ショートストーリー『夢境の町』

色々なことがあって、中年という年になって、箱から放り出されるようにひとりぼっちになってしまった。世間というヒツジの群れからはぐれて荒野を彷徨っているような心細さにさいなまれている。
男というものは、人生の激変にかくも弱いものかと、自分で呆れながら、酒杯をまさぐる指がある。
カウンターにテーブル席が三つという小体な店だった。混んでいて、カウンターの席がひとつ空いているだけだった。やめようかと思ったが、亭主と目が合ってしまって、「どうぞ」と促されるままに座ってしまった。
窮屈な感じがしたが、私が座ってしばらくすると、周囲の町の常連らしい賑やかなおっさん、おばさん達が立ち上がり、急に閑散としてしまった。いまや、私と隣の中年男の二人だけである。
年格好は同じくらいだが、私が小柄で痩せぎすなの比べて、でっぷり太って背も大きく、にこにこしながら酒を飲んでいる。
「騒がしかったでしょう」
と亭主が、閑散としてしまった店内でテーブルを片付けながら愛想を言うと、隣の客は、
「いえいえ、ご繁昌で」
と言った。その声が、しみじみとふっくらとしていて、人を安心させる何かがあった。それに、かすかに混じる訛りに聞き覚えがあって、思わず訊ねた。
「あなたは、N地方の方ですか」
「おや、おわかりですか」
「N市出身の友人がいたのです。言葉のイントネーションが・・・」
「はは、訛りは国の手形とやら。わかってしまいますか。もっとも、私はN市からも、かなり離れたところからやって来たのです」
「なんという所です」
「ご存じかどうか。夢境(ゆめざかい)という小さな町です」
「そういえば・・・・・・」
聞き覚えがあった。だいぶ昔のことになるが、旅行ブームなるものが起こった頃、その変わった地名のせいか、話題になったことがあった。
「そう、まだ若い頃でしたな。我々土地のものは、あまり気にしなかったのですがね」
「今、よその土地だったら、地名で町おこし、村おこしに躍起になるのではないですか」
「そうですね。でも、町に旅館が一軒しかないし、押しかけられても困るのですよ。そういえば、その話題を利用して開発しようとやってきた都会の業者がおりましたが、失敗して逃げるように去りましたよ」
「住民の協力が得られなかったからですか」
「そうですねえ。まあ、町名をご覧なさい。夢境。つまり、夢と現実の境ですからね。都会の業者が何かを出来るような所じゃないのです」
「ははは」
私は笑った。冗談だと思ったのである。彼の実直そうな顔にも笑みが宿っている。
「親父さん、お酒をもう一本」
酒を注文しようとして、カウンターの向こうを見ると、亭主はいなかった。カウンターには、大きな黒猫がうずくまっていた。
「まあ、これでよければ、お飲みなさい」
彼は、太い指で自分の徳利をつかむと、私の盃に酒を満たした。
からからと音を立てて、入り口の戸が開いた。外は真っ暗闇だった。
おかっぱ頭に、チューリップのアップリケのついた赤いスカートという姿の小さな女の子が立っていた。真っ黒な瞳の光が強かった。
「こんばんは。桃子です。いつものを、いただきにきました」
手に、縁の欠けたラーメン用の丼を持っている。
足は裸足だった。それに驚いた私が思わず、
「君、靴はないの?」
彼女は、裸足の足をもじもじとこすり合わせて恥じらった。私は、聞いてはいけないことを聞いてしまった、と思った。
すると、隣の客が、
「いつも残飯をもらいにやって来るのですよ。いえ、亭主は優しいから、ちゃんとした食べ物をあげますがね。お父さんがどこかへ出奔し、お母さんが病気になって、この子が乞食をして食べさせてあげているのです」
なんで、この人は、そんなことを知っているのだろう、と、ぼんやり思った。たしか、何とかいう遠い町から来たようなことを言っていたはずだが。
「あなたは、この子のことを知っているのですか」
「はい」
「じゃあ、この店によくいらっしゃるのですか」
「よく来るもなにも、この町で、ただ一軒の店ですから」
「この町って」
「夢境ですよ」
「ここは東京ですよ」
男の顔に苦笑いが浮かんだようだった。私にまた酒を注いでから、女の子に向かって、
「ごめんね。今日は、ここのご亭主、猫になっちゃったんだよ。今、おじさんが何か食べる物をあげるからね」
そういって、女の子の手から丼を取ると、カウンターの上に置いた。そして、猫をつまみ上げると女の子に渡した。猫はおとなしく抱かれている。
また徳利を手にすると、女の子の丼に向けて傾けた。
「子供に酒を?」
しっかりしたようでいて、酔っているのだと思った。それも、かなりタチの悪い酔い方だ。さっきから、妙なことを口走ると思っていたが、それも酒乱のせいだったのか。
「おやめなさい」
私が止めようとするや、徳利の口から、野菜と蛸か何かを煮たものが出てきた。それから続いて、湯気の上がった炊きたての白いご飯が出てきた。
「今日は、これで我慢してね。お母さんによろしくね」
女の子は、丼を手にすると、ぺこりと頭を下げ出ていった。ぴしゃりと戸の閉まる音が後に残った。
その音に打たれた私は何かに突き上げられるように腰を浮かし、彼女の後ろ姿を追おうとした。
「どうなさいました」
男は私の盃に向けて徳利を傾けていた。そこから出ているのは、元のように酒だった。
「僕は、やらなきゃならないことがあると思ったんだ
「それは、なんですか」
「あの子に靴をプレゼントしなければならない・・・・・・」
「是非、そうなさるべきでしょう」
「あの子は、どこへ行ったんだろう」
「あなたご自身が人生に不如意をお感じになり、ご自分の存在価値に疑問を抱いておられる時に、人を助けようとお考えになるのは、敬服に値します」
酔いが回っていたのかもしれない。それでも、やはり私は「おや」と思った。なぜ、この男は、私の人生がうまく行っていないことを知っているのかな。
「僕は、そんなにしょぼくれて見えますか
彼女に靴をあげるのが、実は自分のみじめさを覆い隠そうとする行為であるような気もしてきた。
「外見は、ここでは問題になりません」
男の言葉は静かで、しかも確固としていた。
「外見は、ここでは存在しません」
「もしかして・・・」
石のように飲み込みにくいものが、精神の喉を通過していくようで、私は言葉を苦労して吐き出した。
「やはり、ここは夢境なのですか」
屈服した、という感がないでもなかった。先に女の子に抱かれていた猫は、またカウンターの上に丸くなっていた。
「彼女は夢境に住んでいるのですか」
「もちろん、あの子は夢境の住人です」
男の声で猫が答えた。男は姿を消していた。猫が口を聞くのに驚くよりは、この店の中で自分と猫しかいない、という寂しさが身に迫ってきた。
「そうか。ここは、夢境なのですね。もう、東京には戻れないのですね」
そう言ってみて、実は自分が東京に戻りたくない、ということに気がついた。いや、現実に戻りたくないのかもしれなかった。
「戻るか戻らないかは、あなた自身が決めることです」
猫は答えた。
「だって、これはあなたが見ている夢なんですから」
「そうか、それで僕は、こんなにもひとりぼっちなんですね」
「夢は一人で見るものですから」
猫はそう言うと、もう話はおしまい、と言わんばかりに目を閉じて眠ってしまった。
学生時代に、例のN市出身の友人の実家に寄ったことがある。彼によく似たお母さんが歓迎してくれた。
たぶん、マスコミで夢境のことが取り上げられた当時だったのだろう。私はしきりに、彼に夢境に連れて行け、と頼んだ。しかし、結局、言を左右にして行かなかった。行きたくなかったのだろうと思う。
今、その理由を聞いてみたいような気がする。だが、彼は十年も前に、彼によく似たお母さんを残して死んでしまった。
酒もなくなった。話し相手もいない。かといって、夢の中ではなにをどうするという事も出来ない。所在なさにうろたえそうになると、入り口の戸が勢いよく開いた。
先ほどの女の子だった。口をきける相手が現れたことに、私はほっとした。
「どうしたの? 忘れ物かい?」
女の子は、黙ったまま視線を足下に落とした。
白い靴下とぴかぴか光る黒い靴を履いていた。
「どうもありがとうございました」
少しキンキン響くくらいの大きな声でそう言うと、戸を閉めて行ってしまった。先ほど同様、ぴしゃりという音がした。
私は胸が詰まって、後を追って戸を開けた。
深い沼のような夜だった。女の子が、どちらの方向へ行ったのかもわからない。
闇に向かって耳を澄ますと、意外なことに心の底の方から、こつこつという遠ざかっていく靴音が聞こえた。
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