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2015年11月

社長のショートストーリー『クジラの旅人シリーズ5・行商のおもちゃ屋さんのお手伝い』

社長1 「ほら、これが君の報酬だよ」
 宿屋の一階の食堂兼酒場で、その男は旅人の前になにがしかの金を置いた。
「はあ」
 旅人は事情が飲み込めないと言った顔つきで金を見つめている。
「遠慮することはない。約束した金じゃないか。ピエロの格好をして、私のおもちゃの宣伝をしてくれれば、売れた分に応じて報酬を払うという約束だ。いや、君はよくやってくれた。おかげで町の広場に大勢子供が集まってきて、いい商売になった。いつもは私だけでやっているのだが、君を雇ってよかった。次の町でも一緒にやらないか」
「署長さんはどうしたんですか」
「署長さん?」
「僕、市長兼警察署長という人に招かれたように思うんですけど。スーフェンバーグさんというお婆さんに泥棒と間違えられて」(何を言っているんだかわからない方は、クジラの旅人シリーズ4をご覧下さい。作者より)

 おもちゃ屋の男は訝しげに旅人の顔を覗き込んだ。
「そりゃ、なんのこったい。少なくとも、今日のことじゃないだろう。今言ったように、今日、君は私と一緒に商売をしていた。でなきゃ、こんな金を君に払うわけがないだろう」
「そうですよ・・・ね」
 旅人は戸惑ったような悲しげな目で金を見て言った。
「僕、最近、どうも記憶が怪しいんです。いろんなことがごたまぜになって。きっと署長さんのことは、もっと前の記憶なんでしょう。でも、なんだか今日のことのような気がして」
「よほど印象に残ったんだろうね」
「そう、とても親切な方でした。食事を出してくれ、一晩泊めてくれたんです」
「一晩泊めた?じゃあ、ますます今日のことであるはずがないね。今晩、今、私と君はこの宿で酒を飲んでいる。これは認めるね?それなら、同時にその署長さんとやらの家にいることは出来ないだろう」
「それもそうですね」
「まあ、ともかく今日は儲かった。改めて乾杯だ。よかったら、明日も一緒にやってくれないかね」
「何を?」
「今日と同じ事だよ」
「何をやったんでしたっけ」
「ピエロの格好で愛嬌を振りまき、子供達を引き寄せ、大人達も笑わせて思わず財布の紐をゆるめさせる、ってことだ」
「僕が?そんなことやったんですか?」
 おもちゃ屋は一瞬、むっとした顔になりかけたが冷静に戻って
「やった。それも見事に」
「信じられない」
「信じられなくともやったんだ。このテーブルの上に載っている金は誰のものだい?」
「このテーブルの上にあるからには、あなたのか、僕のでしょうね」
「いい推論だ。付け加えれば、これは私から君に払った報酬だ。所有権は君に移動している。早いところ仕舞っておき給え」
「そこまでおっしゃるなら、そうなのでしょう。いただいておきます」
「で、明日もやってくれるかな」
「何を?」
 おもちゃ屋は明らかにイラッとしかけたが、それを抑えて、
「君、さっきの金を出し給え」
「何の金です?」
 おもちゃ屋の顔は再び、引きつり掛けた。
「君が仕舞った金だよ」
「何のことかわかりませんが、わけもわからず他人の前に自分の金を出してみせるなんて、おかしいですよね」
「だから、私が報酬として君に渡した金だ・・・・・・そうか。じゃあ、これならわかるか?」
 そういうとおもちゃ屋の男は足下に置いた大きなカバンから、子供の手に収まる大きさの人形を次々と出して、テーブルに並べた。
「ほら、これを見て思い出さんか。今日、君が見事な口上とともに売っていたやつだ。口上だけじゃない。君はこれを使って、ちょっとした寸劇つまり人形劇をやってみせた。大受けだった。私は帽子をひっくり返して、それに見物料を集めて回った。
 いいか。この五体の男の人形、みんな一癖ありげな顔だろう?君はこいつらにハンズ、ヒンス、フンス、ホンス、ヘンスという名前を付けた。そして表面上は仲良く見せているが内心は馬鹿にしあっているという設定にした。
 こいつらの珍妙な会話に、見物人は腹を抱えて笑っていた」
「へえ」
「君が今日、やったことなんだぞ」
「そういえば・・・そんな記憶があるような・・・でも、それは人形じゃありません。僕が実際に話をした人たちです」
「いや、人形だ。現にここにあるじゃないか」
「あの人達は人形だったんだろうか」(これも、何を言ってんだかわからない方はクジラの旅人シリーズ最初の『仲のよい村人達』をご覧下さい)

「これはどうだ」
 おもちゃ屋は、顔の真ん中にアヒルのような口嘴をつけた男の人形を取り出した。
「この人形を仕入れてしまったときは、私もこんなもの売れるんだろうか、と危ぶんだんだが、君はこれを、もと時計だったのが、人間のような感情を持ち始めて、人間の身体を手に入れて動き回るうちに、憐れな失恋劇を演じるという話に仕立て上げた」
「待って下さい・・・・・・その話も聞いたことがあるような気がする」(読者の皆様へ。気が向いたら、クジラの旅人シリーズ2をご覧になって下さい)
「聞いたんじゃない。演じたんだ。君自身が」
「そうなんですか」
「そうとも。私が目撃者だ。今日一日、仲間として商売を供にしたんだから。
 さて、お次は遊園地の遊具と人形のセット。君はこれを、遊園地を産業とするある王国という設定にした。(読者諸姉諸兄、これはシリーズ3ということになります)
 それから、このフロックコートの紳士。腰に警棒をつけているのが変だろう。だが、君がこの人形に託したキャラクターはなかなか詩人でね。放浪の旅に憧れているんだ。(これは、さっき出たシリーズ4ですね。作者)
 この紳士の人形が空に向かって、何かを呼びかける。見物人達も思わず上を見る。すると、君の相棒のクジラが空に浮かんでいるって寸法だ。クジラに紳士の憧憬を象徴させたって事になるかね。素晴らしい演出だ」
 旅人は、しばらく黙って男の顔を見つめていた。
「クジラは・・・・・・いたんですね、現実に

「いたどころじゃない。人びとが上空にクジラを見る。あれはなんだろう、と寄ってくる。その下には君がいておもちゃを宣伝している。皆さん、私の人形をお買い上げだ。上出来のビジネスだよ」
「クジラは、いつからかわからないけど・・・いつも僕の近くにいてくれる」
「親友ってやつかね」
「クジラだけは本当らしい。署長さんも遊園地もアヒルの口嘴を持った男も、僕がでっち上げたものかもしれないけど」
「でっち上げというなかれ。創作と呼び給え」
「でも、創作にしちゃ、本当にあったことのような気がするんですけど」
「まあ、なんらかのヒントになったことは、あったかもしれんがね。でも、考えて見給え、アヒルの口嘴の男なんて、どう考えても現実にありっこないだろう。遊園地の話しにしたってそうだ。そんなもの、どこにあるって言うんだ。あるとすれば、君の頭の中だよ。そうだろう」
「僕は、だんだん現実と想像が混乱してきてるんだろうか。僕の頭はどうなっちゃうんだろう

「まあ、そう悲観するなよ。それは、才能の証拠かもしれないぜ。
 ある作家の話だが、彼のところには、毎晩、自分の書いた小説の登場人物がやってくるというんだ。作品中の彼の運命を悲惨な結末にしてしまったんで、それに憤慨して抗議しにくるらしいんだね。
 心配した奥さんがある晩、書斎のドアの外で立ち聞きしてみた。確かに、二人の人物の声が聞こえてくる。一人は聞き慣れた夫の声だ。もう一人は、若い男でその作品の主人公の設定通りに思われる。
 夫は努めて冷静になろうとしている。一方、若い男はかなり興奮しているようで、激しい口調で作家を責めている。夫人は、彼が夫に殴りかかったりするのではないか、と思った。そこで、ドアを細く開けて隙間から書斎を覗いてみると・・・・・・。
 いるのは夫一人だった。彼は、自分の声で話をしたかと思うと、次の瞬間立ち上がり、あの若い男の激高した声で、今まで自分の座っていた椅子、つまり作家がいると思われる位置に向かって、激しく抗議する。
 言ってみれば一人二役の芝居をしていたわけだが、作家自身は、本当に作中の人物が論争にやって来ていると思い込んでいたんだ」
 旅人は、しばらく黙った後、
「なんだか、悲しい話のような気がします」
「でも、創造とはそんなものかもしれないよ。例えば、今の君がそうでないとは言えないだろう」
 旅人は自分が迷路に入り込んでしまったような気がした。今までの旅も迷路だと言えば迷路だった。しかし、迷うことなどなかったといえばなかった。どんな道を辿ろうと、どこかへ着くことができたなら、それは迷ったと言えるのだろうか。
「まあ、それはいい。それより、明日の話だ。頼むよ。今日と同じようにやってくれ・・・といっても、覚えていないんだったな。じゃあ、ともかく私と一緒に行動してくれ。約束すると言ってくれよ。よし、報酬を増やそうじゃないか。場合によってはボーナスも出そう


 おもちゃ屋は懸命に旅人を口説いていたが、旅人の耳には入っていなかった。おもちゃ屋の肩越しに向こうの方に見える男に目を引きつけられていたのだ。
 その男は、こちらに背中を向けて座っていたが、連れの青年に向かって、酒を飲みながら滔々と何事かを語っていた。
 時々、見せる横顔が気になった。普通なら鼻があるべきところに、ちらちらと変なものが見える。鼻にしては高すぎる。それに形がおかしい。色も奇妙だ。
・・・アノ男、クチバシガ付イテイルノデハナカロウカ・・・
見れば見るほど口嘴に見えた。それもアヒルの口嘴だ。
あの男だ。自分が旅の途中で出会った、いや、おもちゃ屋に言わせれば、自分が創作したアヒルの口嘴の男だ。
彼が宿の亭主に向かって酒の追加注文をしたとき、はっきり見えた。間違いない。
なんだ。こうして立派に実在しているじゃないか。創作だなんて嘘だ。そっちの方が馬鹿げた創作だ。
あの男、国境の方へ行くと言っていたようだ。まだ着かないのだろうか。もう、戻ってきたのだろうか。それとも国境などないということがわかって、引き返してきたのだろうか。
いずれにせよ、取り憑かれたように語り続けるあの話し方は、僕が聞き役としてとっ捕まったときと同じだ。
見れば、今、相手になっている若者も僕と同じくらいの年格好に見える。僕は、さんざん身の上話を聞かされた上で、やつの胸に仕掛けられた鳩時計でびっくりされたっけ。
 結構、僕の記憶も鮮明に甦ってくるな。まだ、捨てたもんじゃないぞ。
 今の話し相手の若者も、そのうち鳩時計を食らうんだろうか。僕と同じように気が弱そうだから、そうなるだろう。顔もなんとなく、どこかで見たような青年だな。よく知っている顔のような気がする。でも、全然見かけない顔のような気もする。
 そうだ、僕は、たぶん彼を知っている。僕と同じ旅人だ。だったら、「おい、鳩時計に気を付けろよ」と言ってやろうか。
 あれは僕かもしれない。背格好といい、着ている服といい、僕のようにも思える。それなら、この僕はいったいどこの誰だろう。後になって、彼がアヒルの口嘴の男を思い出すとき、その記憶の視覚の端っこに僕はいるだろうか。
 彼に忘れられたら、僕はどうなるんだろう。消えてしまうんだろうか。
 そうなったら、抗議に行ってやろうかな。さっきの作家の話の作中人物みたいに。記憶中人物となって、おい、なぜ俺を忘れるんだ、と言ってやったら愉快だろうか。将来の彼の奥さんを心配させるだろうか。
 何だか、愉快になってきた。さて、そろそろアヒルの口嘴の男の胸から鳩時計が飛び出す頃だ。あれは、喧しいから嫌いだ。それに眠くなった。
 記憶中の人物が眠くなるなんて変かな。どんな夢を見るんだろうか。再び目覚めるという事はあるんだろうか。第一、彼に忘れられたら、僕はもう存在しないんだからな。そういう意味では、このおもちゃ屋も同じだ。いや、覚えていてもらえるかどうかもわからない。ざまあみろ。
 僕は、寝るよ。

 旅人は立ち上がった。おもちゃ屋が、
「おい、寝るのか。約束を忘れるなよ。明日の朝、ここで集合だからな」
 と言っているのを背中で聞き流した。
 約束なんて、したっけ。たとえしたにせよ、僕の記憶力を盾に、知らなかったことにすればいいさ。
 階段を上っているとき、食堂から「ポッポ、ポッポ」という鳩時計の声が聞こえた。 
 
翌朝、宿の階下で、おもちゃ屋の男が宿の亭主と話をしている。
「おい、親父。チェックアウトだ。
 私の相棒はどこにいるかな?あいつだよ。誰って、昨日の晩、私と酒を飲んでいた若い旅人を覚えているだろう?そうそう、そいつだ。彼は、まだチェックアウトしていないのかな?
 え、とっくに済ませた?どこにいるんだ。とっくに出かけたって?それも二時間も前に?
 私のことは何か言っていなかったか?全然?
 ちくしょう。あいつ、忘れちまいやがったのか。まったくしょうがないな。
 あいつを今日も使うとしたら、今から急いで追いかけなきゃならんが。
 親父、どこへ向かうとか言っていなかったか?わからない?ちぇっ。せっかくいい商売ができると思ったのに。残念だなあ」
 ぶつぶついいながら、大荷物を担いで宿を出た。
 いい天気だった。四方を見渡して、ある方角におもちゃ屋の視線が定まった。
 ぽつんと、何かが浮かんでいた。雲ではない。鳥ではない。飛行船でもない。
 さらに目をこらしてから、おもちゃ屋は笑い出した。
「ははは。クジラだ。クジラが浮かんでいるのが見えるじゃないか。旅人くん、頭隠して尻隠さずというやつだな。クジラの下に君がいるのはわかっている。さて、ゆるりゆるりと、おもちゃを売りながらクジラ目指して進んでいくかな」
 さて、いつになったら追いつけるか、誰にもわからない。
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今日のおさむらいちゃん

おさむらい192

社長のショートストーリー『時雨』

社長1 夜中になって雨になった。十一月の時雨だ。
 そのビルとビルの間に入り込むと、奥にコンクリートが高くなって台のようになっているところがあり、また上の方には張り出しがあって、雨に濡れずに過ごせるのを女は知っていた。
 女が「仕事」から解放されたのは、既に終電の出てしまった後だった。女は台の上にうずくまった。時雨から逃れることはできたが、空気は冷たかった。何の匂いともつかない匂いが鼻孔に流れ込んできた。おそらく、都会の匂いが雨に洗い流された後の匂いなのだろう。
 始発の時間になると、駅のトイレで化粧を落とし、電車のシートで久々の暖を取るのだったが、その姿はやはりビルの下にうずくまっていた姿勢に似ていた。
 眠くて疲れていたが、女ははっきりと目を開けて、まだ暗い窓の外とガラスに映る蛍光灯の影に見入っていた。

 川はS字型に蛇行している。その下部の曲線の膨らんだ突端のほとりにアパートはある。よほど古いモルタル作りの家である。灰色のひびだらけの漆喰の壁の階段を上り、暗い廊下をまっすぐなのに彷徨うように通り、奥の戸の真鍮の鍵をかちゃりと音を立てて開ける。女はこの音が少し高すぎるのではないか、といつも気にする。
 部屋の中の暗がりに向かって、女は話しかける。
「御身の僕(しもべ)、戻れり。この冷たく暗い部屋に御身ひとりを残し行ける我を許し給え。御身、凍え給わずや、震え給わずや」
 灯りを付け、部屋の隅に置いてある皿をしゃがんで覗き込む。皿には猫の餌が入っている。
「御身、食し給わずや。皿に入れ捧げし食物の減らずしてあるを。御身、病を得給うや。我を許し給え。さもなくば、我を罰し給え」
 声が震え、かすれた。
 部屋の中央に布団が敷いてあり、掛け布団の中央がわずかに膨らんでいる。女は布団の前のにひざまずき、畳に額をこすりつけた。
「我を罰し給うや、許し給うや」
 すると布団の隅からニイという声が聞こえ茶色い縞の毛皮を持った猫が現れ、女の膝に乗った。
「許し給うや」
 猫は女の顔を見て、甘えた声で二度鳴いた。女は皿からなにがしかの餌を掌に載せると猫の口元に持っていった。猫はゴロゴロと喉を鳴らし、舌でピチャピチャと音を立て食い始めた。旺盛な食欲と見えた。女の冷たい手は生温かくなり、掌はざらざらとした舌でこすられた。
「我が手より食べるを好み給うや。されば、こは御身の宴にて、我が膝を食卓となし、我が掌を食器となし給え」

 猫は食欲を満足させると、しばらく前足を舐めていたが、やがて膝の上に丸くなって寝息を立て始めた。
 窓の外が闇から灰色に変わってきた。雨はまだ止まなかった。
「願わくば今夜、雨の止まんことを」
 女は呟いた。切れ長の目蓋が霧の掛かるように下りてきた。もはや眠くてたまらないのだ。
 そのまま猫を抱きながら突っ伏して猫の毛だらけの布団に転がってしまう。その姿は、ビルの狭間に雨宿りをしいている姿に似ていた。

 ぼんやりと目を覚ますと猫の姿が見えなかった。女は今だ半ば夢の中にいるように涙を流した。
「御身、我が主よ、いずこに往き給うや。我を見捨てたまうや。我、主に捨てられてただ一人、荒野にあり。助け給え。我を救い給え。再び御身の僕として仕えさせ給え、ああ・・・」
 女は声を上げて泣き始めた。
 すると掛け布団で出来た洞の中から、にゃあと声がする。女は初めて夢から覚めたように、不思議そうに洞を見る。そして覗き込む。
 猫の目が光っている。片方は淡い紫色である。片方は琥珀に近い金色である。
 女は猫を抱き上げる。
「御身、我を試み給うや。我、いずこにありとも忠実な僕にてあり。御身を崇め奉るものなり。されど、我は弱し。我が腕は細く、我が膝は崩れ折れること易し。願わくば、我を試みに遭わせずして、仕えせしめよ」
 女は人差し指で猫の喉を撫でる。喉は湯が沸くようにゴロゴロと鳴る。その喉、顎の辺りの毛は金色である。
「こは御身の聖なる印、神のみしるしにてあり」
 そして、そこに口づける。喉はぐびりと動き、金色の毛は花が開いたように見える。

 女は猫と遊んでやる。玩具は、その黒く長く豊かな髪である。束ねた髪を猫の鼻先で振ってみせると、猫はじゃれつく。
 時に爪に髪の毛が掛かる。時に一、二本の毛が抜ける。時に女は眉をひそめ、顔を歪ませるが、すぐに笑顔になる。猫の動きは激しくなっていき、女は汗ばんでくる。
 時に、その爪が女の顔に掛かりそうになる。
「御身、我が顔を傷つけることを為し給うな。我が身体にてはよし。されど、我が顔は男を呼び寄せるものなり。夜を行き交う男は、御身と我との身の養いにてあれば」
 女の手には、細かい傷が沢山ついていた。

 女は冷えた飯に湯を注いで掻き込むと化粧を始める。強い化粧である。暗がりで男の心を掻き立てるように。中にも目が強かった。まばたきの毎に火花を散らし、男の気持ちに爪を立てるように。
「許し給え。我、今宵も御身を一人残し、闇の中へと行く。我、御身のために金を必要とすればなり。御身の神殿たるこの小さな部屋の価の金、今だ整わず。この月、雨甚だ多かりしゆえ。雨多ければ、我街に立ちて男を呼ぶこと難し。
 許し給え、我が汚らわしき身過ぎを。我、我がために金を欲するにあらず。情欲のため男を引き寄するにあらず。我が命を惜しむにあらず。
 我、甚だ拙く愚かなるものにあれば、手に技を持たず。舌に巧言を弄せず。我が身を売るより他に生きるすべを持たず。
 再び申し上ぐ。金は我がためにあらず。運命が御身を我が元に送り来たればなり。定めは我にあり。来たるべき日まで、御身を養い奉れと。
 我、そを知れり。
 御身は神の子なり。御身は世の救い主なり。この汚辱に満ちた世を洗い清めるものなり。
 悪を焼き尽くし偽善を滅ぼし、善き者、弱き者、貧しき者の苦を除き、喜びを与えるなり。
 さればこそ・・・・・・。
 世の人びと、我がことを知らば、娼婦なりと蔑まん。汚れし女と石持て打たん。
 我、恥辱を恐るるにあらず。かくなる蔑みを避くるにあらず。反りて、我が使命を遂げつつある印にてあれば。そは我が喜びにてあれば。
 我、御身が僕たる栄光の中に生くる。御身がために娼婦たる定めの喜びの中に生きるなり。我が身をあがなう男達の獣欲の中に救い主の輝きを見るものなり。世の人の蔑みの中にも光を見いだすものなり。
 我は待つ。御身の全ての人の主たるの現れの日を。全き調和と歓喜の中に、御
身の神として君臨し給う日を。その遠からんことを」
 猫は甘えて、しきりに女の足下にじゃれつく。行くな行くな、自分をひとりにしてくれるな、と泣きつく。
「許し給え。我、救い主たる御身に身を捧げしものなり。されど今宵、また我が身を汚すことを許し給え。
 御身、我が死を望まば我死なん。我が死を宣すれば我死なん。我が身を業火に焼けと曰わば、我、軽きものとして身を火に投ぜん。御身、我が死を望み給うや」
 猫は、女の足から身を離して、にゃあと鳴いた。
「我、死せり」
 ブーツを履くと、真鍮の鍵の音を立てて戸を閉ざした。
 猫はしばらく女の足音の遠ざかっていくのを聞いていたが、布団の上に座り直った。その背中は優美に曲線を描いた。紫と金の瞳は閉じられず、凜として窓の外を見つめた。その視線は雲を貫いて神の栄光の玉座に達しているかのようだった。「その日」は近いのかもしれなかった。
 やがて、窓から再び十一月の時雨の音が聞こえてきた。

 
 

今日のおさむらいちゃん

おさむらい191

今日のおさむらいちゃん

おさむらい190

今日のおさむらいちゃん

おさむらい189

社長のショートストーリー『追いかける』

社長1 
 半兵衛と文兵衛はともに江戸で聞こえた大店の主人であった。
 元はといえば、近在の村から文兵衛が身ひとつで江戸に出てきたのを追うようにして半兵衛が出てきたのである。
 下働きや棒手振から始まって、二人は働きに働いた。文兵衛が五働けば、半兵衛は六稼ごうとした。
 文兵衛が初めて小さな店を出したのに追いつくようにして半兵衛も店を出した。
 文兵衛が奉公人を三人使えば、半兵衛は無理してでも四人雇おうとした。
 そのようにして、半兵衛は文兵衛を追いかけながら商売を大きくしていった。やがて、二人して江戸の商人の仲間から一目も二目も置かれる存在となっていった。

 そんなある日、珍しく文兵衛が半兵衛の店を訪ねてきた。挨拶に来たというのである。奥の中庭に面した座敷に通すと、文兵衛はこう切り出した。
「半兵衛さん、私は隠居するよ」
 半兵衛は目を白黒させた。今までその背中を追いかけて商売をしてきた、その背中が消えてしまうのである。
「うちの倅も、親の目からするとまだまだ頼りなく見えるが、番頭なんぞは、もう立派にやっていけると折り紙を付けてくれている。確かに私がいつまでもあいつの目の上にいるのは、よくないのかもしれない。
 そんなことを思っていたら、ちょうど根岸に隠居所によさそうな家が売りに出たんだ。これもご縁かな、と思ってね。思い切って身を引くことにした」
 なるほど今まで働くのに夢中で気がつかなかったが、改めて見てみれば、文兵衛の頭もごま塩になっている。そういう自分もだいぶ禿げてきた。
 こちらも、息子に嫁を迎えて、身代を譲っても大丈夫ではないかと言われたことはあったが、なに、まだまだ、と一笑に付した。だが、文兵衛のように考えるべきなのか、どうか。
 数日して文兵衛は本当に小僧ひとりを連れただけで、根岸へ引っ込んでしまった。その後、今ではのんびりと茶の湯三昧を楽しんでいるという噂も伝わってきた。
 半兵衛は急に焦燥感に駆られた。相撲を取っていた相手がふいと姿を消して、土俵の外へ転げ出てしまったような気がする。ふと桟敷を見ると、当の相手が座って煙草を吹かしてにやにや笑っている。
「文兵衛さん、そりゃ、ずるい」
 それから、半兵衛の店で、鳥が飛び立つような騒ぎが起こった。
 主人が、突如隠居を決めてしまったのである。一番番頭も二番番頭も豆鉄砲を食らったようにぽかんとしている。息子が「わかりました。あとはお任せ下さい」と気丈なところを見せたのが幸いである。
 女房は、江戸市中を離れるのがイヤだと、同行を拒否した。仕方なく、定吉という小僧を連れて移ることにした。先行の文兵衛は早くに妻を亡くしていたので、小僧ひとりと移ったのだが、はしなくも、この点でも文兵衛の背中を追うような感じになった。
 
 さて、茶の湯三昧の一件である。
 文兵衛が、その境地にいるらしいので、早く自分もそうしたくてたまらないのだが、茶の湯も知らなければ、三昧もわからない。特に三昧というのは仏道の方の言葉らしいので、余計にわからない。
 三昧の方は脇に置いといて、まず茶の湯である。こちらの方が具体的な物体が相手なので、まだとっかかりやすい。早速道具屋を呼んで、「文兵衛に負けぬもの」ということを念頭に、一通り揃えた。
 近くに茶の湯の師匠がいるという話を聞き込んで、束脩の金子を用意し、手土産をあつらえ小僧に持たせ、挨拶に行くことにした。
 その道すがらである。向こうから歩いてくる文兵衛に出くわした。相手も小僧を連れている。こちらにも定吉がいる。遜色なし、と半兵衛は考えた。
「おや半兵衛さん、あんたが隠居したのは本当だったのかい。まあ、私はお友達が増えて嬉しいが、商売仲間の方は寂しがっているだろう」
「文兵衛さん、ご挨拶が遅れて申し訳ない。(茶道具を揃えるのに気を取られて挨拶どころではなかったのである)ところで、あなたは茶の湯にだいぶ凝っておられるという話だね。その内、お茶道具を拝見させてもらえるかな」
 早速勝負を挑んだのである。ところが文兵衛はあっさりと、
「ああ、茶の湯ね。あれはやめたよ。なんだか飽きちゃってね」
 半兵衛はあっけにとられた。折角買い揃えた茶道具が瓦礫に変わっていくのを感じた。
「じゃあ、今、道楽は・・・?」
「今は盆景に凝っている」
「ボンケイ?」
「盆の上に銀砂を撒いたり、石を置いたり小さな木を置いたりして、景色を拵えるんだね。じっと見ていると、景色の中に吸い込まれて、さながら山水画の中の人物になったような心持ちになるな。心が広がって、俗世間を忘れるよ」
 半兵衛はただちにくびすを返すと、道具屋を呼んで、せっかくの茶道具を二束三文で売り払ってしまった。茶の師匠のところへ行くはずだった菓子は、定吉の腹に収まった。
 そして、盆景なるものに詳しい人を探してくるよう定吉に命じた。文兵衛に聞けばよさそうなものであるが、それはなんだか悔しいのである。

 やがて、とあるご隠居が盆景を教えているという話を定吉が持ってきた。
 半兵衛はさっそく手土産の菓子折と束脩を整えると、ご隠居の内に出かけることにした。
 ところが門を出たところで文兵衛に出くわした。
「おや、半兵衛さんのお宅はここだったのかい。いや、いい家が見つかったね」
「いえいえ。中にお招きしたいところだが、今日はちょっと用がありましてね」
「なに、お宅がわかれば、いつだって遊びに来られるからね。それにしても、こないだも、あなたは菓子折を持っていたね」
 あんたのマネをして盆景の師匠を訪ねるのだ、とは言いにくい。
「いや、ちょっと知り合いのところへ・・・。時に、あなたは盆景に凝っておいでだという話だったが」
「ああ、あれね。やめたよ」
「やめた?」
「まあ、盆の上におもちゃみたいな景色を拵えたって、つまらないよ。子供じゃあるまいし。今はね、年寄りの冷や水と言われるかもしれないが、剣術の道場に通っていますよ。若い頃、ちょっとやったことがあったものでね。近藤という先生についているんだが、身体を動かすのは気持ちのいいもんだ。若い者に笑われながら棒きれを振り回しているよ

「さよなら

 唖然とする文兵衛を尻目にくるりと回って家の中に入ってしまった。
「定吉、近所に剣術の道場がないか、探して来なさい。だが、近藤という先生はいかんぞ。別の先生を探して来なさい」
 定吉は目を丸くしている。もっとも、菓子折はやはり彼の腹に収まった。

 剣術となれば少々怖い。文兵衛は若い頃やったという話だが、自分はこの年になって初めてである。怪我をするかもしれない。打ち所が悪ければ、死んでしまうかもしれない。
 だが文兵衛に負けるわけにはいかない。半分見つからなきゃいいがと思いながら待ち暮らしていたが、ある日、ついに定吉が土方という先生の道場を発見して戻ってきてしまった。
 わざわざ易者に入門によい日を選んでもらった。
 そうと決めた日の前日は、あまり食欲が湧かなかったし、眠れなかった。その晩の内に土方先生の道場が火事で燃えてしまえばいいのに、とさえ思った。
 そして例の如く菓子折を持つと、まなじりを決して家を出た。
 その橋を渡ったたもとに道場がある、というところまで来て、向こうから渡ってくる文兵衛が見えた。
 そして、彼が早くも剣術に興味をなくして、長唄の師匠に通っているという事実を知るに至る。

 琴、三味線、香道、義太夫、盆栽、絵さらには禅まで、文兵衛は次々と色々なことに手を出しては、たちまち止めてしまうことを繰り返した。
 そのたびに、半兵衛も文兵衛を追いかけて、色々なことに手を出そうとした。
 いったい何度、菓子折を持ってで掛けかかったことか。また、いくつの菓子折が無駄になって定吉の胃袋に収まったことか。定吉は少々太った。

 文兵衛のあとを追いかけることに息切れを感じ始めたとき、ふと半兵衛は考えた。
「文兵衛さん、昔はこんなじゃなかった」
 彼の商売のやり方というのは、これと目を付けるとじっくり取り組んで、最初は多少の損がいっても、様々工夫を重ね、粘りに粘って大きな商いに育て上げてしまうというものだ。
 半兵衛は、その目の付け所にも粘り腰にも何度もうならされ、文兵衛のやり方を研究したものだ。半兵衛の商売が大きくなったのは文兵衛から学んだからだ。
 それがどうだ。隠居してからの彼は、まるで聞き分けのない子供のように目先にちらついたものに飛びついていく。そして、ちょっとの我慢もならずに捨ててしまう。
 人が変わったようだ。それとも、なにか心の中のたがが外れてしまったのか。

 半兵衛は、文兵衛を追いかけるのにくたびれてしまって、縁側に座っては、このごろ迷い込んできた猫を相手に時を過ごすことが多くなった。なんだか、老け込んでしまったような気がする。
 相変わらず文兵衛はあれやこれやの道楽に手を出しては、あっという間に飽きるということを繰り返しているのだろうか。
 なんだか、彼が何をしていようと、どうでもよくなってきた。

 そんなこんなのうちに、文兵衛が亡くなった、という知らせが入った。
 半兵衛は急に大事なものを失ってしまったような気がした。こんなことなら、もっと頻繁に行き来しておけばよかった、と今更ながらに後悔された。
 葬儀も終わってしばらくした頃、文兵衛の店の手代が、届け物にやって来た。
「手前どもの隠居が、半兵衛様にと残していった遺品でございます」
 刺繍の入った袋から、黒い玉が出てきた。
 聞けば文兵衛が最後に凝ったのは、玉を収集することだったらしい。
 艶のある滑らかな表面に、流紋のような模様が入っている。日に透かしてみると、きらきらとした光を受けて、模様が動くようである。
 半兵衛はそれから縁側で猫を膝に乗せ、玉を日に透かして見ながら、長い午後を過ごすようになった。
 ある日、庭の桐の木の陰に誰かいるような気がした。その気配はしばらく続いたが、ふいと消えた。
「文兵衛さんが挨拶に来たんだろう」
 と半兵衛は呟いたが、玉を覗き込むのはやめなかった。

今日のおさむらいちゃん

おさむらい188

社長のショートストーリー『クジラの旅人シリーズ4・退屈している署長さん』

社長1 王国の遊園地で互いに助け合ってから、クジラは妙に懐かしげにすり寄ってくるようになった。
 といっても、その巨体が空中から降下してくるのだから、相当に怖い。ひとつ間違えば押しつぶされたり、跳ね飛ばされたりしかねない。
 どうもクジラは旅人を乗せて、空を飛びたいと思っているようだ。
 例の遊園地から逃げるとき、旅人はクジラの背に乗っていた。そして、確かに遙かな上空から普段自分が彷徨っている大地をちら、と見た。
 だが、すぐに目を閉じてしまった。
 なるほど空からの景色は素晴らしい。何もかもよく見える。
 だが、見えすぎる、と旅人は思う。上空からでは、一瞬にして全てがわかってしまう。それが怖い。自分はわからないことが好きなのかもしれない。
 歩いていれば、道は尽きない。たとえ同じ場所を通り過ぎたとしても、時間が風景を変えてくれる。
 それに自分には忘却という素晴らしい能力がある。何度でも同じ道を初めての気持ちで歩くことができるかもしれない。
 クジラには道の果てが見えてしまっているのだろうか。それはどんな気持ちなのだろうか。
 
 金縁眼鏡を掛けた、痩せたお婆さんが旅人を「市長兼警察署長」というプレートが打ち込んである門の家に引っ張っていった。
 丈夫そうなドアの銀のノッカーを二回鳴らすと、中からフロックコートにシルクハットでいながら、腰に警棒を下げた押し出しのいい男が出てきた。
「なんでしょうか、スーフェンバーグさん」
「署長さん、この男がうちの垣根のところに立って庭を覗いていたんです。きっと泥棒に違いありません」
 旅人はびっくりして
「僕は泥棒なんかじゃありません。お宅の庭の木をなんとなく見ていただけです」
「見慣れない顔ですし、怪しいですねえ、署長さん」
 男は灰色の口ひげを撫でていたが、
「わかりました、スーフェンバーグさん。取り調べましょう」
「お願いしましたよ、署長さん。死刑にしてやって下さい」
 署長と呼ばれた男は旅人に、
「では、中にお入り下さい」
 と丁寧に言った。
「僕、何もしてません」
 するとスーフェンバーグさんを気にしてか、耳元でこっそり、
「わかっております。とりあえずお入りいただくのが、あなたにとって一番安全な道なのです」
 中は気持ちよく整えられた部屋で、旅人は白いクロスが掛かった丸テーブルに着くように促された。
「コーヒーになさいますか、紅茶になさいますか」
 どうも被疑者の扱いとは言えないようだ。
「では、お茶を下さい」
「少々お待ち下さい」
 そういうと、署長は次の間に下がり、今度はティーポットやカップの載った銀盆を自ら捧げ持ってきた。
「署長さんが、自分でお茶を淹れるのですか」
「どうも、人を置くのは煩わしくてね。私は孤独を愛するのです。お砂糖は?」
「あのう、僕は死刑になるのでしょうか」
「まさか。でも、一応拘束して取り調べないとスーフェンバーグさんがうるさいのです。彼女は自分の家と庭に関わることを大げさに考えすぎるのです。毎週、ひとりは被疑者を引っ張ってきて死刑にしろと言います。もちろん、まだひとりも死刑になっていません」
「ほっとしました」
「まあ、お茶に招かれたとでも思って下さい。クッキーにも手を出して下さい。お望みならサンドイッチも用意できます」
 旅人はミルクの入った紅茶を飲み、クッキーをかじった。
「一応、お話を伺っておきましょう。まあ、お話になりたくなければ、それでもよろしい。あなたには黙秘権がありますからな。あなたは、どなたですな」
「僕は・・・旅人です」
「旅人とは?」
「旅をするものです」
「なるほど、よいお答えです。ある国には旅人という名の詩人がいるそうです。どちらへいらっしゃるのですか」
「別にどこということもありません。歩いて行って、宿のありそうな町や村に着いたら、そこで泊まるのです」
「ほう。旅の目的は?商用とか?」
「ありません。ただ、旅をしています」
「すると、旅と言うより放浪?」
「そうとも言えますね」
 そう言ってしまって、旅人は肩をすくめた。放浪、浮浪などというと、よい印象を与えないことがある。犯罪者同然に見なされたり、市民社会の倫理に反する者であるかのように思う人もある。たとえば、スーフェンバーグさんのように。
 署長は、椅子の背もたれにその頑丈そうな背中を沈めて、旅人の後ろにある窓の外を眺めていたが、
「素晴らしい」
「何が?」
「あなたのなさっていること、つまり放浪です」
「そうでしょうか」
「何時に家を出て、何時何分の汽車に乗り、何時何分到着、予約してある宿に泊まり、皆が褒めそやすレストランで食事を取り、皆と同じように褒めそやす。これが現代の旅、すなわち旅行です。現代人からは放浪が失われてしまった。これが、現代人が堕落してしまった大きな原因だと、私は考えております。あなたは、その放浪の精神を伝える人です」
「はあ・・・」
「昨日はどこにいらっしゃいましたか」
「たぶん・・・遊園地の王国に・・・」
「たぶんとおっしゃいますと?」
「どうも、僕は記憶が曖昧なんです。前日のことと、うんと昔のことが、どっちが新しい出来事かわからなくなってしまう。
 遊園地のことも昨日のような気もするし、子供の頃の出来事だったような気もすることもある」
「なるほど興味深い。あなたは、最近お会いしたうちでは、最も興味深い方だ。こんな村に住んでいると、どうでもいいことを大事のように騒ぎ回ったり、そのくせ人間の根幹に関わる深い話しは避けたり、要するに無駄に日々を送っている人が多い。私は話し相手に餓えている。
 あなたは面白い。よろしければ、ゆっくりしていって下さい。ワインも出しましょう。
 なんなら、お泊まりになってはいかがです。被疑者は拘留中であると言えば、スーフェンバーグさんも大満足でしょう」
 遠慮する旅人を尻目に、署長はワインとチーズを持ってきた。グラスに注ぐと、
「では乾杯。本日は当警察署は開店休業です。本職は早退いたします。どんな大事件が起ころうとも出動いたしません」
「こんなに親切にしていただいたのは久しぶりのことです。もっとも僕の記憶は当てになりませんが。昨日もそうだったのかもしれない。だとすれば、昨日の人に失礼なことになりますが」
「本職は誰にでも親切です。しかし、あなたは取り分け親切に値する方です。
 しかし、昨日とずっと昔の記憶がごっちゃになってしまうとなると、案外、未来のことと過去のことも取り紛れているかもしれませんな」
「実は時々、そんな気もするのです」
「いや結構、実に結構。もしかすると来世と過去世の記憶も混じっているかもしれない」
「そこまで言われるとよくわかりませんが」
「いや、きっとそうですよ。きっとあなたの中には宇宙大の記憶が眠っている」
「よくわかりませんが、しかし眠っていたのでは仕方がありませんね」
「いや構わないのです。学期末試験ではないのですから、眠りたい記憶は好きなだけ寝ていてもらって結構。むしろ下手に目を覚まさない方がいい記憶もあるでしょう。現在というやつは一瞬のうちに過ぎ去りますが、記憶はずいぶんしつこいやつもありますからな」

 ひとしきりワインを飲んだ二人は、日の傾き描けた村へ散歩に出た。
 署長がスーフェンバーグさんに向かって、
「いや、先ほどはご協力ありがとうございます。ご覧の通り、現在取調中です」
 と軽口を叩いた以外は、二人とも黙って歩いた。
 前の畑の向こうに土手が続いていた。向こう側は川なのかもしれない。
「おや、クジラだ」
 不意に署長が空を見上げて言った。視線の先には例のクジラが西日を受けて浮かんでいた。
「ほーい、やっほー」
 署長はシルクハットを手にすると、土手に向かって走り始めた。土手の上まで駆けていくと、ぴょんぴょん跳びはねながら、クジラに向かって帽子を振った。
 クジラは手を差し出すように、その大きなヒレを署長に向かって下ろしてきた。署長がひょいとその先に飛びつくと、クジラはどんどん上昇を始めた。
 夕暮れに向けて濃さを増し始めた空に、クジラは光を跳ね返しながら昇っていく。署長が足をばたつかせているのが見えるような気がした。
 何か黒いものがひらひら舞いながら落ちてくるようだった。鳥のようにも見えたそれは、ずいぶん長い間、空中で踊りを踊っていた。が、やがて旅人のところに落ちてきて、両手で受け止められた。シルクハットだった。

 その夜は署長の家に泊まっていくことになり、署長手ずからの料理でもてなされた。
「そうです。あのクジラは、いつからかわかりませんが、僕の旅について回っているんです」
 「いつから、とおっしゃいましたが、先ほど言ったように、あなたの記憶には未来のことが混じっているのかもしれないのですよ」
「ああ、そうかもしれません」
 なにしろ署長が秘蔵の酒をずらりと並べてくれたので、なんだか頭がぼんやりしていたが、眠っていた記憶がごろりと寝返りを打ったような気がした。
「きっとそうです。僕とクジラは未来のどこかの時点であったんです。クジラが僕に対して妙に懐かしげなのは、僕らがその時点に向かって歩いているからなんです」
 旅人には珍しくはっきりとした口調で言った。なんで、そんな風に言い切れるのか、自分でもよくわからなかった。
 署長は、パイプの掃除をしつつ、ブランデーとコーヒーを交互に飲んでいたが、
「私は、来年で市長と署長の任期が切れます。そうしたら引退します。村の委員会が、もう一期務めてくれと言っても断ります。この家も少しばかりある畑も売り払ってしまうでしょう。
 そして、あなたと同じように旅に出ます。放浪です。未来と過去の間を彷徨います。
どこかでまた、お会いできるでしょう。
 いや、お会いできなくてもいいのです。それぞれが、それぞれの道を歩いていればいいのです。それで私は満足です。さようなら、そして、こんにちは」

 最後のひと言は、旅人には意味がよくわからなかった。
 目をつぶると、目蓋の裏にさっきのシルクハットが空中をちらくらとどこまでも落ちずに踊って行くのが見えた。

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