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2015年07月

ショートストーリー『月の女』

社長1 ずいぶん待たされるな、と医院の待合室でちらと思った。途端に、鼻先で小さな火花が散ったので、目をつぶって気持ちを落ち着けることにした。
「いつまで待たせるんだっ!

 大きなだみ声が聞こえたので目を開くと、気難しそうな老人が立ち上がってこぶしを振り回していた。両側にいた人が、慌てて飛びのいた。
 次の一瞬、老人の身体からぼっと炎が立ち上がって、そのまた次の一瞬には、老人の姿は燃え尽きて消えていた。待合室の人たちは、何事もなかったように元の姿勢に戻った。

 順番が来て呼ばれた。銀縁の眼鏡をかけた端正な顔立ちの医師だった。その姿にふさわしい低い潤いのある声だった。
「そうですね。このところ、あなたのように身体から火を発するからなんとかしてくれ、と言ってくる人は増えてます。しかしながら、医者には如何ともしがたいということを理解していただかなくてはならない。なにしろ、そんな症例に関する論文一本すら存在しないのだから。症例の報告もない。原因もわからない。だから、気を静めるための精神安定剤か睡眠薬でも処方するしかない。もちろん、なんの根本的解決にもならない。
連日の暑さのせいじゃないかって? 素人がそう考えたくなる気持ち、わからないじゃない。なんせ、東京じゃもう何ヶ月も40度を超す猛暑が続いているものね。でもね、だからといって人間が自然発火して一瞬で燃え尽きちゃうって医学上の知見はないんだ。
身体のことだから、とりあえず医者に診せようと思うらしいね。あなたもそうかね。あのね、なんでもかんでも医者のところに持ち込まないでほしいよ。
一体、どれくらいの人が燃えちゃったかって、公式の記録さえないんだよ。どういうことか、わかる?
つまり医学的には、この現象は今のところ、なかったことになっているの。言ってみれば、都市伝説と同じレベル。だって、何も残らないんだもの。死体でも残れば、解剖するなり病理学的検査をするなり、手のつけようはないでもない。なにもないのに、なにをしろってんだよ。
だから法的には、その人は生きていることになっているの。行方不明とおんなじ。保険も下りなきゃ、相続も発生しない。なぜかって? どうやって死亡診断書、書けばいいのさ。できるものならやってみろってんだ。もう、うんざりだ。ふざけるな!」
医師が激してくるのを察して、私と看護士は、テーブルの蔭に隠れた。医師は、ボンと音を立てて炎を発し、その炎が空中に消えると、彼の姿も跡形もなくなっていた。
看護士は待合室に行くと、医師がいなくなってしまったので、今日の診療はここで中止する、明日以降、どうなるかわからないと告げた。

私はやることがなくなってしまい、途方に暮れて酷暑の街に出た。
この暑さが始まるまでは、会社勤めをしていたが、真っ先に社長が自然発火し、消滅してしまった。エネルギッシュで怒りっぽい男だった。
引き続き、あちらの部署でもこちらの部署でも、発火する者が連続した。取引先も同様だった。もう会社に行っても仕方がないような気がした。今、どうなっているのか、よくわからない。
家族や知人・友人という人間関係もよくわからなくなってしまった。誰が燃えてしまって、誰が残っているのか、ぼんやりしている。つい数ヶ月まえまであったものが、あまり意味を持たなくなってしまったような気がする。
医師が言っていたように、この現象はなかったことにされているのかもしれない。マスコミなどで取り上げられたり、行政の場で問題になったりと言うことはないようだった。いや、どう取り上げればいいのか、誰もよくわかっていないのかもしれない。
そういえば、しばらく前までは国会で、某国と戦争を始めるための緊急予算や兵員補充制度について議論されていたようだが、今はどうなっているのか。閣僚も議員も次々発火してしまったと言われている。今、国がどういうことになっているのか、ちゃんと説明できる人がいるのだろうか。

それでも、目の前の道路上には、炎天下、大勢の人が何か用事がありげに行き交っている。乗用車もバスもトラックも、肩で息をするように通り過ぎていく。
そうして、あちこちで人の群れの中に炎が立つ。周囲の人は、一瞬驚くが、すぐに何もなかったように歩き出すのがならいになってしまっている。今まで、隣で会話していた人が燃えてしまったとしても、初めから一人きりでいたかのような表情になって、再び歩き出す。
私の観察では、この自然発火は怒りの感情と関係があるように思える。先ほどの医院で見たケースでも、老人も医師も怒っていた。怒りがある程度を越えると、発火してしまうと言うのが、私の仮説だ。
会社でも、感情の起伏の大きい人から燃えていったように思える。いわゆるキレやすいタイプというのが最も危険で、家の近所でも高齢の男性が次々姿を消している。
かといって、冷静な人、穏やかな人、気弱な人が、この現象から無縁であるかというと、そうでもなく、結局どんな人でも怒りの感情から免れる人はいないということらしい。
一度など、機嫌良く笑いながら話していた人が発火して消えてしまったことがあって、どうも腹の底では何を考えているか、わからないということかもしれない。
そういう私自身、時々、目の前に小さな火がちらつくことがあって、そのたびに平静になろうとする。車を運転するときなどは、ただでさえイライラしやすい状況なので、余計に平静を保つように注意する。
そういえば、運転手が自然発火した現場を見ないような気がするのは、皆、私と同じように考えているからだろうか。あるいは、たまたま私が見ていないだけなのだろうか。
もっとも以上は私一人の仮説であり、単なる妄想かもしれないのだ。他の人と話し合ったこともないし、検証しようと思ったこともない。こんなことを話し合って、何になるというのだ?
何を考えてもしょうがないのだ。この常軌を逸した暑さの中で、なんとか発火してしまわないように正気を保とうと綱渡りのような危うい試みを続けているだけなのだ。いや、それさえ私の思い込みなのかもしれないが。
いったい、いつまでこれを続けていなければならないのだろう。

目の前に着物姿の女が一人、歩いている。
いつの間にか、雑踏の大通りを離れて、この静かな道に入っていた。両側は古風な土塀が続いている。その向こうには東京には珍しい鬱蒼とした木立が見える。寺院だろうか。どこかの屋敷だろうか。
今まで来たことのない場所だった。
女の着物は白かったが、裾をかすめて鳥が通り過ぎたかのように、淡い黄緑があしらってあるようだ。
道は、しばらくは曲がり角もなく続くらしい。私は、いつまでもその女の後をついていきたいと思った。なにか、ほっとする気持ちがあった。
そうか。
女の方から、さやさやと涼しい空気が流れてきている。竹林を抜けていく風のような、ちょうど女の着物の裾模様のようなひんやりとした空気である。火照った頭の中にも淡雪がちらつくようで、すっかり考えというものが消えてしまった。
はい……と振り返る女の顔が間近にあった。後ろ姿は、大人の女と思えていたのが、ボブのような髪のせいか、やや少女めいて見えた。
その瞳を見て、私はやっと、どうやら自分から彼女に何事かを話しかけたらしいことに気づいた。何を言ったのだろう。過去のことなのに、未来のことのようにおぼつかなかった。思いつくことといったら、いつまでもこの女の後を付いていきたいということだけだ。
「あなたに触れてもよろしいでしょうか」
自分の口から漏れたのは、そんな言葉だった。女は右手を差し出した。
私は遠慮がちに小指の方からさわり、中指までを掌に包み、最後に両手で手全体を包んだ。
女は微笑み、太陽が青白くなった。その微笑みが、なぜか微笑みではないような気がした。
にわかに恥ずかしさを覚え、手を離す。すると、女の方から私の手を両手で包んできた。冷たいが、柔らかい尋常な女の手だ。
真夏の東京では味わうべくもない静けさが私を包んだ。
「なぜ、あなたのまわりは涼しいのですか」
「もうすぐ夜が来ます」
夜。
そういえば、ずいぶん長いこと日暮れを見ていない、と思った。昨日はどうだったろう。昨日と今日の間に夜は来ただろうか。
記憶が曖昧であるが、来なかったとしたら、自分は何を以て昨日と今日を区別したのだろう。昨日は本当に存在したのだろうか。
遙か遠いところにいる自分の喉が少し渇いたのを覚える。
「時間が溶けてしまったようだ」
「もともと時間なんて夢まぼろし」
「でも、あなたの言うとおり夜が来るのなら嬉しい。涼しい夜が

「昼は終わります」

空には満月が輝いている。影の塊りとなった灌木の下草から虫のすだく声が賑やかだ。河原にいるらしく、流れる水音が聞こえている。
隣にいる女は浴衣に着替えて、手に灯籠を持っていた。なにかの人物が書いてあるようだ。女神像だろうか。弁天、吉祥天、嫦娥、マリア?
女の白い顔がくっきりと見える。東京に住んでいると、月の明るさに気づくことはない。(ところで、ここは東京だろうか)
「ここは、月の世界です」
と、女が言った。
「そうですか。私にはまだ、地球のような気がします。第一、空に月が掛かっているじゃないですか」
「あの月は、私たちのいる月を照らしています。私たちの月は、あの月を照らしています」
「月が照らし合っているのですか。月は太陽の光を反射して輝いているのではないのですか」
「この月はあの月の光を受けて輝き、あの月はこの月の光を受けて輝いています。月の光に始まりの点などありません」
「太陽は」
「太陽は終わりました」
「終わったのですか。そのエネルギーを受けていた人びとは」
「燃え尽きました」
「それは寂しいですね。誰も彼もいなくなるのは、寂しい」
「そうでしょうか。ご自分の胸の内を尋ねてご覧なさい」
そういわれて、自分の胸の内に何があるか、見直してみた。意外なことに、寂しさはなかった。人がいなくなれば寂しい、と思う習慣のようなものによって、そう思ったらしかった。
「太陽は、もう、今後もないのですか」
「どこかで太陽が生まれるかもしれませんが、それは、あなたにとって何の関係もないことです」
「いつまで、ここにこうしているのでしょう」
「お嫌ですか」
先ほどのように自分の心を探ってみると、「嫌」という気持ちもなかった。
「いつまで、などと考えるのは、あなたの悪い癖です」
「なるほど。時間は夢まぼろしでしたね」
「永遠と今しかありません。でも、このふたつは本当は同じものなのです


「おや」
「どうなさいました」
「さっきまで、盛んにすだいていた虫達が黙ってしまった」
「お気づきになりましたか。では川の流れは?」
川の水音は聞こえている。だが、いずれこれも止まるな、という予感がした。そして、ほどなく、 
「止まりました」
「はい。月の世界が成就したのです」 
女は満月の方を向いたまま、微笑んだ。
私は、これまでにない満足と解放を感じた。私たちは黙ったまま、月を見ていた。何も言葉を発する必要を感じなかった。発したいとも思わなかった。
そして、言葉は消えた。

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今日のおさむらいちゃん

新作166

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ショートストーリー『320円の犯罪』

社長1 丸顔でスダレ禿げで太い腕、短い足。白いワイシャツ、ノーネクタイ。足にはなぜかサンダル。
 突然僕の目の前に現れた男は言った。
「悪いけど、320円貸してくれない?小銭がなくてさあ」
 面識もないのに馴れ馴れしく言う。有無を言わさぬ勢い。
 たまたま僕のポケットには小銭が入っていた。出してみると、まさに320円。先ほど680円のランチを食べて千円札で払った釣りだった。
「あ、悪いね。すぐ返すから、ちょっとここで待っててくれるかな」
 そう言って、男は姿を消した。そして、それっきり戻ってこなかった。
 いや、戻ってきたのかもしれないが、僕の方が昼休みの時間が終わるので、会社に戻らざるを得なかったのだ。
 こうして、僕の手から320円が消えた。
 それが、金曜日のこと。

 土曜日は休みだったが、なにか胸にもやもやしたものが残った。たかが320円のことなのだが、どうもイヤな感じなのである。
 日曜は市民会館の一室で開かれている将棋クラブに顔を出すことにした。僕は、これでも学生時代は将棋部の副部長だった。将棋に熱中することで、嫌な感じを忘れようと思ったのだ。
 部屋に入ると、すでにテーブルが並べられて、それをはさんで対局が始まっていた。来ているのは、老若男女の町の将棋愛好者。若い人も多い。時には若手のプロを招いて指導を受けることもある。
 奥の窓際から、背の高い老人が立ち上がって、僕に向かって手を上げた。たまに姿を見せる人だが、どういうものか僕としか対戦しない。
 将棋は読みが深くて、相当に強い。プロ並みじゃないかと思うほどだ。そういう人に買われているのだから、僕も少しはうぬぼれていいのだろうか。
 一局、差し終わった。始め優勢だったのに、ちょっとしたスキを突かれて動揺し逆転負けしてしまった。
 老人は怪訝そうな顔で負けた僕を見た。とがった鼻と顎。秀でた額と灰色っぽく見える瞳。西洋人のような容貌である。あまり自分のことを語らない人なのだが、本当に日本人なのだろうかと、いつもながら思う。
「なにか屈託がおありですか」
 と、彼は静かに言った。将棋だけでなく、人の心を読むのにも長けているらしい。僕は、例の320円の件を笑い話として話してみた。そうすれば、もやもやも吹っ飛ぶと思ったので。
 そんないわば下らない話なのに老人は長い指を顎に当て、興味深げに聞き終わると、
「つかぬことを伺いますが、確かあなたがお勤めの会社は」
「はい、デクノボー株式会社です」
「そうでしたな・・・いえ、実は以前にそれを聞いた時から、あなたの身に何か起こらないかと心配していたのです」
 まるで、320円が大事件のように言う。
 老人は、部屋の反対側の住みに向かって腕を上げ「小林君」と呼んだ。すると、そこで対戦していた少年が立ち上がり寄ってきた。老人は彼に何か耳打ちした。少年は頷いて、そのままクラブの部屋を出て行った。
「明日は月曜日。あなたはいつも通り出社なさるでしょう。だが、何が起きても驚かぬように」

 そして月曜。
 朝出社すると、重大な通達があると言うことで、全社員が講堂に集められた。
 壇上には、社長はじめ重役陣がずらりと並んでいる。そして、社長が中央に進み出ると重々しい声で、
「諸君。朝から集まっていただき、申し訳ない。只今より重大発表をする」
 会場全体が固唾を呑むように静まりかえった。
「只今をもって、私を初めとする全役員は辞任する」
 黙って聞いていた者達がざわめき始めた。会社は順調なのにどういことなんだ、一体どうなるんだ、という声が聞こえる。
「そして、会社は解散する。諸君は、今後生きる道を各自、切り開いてもらいたい。幸運を祈る。以上」
 冗談じゃない、という怒号が上がった。それはそうだ。我々は失職してしまうのだ。
「どういうことだ。説明して下さい」
「言うなれば、会社はその目的を果たし、使命を終えたと言うことだ・・・おっと、それ以上近づくんじゃない」
 興奮して壇に登ろうとした社員を制して言う社長の手には、なんと拳銃が握られていた。社長だけではない、全役員が銃を手にして社員の方へ銃口を向けていた。会場から悲鳴が上がった。
だが、その時、
「そこまでだ」
 という声が壇の脇から響いた。
 落ち着いた足取りで登ってきたのは、なんと、あの将棋クラブの老人だった。
「守谷社長。いや、本名で呼ばせてもらおう。悪の化身、天才的犯罪者モリアティ教授とね。だが、君の企みはとっくに、このシャーロック・ホームズがお見通しだ」
 役員たちの拳銃がシャーロック・ホームズと名乗る老人に向けられ撃鉄が引かれた。しかし、軽い金属音が鳴るだけで弾丸は発射されなかった。
「ははは。弾は抜いてあるよ・・・それ、少年探偵団諸君、やつらを取り押さえろ!」
 ホームズが命じると、会場の整理や案内や雑用にあたっていた女性社員たちが壇上に登ってきて、役員たちに飛びついた。ある者は腕をねじ上げられ、ある者は膝の下に組み敷かれ、たちまちに取り押さえられた。しかし、社長、いやモリイアティ教授だけは、巧みにすり抜けると、スマホで何かの操作をした。
 たちまち講堂の天井が左右に移動して開き、青空が見え始めた。上空から爆音が聞こえて、ヘリコプターが旋回していた。そこから、縄ばしごが下りてきた。
「いつの間に、天井にあんな仕掛けを」
 会場から驚愕の声が漏れる。
 モリアティ教授は縄ばしごにつかまると、
「ホームズ、よく私の正体を見破ったな。だが、320円は返さないぞ。私の勝ちだ。さらば!

 320円?先週、僕の手からなくなった金額じゃないか。なんのことだ?偶然の一致か?
「逃がすものか」
 女性社員の一人が、モリアティの足に飛びついた。
 その顔を見て驚いた。あの将棋クラブで老人に呼ばれた小林少年が女装しているのだった。
 モリアティは、すんでのところで引きずり下ろされそうになった。
「ちくしょう!これでも食らえ!」
 彼は小林少年の顔に何かを投げつけた。小林少年がひるんで手を離した隙に、モリアティとヘリコプターははるか上空に遠ざかっていった。
 他の女性社員(いや、もしかして「少年探偵団」のメンバーなのだろうか)がモリアティが投げつけたものを拾い集めてホームズに手渡した。
 ホームズは満足げにそれを眺めると、壇上から僕に向かって言った。
「君の320円は取り戻したよ」

「巨大寸借サギ組織?」
 僕は思わず、すっとんきょうな声を上げた。その日の午後、僕はホームズ氏と将棋クラブ近くの喫茶店で対面していた。
「そう。モリアティが作り上げた完璧な組織だ。彼らは緻密で遠大な計画の元に、君から320円を詐取することに成功した」
「へ?」
「君から、320円を奪って逃げた中年男は、もちろん組織の者だ。そして、君がランチを食べたあの店に行くことを仕向けたのも。最近、しきりにあの店を勧める者がいただろう」
「同僚の山田くんです。あの新しい店、安くておいしいから是非行って見ろって」
「残念ながら、彼は組織に買収されていた。いや彼だけじゃない。何人かの組織の者が社員のフリをして、君を監視していた。釣り銭を無造作にポケットに入れる癖も報告されていたに違いない」
「まさか」
「ちなみに、あの店も組織が作ったものだ。じっと網を張って君が来るのを待っていたのだ」
「そんな・・・」
「それだけじゃない。一番の謎は、どうやって経営陣をモリアティが乗っ取ったか、ということだ。守谷社長は5年前に就任したのは知っているね」
「まだ、入社前のことなので、くわしくはありませんが」
「あれは、表面的には穏便な社長交代に見せかけていたが、実はクーデターに近い乗っ取りだったのだ。その時、会社の実権をモリアティが握った。その後、講堂の修理と称して、あの仕掛けを作った。そして、じっと君が入社するのを待っていた」
「だって、その頃、僕がこの会社に入るかどうかなんて、わからないじゃないですか」
「君がこの会社を志望した動機は?」
「ゼミの教授に強く推薦されたからです・・・え、まさか」
「そう、その教授は組織の者だ。また、あの大学の理事会には組織の者が多く入り込んでいる」
「なんで、320円のためにそこまでしなきゃいけないんですか」
「モリアティは犯罪は芸術である、と言っている。緻密な計画を立て、その遂行のためには巨額の資金、大勢の人間、長い時間をかけるのも厭わない。それが彼の主張する『芸術』なのだ。おそらく、神の如くに世界を動かす、その全能感を楽しんでいるのだろう」
「なんで、320円なんでしょう」
「そこまではわからない。彼の頭に、なんらかのインスピレーションが浮かんだものと思われる。もちろん、彼とて寸借サギばかりを働いているわけではないがね・・・・・・そうそう、もうひとつ、驚かせてあげよう。この事件の隠されたポイントは、君の『スキを突かれると、つい動揺してしまう』という性格だ。不意に中年男が現れ、思いも寄らない要求をする。君は動揺して、ポケットにあった320円を出してしまう。君の性格を利用した実に巧妙なやり口だが、この性格はどうやって形成されたのかな」
「わかりません。子供の頃から、そうだったんで・・・」
「君が、そうなるように教育した者は・・・」
「え?」

 別れ際、ホームズ氏は、会社は大丈夫だよ、と言ってくれた。優良企業だし、すぐに新経営陣が選出されるだろうというのだ。あれほどの洞察力を持つ人がそういうのだから、安心していいのかもしれない。
 その夜、久々に郷里の母に電話をした。そして、今日あったことを話すと、母はてへへと笑って、
「あら、ばれちゃった?ごめんね」
 と軽く言った。

新作163

今日のおさむらいちゃん

新作162

中川善史のショートストーリー『百物語』

社長1  日本橋に店を持つ富裕な商家「白戸屋」の主人・伊左衛門は、店では謹厳な顔をしているが、好事家としても知る人ぞ知るという存在である。好事家と言えば聞こえがいいが、ようは物好きである。
 東伯という宗匠を頭にいただいて、俳諧の集まりと称しては、春の花見、夏の川遊び、秋の紅葉狩り、冬の雪見、はたまた素人芝居なぞに珍奇な趣向を凝らして遊んでは喜んでいる。
 集まるものには、武士もいれば、商人もいれば、職人もいる。学者や絵師や太鼓持ちもいる。本来なら、身分違いなのであるが、この会では互いを俳号で呼び合う。それによって、世俗の身分制度が無化してしまって、別世界で遊ぶことができる。
 この連中は、世俗のことを「あの世」とか「あっちの世」と呼んでいた。

 こういう御仁であるから、夏場には「百物語」の会が必ずある。ご存じかもしれないが、怪談の会である。
 会場は、白戸屋が向島に持つ寮、つまり別荘。いちばん大きな広間に、十数人から二十人近く集まる。
 暮れ方から、順番に自分の知っている怪談話を語る。といっても、ごく短いものである。
 相当広い部屋だというのに、灯りは真ん中に行灯がひとつきり。隣の人の顔もわからない。
 話す順が来ると、隣の人から線香の箱が回ってくる。話し終えると、隣の部屋に立って、この線香を点してくるのである。
  手から手へ回される箱には、線香が百本入っている。怪談は九十九話で止めにしなければならないのである。百話になってしまうと、本当に怪異が起こると言われている。
 それなら、九十九本だけ入れておけばよさそうなものだが、「もしかすると、間違って何か起こるかもしれませんよ」というのが、伊左衛門の洒落なのである。
 ちなみに伊左衛門の俳号は北遊である。

 襖を、後ろ手に閉める。大勢の人の気がこもっている広間に比べて、こちらの部屋は、空気がしんと静もっている。
 特別あつらえの伽羅の線香のいい匂いだけが、漂っている。いい線香は、ちっとも煙くない。
 隣の部屋は十二畳。奥にロウソクがともっている。それで、線香に火をつけて、横にある香炉に立てて、元の広間に戻る。
 すでに沢山の話が語られ、線香が立てられたので、暗闇の中で、それは止まってしまった花火のようにも見える。
 そこへ向けて、足を送る。足袋を通して足の裏に伝わってくる畳の感触だけが、この世と自分のつながりのような気がする。
 もう、五、六回もここへ来た。最初の頃は、障子を通して、暮れかかる日のほのかな光が、この座敷をあえかに満たしていたが、今は真の暗闇だ。
 何回もやっているから、もう慣れている、かと思うと、そうでもない。どうも、毎回違うような気がする。
 あのロウソクのあるところまで、じれったいほど時間がかかるような気がすることもあれば、まるで向こうの方からこっちへやってくるかのように、あっけなく終わってしまうこともある。
 皆、気のせいだ。
 そういえば、怪談だってそうだ。毎年やっているから、そんなに新しい話が出てくるわけでもない。毎年、同じ話をしている人もある。
 でも、怖くないかといえば、そうでもない。この話は前に聞いたな、と思っても、ぞおっとしてしまうこともある。
 それだって、気のせいだ。
 そもそも、化け物なんてものが、気のものだ。いるといえばいるし、いないといえばいない。
 日本橋の自分の店で化け物にびくついているような奉公人がいたら、叱ってやる。そんな、ばかばかしいことがあるものか、って。
 そういいながら、この百物語が無類に好きなんだから、自分でもおかしい。こういう会で聞くこういう話は、また違うような気がする。
 だいたい会に来ている連中だって、どれだけ、そんな話を信じているものか。
 其白さん。あの人はあの世ではおさむらいだし、剣の方もそこそこだという。まず、信じちゃいないだろう。
 無鬼さん。これは絵師で、自分で幽霊の絵を描いたりして商売にしているが、どちらかというとご自分の方が幽霊みたいに捉えどころの無い人だ。
 若水さん。役者だが、ある種の怪談話では、上演前にお祓いをしてもらうと言っていたなあ。そうしないと、その狂言では大道具が倒れてきて怪我人が出たりということがあるそうだ。あれは、本物かもしれない。
 小虎さん。あの人は、根っから陽気なたちに見えるが、案外、いちばんの恐がりかもしれない。百物語の後、酒が出た時は、人一倍はしゃいでいるが、それも芯からこわいから、そうしているだけかもしれない。
 人それぞれだねえ。
 そうと・・・。
 私は、この闇の中で、いやに長いこと考え事をしながら、足を運んでいるじゃないか。これも気のせいで長く感じられるって言うのかい?
 いや、長いよ。たかが十二畳じゃないか。すすっと、あそこまで行って、すすっと戻ってくれば、それだけじゃないか。
 そう言っている間も、私の足は動いているよ。足の下には、確かに畳があるし、それを後ろへ後ろへと送っているんだ。
 おいおい、あのロウソクと線香の灯りは、どれだけ遠くにあるって言うんだ。
 十万億土とか、そんなわけじゃないだろう・・・いやいや、十万億土なんて縁起でもない。いくら百物語だって、別に私は死んだわけじゃないんだから・・・それとも、人間は死んだら、こんな心細い闇の中を歩き続けるのかしら・・・いやいや、そう考えるのがいけない。
 だいたい、私が話したのは、何話目なのかしら。もうすぐ百話になるんじゃないかしら。
 あの線香の入った箱に、残り一本となれば、そこで「九十九話語り終えました」と言っておしまいという事になっているんだ。
 私がさっき手にした箱には・・・はて、まだ、何本か残っていたように思うが・・・本当に残っていたのかしら。
 そうだ、箱に線香を入れる役を太鼓持ちの一八にまかせちゃったんだ。ありゃ、いい加減なヤツだからねえ。めんどくせえ、ってんで、ろくに数えないで入れちゃったりするかもしれないよ。もしかしたら、私が話したのが百話目ということも・・・。
 いやいや、それこそ気を確かに持たなくちゃいけない。
 まあ、化け物が出るなんてことは・・・そりゃ、ないとは思うが・・・ないとは思うが。
 そう、おさむらいの其白さんね、あの方は刀を持っているんだし、強いんだし、いざとなったら助けを求めれば・・・って、そうだ、玄関横の小部屋に置いているんだな。あれは、小僧の定吉がちゃんと受け取って置いておいたはずだ。
 あの刀、ちゃんと、まだあるんだろうな。ちょっと、定吉を呼んでみようかな。百物語の途中で、そんなことをしたら笑われるかしら。
 でも、しょうがない、相手は化け物だからな。皆さんには、頭下げてしまおう。
 定吉や。定吉。
 返事がないねえ。あいつも、どこかに控えている筈なんだから、声ぐらい聞こえそうなものなんだが。
 弱ったねえ。まだ、ロウソクは、相変わらず向こうの方で光ってますよ。
 そうだ。だいたい、私は物覚えがいい方だから、どんな話があったかくらいのことは、覚えているよ。思い出していけば、何話になったかわかるだろう。
 最初は、東伯宗匠の魂を飲んだ話だったな。ふたつめが、障子の顔の話。妙な話だったね。そして、橋のカワウソの話、鳥屋喜右衛門の話、狸の僧の話、墓磨きの話、こいつは怖かった。それから、あんな話、こんな話・・・。
 おや、いくつまで数えたんだろう。途中まで数えていたんだが、忘れちまった。話の中身じゃなくて、数がわからなきゃしょうがない。もう一度、初めから思い出してみようか。
 それはいいけど、大分足がくたびれてきたよ。いったい、私はどれくらい歩いているんだろうね。
 もう、日本橋から神田を越えて不忍池あたりまで来たような心持ちだよ。たかが十二畳の部屋。どれだけ歩くんだい。
  どこかに休むところはないかね。まあ、自分の家の中だ。どこで休んだって構わないんだが。畳の上だしね。ちょっと、腰を下ろそうかしら。
 うん、尻の下、手の下、ちゃんと畳がある。間違いない。高麗縁のいい畳だ。こないだ畳職人を入れたばかりだからね。うん、新しい畳の香り、間違いない。
 さてと。
 さてと。
 こうしていても、仕方がない。くたびれているし、暗いし、眠くなっちゃうね。だが、御客を招いておいて、主人が寝ちゃあいけない。
 そういえば、隣の広間の人たちはどうしたのかね。私が帰ってこないのを心配しているんじゃないのかなあ。だいたい、私が戻らないと、次の話が始まらないしね。
 心配してるのなら、ちょいと覗いてみてくれてもいいじゃないか。それとも、心配にならないのかしら。
 でも、私はもう、こんなに歩いたってことは、隣の広間は、不忍池と日本橋ほども離れた向こうにあると言うことなのかしらん。
 声を上げても聞こえないほど遠くになっちゃったってことなのかしらん。こりゃ、其白さんが駆けつけて来るったって、半刻は掛かりますよ。いや、一刻かな。
 おーい。誰かいないか。
 返事がないね。こりゃ、参ったな。戻ろうかしら。
 戻っていいのかしら。百話語ると怪異が起こるというけど、途中で引き返したら、何かワルいことが起こったりしないのかしら。
 といっても、今、これって、怪異だよなあ。やっぱり、うっかりして百話越えちゃったのかなあ。
 戻ろう。戻れるかどうか知らないけど、一人で暗闇の中にいるのは、もうたくさんだ。
 ええと、どっちへ戻ればいいんだ。ともかく、こう、ロウソクに背中を向けて・・・。
 いや、ロウソクを背にすると、本当になんの目印もない真っ暗闇だ。鼻をつままれてもわからない、ってのは、このことですよ。
 この暗闇の中を、また不忍池と日本橋ほども、歩き続けなくちゃならないんだ。駆け出そうかしら。転ばないかな。
 ああ・・・。

 と、二、三歩足を出すと、鼻の頭に何かぶつかった。
 平べったくて、柔らかいものだった。
 襖の唐紙のようだ。
 手をかけて、力を入れてみると・・・。
 敷居も磨き立ててあるだけに、すっと滑るように開く。行灯の火が見える。
 元の広間じゃないか。
「では、私が次の話を・・・」
  何もなかったように、無鬼さんがのほほんと言った。
猛烈に腹が立って来た。
「あんなに呼んだのに、なんで来てくれなかったんですか

 思わず大声で怒鳴ると、みんな、ひっそりしてしまった。

 *怪談の題名は、杉浦日向子『百物語』から拾いました。


今日のおさむらいちゃん

新作161

今日のおさ

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今日のおさむらいちゃん

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