社長のショートストーリー『小人の同居人』

公演だ会議だイベントだ、と国内外を駆け回っているので、自宅のマンションに戻って寝るのは、せいぜい週の半分くらい。
独身主義を貫いている、ということは、部屋の中は乱雑という事になる。少なくとも他人の目から見れば。
書籍や資料や機材がテーブルマウンテンのように積まれ、空間が見えるのは机の上のわずかなスペースとベッドだけ。
だが、私に言わせれば、これは「秩序ある混沌」である。この中で、何がどこにあるかは、この上なく明瞭にわかっている。例えば、一週間のロンドン出張から帰ってきたとしても、その瞬間から出張以前にやっていた仕事をただちに開始続行することだって出来る。(もっとも実際には、その前に下着を全自動洗濯機に突っ込み、スーツやワイシャツをクリーニング店にもっていくという作業を挟まざるを得ないが)
そんな自慢にもならない話を自慢げに話して見せたのは、私がある賞を受賞した記念パーティーの流れの酒場でだったか。
「それなら、メイドでも置いた方がいいんじゃないか」
と言ったのは誰だったか。
「メイドなんて面白くないね。明治頃の金持ちは苦学している書生を玄関番だの使い走りをさせながら家において援助したというじゃないか。その方が粋だね」
「不景気だから、苦学している若い者ならいくらでもいるよ」
「とはいえ、あそこは仕事部屋でもあるからな。余り他人にうろうろされても困るんだよ」
と雑談をしていたのは覚えてる。
ある晩、関西方面の出張から戻ってきた時のことだ。部屋に入り、照明に照らし出された光景に、我が目を疑った。部屋がきれいに片付いているのである。
部屋を間違えたのかと思った。しかし、このマンションの各部屋に入るには暗証番号が必要なのである。私は8桁の番号を使用しているので、部屋を間違えるどころか自分の部屋以外に入るということが、まずあり得ない。
オレの部屋はこんなに広かったのか、としばし呆然として見ていたが、次に当然の疑念が湧いてきた。
「誰だ、こんなことしやがったのは」
ふとデスクの上を見てみると、レポート用紙らしい一枚の紙片が載っていた。
『先生、お帰りなさいませ。お掃除をさせていただきました。今のお仕事にお使いになっている資料や書籍は全て机の右側にまとめてあります。冷蔵庫に簡単なお夜食を用意してあります』
なるほど、冷蔵庫には軽食とワインが入っていた。
きれいになってしまった机の前でワインを飲んでいると、昨晩まで泊まっていたホテルから別のホテルに移ってきたような気がする。
実はこのマンションの暗証番号は、万が一のことを考えて、絶対に信頼できる三人の人物にだけ教えてある。
一人は学生時代からの親友で雑誌の編集長。そして、私が役員になっている会社の女性経営者。三人目は劇団の幹部俳優。
いずれも人の信頼を裏切るような人物ではないのだが、その三人のうちの一人の仕業としか考えられない。それに、例の雑談をしたとき、三人ともその場にいたはずだ。
いかに善意とは言え・・・。
翌日の午前中、早速仕事に取りかかった。なるほど、メモにあったとおり、必要なものは整理されてあった。今まで、どんなに乱雑に見えても自分にとっては秩序だっているのだ、と豪語してきたものの、さすがにこの方が仕事がはかどったのが、少々悔しい。
それでつい夢中になって、気づくと午後の会合に出かけなければならない時刻になっていた。急いでパジャマを脱ぎ捨て、ワードローブを開けてみると、スーツもネクタイもきちんと整理されていた。クリーニング店からワイシャツを取ってくるのを忘れて大慌てする、という醜態も演じないで済んだ。
その夜も遅くなって帰ってきた。まだ馴染まない、きれいな室内。今朝、脱ぎ捨てたパジャマはすでに床の上にはなかった。机の上には、昨日と同じレポート用紙のメモ。
『お帰りなさいません、先生。お出かけになった直後にお邪魔しました。昨晩先生が出張からお持ち帰りになられた洗濯物は片付けておきました。近々、また出張がおありかと思い、必要な着替え等は茶色のカバンの中に用意しておきました。
カウチで睡眠を取らせていただきました。キッチンの小テーブルの上で勉強させていただきました。もうすぐお帰りのことかと思い、これで失礼させていただきます』
私は思わず、窓の外を覗いてみた。今しがた、ここを出ていった若者が夜の中を彷徨っているのだろうか。
大学で教えている若い人たちの顔が思い浮かぶ。その若者であろうが、他の若者であろうが、その日寝泊まりする場所に苦労しているような者があれば、雨露しのぐ場所を提供してやることは、いいことなのではないだろうか。
もちろん、犯罪として警察に届けるという手もある。部屋の暗証番号を変更するという手もある。
一方で考えて見れば、私の預金通帳やらマンションの権利書やら、重要なものは全て銀行の貸金庫に入れてある。カードやパソコンはいつも持ち歩いている。このメモの主が悪心を起こしたとしても、大した被害が出るとも思えない。せいぜい、書物を古本屋に売り払うくらいのことではないか。
それに、このメモを見る限り、どうも悪いやつとも思えないのだ。翌日出かける時、
『掃除や洗濯、ありがとう。室内で休息や勉強をするのもよかろう。ところで、君は誰かね。それだけ教えて欲しい』
とメモを残した。
誰という問いへの返事はなかった。相変わらず家事についての報告が淡々とあるだけだった。男の字とも女の字ともつかない。男にしては細いような気がするし、女にしては強いような気がする。
そのうち、私の方から、『○○方へ××を郵送しておくように』とか『出張先から、木曜午前中に着くように宅配便を出すから受け取るように』などと依頼をするようになった。
ある買い物を頼んだときは、机の上に品物とレシートと釣り銭が律儀に並んでいた。私は、メモ用紙に『これは交通費だから、必ず受け取ること』と書いて千円札をクリップで留めて置いて出かけた。戻ってみると、メモには『ありがとうございます』とあって、千円札は消えていた。
ある日。
一計を案じた。毎週火曜の午前中に某大学で講義があることは、おそらくメモの主もわかっているだろう。
私は直前になって大学へ電話した。40度の熱があるので休講にしたい、と。
そして家に閉じこもった。彼あるいは彼女は、それを知らずにやって来るはずだ。
会ってどうしようというのか。非難するのか、はたまた礼を言うのか。だが、そんなことよりも、私は自分自身の計略に夢中になってしまった。わざわざワードローブに隠れた。自分の家なのだから、堂々と待っていてもよさそうなものだが、なぜ、そんなことをしたのかわからない。
そして、そのまま半日、ワードローブに籠もりきりになった。彼もしくは彼女はやって来なかったのだった。忙しい自分の半日がまったく無為に終わったのが忌々しかった。
どうやって彼もしくは彼女は私が出かけないのを知ったのだろうか。マンションの玄関から私が出ていくのを見張っていたという事も考えられる。となれば、彼もしくは彼女にしても、半日を無駄に潰したことになる。それも私の気まぐれで。
お人好しと笑われてもしょうがないのだが、急に済まないような気がしてきた。中高年といわれる年になって、それなりの地位も収入もある私と、住む場所にも苦労しているらしい勤勉な彼もしくは彼女と、真に生きるために時間を乾くが如くに欲しているのはどちらなのだろう。
私はただちに夜までの時間、部屋を明け渡すことにした。
「さて、カフェにでも行って書き物でもしてくることにしよう。その後食事をして、一杯飲んでくるから、帰りは遅くなるかな。」
意味があるのか亡いのかわからないが、私は大きな声で誰かに言い聞かせるように言った。
そして、カフェを二軒回って原稿を書き、食事をし、馴染みの酒場で亭主を相手に埒もない話をして部屋に戻った。
机の上には、宅配便を一件受け取った旨、淡々と書かれたメモが載っていた。
いつしか、そんなメモを通じた彼もしくは彼女との交わりが、自然なものに感じられてきた。用事以外にも、ちょっとした冗談を書いておくと、反応が返ってきた。時には、読むべき本について相談を受けることもあった。
地方に出張に行くと、土産に菓子を買ってきたりした。
『S地方に行ったので、名物の○○を買ってきました。食べて下さい』
『お土産ありがとうございました。ひとつだけいただきました。残りは冷蔵庫に入れてありますので、先生、召し上がって下さい』
『君のために買ってきたのです。遠慮なく食べて下さい』
『では、遠慮なくいただきます。しばらくの間、冷蔵庫の片隅を使わせていただきます』
何か、透明人間の家族が出来たような気がした。あるいは、小人の同居人だ。夜中になると出てきて、靴屋の爺さんの代わりに靴を作ってくれる童話の中の小人だ。
ある時、やはり地方への出張の帰りに、土産物を小人のために買って帰った。壁に掛けたり、机や箪笥の上に載せたりするのによさそうな飾り物だ。
しかし、翌日、帰ってみると机の上には、土産がそのまま置いてあった。
『ありがとうございます。先生の優しさが身にしみるようなお土産でした。けれども、お気持ちだけいただいておくことにいたします。今のところ、宿無しの私にはこれを飾っておける自分の机も壁もないからです』
小人の姿が。森の中の木陰で雨をしのいでいる小動物に変わった。
『考えが足りませんでした。君にみじめな思いをさせただろうか』
『かえって先生を傷つけてしまったような気がします。それでは、とても可愛いお土産なのでいただきます。このお机の片隅をしばらくの間、置き場所として使わせて下さい。いつか私自身のテーブルを持てるようになるまで』
そして、ある日。
『先生、今日までありがとうございました。おかげで勉強を修了し、職を得ることが出来ました。小さな部屋を借りることも出来ました。もう、お邪魔することはありません。本当は、去る前に、姿を見せて御礼を申し上げるべきかと思いましたが、ある方にご相談したところ、このままお会いせずに去った方がよいとのお言葉でした。(この方は、先生もよくご存じの方です。すべては、この方が企んだことです。この方がおっしゃるには、今度のことは「一石二鳥のやり方」なのだそうです)
就職も、この方にお世話になったものなので、いつか先生にお目に掛かる機会があるかもしれませんが、黙っていようと思います。ですが、このご恩はけっして忘れません。必ず恩返しをさせていただくことを私の人生の目標にしようと思っています。蔭ながら、ご活躍を見守らせております。幸せな宿無しより』
こうして彼もしくは彼女は、私の前から姿を消した・・・という言い方はおかしい。一度も姿を見ていないからだ。二度と現れなかった、という言い方もおかしい。一度も現れていないからだ。
ともあれ、あのメモが机の上に載っていることは二度となかった。
彼もしくは彼女が言ったように、もしかすると、日々忙しく私の前を通り過ぎる人たちの中に、彼もしくは彼女がいるのかもしれない。知らないうちに言葉を交わしているかもしれない。それは、奇妙で中途半端な感覚だったが、なぜか楽しいものだった。
暗証番号は変更した。例の三人には、変更したと言うことだけを伝えた。揃って「なぜ」とも「新しい番号は」とも訊かなかった。
出張の後に洗濯機に下着を放り込み、ワイシャツをクリーニング店に持っていくのが、ずっしりと面倒くさく感じられた。
そして、帰ってくるたびに乱雑になっていく部屋の様子に、舌打ちせずにいられなかった。
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