ショートストーリー『月の女』

「いつまで待たせるんだっ!
大きなだみ声が聞こえたので目を開くと、気難しそうな老人が立ち上がってこぶしを振り回していた。両側にいた人が、慌てて飛びのいた。
次の一瞬、老人の身体からぼっと炎が立ち上がって、そのまた次の一瞬には、老人の姿は燃え尽きて消えていた。待合室の人たちは、何事もなかったように元の姿勢に戻った。
順番が来て呼ばれた。銀縁の眼鏡をかけた端正な顔立ちの医師だった。その姿にふさわしい低い潤いのある声だった。
「そうですね。このところ、あなたのように身体から火を発するからなんとかしてくれ、と言ってくる人は増えてます。しかしながら、医者には如何ともしがたいということを理解していただかなくてはならない。なにしろ、そんな症例に関する論文一本すら存在しないのだから。症例の報告もない。原因もわからない。だから、気を静めるための精神安定剤か睡眠薬でも処方するしかない。もちろん、なんの根本的解決にもならない。
連日の暑さのせいじゃないかって? 素人がそう考えたくなる気持ち、わからないじゃない。なんせ、東京じゃもう何ヶ月も40度を超す猛暑が続いているものね。でもね、だからといって人間が自然発火して一瞬で燃え尽きちゃうって医学上の知見はないんだ。
身体のことだから、とりあえず医者に診せようと思うらしいね。あなたもそうかね。あのね、なんでもかんでも医者のところに持ち込まないでほしいよ。
一体、どれくらいの人が燃えちゃったかって、公式の記録さえないんだよ。どういうことか、わかる?
つまり医学的には、この現象は今のところ、なかったことになっているの。言ってみれば、都市伝説と同じレベル。だって、何も残らないんだもの。死体でも残れば、解剖するなり病理学的検査をするなり、手のつけようはないでもない。なにもないのに、なにをしろってんだよ。
だから法的には、その人は生きていることになっているの。行方不明とおんなじ。保険も下りなきゃ、相続も発生しない。なぜかって? どうやって死亡診断書、書けばいいのさ。できるものならやってみろってんだ。もう、うんざりだ。ふざけるな!」
医師が激してくるのを察して、私と看護士は、テーブルの蔭に隠れた。医師は、ボンと音を立てて炎を発し、その炎が空中に消えると、彼の姿も跡形もなくなっていた。
看護士は待合室に行くと、医師がいなくなってしまったので、今日の診療はここで中止する、明日以降、どうなるかわからないと告げた。
私はやることがなくなってしまい、途方に暮れて酷暑の街に出た。
この暑さが始まるまでは、会社勤めをしていたが、真っ先に社長が自然発火し、消滅してしまった。エネルギッシュで怒りっぽい男だった。
引き続き、あちらの部署でもこちらの部署でも、発火する者が連続した。取引先も同様だった。もう会社に行っても仕方がないような気がした。今、どうなっているのか、よくわからない。
家族や知人・友人という人間関係もよくわからなくなってしまった。誰が燃えてしまって、誰が残っているのか、ぼんやりしている。つい数ヶ月まえまであったものが、あまり意味を持たなくなってしまったような気がする。
医師が言っていたように、この現象はなかったことにされているのかもしれない。マスコミなどで取り上げられたり、行政の場で問題になったりと言うことはないようだった。いや、どう取り上げればいいのか、誰もよくわかっていないのかもしれない。
そういえば、しばらく前までは国会で、某国と戦争を始めるための緊急予算や兵員補充制度について議論されていたようだが、今はどうなっているのか。閣僚も議員も次々発火してしまったと言われている。今、国がどういうことになっているのか、ちゃんと説明できる人がいるのだろうか。
それでも、目の前の道路上には、炎天下、大勢の人が何か用事がありげに行き交っている。乗用車もバスもトラックも、肩で息をするように通り過ぎていく。
そうして、あちこちで人の群れの中に炎が立つ。周囲の人は、一瞬驚くが、すぐに何もなかったように歩き出すのがならいになってしまっている。今まで、隣で会話していた人が燃えてしまったとしても、初めから一人きりでいたかのような表情になって、再び歩き出す。
私の観察では、この自然発火は怒りの感情と関係があるように思える。先ほどの医院で見たケースでも、老人も医師も怒っていた。怒りがある程度を越えると、発火してしまうと言うのが、私の仮説だ。
会社でも、感情の起伏の大きい人から燃えていったように思える。いわゆるキレやすいタイプというのが最も危険で、家の近所でも高齢の男性が次々姿を消している。
かといって、冷静な人、穏やかな人、気弱な人が、この現象から無縁であるかというと、そうでもなく、結局どんな人でも怒りの感情から免れる人はいないということらしい。
一度など、機嫌良く笑いながら話していた人が発火して消えてしまったことがあって、どうも腹の底では何を考えているか、わからないということかもしれない。
そういう私自身、時々、目の前に小さな火がちらつくことがあって、そのたびに平静になろうとする。車を運転するときなどは、ただでさえイライラしやすい状況なので、余計に平静を保つように注意する。
そういえば、運転手が自然発火した現場を見ないような気がするのは、皆、私と同じように考えているからだろうか。あるいは、たまたま私が見ていないだけなのだろうか。
もっとも以上は私一人の仮説であり、単なる妄想かもしれないのだ。他の人と話し合ったこともないし、検証しようと思ったこともない。こんなことを話し合って、何になるというのだ?
何を考えてもしょうがないのだ。この常軌を逸した暑さの中で、なんとか発火してしまわないように正気を保とうと綱渡りのような危うい試みを続けているだけなのだ。いや、それさえ私の思い込みなのかもしれないが。
いったい、いつまでこれを続けていなければならないのだろう。
目の前に着物姿の女が一人、歩いている。
いつの間にか、雑踏の大通りを離れて、この静かな道に入っていた。両側は古風な土塀が続いている。その向こうには東京には珍しい鬱蒼とした木立が見える。寺院だろうか。どこかの屋敷だろうか。
今まで来たことのない場所だった。
女の着物は白かったが、裾をかすめて鳥が通り過ぎたかのように、淡い黄緑があしらってあるようだ。
道は、しばらくは曲がり角もなく続くらしい。私は、いつまでもその女の後をついていきたいと思った。なにか、ほっとする気持ちがあった。
そうか。
女の方から、さやさやと涼しい空気が流れてきている。竹林を抜けていく風のような、ちょうど女の着物の裾模様のようなひんやりとした空気である。火照った頭の中にも淡雪がちらつくようで、すっかり考えというものが消えてしまった。
はい……と振り返る女の顔が間近にあった。後ろ姿は、大人の女と思えていたのが、ボブのような髪のせいか、やや少女めいて見えた。
その瞳を見て、私はやっと、どうやら自分から彼女に何事かを話しかけたらしいことに気づいた。何を言ったのだろう。過去のことなのに、未来のことのようにおぼつかなかった。思いつくことといったら、いつまでもこの女の後を付いていきたいということだけだ。
「あなたに触れてもよろしいでしょうか」
自分の口から漏れたのは、そんな言葉だった。女は右手を差し出した。
私は遠慮がちに小指の方からさわり、中指までを掌に包み、最後に両手で手全体を包んだ。
女は微笑み、太陽が青白くなった。その微笑みが、なぜか微笑みではないような気がした。
にわかに恥ずかしさを覚え、手を離す。すると、女の方から私の手を両手で包んできた。冷たいが、柔らかい尋常な女の手だ。
真夏の東京では味わうべくもない静けさが私を包んだ。
「なぜ、あなたのまわりは涼しいのですか」
「もうすぐ夜が来ます」
夜。
そういえば、ずいぶん長いこと日暮れを見ていない、と思った。昨日はどうだったろう。昨日と今日の間に夜は来ただろうか。
記憶が曖昧であるが、来なかったとしたら、自分は何を以て昨日と今日を区別したのだろう。昨日は本当に存在したのだろうか。
遙か遠いところにいる自分の喉が少し渇いたのを覚える。
「時間が溶けてしまったようだ」
「もともと時間なんて夢まぼろし」
「でも、あなたの言うとおり夜が来るのなら嬉しい。涼しい夜が
「昼は終わります」
空には満月が輝いている。影の塊りとなった灌木の下草から虫のすだく声が賑やかだ。河原にいるらしく、流れる水音が聞こえている。
隣にいる女は浴衣に着替えて、手に灯籠を持っていた。なにかの人物が書いてあるようだ。女神像だろうか。弁天、吉祥天、嫦娥、マリア?
女の白い顔がくっきりと見える。東京に住んでいると、月の明るさに気づくことはない。(ところで、ここは東京だろうか)
「ここは、月の世界です」
と、女が言った。
「そうですか。私にはまだ、地球のような気がします。第一、空に月が掛かっているじゃないですか」
「あの月は、私たちのいる月を照らしています。私たちの月は、あの月を照らしています」
「月が照らし合っているのですか。月は太陽の光を反射して輝いているのではないのですか」
「この月はあの月の光を受けて輝き、あの月はこの月の光を受けて輝いています。月の光に始まりの点などありません」
「太陽は」
「太陽は終わりました」
「終わったのですか。そのエネルギーを受けていた人びとは」
「燃え尽きました」
「それは寂しいですね。誰も彼もいなくなるのは、寂しい」
「そうでしょうか。ご自分の胸の内を尋ねてご覧なさい」
そういわれて、自分の胸の内に何があるか、見直してみた。意外なことに、寂しさはなかった。人がいなくなれば寂しい、と思う習慣のようなものによって、そう思ったらしかった。
「太陽は、もう、今後もないのですか」
「どこかで太陽が生まれるかもしれませんが、それは、あなたにとって何の関係もないことです」
「いつまで、ここにこうしているのでしょう」
「お嫌ですか」
先ほどのように自分の心を探ってみると、「嫌」という気持ちもなかった。
「いつまで、などと考えるのは、あなたの悪い癖です」
「なるほど。時間は夢まぼろしでしたね」
「永遠と今しかありません。でも、このふたつは本当は同じものなのです
「おや」
「どうなさいました」
「さっきまで、盛んにすだいていた虫達が黙ってしまった」
「お気づきになりましたか。では川の流れは?」
川の水音は聞こえている。だが、いずれこれも止まるな、という予感がした。そして、ほどなく、
「止まりました」
「はい。月の世界が成就したのです」
女は満月の方を向いたまま、微笑んだ。
私は、これまでにない満足と解放を感じた。私たちは黙ったまま、月を見ていた。何も言葉を発する必要を感じなかった。発したいとも思わなかった。
そして、言葉は消えた。
私は、これまでにない満足と解放を感じた。私たちは黙ったまま、月を見ていた。何も言葉を発する必要を感じなかった。発したいとも思わなかった。
そして、言葉は消えた。
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