社長のショートストーリー『文福磯だぬき』

たぬ吉は忌々しげに呟いた。今日も、海に転げ落ちてしまった。俺も、そろそろ年貢の納め時か。
「文福磯タヌキ」に属するたぬ吉の身体は鉄で出来ていて、羽釜の形をしている。羽釜の両脇から首とシッポが出て、回りに四肢がついている。全体の形は亀に似ていなくもない。
したがって、潮風にも海水にも弱い。若い頃はそうでもなかったが、だんだん身体に錆が回ってくるのを感じている。
日本に生息するタヌキは、通常我々がタヌキと呼んでいる種と、胴体が鉄製であるのが特徴の文福タヌキの2種に別れる。文福タヌキの存在が人間によって認識されたのは比較的新しく、14世紀の終わり頃、群馬県館林市の茂林寺の住職によるとされている。
文福タヌキは、また様々な亜種に別れる。形態別には、茂林寺で発見されたのは文福茶釜タヌキであったが、その他、鍋タヌキ、釜タヌキ、茶瓶タヌキ、片手鍋タヌキなどである。いずれも背中に出来た空洞で湯を沸かせるのが特徴である。
また、生息場所によっても亜種がある。山野に棲むもの、平地に棲むもの、様々であるが、中に海岸に生息域(ニッチ)を見いだしたのが、文福磯だぬきである。。海岸の岩場に巣を作り、貝類や海草、小魚を食物とする。甚だ厳しい環境ではあるが、外敵による捕食圧を受けにくいという場所ではある。
一般に臆病とされているタヌキだが、文福磯だぬきは取り分け気が弱く、本来火に強く水に弱いはずの彼らが、いわばタヌキ界を追い出されていくように、海岸に生きる場を見いだしたのである。
こういう環境と身体であるから、文福磯だぬきの生涯は忙しい。というより、はかない。
忙しく生まれ、忙しく成長する。大きさも羽釜としては小ぶりである。そして、忙しく子孫を残すと、身体に錆が回ってきて、赤茶けた骸を海岸に晒し、波か風に掻き消されてしまうのである。
たぬ吉は、じっと沖を見つめていた。この湾の入り口である。その狭い海峡に、煙を上げているでかいクジラみたいなのがいる。
見た事のない生き物である。四匹いるようだが、煙を上げているのは、うち三匹である。
「文福タヌキの仲間ではないか」
たぬ吉は直感した。煙を上げ、白い湯気を出しているからには、中で湯を沸かしているに違いない。
文福タヌキの中で海に進出したものはいないはずだった。たぬ吉の一族の間に伝わっている叙事詩『移民の歌』では、苦難の旅の果て海に生きる決断をした磯だぬきの先祖を讃えているが、それはあくまで海岸線にまで進出したことを指しているのであって、海上に悠々と浮かぶということを意味しているのではない。
「あいつらの秘密は何だろう」
彼らが平然と海に浮かんでいられる理由がわかれば、そしてそれを磯だぬきの生活に利用することが出来れば、錆と戦っては虚しく死んでいくという我々の苦難の歴史に終止符を打つことが出来るかもしれない。
たぬ吉は、命がけで泳ぎだした。あの四匹が遊弋する浦賀水道に向けて。
確かに命がけだった。羽釜の形なので、浮力には事欠かないはずだが、波が荒ければひっくり返ってしまう。磯だぬきにとって、もっとも恐るべき事態である。
だが、遠浅の海は凪いでおり、引き潮は彼を、あの四匹のところへ都合良く運んでくれるかのようであった。
「おーい、おーい」
たぬ吉は必死で声を上げた。彼らの巨大な身体に当たる波が、意外に強くたぬ吉を揺さぶっていた。このままでは転覆である。
すると、真っ黒い身体の端の方がにゅるりと動いた。つづいて巨大なワカメのような目蓋が開き、その後ろから青い目玉が現れた。
「助けてくれ。このままじゃ、溺れ死んでしまう」
鼻っ柱のようなところから、何か降りてきた。たぬ吉にはわからなかったが、それは鎖に吊された碇だった。
「これにおつかまりなさい」
たぬ吉は、なんとか碇によじ登ると、その上に腰掛けた。
「大丈夫?震えているわよ」
「ありがとう、助かった。おいらたぬ吉っていうんだ
「私の名前はサスケハナ。アメリカのノーフォークってところからやってきたの。マシュー・ペリーって人間のおっさんを乗っけてね」
「升?ぺろり?おっさん?なんだい、そりゃ」
「なんでも、この国、あなたが住んでいる国に開国を迫るとか言ってるみたい」
「なんのことか、俺にはさっぱりわからねえ」
「なんであんな、危ない事したの」
「見てたのかい?」
「そう、あなたが陸から私たちの方をじっと見ているときから気づいていたわ。いつでも、陸に近づくときは、人間達から注目されるけど、あなたのような小さな動物に見つめられるのは初めてよ。可愛いと思ったけど、なんで、そんな必死な顔で見ているのかは、わからなかった」
「俺は、文福磯タヌキなんだ
「イソダヌキ?
「おいらの仲間は身体の中で湯を沸かせるんだが、どうも、その辺のところが、お前さんと似ているんじゃないかと思って会いに来たんだ」
「仲間だと思った、それだけ?それだけで、あんな危ないことを?」
サスケハナを改めて見ると、クジラのようでもあるが、奇妙な巨大な輪っかが同体の真ん中に着いている。手足はないらしい。その輪っかで水を搔いて進むのか。そうしてみると、陸上で移動する手段を持っていないように見える。
「お前さんは、陸には登らないのかい」
「そうね、時たま、身体の手入れをしてもらうために、ドックに入るわ。でも、だいたい海に浮かんでいるわね」
「するてえと、お前さんはタヌキじゃないのかな」
「タヌキ?よくわからないけど、人間達は私のことをShipって呼ぶわ。Sheを使って呼んだりする
「そう言えば、上の方で人間の声が聞こえるな。それも、大勢いる」
「そう、私たちShipは人間や、その荷物を載せて海の上を運ぶために作られたのよ」
たぬ吉は失望した。あれほどの危険を冒して、磯だぬきの仲間だと思えばこそ海を渡って会いに来たのに。
今来た凪いだ海面が霞んできた。思わず涙がこぼれた。すると、あとからあとから止まらなくなって、鎖にすがって男泣きに泣いた。
「あら、どうしたの?泣くのはおやめなさい。何か、わけがありそうね」
たぬ吉は、磯だぬきの苛酷な生活、また、先祖が亜種としての地位を確立するまでの苦難の歴史を語った。
「俺は、お前さんを磯だぬきの仲間だと思ったんだ。海にずっと浮かんで波しぶきを受け続けても錆びない磯だぬき。鉄張りの身体のお前さんが、なぜ平気でいられるのか、その秘密を教えてもらえれば、俺たち海岸に棲む磯だぬきの苦しみが終わると思ったのさ」
「そう・・・あなた達の生き方がかかっていた・・・
サスケハナは目を細めた。
「あなたが、海岸から海の上に飛び降りるのを見て、なんて無謀なことをするんだろうと思った。だけど、必死に泳ぎ始めたのを見て、小さいのに、なんて勇気があるんだろうと思った。なんどもひっくり返りそうになるたびに、ハラハラしたわ。私を操縦する人間が気づいて、助けに行ってあげればいいのにとも思った。なんとか、あなたが私にたどり着いて、抱き上げたとき、ほっとした。長い航海の果てに、初めてやったことがそれ。私、正直言うとちょっと感動してたのよ
サスケハナは、陸の方、つまり三浦半島の海岸線を見渡した。そして、視線をぐるりと転じて湾の奥の方、すなわちエドと呼ばれるこの国の首都があるらしいあたりも見やった。
「私ねえ、実は鉄で出来ているんじゃないの。もちろん、湯を沸かすためのお釜や、その動力を伝える部分は鉄製だけどね。外側は木造なのよ」
「木?じゃあ、俺たちの国の人間が操っている船と同じじゃないか。なんで、そんなに黒いんだ。そして腐らないんだ?」
「そう、あなた方へのアドバイスになるといいんだけど、ピッチというねばねばしたものを塗っているのよ」
「ピッチ?」
「石油や木から作るらしいんだけど。ある種の木をお釜に入れて蒸し焼きにするの。そう、もしかすると、あなたの身体に向いているかもしれない
サスケハナは知っている限りの知識を伝えた。たぬ吉は、賢そうな丸い目をして訊いていたが、次第にその目に熱が籠もってきた。
「ありがとうよ、サスケハナ。俺、早速戻って、試してみるよ」
「どうやって戻るの」
「もちろん、泳いでさ。さっきと同じだ」
「おやめなさい。あなたは疲れているわ。とても、泳ぎ着けやしないわ。しばらく待ちなさい。やがて、こちらの方からボートを下ろして上陸を試みるか、陸の方からあなた達の国の人がやってくるか、そのどちらかになると思うの。その時、ボートに紛れ込んで戻るほうがいいわ」
「俺、腹ぺこになっちまう」
「私の身体には海草や貝がこびりつくし、サカナも飛び込んでくるかも知れないから、それを食べて過ごすのよ」
その後、ことはサスケハナの忠告通り進み、たぬ吉は礼を言うのもそこそこに陸への帰路についた。
もちろん、ただちに海岸に隣接した林に入り、木を採集すると、それを背中に放り込み蓋をした。そして、とある農家に忍び込み、素知らぬ顔をしてかまどの上に乗った。
その後、農家の人びととの多少の、いや、大変なすったもんだはあったものの、たぬ吉は文福磯タヌキ界で初めてピッチの精製に成功したのである。
磯だぬきの錆との戦いの苦難の歴史に終止符が打たれた。嘉永六年六月三日、西暦でいうところの一八五二年七月八日である。
人間にはミシシッピ号、サラトガ号、プリマス号と共に「黒船」と呼ばれて恐れられた蒸気外輪フリゲート艦サスケハナは、磯だぬき界ではピッチをもたらした恩人、いや恩船として長く語り伝えられることになった。
翌年、寒風吹きすさぶ三浦半島の海岸で、たぬ吉は浦賀水道の方を凝視していた。
昨年、サスケハナは10日に満たない日々をエド湾で過ごして、浦賀水道の彼方に姿を消した。それを見送るたぬ吉の目には、サスケハナが「また来る」と言っているように思えてならなかった。
翌日から、たぬ吉は岩山に登り、じっと浦賀水道の彼方を見つめる日々が始まった。磯だぬきを救ってくれたサスケハナへの礼をまだ述べ尽くしていないような気がしていたのである。
いや、礼だけではない。自分の思いを、もっともっと伝えたい。それを受け止めてくれるのは彼女だけのように思えた。そして、彼女が見てきた自分の知らない世界のことを話してもらいたい。
八ヶ月のあいだ、来る日も来る日も、雨の日も嵐の日も、風が綿雪をちぎってぶっつけてくる日も、たぬ吉は待った。磯だぬき仲間では、彼が気が触れたのではないかという噂が立った。
そして、ついに嘉永七年一月一六日、西暦一八五四年二月一三日にサスケハナは、その懐かしい姿を現した。サスケハナの同僚は六匹に増えていた。(その後、さらに三匹加わることになる)
もう、たぬ吉は海に飛び込むようなことはしない。
いや、実は、ピッチを身体に塗って海に強くなった自分を、サスケハナに見てもらいたいような気が少しばかりしたのだが、また彼女に心配をかけるのは気が引けた。それに、人間共のボートに密航するのはお手の物になっていた。
サスケハナは前回より遙かに長く、数ヶ月エド湾にいた。その間、たぬ吉は機会を捉えては、彼女に会いにいった。そこで、何を話したのか。サスケハナが湾を離れたとき、たぬ吉の姿は、もはや三浦半島にはなかった。
その後、サスケハナは箱館に寄り、下田に寄港し、琉球へと向かい、やがて永久にこの国から姿を消した。海鳥の群れが、その甲板上をたぬきがちょろちょろと駆け抜けるのを目撃した。
たぬ吉は、磯だぬき界にピッチを紹介した偉人、いや偉狸として名を留めたが、初めて海外渡航をした磯だぬきでもあったはずである。だが、そちらの方は「文福磯だぬき年代記」には記載がない。
アジアを離れたサスケハナは地中海での任務に就き、さらには南北戦争のアメリカで北軍艦として働き、南米大陸へも赴いた。そして、一八六八年に退役した。日本では明治維新の年にあたる。
たぬ吉が、どうなったのか、わからない。人間の栄光と愚劣をしっかりとその丸い目に収め、上記のいずれかの場所でサスケハナに看取られて生涯を終えたのだろうか。
サスケハナは一八八三年に売却されスクラップにされたそうである。
参考文献:Wikipediaの各項目、および「文福磯だぬき年代記」(磯だぬき刊行会)
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