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2015年08月

社長のショートストーリー『国際山田救助隊 International Yamada Rescue』

社長1 嫌な予感は的中した。朝から、近所が騒がしかったし、しきりにサイレンの音が聞こえた。
 自宅から駅までの間にある工場が火災を起こして、あたりは全面通行止めになっていたのだ。
 山田は焦った。今日は朝一番で、直接得意先の会社を訪問することになっていたのだが、これでは約束の時間に遅れてしまう。出がけに妻と些細なことで言い争いをして、ただでさえ時間がタイトになっていたのだ。
 相手は時間にうるさいことでは評判の人だ。さっそく、電話を入れることにした。だが、ポケットにもカバンにも携帯電話は入っていない。家に忘れてきたのだ。
 これで家に戻っていては、さらに遅くなってしまう。取引は破談か。自分が上司にねちねちと叱られる図を想像した。このまま、どこかへ失踪してしまおうか、とさえ考えた。
 その時である。上空から、勇壮なドラムマーチの音ともに、爆音が聞こえてきた。見上げると、上空に丸っこい緑色のクジラのような機体が見える。垂直上昇可能な輸送ジェット機「ヨンダーバード2号」である。
 2号からワイヤーに吊されたゴンドラが下りてきた。そして、アナウンスの声が、
「山田さん、山田さん。我々は国際山田救助隊、International Yamada Rescue(略称IYR)です。ゴンドラに乗り込んで下さい。座席に腰掛けて、ベルトを締めて。カバンは、横のボックスに入れてロックして下さい。準備はいいですか。出発します」
 山田をつり上げたヨンダーバード2号は、そのまま垂直に上昇した。そして、火災事故に混迷する一帯を軽々と越えると、駅前で彼を降ろした。
 遠ざかっていくIYRのジェット機を見送りながら、山田は胸の内で呟いた。
「ありがとう、ありがとう、国際山田救助隊。また、危機を救われた。でも、どうせなら、得意先の近くまで運んで行ってくれればよかったのに」

 山田は毎日、妻の作った弁当を会社に持っていく。
 愛妻弁当と言いたいところだが、中味は毎日、前の日の晩ご飯の残りである。朝食にも、同じ残り物が出てくるので、妻は一日一回料理をすることで、三食分をまかなっていることになる。
 さて、弁当を開いてみて、異変に気づいた。
 箸が入っていないのである。途端に怒髪天を突いた。
「あのバカ女、ドジ、間抜け、スットコドッコイ、オンタンチン・パレオロガス、俺に手づかみで弁当を食えというのか」
 その時、窓外から勇壮なドラムマーチの音が聞こえてきた。同時にデスクの上の電話が鳴った。出てみると、
「山田さん。我々は国際山田救助隊です。すぐ会社の玄関前に出て下さい。始めに出会った女性に、『白犬のシッポの色は?』と聞いて下さい」
 山田は、さっそく会社の玄関から走り出た。途端に、サングラスをかけたブロンドの美女にぶつかりそうになった。
「あ、あ、あいむ・そーりー・・・じゃなかった、白犬のシッポの色は?」
 美女は、サングラスを外して、艶然と微笑むと、何かを山田に差し出した。箸だった。
「ミスター・ヤマダ、IYRは、すでに宇宙ステーション、ヨンダーバード5号の情報網により、奥様が箸を入れ忘れたことを察知しておりました。ただちに、ヨンダーバード2号に、製材機能と箸削り機能を備えた超高性能伐採ロボット『ジェット・キコリー』を搭載し、木曽山中に派遣しました。樹齢150年の木曽ヒノキを削りに削って作った一膳の箸、これをあなたに差し上げます。では、よい昼食を」
 セクシーな声でそれだけいうと、美女は振り向きもせず立ち去った。

「おい、山田。ちょっと、来い」
 窓を背にしてデスクにふんぞり返った、でっぷり太った男、山田が属する課の課長である。
 山田の背中に寒気が走った。課長の趣味は唯ひとつ、お説教である。言い換えるとパワハラである。毎日、誰かしら、課長のデスクの前に呼び出される。そして、些細なミスをネタに、二時間ばかり、ねちねちだらだらとした説教を聞かされる羽目になるのだ。女性社員など、ほとんどセクハラに近いような下卑た言葉を浴びせられる。それが終わると、せいせいした顔で課長は席を立つ。
 なにか、あったのだろうか、と思いながら、山田は渋々、課長のデスクの前へ向かった。
 いや、実を言うと、あったかどころの騒ぎではない。昨日も、大事なデータをライバル会社に間違って送信してしまい、IYRのハッキング操作により、なかったことにしてもらったばかりだ。
 まあ、こんなことは小さなことと言ってもいいくらいで、本当は会社がとっくに潰れていても不思議ではないようなミスも何回となく起こしているのだが、すべてIYRによって揉み消してもらってきたのだ。
 今回はIYRにして隠滅できなかった問題があったのだろうか。
 逃れられない犠牲者を前にして、舌なめずりせんばかりの説教が始まった。得意先への態度が悪い、というのである。それが、どうも心当たりがない。
 よくよく聞いてみると、想像と推測と仮定とねつ造と思い込みと妄想に基づいた根拠を元に、山田の態度は得意先を不快にさせているに違いない、というだけの内容なのだった。
 そのような事実はない、と弁明を試みると、机をバンバン叩きながら、「俺をバカにするのか!」「俺の目が見えないというのか!」「俺を嘘つき呼ばわりする気か!」などと、まるで理にかなわない罵声が飛んでくるだけである。
「おい、俺は毎日、課員に対して、俺の貴重な時間を割いてまで、そいつの今後の会社人生のためになるように話をしてやっているのに、お前のようなバカは初めてだ。おい、これからは、毎日毎日、骨身にしみるように話して聞かせてやるから、そう思え。ここまでやってくださる会社に不満があるのなら、辞表を出すんだな」
 その時、窓の外をゆっくりと宣伝カーが通り過ぎるらしい音声が聞こえてきた。
「はあ~、よいっとなあ、ほいほい、あんたもあたしも、ほいほいほっとな」
 それに続いた歌は、あまりに卑猥で下劣なものなので、ここには引かない。
 ただ、山田には、これが課長の腰巾着の係長の十八番の宴会芸なのがわかった。ひたすら課長の太鼓持ちを務めるのをおのれの職務と信じている彼は、忘年会、新年会、歓送会などという課の酒席に、必ずこれを歌いながら、なんともいえない下品な仕草で腰を揺すりながら踊るのである。それが、また課長に受けるのである。他が白けかえっているのに、ただ一人、涙を流して大笑いしているのである。
 窓外に、ヨンダーバード2号が現れた。その船腹から、巨大なスクリーンが下りてきた。スクリーンには、「この通りに踊って下さい。IYR」とあった。
 そして、アニメーションで、係長がやる通りの仕草が映し出された。
 山田は、必死にそれをまねた。もう、恥もなにもなかった。嫌らしく腰を振り、妙な手つきをし、痴呆的な表情を浮かべ、すっとんきょうな声を張り上げた。
 課長のたるんだ頬、だぶついた顎が緩み、哄笑が発せられた・・・。
「山田くん、いいね、君。いいよ、わっはっはっは、いやー、お前は話せるやつだ


 地球から遙か離れた宇宙空間に、謎の宇宙人の乗ったUFOがあった。彼らは、地球偵察の任務を遂行していた。
「なにをやっとるのかね、彼ら地球人は」
「わかりません。しかし、この国際山田救助隊、International Yamada Rescueという組織が、この山田、もっと具体的に言えばその家族、すなわち、夫・イチロウ、妻・ユリコ、初等教育機関で学んでいる長男・ダイスケを、全力を挙げてフォローし、救おうとしているのは確かです」
「うむ。だが、なんのために」
「わかりません。彼らは、どちらかというと、いやはっきりと凡庸な、凡庸以下の家族です。あらゆる歴史的資料を調査しても、彼らが何らかの意味で尊重される『貴種』であるという事実はありません。また、彼らがいなくなったら何か問題が起こるのか、我々の持てるあらゆる方法でシミュレーションしても、出てくる答えは『別に・・・』だけでした」
「どういう方向から考えても、地球人がこれだけのコストをかけて山田一家をフォローする理由がないというのかね。そもそも、この国際山田救助隊というのは、なんなんだね」
「ある富豪が、南の島を買い取って、そこに最新装備を備えた秘密基地を作ったのです。動機は不明です。その情報網から実際の救助にあたるジェット機等々に至るまで、現在の地球文明の最高水準の技術によって作られています」
「それが、山田一家を救うためだけに機能している」
「活動履歴から見ると、まさに山田一家の三人を救おうとしている以外に、目的性が見いだされません」
「しかし、三人のためだけだったら、それほど出動の機会もあるまい

「ところが、この一家、揃いも揃って、ドジで間抜けなのです。一日に何回となく、ヘマを繰り返します。しかも、オミクジなる一種の未来予測装置でも毎回飽きもせず凶を引き続けるという運の悪いやつらです。こいつらが、今だにのうのうと生きながらえているのは、IYRの存在を外しては考えられません」
「山田家と、その『富豪』との関係は」
「まったくありません。国籍も違うし、面識さえありません」
「そもそも地球基準にせよ、最高度の技術が使われているとなると、巨額の資金が必要だろう」
「はい。秘密基地の構築こそ、『富豪』によってなされていましたが、その後のランニングコストや新設備の導入は、驚くべきことに、すべて寄付によってまかなわれているのです」
「つまり、山田一家のために、代償を求めない寄付をする人がそれだけいるということか」
「しかも、寄付をするのは、先進国の富裕な人ばかりではありません。貧しい国の貧しい人さえ、乏しい食料を分けて、山田一家のための寄付に費やすのです」
「それでは、まるで全人類を挙げて山田一家を養っているようなものではないか。なんのために・・・・・・謎だ」
「はい、全く謎であります。我々は、もうずいぶん長いこと偵察任務を遂行しております。地球時間で言うと15年以上です。山田家の長男・ダイスケが生まれる以前からです。にも関わらず一向に、その理由がわかりません」
「なにか、ちょっとした手がかりでも・・・」
「わかりません。謎は深まるばかりです」
「山田自身は、どう思っているんだ」
「何も考えてないみたいです」
「全人類が見返りなしに捧げ物をしていると言うことは、もしや山田は地球で言うGOD、カミなのではないか。

「カミが箸を忘れてうろたえたり、課長の前で踊ったりするものなのでしょうか」
「では予言者・・・・・・」
「毎回、オミクジで凶を引き続けています・・・・・・隊長、どうもこの調査は暗礁に乗り上げております。宇宙人が暗礁とか言っていいのかどうかわかりませんが

「うむ。君の言うことも確かだ。しかし、地球の言葉を引用すれば『念には念を入れよ』だ。この先、何が起こるか、わからない。『まさかのために○○火災』という地球のことわざもある。なお地球偵察の任務を続行しようではないか

「了解しました。地球偵察の任務、引き続き遂行することにいたします」
「よろしく頼む」
・・・・・・
 この宇宙人も、地球人とどっこいどっこいなのであった。

(名前をお借りしたことを、全国の山田さんにお詫び申し上げます)

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社長のショートストーリー『平坂君のサイドビジネス』

社長1 高校のクラス会に久々に出席した。毎年行われているらしいのだが、私はずっと出ていなかった。
 無理もない、社会人になるや否や地方に単身赴任したり、この十年は海外に行きっぱなしだ。腰の落ち着く暇がなかった。ある特殊な技術のエンジニアなので、引っ張りだこではある。
 高給取りになったものの、私生活の方は滅茶苦茶だった。やはり、ある会社の役員である女房とはすれ違ったまま。結局、娘は彼女の方で引き取って、別れることになった。娘とは定期的に会う権利があるのだが、それさえも思うようにならない。
 一度など、彼女が空港に見送りに来て、数分立ち話をしておしまい、と言うことさえあった。

 ようやく今年から本社勤務になった。それでも、相変わらずあちこち飛び回っているのだが、いくらか自分の時間が持てるようになった。もっとも、その途端に自分は仕事がなかったらなにも残らない、つまらない人間だという想念に悩まされるようになるのだが。
 そんなところにクラス会の通知が舞い込んだ。珍しく、その日曜には用事が入っていない。やや、ノスタルジックな感傷に捕らえられた。

 利害も損得も関係のない温かい人間関係を期待して行ったのだが、やはり自分は浦島太郎だった。
 初めこそ、仲のよかった友達が声をかけてくれたのだが、その後、話が続かない。クラス会の常連は、普段から、ゴルフだ、旅行だ、飲み会だと、しょっちゅう付き合っているらしく、何十年かの過去からやってきた私と、現在の人間関係に生きている彼らと、どうも噛み合わない。あるいは町内会によそ者が紛れ込んできたようなものだろうか。
 昔の級友の名前を思い出して、その消息を尋ねてみると、物故したということだった。他の名前を挙げてみると、その人も亡くなっていた。驚いたことに私が挙げた三人が三人とも、この世の人ではなかった。
 なるほど、そういう年になったのか、という感慨もあったが、自分がずいぶん、このクラスに疎くなってしまったのを感じた。
 私の周辺にしらけた空気が漂ったのかもしれない。少しずつ人が離れていき、一人、ぽつねんとしてビールをすすっている自分がいた。
 そこへ、一人の男が話しかけてきた。
「四方津くんだよね」
 さて、誰だろう。クラス会に来ているのだから、かつて同じ教室で学んだ人には違いないのだが、まるで思い出せない。だいたい、親しい仲なら、高校時代のあだ名で呼び合ったりするのに、「くん」付けというのは、当時からそれほど付き合いがあったわけではないのだろう。
「ごめん、誰だっけ」
「平坂だよ」
 なお思い出せない。焦っていると、
「無理もないよ。僕は目立たない生徒だったからね」
 その困ったような笑顔で、卒業アルバムの中の写真の顔を思いだした。やはり、困ったような顔で笑っていた、やせた少年の顔である。
「あ、思いだした。いつもクリームパンを食べていた・・・」
 本当に、彼の特徴といったら、困ったような笑顔とクリームパンしかなかったのである。
「いやあ、他のみんなも僕の思い出といったら、クリームパンだけだよ」
「平坂くんは、このクラス会にはよく来るのかい?」
「僕も三年前からさ。君は、ずっと来ていなかったんだよね」
「うん。忙しくってね」
「海外、あちこち行ってたんだって?羨ましいな」
 どこか、おどおどしたような感じは昔のままだ。 初めは話しにくさを感じた。
しかし、聞かれるままに、仕事で行った色々な国の思い出など話しているうちに時間が過ぎて、会がはねた。他の連中は二次会だと浮かれていたが、私は自然、平坂に誘われるままに、あるワインバーに腰を落ち着けていた。
「平坂くんも忙しいのか」
「まあ、君ほどじゃないけど。僕は、役職名だけあって部下のいない中間管理職ってやつさ。情けないね。今日は、本当は仕事なんだが・・・・・・

「日曜に仕事かい」
「いや、会社の仕事というわけじゃない。まあ・・・・・・」
 と照れたような間があってから、
「ちょっとしたサイドビジネスだね。嫁さんの実家の仕事を手伝っているんだ。ここだけの話だけど、できれば、そっちの仕事で独立したいんだ

「どんな仕事だい」
 彼は、また恥ずかしそうに黙ってしまった。しばらくしてから、
「実は、僕も君同様、バツイチでね。今の嫁さんは二人目だよ。三年前に一緒になった。こう言っちゃなんだが、彼女と結婚してから僕の運は上向き始めたような気がするな」
 相変わらず貧相な横顔である。しかし、敬意のようなものを感じ始めていた。ずっと会社に振り回されっぱなしの人生を歩んできた私にくらべて、彼は自分自身の人生を進もうと思っているのだ。
「平坂くんが、うらやましいな」
「何を言ってるんだい。僕は、会社じゃ本当にうだつがあがらないんだよ。こんな貧乏神のような男と付き合うと運が逃げる、なんて公言する上司もいたくらいだ」
「パワハラじゃないか。ひどいやつだ。訴えろ

「そういうことになるのかな。でも、去年病気で死んじゃったけどね。まあ、僕なんて、それほど冴えないやつってことさ

「でも、僕だって自慢できたものじゃないんだよ。君は、さっき僕の海外生活を羨んでいたけど、現実はね・・・」
 思わず、あれやこれやのことを愚痴ってしまった。
「そうだなあ」
 と、平坂は宙を見つめて言った。
「僕が君にアドバイスなんて、おこがましいけれど、でも会社と関係ないところで、人間関係を築くのもいいんじゃないかな。まあ、僕なんかでよかったら・・・・・・会社じゃ言えないことも、気楽に話せるしさ


 不思議な気持ちである。親友ができた。
若い頃に生涯の親友になるという話はよくあるが、中年になって、それも学生時代には、まるで関心のなかった男と、というのは意外なことだった。
平坂とは、時間を作ってちょくちょく飲みに行くようになり、そのうち、家に招待された。
彼に幸運をもたらした奥方というのが、どんな女性であるか、という、いささか下卑た好奇心も手伝って、ワインを手土産に行くと、とてもうだつがあがらないサラリーマンが住むとは思えないタワーマンションだった。よほど、サイドビジネスとやらがうまくいっているのだろうか。それとも奥さんの実家が裕福なのだろうか。
平坂の細君は、美しい女性だったが、けっして派手好きという感じではなかった。むしろ古風というのか、控えめな人柄に見えた。
料理が得意らしく、次から次に御馳走が出てきた。
二人とも、自分から話すというより、聞き上手というタイプで、私はワインの酔いにまかせて、仕事での業績を、ずいぶん自慢げに語ってしまったような気がする。技術的なことに話が至っても、
「いや、詳しいことはわからないが、四方津くんの話は面白い」
と喜んで聞いてくれる。
引き留められるままに、だいぶ遅くまで居て、奥さんは、なお独身の私のために日持ちのしそうな料理をタッパーに詰めて、土産に持たせてくれた。

自分で自分に、やや自信を失っていだ、と気づいたのは、平坂夫妻のおかげかもしれない。単純なことだが、自分を受け入れてくれる人がいる、と思っただけで、私の仕事におけるパフォーマンスまで上がってしまったらしい。
思いがけず、執行役員に昇進することになった。私の年齢では、早い出世らしかった。
昇進祝いをやろうという平坂の提案で、また家を訪問したあたりから、平坂家にいりびたるといってもいいくらいになった。
もう約束もせずに、週末の午後になると訪れるのである。「今週は行けない」というメールを送る週が例外のようになった。なんだか、実家に帰るような気分だ。
平坂夫人の家事を手伝ったり、連れ立ってスーパーに買い物に出かけるときなど、自分にもやっと家族ができたかのような気持ちになるのだった。

その日、平坂は、相変わらずはにかんだような口調で言った。
「ちかぢか会社を辞めようと思うんだ」
「いよいよ独立か」
私にとっても、嬉しい驚きだった。前に昇進祝いをしてもらったお返しといわんばかりに、
「よし、乾杯だ」
声に力がこもった。三人で、ワイングラスを干したところで、ふと気がついた。
「例の奥さんの実家でやっている仕事だろう。そういえば、どんな仕事なのか、今だに聞いていないな」
「そうだったね。ごめんごめん。しかし、言っていいものかどうか」
妙な口の利き方である。
「言いにくい仕事って、まさか、ヤクザとか・・・

「とんでもない。この世になくてはならない仕事だ。カミサンと一緒になってから、カミサンの親父さんに厳しく叩き込まれたよ」
なにか、職人のようなことなのだろうか。
「四方津くんとの出会いになった、あのクラス会にも世話になった」
「へー、そうも見えないが」
「いやいや、○○くん、××くん、△△くん、一年に一人、世話になったよ」

 その三人の名前が引っかかった。確か、物故した級友の名ではないか。
「引っ込み思案の僕が、ご無沙汰している会に勇を振るって出かけて行った甲斐があったよ。最初の時は○○くんが、話し相手がなくて手持ち無沙汰そうにしていた。そこで、僕が話しかけて、まあ、たちまち百年の親友の如くになったんだね」
どこかで聞いたような話である。
「あいつも寂しい男だったなあ。そこで女房の手料理で引きつけて、だんだん泊まっていくようになった。そこで取り憑いたというわけだ」
「取り憑いたって、どういうことだ」
「半年ほどで、亡くなったよ」
「おい、どういうことなんだ。ちゃんと説明しろ」
「あのパワハラの上司もね、実は僕の仕事なんだ」
「仕事?

「あいつ、どうも女房に気があったらしくてね。引き寄せるのは簡単だった。僕が留守のフリをして隠れているところに、あいつが上がり込んできた。女房にいやらしくすり寄っているところに後ろから近づいて、取り憑いてやった」
 何か嫌な予感がする。背中を寒気が走り抜けた。
「君で五人目だ。まあ、五人もやれば合格だと、女房の親父さんも言っていたからね。まあ、これが卒業試験みたいなものかな」
「お、親父さんの仕事って」
すると、平坂夫人が口をはさんだ。
「死神ですのよ」
「人間に生があり死がある限り、死神は必要なんだ。そうして世代が交代し、人類が進歩していく。やりがいのある仕事だと思わないか」
途端に吐き気がしてきた。トイレに駆け込んで、胃の中のものを全て吐き出した。
横手に鏡が掛かっていた。そこに写っている顔の頬はげっそりとこけ、青黒い皮膚はざらざらだった。俺の顔はこんなだったか。明らかに死相が出ている。
「さあ、これからはバリバリ働くぞ!」
「あなた、がんばってね」
リビングの方から、希望に満ちた微笑ましい夫婦の会話が聞こえてきた。
 

社長のショートストーリー『二番目のお母さんと三番目のお母さん』

社長1 森のはずれの小さな家にグレーテルの一家は住んでいました。

 グレーテルは胸の中に、いつもちくちくとした痛みを抱えている女の子でした。
 それは前のお母さんのことでした。 とても優しい大好きなお母さんでした。
 でも、ある日、いたずらをしたグレーテルをひどく叱ったのです。そんなに叱られたのは初めてでした。グレーテルは泣きながら、わら小屋の陰に行くと、こっそり、
「お母さんなんか、死んじゃえ」
 と呟きました。
 翌朝、お母さんはベッドの中で冷たくなっていました。
 質素なお葬式があげられ、グレーテルはその間も、その後も何日も何日も、あんなことを言った自分を責めて泣き続けました。
 お父さんと兄のヘンゼルは、グレーテルをずっと慰め続けました。彼女がお母さんのことが大好きだったのを知っていたからです。
 でも、彼女には誰も自分を慰めることなんかできないとわかっていました。お母さんを殺したのは自分だし、それを知られたら、もうお父さんもお兄さんも自分のことなど見向きもしなくなると思いました。
 そう思ったら、グレーテルは泣き止むことができました。泣き止むと、いっそう自分がひとりぼっちになったような気がしました。同じ家の中に住んでいても、自分は家族とはとても離れた遠いところにいるのだと感じていました。
 だから、もう泣かなくなりました。
 
 ある晩、グレーテルは家族が寝静まるのを待って、こっそり家を抜け出しました。
 深い深い森の奥には、子供が迷って出て来られなくなるようなところがあるから、決して一人で行ってはいけない、とお父さんから注意されていたところへ行こうと思ったのです。
 月は雲に隠れて暗い晩でした。よくわからない道をめちゃくちゃに歩きました。もう疲れて歩けなくなると、そこにあった平たい石の上に腰かけました。
もう、戻れないのだと思うと、久しぶりに涙が出てきました。大粒の涙でした。後から後から出てきました。もう、止まらないのかもしれないと思いました。
 気味の悪い鳥が木の上で鳴いています。どこか遠くの方で、獣の唸る声が聞こえるようです。あの獣が、そのうちやってきて自分を食べてしまうのだろうか、と思いました。
 その時、森の中に光が差してきました。雲が途切れて大きな月が出たのです。
 すると、道の上にぽつりぽつりと光る点が現れてきました。光の点は、ずっと道に従って続いていました。不思議に思ってグレーテルは、その跡をたどり始めました。
 夢中で歩いているうちに、どこか見覚えのある場所に来ました。元の家の前でした。
 グレーテルは兄のヘンゼルが自慢しているのを思い出しました。
「森の奥で迷っても、もう大丈夫さ。僕が道に沿ってぺかぺか光る石を置いてきたから、その光の後をついていけば、家へ戻れるんだ」
 グレーテルは、うれしいような悲しいような気持ちで、兄の寝顔に見入っていました。

 お父さんが、新しいお母さんを迎えました。前のお母さんにそっくりな美しい人でした。
 まるで、お母さんが生き返ってきたみたいで、グレーテルは、もう決して「お母さんなんて、死んじゃえ」なんて言うまいと固く心に誓いました。
 お父さんは、ヘンゼルをそろそろ森へ連れて行って、仕事を覚えさせにゃならんと言いましたが、お母さんは、
「あら、まだいいじゃありませんか。早すぎますわ。もう少し家にいてもらって、私、新しい子供たちと早く仲良くなりたいの。それからでも、いいじゃありませんか」
 それも尤もだと思って、お父さんは、当分、自分一人で森へ出かけることにしました。
 翌日、朝ご飯を終えて、お父さんが出かけてしまうと、お母さんは、さらに籠いっぱいのパンと蜂蜜のツボをヘンゼルの前において、
「ミツバチのようにかわいいヘンゼルや。早く大きくなって、お父さんを安心させておやり。前のお母さんの分も、私が可愛がってあげるから」
 ヘンゼルは歓声をあげて食べ始めました。グレーテルも手を出そうとすると、ぴしゃりと叩かれて、
「あなたはこっちよ」
 と家の裏に連れていかれました。待っていたのは、水汲み、洗濯、繕い物、掃除、家畜の世話、とありとあらゆる山のような仕事でした。
 小さなグレーテルがよたよたと働くのを見て、お母さんは薄笑いを浮かべて見ていましたが、ちょっとでも間違うと、木の枝でひっぱたくのでした。
 泣き声や叫び声をあげると、またひっぱたきました。
 黙っていても、ひっぱたきました。
 何事もなくとも、ひっぱたきました。
 傷だらけになったグレーテルは、なぜ自分がこんな目に合わなければならないのか、泣くのを我慢しながら聞きました。すると、
「お前が、死んじゃえなんて、呪いの言葉を呟くもんだから、お母さんは死んだ。人殺しの親殺しの悪い子は、こうやって躾けてやらなければならないんだ

 グレーテルは真っ青になりました。唇が震えました。
 このお母さんは、前のお母さんにそっくりなのではない、前のお母さんそのものなのだ。自分を殺した娘に恨みを晴らすために、戻ってきたのだ。
 
 お母さんは、グレーテルには残酷な仕打ちをし、食べ物もろくろく与えなかったのですが、ヘンゼルには食べたいだけ食べさせました。それどころか、もうお腹がいっぱいになっても、なお食べさせようとするのでした。
「小鳥のようにかわいいヘンゼルや。早く大きくなって、お父さんを安心させておやり。前のお母さんの分も、私が可愛がってあげるから」
 ヘンゼルはどんどん太っていきました。あんなに活発だったのに、だんだん動かなくなりました。あんなに利発だったのに、目がとろんとして、あまりものを考えなくなりました。あんなに可愛かったのに、なんだか豚に似てきました。
「リスのようにかわいいヘンゼルや。早く大きくなって、お父さんを安心させておやり。前のお母さんの分も、私が可愛がってあげるから」
 それでも、お母さんはどんどん食べさせ続けました。ヘンゼルは一日のほとんどの時間をテーブルの前でものを食べながら過ごすのでした。
「野兎のようにかわいいヘンゼルや。早く大きくなって、お父さんを安心させておやり。前のお母さんの分も、私が可愛がってあげるから」
 お母さんは、スコップでミルク粥をすくっては、ヘンゼルの口に流し込み、火かき棒で喉の奥へと押し込みました。
「子馬のようにかわいいヘンゼルや。早く大きくなって、お父さんを安心させておやり。前のお母さんの分も、私が可愛がってあげるから」
 お母さんは、ヘンゼルを床の上に寝かせ、靴底で食べ物を口の中へぐいぐい押し込みながら、
「大きな豚のようにうまそうなヘンゼルや。早く大きくなって、私に食べられておくれ。前のお母さんを殺したのは私さ。罪をグレーテルになすりつけてね」
 あまり何度も同じことを言ったので、つい、本当のことを言ってしまいました。その顔は、醜い魔女の顔に変わっていました。
 グレーテルは、それをドアの陰で聞いてしまいました。飛び出していくと、思いっきり魔女のお母さんに体当たりをくらわしました。そして、ヘンゼルを連れて、外へ出て行ってしまいました。
 魔女は、かんかんになって後を追いました。
「もう少しで、この世で一番の美味、よく太った人間の男の子を食べることができたのに。グレーテルは、さんざん、こき使った後、女郎屋に売り飛ばすつもりだったのに。親父は魔女の奴隷にして、悪事の片棒担がせるつもりだったのに」
 魔女は、豚小屋の前に来ました。すると、中に一匹、ヘンゼルのシャツを着た豚がいました。
「ははは。豚に紛れて隠れようったって無理さ。ヘンゼル、戻って来い」
 そう言って、魔女は豚の群れの中に入っていきました。ところが、シャツの豚は、グレーテルが着せた本物の豚でした。
 豚たちが魔女に襲い掛かりました。なにしろ、魔女と来たら豚の餌まで取り上げてヘンゼルに食わせていたものだから、大変に恨まれていたのです。
 こうして、魔女は豚に食い殺されてしまいました。


 三人目のお母さんが来ました。
 今度も、最初のお母さんそっくりの美しい人でした。そして、本当に心の底から優しくて親切な人でした。グレーテルが、
「お母さん」
と呼びかけると、
「なあに」
と、素敵な微笑みを返してくれました。
 なあんだ。お母さんは、死んでいなかったんだ。
 グレーテルは、そう思ったのだそうです。

今日のおさむらいちゃん

おさむらい170

社長のショートストーリー:『呪われた結婚式(ホームズvsモリアティ)』

社長1 僕は和登損介(わと・そんすけ)。デクノボー株式会社に勤めるサラリーマンだ。
 前回、『320円の犯罪』事件で、将棋クラブの老人、実は名探偵シャーロック・ホームズ氏の傑出した推理力により危機を切り抜けることができた。
 320円という少額の寸借詐欺事件から免れたばかりでなく、会社も犯罪王モリアティ教授の毒牙から救ってもらったのだ。
 今日、僕は学生時代の先輩である小南さんとともに、将棋クラブ近くの喫茶店でホームズ氏と会った。
 小南さんは、一週間後に結婚式を控えている。本来なら幸福の絶頂にあるべき彼が、得体の知れない奇怪な不安に襲われ続けているのだ。
「こんなこと、人に信じてもらえるのか不安で、ずっと一人で悩んでいたんです。でも、和登君がホームズさんならきっと解決してくれるからって」
「話してみたまえ」
「長くなるけれど、いいですか」
「うむ。手掛かりは多ければ多いほどいい。細かく話してくれたほうがいいのだよ」
「実は、小学生の頃にさかのぼるんです。低学年の頃、学校の生徒がある事故に巻き込まれて命を落とすということがあったんです。その追悼の集会に全校生徒が体育館に集められていました。校長が沈痛な面持ちで事故のことを語っていました。
 その時、不意に僕の前に立っていた子が振り向いて、
『おならプー』と言ったんです。小さな子には、よくあることですが、僕はそれで笑いが止まらなくなりました。大声をあげて笑ってしまいました。それで、担任の先生からこっぴどく叱られました。
いえ、どうでもいいような話ですが、言った子はまるでとがめられずに、僕一人が叱られたので、ひどく傷ついたんです」
 一体、何の話だろうと思ったが、ホームズ氏を見ると顎に長い指をあてて、注意深げに聞いている。「よろしい、続けなさい」と彼は言った。
「中学の頃です。僕は、その頃は特に目立たない生徒でした。運動は得意でしたが、勉強は並でしたし、女の子にもてるということもなかったのです。だから、バレンタインデーといっても、僕には関係のないことと思っていました。まだ、中学生ですしね。
 とこが、あろうことか、その日、僕の下駄箱にチョコレートの小箱と手紙が入っていたのです。胸がときめいたなんてもんじゃありません。しかも、差出人は僕がひそかに片思いをしていた美少女だったのです。
誰にも見られない物陰に隠れて、僕は震える手で手紙を開封しました。女の子って、どんな風に気持ちを打ち明けるんだろう。本当に交際してくれるんだろうか。
 薄いピンクの便せんでした。開くとそこには、彼女のものとはとても思えない乱暴な字で
『おならプー』
と書いてありました。誰のいたずらか、わかりません。でも、人間不信に陥った僕は、あまり友達とも付き合わない中学生活を送ることになったのです」
「次は高校の頃です。学校が変わったせいか、僕の気持ちは伸び伸びしてきました。体も大きくなって、本来の運動能力を発揮し始めた僕は、野球部に入り、レギュラーの位置を獲得しました。スラッガーとして期待され始めたのです。
 甲子園へ向けての予選では絶好調で、まさにボールが止まって見えました。ゾーンに入るってやつです。チームも準々決勝まで進みました。ランナー1、3塁で逆転のチャンス、僕は自信満々で打席に立ちました。今度も、ボールが止まって見えました。でも、その止まっているボールにはっきりと
『おならプー』
と書いてあったんです。そのとたんに体から力と勇気が消え失せていき、凡退してしまいました。ボールを調べるよう要求しましたが、問題はない、と審判は判定しました。
 それ以来、大スランプに陥り、結局、野球をあきらめざるを得なかったのです」
「興味深い話だ」と、ホームズ氏。
「野球をやめて、僕は受験勉強に力を入れることにしました。集中力には自信があったので、勉強もはかどりました。そして、第一志望の大学受験の日が来たのです。
 我ながら上出来で、最後の科目になりました。その時、ふと前の席の受験生のセーターの模様が気になったのです。複雑な模様で、今まで気が付かなかったのですが、どう見ても『おならプー』と書いてあるように見えるのです。
 僕は、とたんに筆記具を取り落としました。今までの記憶が恐怖とともに蘇ったのです。完全に度を失った僕は、一問も回答できませんでした。その学校は落ちてしまいました」
「それから」
「それでも、第二志望の学校には受かって、卒業後は和登君と同じデクノボー株式会社に入りました」
 ここで、ホームズは大きくため息をついた。その理由は僕には今ならわかる。
「社会人生活は順調で、ある女性と恋愛をして結婚することになりました。そこでまた、大きな落とし穴が待ち構えていたのです。
 結婚式でハイライトといえば、ケーキカットです。僕の時もそうでした。『新郎新婦の初めての共同作業です』という司会者の定番のセリフ。ただ、その後に小さな声で素早く『おならプー』が続いたのです。ほとんどの参会者には聞こえなかったでしょう。中には気づいた人もいるようですが、何と言ったかは聞き取れなかったと思います。
 ただ、僕にだけは残酷なまでに明確にわかったのです。途端に手が震え始め、冷や汗が流れ始めました。参会者には、緊張しているんだろうくらいにしか思われなかったようですが、隣にいて一緒にナイフを握っている彼女には、明らかにその異様さが伝わってしまったのです。二人の間に微妙な違和感が生まれ、結局、その結婚生活は一年もたたないうちに終わってしまったのです」
「しかし、それでも、君は再び結婚のチャンスを手にすることができたのだ。私はむしろ敬意を表するよ」
「でも、ホームズさん、僕は怖いのです。今度また、『おならプー』が出現したら、僕の人生はおしまいです」
 ホームズは黙って片手をあげて店の隅に合図をした。立って近づいてきたのは、小林少年だった。ホームズから何事かを耳打ちされると、少年はそのまま店を出て行った。
「小南君、君と花嫁は私が、断固守る。だが、結婚式で何が起きても驚いてはいけないよ」

 一週間後、よく晴れた日、小南先輩の結婚式が行われた。僕ももちろん参列し、ホテル付属の教会内に座り、新郎新婦が入場してくるのを待っていた。
 しずしずと入ってくる二人。やや上気した面持ちの小南先輩。花嫁の顔は深いベールに隠れてよく見えない。
 二人は神父の前に立つ。聖書を手にした背の高い神父は二人のほうへかがみこむと、何事かをつぶやこうとした。口が「お」の形に開かれていた。
 その途端に、なんと新婦が彼の横っ面を張り飛ばしたのである。目を剥いて頬を抑える神父。ざわめく参列者たち。その時、教会後方の入り口から
「それまでだ、モリアティ教授。観念したまえ」
 という声が響いた。そこに立っているのは、もう一人の新婦を伴ったホームズの姿だった。では、今、前にいる新婦は?
 ベールの奥に覗いた顔を見て驚いた。女装をした小林少年だったのである。少年はモリアティに飛びかかった。だが、巧みにすり抜けた教授はスマホを操りながら、
「ホームズ、よく見破ったな。だが、捕まりはしないぞ」
 そういうが早いか、教会の天井が左右に開き、ヘリコプターの爆音とともに縄ばしごが降りてきた……。

 新婚旅行から戻ってきた小南先輩と僕は、再び例の喫茶店でホームズ氏と対面していた。
「残念ながらモリアティは取り逃がしてしまったが、もう大丈夫。やつは、君と奥さんには二度と手出しはしないよ。私と少年探偵団もついているしね」
「いったい、どういうことなんでしょう」
「巨大嫌がらせ組織だ」
「嫌がらせ組織?」
「モリアティの作り上げた完璧な組織だ。遠大な計画の下、君にちまちまと嫌がらせを仕掛け、『おならプー』に対する恐怖心を植え付け、君の人生をめちゃくちゃにしようとしたのだ。
モリアティのいつものやり口だよ。小学生や中学生時代のクラスメートに組織の息がかかった子供を送り込み『おならプー』でもって、純粋な心を傷つけたのだ。
 高校野球の予選では、相手チームと審判が買収されていた。審判は、君の打席が来た時、ボールを『おならプー』と書かれたものに取り換えた。相手ピッチャーも、それをわかっていながら投球を続けた。ボールが止まって見える君の好調さに付け込んだ巧妙な作戦だ」
「じゃあ、ボールの上の文字は僕の錯覚ではなかったんですね」
「そう。実際に書いてあったのを君が読んだんだ。よほど調子が良かったのだろう。だが、山が高いほど谷は深いのだ。君は野球を続けられなくなるほどのショックを受けた。
 大学受験の時、君の前に『おならプー』のセーターを着せた受験生を配置するなど、モリアティにとっては朝飯前だろう。そして、デクノボー株式会社に入社することになって、君は彼の手中に収まったも同然となった」
「なんて、恐ろしい…。でも、何が目的なんでしょう」
「まさに君の人生を滅茶苦茶にすること自体だ。彼は犯罪は芸術だと言っている。遠大な計画を立て、巨額の資金、大勢の人間、多大な時間を投入して、たまたま選ばれた不幸な被害者の人生を思いのままに操っていく。そこに神になったがごとき全能感を見出しているのだ」
「本当にそんなことがあるのでしょうか」
 そこで、僕は小南先輩に自分が体験した『320円の犯罪』事件のことを話してあげた。先輩は、信じられないという面持ちで聞いていたが、
「モリアティ……恐ろしい男……それにしても、芸術とまで言うのなら、なんで『おならプー』なんて下らないことを……」
「事件の多くは、君が幸福の絶頂にあった時を狙って起きている。つまり、幸福感の大きさに比べて、言葉が下らなければ下らないほど、君の受ける衝撃はひどくなる。また、そんな言葉で度を失ってしまう自分への自信喪失も深くなる。そこまで周到に計算し、選びつくされた下らない言葉、それが『おならプー』だ。まさに呪いの言葉だ

「呪いの言葉……確かに、これ以上に馬鹿馬鹿しくて下品で幼稚なセリフはありえないでしょうね……」
 小南先輩は、しばらく深い物思いに沈んでいるようだった。再び重い口を開けると
「ホームズさん、モリアティって……」
「なんだね」
「バカなんじゃないでしょうか」
 ホームズは答えた。
「そっかもね」
 

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