牛の言葉がわかるなんて、頭がおかしくなったのか、なんて思うなよ。牛が喋らないなんてのは、お前たち人間の思いこみに過ぎないんだからな」
 いやに理屈っぽい耳鳴りである。

 それからも角之進は日に日に小さくなっていった。ひと月ほど経つと犬ほどの大きさになった。
「なあ、牛飼いを任されていながら、俺をこんなに小さくしちまって、爺さん、婆さんに知られたら、何と言われるだろうなあ」
 勝手に小さくなっておきながら、耳鳴りは嘲るように言った。
 とはいえ、音吉もそのことは心配している。二人に見つかったら・・・というより、毎日顔を合わせているのに、二人が何故そのことに言及しないのかが不思議なくらいである。酔っぱらってばかりいる爺さんはともかくも、あの婆さんが。
 一方で音吉は別のことを考えていた。例の弓の名人と蚤の話である。名人の境地が進めば進むほど、蚤が大きく見えるのなら、その逆を行っている今の自分は退歩に退歩を重ねているのではないだろうか。
「よくそこに気づいたねえ」
 耳鳴りが皮肉っぽく響く。どうも角之進が小さくなっていくに連れて、耳鳴りの物言いが嫌みになっていく。声の質もキイキイと人の神経を逆なでするような響きになってきた。
 それに比例するかのように、音吉の身体のだるさもひどくなってきた。故郷にいた時の、あのほとばしるような精力は身体のどこを探してもなく、何をするのもおっくうで、ただ毎日、角之進と共に野良と家を往復するだけになってしまった。もう爺さん婆さんの目を気にする気力もなくなった。村の女房も娘も目に入らなくなった。
 いつの間にか牛はヒメネズミほどの大きさになって、そこらをすばしこく走り回るようになった。音吉は百歳も年を取ったような気になって、棒を杖代わりにすがりついて、牛を追う気力もなく、するがままにさせていた。
 足下から這い上がってきて肩先に止まった牛は、なにを思ったか突然、金切り声を上げた。
「爺様やあ、婆様やあ、こっちを見てくれ。俺を見てくれ。このガキを見てくれ」
 思わぬ大声であった。耳鳴りよりもうるさかった。
 声の届く先を見ると、麦畑の中の道をやって来るルイスとリンダの姿があった。
「ありゃあ、なんじゃ。誰が喚いておるのじゃ」
「俺だよう。牛の角田角之進だよう」
「おりゃ、おもちゃのような牛だのう」
「あのでっかいでっかい牛だった角田角之進だよう。まっくろくて松の木でも角で押し倒した角田角之進だよう。音吉の世話が悪いから、こんなに小さくされてしまったあ。罰してくれ、このガキに罰をくれてやってくれ。手足を切り落として、目を潰して鼻を削ぎ落としてやってくれ。でないと俺は切なくてかなわんよ」
 そう言いながらも、牛はどんどん小さくなっていった。すでに黄金虫くらいである。牛が小さくなればなるほど、音吉の落ち度は大きくなり、罪は深くなり罰は厳しくなる。
 老婆の目が険しくなったような気がした。
(鼻削ぎ・・・)
 
 牛が何か叫んだかも知れない。だが、その姿は消えてしまっていた。音吉が掴んで、口の中に放り込んでしまったからである。
 案外、牛というのは旨いものだと思った。仏教思想の影響で肉食の習慣が少なかった日本において、音吉は極めて早い時期に牛を食った人間として食肉史に残るべき存在かも知れない。しかも丸ごと生で。
「でかした」
 老婆が微笑んだ。
「ダーリンの扇を思えば扇に心が居着き、村娘を見れば村娘に居着き、牛を見れば牛に居着いていたお前だったが、今、初めて無になり空になり自在になって、心の動くより早く牛を退治ることができたのじゃ」
 なぜだか音吉の目から涙があふれ出た。
「牛の角田角之進は、おのれの命を放り出して、お主に気付きをもたらしたのじゃ」
 ただでさえ澄んだ村の空はいやが上にも澄み返り、梢の小鳥のさえずりは深遠な思想を語っているようだった。

 翌日から本格的な武芸の鍛錬が始まった。武芸のみならず、学芸も厳しく叩き込まれた。
 牛の角田角之進は、何事もなかったように、牛の大きさの牛として黙って草を食んでいた。時々、モーと鳴いた。
 音吉は、二人の老人をも感心させるような速さで奥義を吸収し、ついに帰ることを許される日が来た。すでに一人前以上の武芸者になっていた。
 ルイスとリンダは、音吉に「成田音成」という名を付けてやった。合戦以来、これだけは相変わらず続く耳鳴りに、ちなんだのである。「初心忘るべからず」という意味がこめられていた。
 角田角之進の背に乗って送られ鍾乳洞の入り口まで案内された。
「ここだ」
 角之進に別れ、ひとり鍾乳洞に入っていくと、前に見た石筍が緑色に光っていた。

 気がついてみると、合戦の後、雨を除けるために入った洞窟に寝ていた。夢を見ていたようだった。雨は上がっていた。
 だが、身体といい精神といい、以前の自分とはまるで変わってしまっている自分に気づかないわけにいかなかった。
「男子、三日会わざれば刮目して見よ」
 昨日までの音吉ならば知っているはずもない言葉が口をついて出てきた。
「音吉は幼名であった。今日から私は成田音成である」

 それから、大阪冬の陣まで約十五年間、戦さがなかった。
 戦功を上げる機会に恵まれないまま、成田音成は各地を修行して歩き、三十六度に及ぶ決闘でいずれも勝ちを果たし、剣名を上げた。
「とうとうたらりたらりら・・・」
 酔って舞うような太刀さばきに幻惑されているうちに、立ち会う相手はふと成田の心が消え、成田自身も消えてしまったような感覚に陥るのだそうである。
 みな、彼がどのような師のもとで、どのような修行をしたのか知りたがったが、多くは語られなかった。
「桃源郷で・・・」
 とだけ呟いたのを聞いた者があるという。晋・宋時代の詩人・陶淵明の『桃花源記』に由来する別世界の名である。

(つづく)

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中川善史 新連載『達人伝・桃源郷の耳』第二回 (全五回)

桃源郷23 鍾乳洞

 雨はなお降り続いている。一向に止む気配はない。
 次第に洞窟の中に流れ込んできた。濡れないように少しでも高い所を確保しながら移動するうちに、だんだん奥の方に入っていく。
 日はだんだん暮れてくる上に、灯りはない。入り口から差し込んでいた光が薄れていき、ついに真っ暗になった。
 だんだん、どちらへ移動しているのかわからなくなった。雨の音が遠ざかっているので、奥の方へ行っているのだとは思うが、さて奥へ入ることがいいことなのかどうか、わからない。自分が虫になったような気がした。
 ふっと、足もとの感覚がなくなった。
(しまった)
 と思う間もない。すでに音吉にあるのは落下の感覚である。
(戦さで身を立てようなどと思うんじゃなかった。村で百姓をしていれば良かったのだ。こんなところで命を落とすなんて。だれも、俺の死を知らないだろう。村に残してきたお袋はどうしているだろう)
 落ちながら、自分にできるはずのない殊勝なことを考えたり、栓もない後悔の思いに耽り、村の山河や自分の短い生涯の細かいところまで思い出していた。

 まだ死んではいないようである。音吉は、きつく目をつぶっていた。そうすれば、近づいてくる死を遠ざけることが出来るとでも言うように。
 目を明けるべきか明けざるべきか、しばらく逡巡した。目を明けると、大変なことが起こりそうで恐ろしかったが、ふと、それが意味のない恐怖であることに気づいた。目を明ければ、何かが見えるだけである。それが恐いものであれば、明けてから改めて怖がればよい。面白いものであったら、笑えばよい。
 ちら、と緑の光が見えたような気がした。自分は、まだ目をつぶっているのだろうかと思った。瞑目の時に、目蓋の裏に生じる光のような模様のようなものかもしれないと思ったのである。
 だが、目蓋は上がっているようである。暗闇の中に、緑色に光るものが広がっているようだった。光るものは、柱のような形で下から上に伸びていたり、つららのように天井から垂れ下がっていたりする。気が付くと、音吉の尻の下も、びっしりと緑の光が光っていた。
 触ってみると柔らかい。音吉は知らないが、姫君などの着る高級な着物の生地というのは、こういう手触りなのではないか、と想像した。
(光る苔だ)
 と音吉は気づいた。
(そして、ここは、話しに聞いたことのある鍾乳洞というやつらしい)
 子供の頃、村の物知りから、むかしむかし頼朝という大将に命じられて、富士という日本一の山のまわりにある鍾乳洞に探検に入って、その中にある不思議な世界を経巡って戻ってきた武士の話を聞いたことがある。
 洞窟の奥へ入っていくと、大河が流れ、浅間大菩薩のお使いである巨大な蛇がのたくっていた、という。
(あのさむらいは、どうなったんだっけな)
 音吉は、しばしお伽噺めいた話の思いに耽っていたが、ようやく自分が洞窟の中を這い回っているうちに、ここへ落ちてきたのだという現実に思い至った。落ちている間には、自分の死のことを高速回転で思っていたようだが、どうやら生きている。もしかすると、すでにあの世にいるのかも知れないが、死んでいる気はしない。
 あたりは緑に光る石筍が続くばかりだが、どこかに自分の落ちてきた穴があるはずだ。あの石筍をよじ登れば、もとの洞窟に戻れないとも限らない。ただし、ここがこの世であるとしての話だが。
 そう思って見上げてみたが、失望した。上には、大宇宙のような顔をして光る苔が広がっているばかりである。
 自分はどこから落ちてきたというのか。
 見回してみると、右の方の奥に、苔とは違う色で光っている、小さな丸いものがあるのに気が付いた。それは穴のように見えた。
(空の色だ)
 自分が落ちてきたのは洞窟からなのに、空が見えるというのはおかしい。それに落ちてきた穴が、上でなく横に見えるというのは、もっとおかしい。横に落ちるということがあるものなのか。
 だが、ないと決めつけることができるわけでもない。自分が知らないことは、世の中に沢山あるのだ。現に、例の富士山の洞窟の探検話だって、自分は富士山を見たことさえないのだ。あの村の物知りだったら、
「洞窟の中に空がある? ああ、知っちょる、知っちょる」
「穴から横に落ちる? ああ、知っちょる、知っちょる」
 言いそうな気がする。もし、知らなかったら、この件に関しては自分の方が物知りになるわけだ。
 第一、穴が上の方にあったら、苦労して石筍を昇らなくてはならないが、あそこなら歩いていけばいいわけだ。
 なんだか気が楽になった。
 音吉は、空に向かって歩き始めた。


4 桃の花の咲く村

 夢から覚めたような気がして目を明けると、穏やかで温かい笛の音のような色が音吉のまわりに広がった。
 彼は桃の木の下に寝ているのだった。彼を外側からも内側からも包み込んだのは、満開に咲いた桃の花だった。自分は夢から覚めたのか、夢を見始めたのか、よくわからない気分で桃の色をぼんやりと眺めていた。
「さっさと逃げたのはよい」
 鞭のようにしわがれた声が降ってきた。目のぎょろりと大きな、身体の小さな老婆が上から音吉の顔をのぞき込んでいた。
「戦さで名を上げようなどと言うのは、つまらぬ。闘鶏のニワトリになって喜んでいるようなものじゃ」
 急に面白くなくなった。寝たまま、老婆を睨みつけた。戦場から逃亡したことを恥じる気持ちは残っていた。
(なに、その恥は、いつか濯いでやるのだ)
 にわかに負けん気が起こってきた。同時に、何故、老婆が自分のことを知っているのか、という疑問がちらと浮かんだ。
「剣は誰に習った」
 音吉は、むっとした。剣など、実は戦場に出る時にぶら下げた刀が、初めて触ったものだ。村で、棒きれを振り回していたのみである。それでも、現に馬泥棒を殴り殺したではないか。それで十分ではないか。傲然として、首を横に振った。
「では、槍は?」
 やはり横に振った。
「馬は?」
 やはり横に振った。
「弓は?」
 触ったこともなかった。
「薙刀は?」
 そんなものの存在さえ知らなかった。
「体術は?軍学は?」
 畳みかけるような質問に、首を振る力もなくなってきた。だんだん悲しくなってきた。自分が富士山だけではなく、戦さに関する技能を何も知らないと言うことを、こすりつけられるように合点させられる。
 自分の幼さの自覚に目が潤み、鼻がつんとしてきた。
「強くなりたいのか」
 もはや自分が強くなりたいのかどうか、わからなくなってきたが、うなずいた。
「来い」
 老人の声なのに有無を言わさぬ強さがあった。

 呆れるほど桃の花だらけの村だった。どこに植えてあるとも見えぬほどに桃色が目に入ってくる。その色香にむかつきそうなくらいである。頭の上では雲雀が馬鹿にしたようにけたたましく囀っていた。
 ひと本の桃の木の下で烏帽子を被った老人が寝ていた。顔が真っ赤だった。傍らには瓢箪が転がっていた。
「あれが、わしのダーリンじゃ」
 老婆が幸福な酔漢を顎でしゃくって見せた。音吉にはダーリンという言葉がわからなかった。
「酒ばかり飲んでいる阿呆じゃ。名前はルイスという」
 奇妙な名前だと思った。秀吉が禁ずる前には南蛮の宣教師なぞも来ていたはずだが、音吉が知るわけがない。
「この桃から、いくらでも酒が醸せる。この桃は実だけじゃなくて、花びらからも酒が出来る。もちろん、他にも米でも麦でも芋でも酒になるものが沢山ある。この村の男は皆、どうしようもない大酒飲みだが、酒を造るのはうまい。西の谷の田吾作という男なぞは、牛の小便から酒を造った。これがまたべらぼうにうまい」
 酒を飲んだことのない音吉は、聞いているだけで頭がくらくらしてきそうだった。
「ちなみに、わしの名はリンダじゃ」
「ここはどこだ」
 老婆のとりとめもない話を遮って、基本的なことを尋ねた。
「なんという村だ」
 老婆は立ち止まって、じっと音吉を見つめた。高いところにある桃の枝を離れた花弁がゆらゆらと漂い遊びながら地面へ到達するまでの時間をかけて眺めた。そして、馬鹿にしたように、
「知らぬのか」
「知らぬ」
「ならば、教えてやらん」
「何故だ」
「知っていれば教えてやったが、知らぬとなれば教えてやらん」
 ふん、と老婆は笑った。
 音吉は混乱した。なぜ、知っているものに教えてやり、知らないものに教えないのか。逆ではないか。この老婆は、頭がおかしいのではないか。さもなくば、からかわれているのだ。
 そうだ、そうにちがいない。あの戦場を見下ろす山の上かどこかで俺の様子を見張っていて、気を失ったところを、この村まで運んできて桃の木の下に置いたのだ。だから俺のことを知っているのだ。
 何のために?俺をからかうためだ。いや、頭がおかしいからだ。いや、どっちでもよい、頭のおかしいやつが俺をからかっているのだ。
 音吉の頭の中は恥辱と怒りで、真っ赤に熱くなった。
「やいババア、馬鹿にするな。いやに偉そうにしているが、お前なんかに兵法の何がわかるというのだ。いや、俺も兵法はわからぬが、故郷の村では一番の力自慢だ。おまけに乱暴だ。おまけに後先考えない。そんな俺に偉そうにするな。これ以上馬鹿にするとただではおかぬぞ」
 老婆は面白そうに音吉を見ていたが、
「ババアではない。リンダと呼べ」
 とだけ言った。

(つづく)

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新連載! 中川善史短編小説 『桃源郷の耳』

桃源郷1 1 刀披露

 徳川の世とはなったものの、いまだに戦国の余り風が世の中を吹いており、戦さという蛮気のはけ口を見いだせない荒くれ者が、世間にいくらもごろごろしていた頃の話である。
 先年、藩主の倅の剣術指南役として取り立てられた、成田雷五郎音成(おとしげ)という男が藩の重役・日柄彦左衛門の家に呼ばれていた。日柄が新しい刀を手に入れたので、その披露だというのである。

 この日柄が成田を取り立てるに当たって、何かと世話を焼いたのである。だから、成田にとっては恩人といわねばなるまい。平和になるにつれて、腕一本に賭けて世を渡っていた荒くれどもが没落していく例は多かったのだ。
 一方、日柄にとっても成田を家中に引き入れることは手柄でもあった。
 その生涯に決闘すること三十六度、ひとたびとして負けたことがないという武芸者としての名は高かった。剣術好きの殿様だったら抱えてみたいという思うものも多かっただろう。
 それに、成田は単に剣術使いというのに止まらなかった。刀の目利きや刀剣のこしらえといったことはいうに及ばず、様々な学芸や書画、音楽にも通じているという。さらには、城郭や都市の縄張りにも一家言あったという。
 もとはといえば、どこぞの村にでもいそうな暴れん坊の餓鬼だったのが、その生涯において剣客のみならず文化人としての自分を鍛えてきたのである。

 庭に用意された巻藁の前に、新刀を携えた成田が立った。その太い腕で軽々と振り下ろすと、こともなげに斬れた。三本。
 招かれた客達の間から、感嘆の声が上がった。
「見事」「大根でも切っているようじゃ」「どこに力を入れておられるのか」
 賑やかな賞賛の声は、半ば藩の重役への追従でもある。
「力が斬るのではない。刀が斬るのでござる」
 ぼそっと答えた。それを聞いた青地という若い侍が、やや皮肉げに、
「人を斬る時も同じですかな」
「同じでござる。拙者は手を添えているだけでござる」
 鼻白んだような顔で青地が成田を見つめている。

 座敷に戻ると、誉めてもらいたさがこみ上げてくる様子の日柄が、
「成田うじ、その刀はいかがじゃな」
「良い刀でござる」
 成田の言葉は短い。だが、この無骨な言いようにも日柄の顔は温かい湯でも浴びたように笑みとろけた。
「率爾ながら、拙者も拝見」
 と成田の左隣に座っていた先ほどの青地という若侍が声をかけた。
 だが、成田は振り向かない。相変わらず手にした刀の重みを楽しんでいるかのようである。
「成田うじ、拙者もお刀拝見」
 焦れたように青地が繰り返した。日柄が成田に向かって目配せをした。成田はそれに気づいて、やっと
「どうぞ」
 と青地に刀を渡した。
「失礼つかまつった。拙者、左耳がよう聞こえぬのでござる」
 ほんまかいな、という顔で青地が刀を受け取ったまま、成田の顔を見返している。その通りその通りという顔をしている日柄の視線に気づいて、刀を見るふりをした。
 なんとなく馬鹿にされているような気がする。一種の有名人でもあり、重役の日柄に気に入られているので、一目置かざるを得ないが、本来なら自分の方が格が上だ、という気持ちがある。自分の父の働きで、現藩主は戦国を生き抜くことが出来たのだ、という気持ちがある。
 すでにして名流意識が芽生えている。
(だいたい、三十六度の果たし合いを切り抜けてきたというが、そんなこと頭から信じていいものか。一回一回、見ていた者がいるとでも言うのか。
 口数少なく無愛想に見せることで、なにやら神秘的な雰囲気を漂わせているのもうさんくさい)
 まあ、青地はひがみっぽいのであろう。

 刀拝見の後、酒になった。
「左耳がお悪いというのは、剣術修行上、いかなるものでござろうな」
 なんでもない質問も青地が言うとねちっこくなる。耳の件を疑っているようにも聞こえる。
「拙者の申すことがお聞こえなかったくらいだとすると、左から攻められると遅れを取りはしませぬか」
「何ほどのことでもござらぬ」
 と青地の方に顔を向けて言った。
「気というものがあり申す」
 これだ。このとりつく島のなさにいらつくのだ。自分は日柄ほどではないが、もっと丁重に扱われて然るべきではないか。
 
 とはいえ、成田の顔に軽侮の色は露ほども浮かんでいない。目つきは穏やかで優しい。だが、どこか自分を通り越して遠くを見ているようでもある。
「いつ頃からお悪いのですか」
「そう。少年の頃の粗忽ゆえ」
 そういう成田の顔にわずかに照れが出た。ようやく感情を出しやがった、と思った。


2 成田音成・緒戦

故郷の村にいた頃は音吉と呼ばれていた。
 十三歳の時、馬泥棒をぶち殺したことがある。自分の力に目覚めた彼は、それを以て世の中にのし上がってやろうと思った。
 もっとも、音吉が生まれた時には、すでに信長、秀吉による天下統一が進められ、群雄割拠の戦国時代など過去のものになりつつあったから、この判断が妥当であったかどうか、わからない。
 ただ、十七歳の時に天下分け目と称される日本中の大名が東と西に別れての戦さが美濃の関ヶ原という盆地であった。
 背景に、存在感に重みを加えた家康を中心に、大名間での対立やら駆け引きやらで緊張が高まっていたことがあったが、もちろん、音吉は、そんなことは与り知らない。彼にとっては、戦さがあるか、ないかだけが重要なのである。
 村を抜け出し美濃に駆けつけた音吉は、運良く、とある西方の小大名から一隊を任された侍の配下に入れてもらうことが出来た。
 入り組んだ盆地のそこここ、小高い丘の襞やてっぺんに赤、黄、青、緑、様々な旗が風にひらついて、祭りのようだと思った。その下に、槍の穂が煌めき、鉄砲の筒が鈍く光るのを見て、金玉が浮き上がるような気がした。
 音吉は槍を持って走り回った。といっても、自分の槍ではない。主人が使う槍の予備の槍の、そのまた予備の予備の槍だった。
 この小大名は、この合戦での功を焦るらしく、敵の間近に陣を張った。
 さらに音吉の主人は頭に血が上りやすい質らしく、勇猛と言うよりも無謀に突進した。予備の予備の予備もついて走り込まなければならなかった。主人の必要とした時、自分がそこにいなければ、主人に殺されるかも知れないのである。
 音吉も具足はつけているが、武器としては刀一本ぶら下げているだけである。それとて、彼自身を守ると言うよりは、主人の槍を守るためのものだ。
(こんなことで出世できるのだろうか)
 思わぬでもない。
 だが、そんな呑気なことを考える暇もなく、音吉たちの小隊は敵に囲まれてしまった。たちまち主人が馬上でのけぞるのが見えた。土埃の中に落馬した。人が群がって、主人がどうなっているのか見えない。
 伸び上がって見ていると、槍の先に刺さった主人の首が宙に浮かんだ。ついて馬の鞍にぶら下げられた。主人の顔は、なんだかげらげら笑っているように見えた。
 ここにおいて、予備の予備の予備の槍を守るという音吉の役割はあっけなく消滅した。こうなったら、あとは敵の首の一つ、二つ奪うか、何か拾って逃げるか・・・。
 突然、隣にいた予備の予備の槍を持つ役目が(音吉より一段階偉い)が、槍を振り回して暴れ始めた。別に槍の心得があるようにも見えない。興奮だか恐怖だかに駆り立てられてぶん回したのだろう。槍の尻が音吉の左頬をしたたかに打った。
 倒されそうになったが、槍を杖に踏ん張った。この合戦において、この槍が曲がりなりにも役に立ったのは、この一事だけである。
 音吉の目の前が真っ赤になった。敵も味方も入り混じった人間どもが、血の色をした口を開けて襲いかかってきたのである。
(殺される・・・)

 もう出世も手柄もあったものではない。尻尾を巻いて逃げることにした。だが、どちらに逃げていいものやらわからない。乱戦の中で、方向感覚を失ってしまったようである。たとえどこに辿り着こうとも、ともかく人馬の薄そうな所へ進むしかない。
 いつの間にやら、山の中に入り込んでしまった。喚声や武器のぶつかり合う音、馬のたてる地響き、そういったものからは遠ざかりつつあるようである。
 谷があれば降りて水を飲み、また尾根へと這い上がるということを繰り返しているうちに、天候が怪しくなってきた。空が暗い。
(雨が来る)
 この状況で濡れて身体を冷やしては、命取りになりかねない。次第に心細くなりながら、雨宿りの出来る場所を探しているうちに、ぽつりぽつりと来たところで、運良く洞窟を見つけ当てた。
(ここは、どこだろう)
 洞窟の入り口を眺めている間に、そんなことがようやく心細く思えてきた。そのうち、雨は沛然と降ってきた。
 やる方もなく、雨を眺めているうちに、ザアという雨音が妙な具合に聞こえることに気が付いた。雨音の奥、いや左耳の中である。妙に金属的な甲高い音が継続して混じるのである。あるいは、夏の始まりに鳴く蝉の声に似ているような気もする。
 変に思って、指を耳に突っ込んでみた。がさがさという雑音がなんだか遠い。反対側の耳にも指を入れて比べてみると、聞こえ方が明らかに違う。
(俺は耳が遠くなってしまった)
 先ほど、味方のやつに槍の尻でぶん殴られたのを思い出した。あの衝撃が災いしたのに違いなかった。
(あんの野郎)
 どうも、戦場が混乱してくると味方ほどあてにならないものはないようである。

(つづく)

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