社長のショートストーリー『走れカメロス』

確かにウサギは、後足が大きく生まれついている。身も軽い。それ故、風のように駆けることが出来る。だが、親にもらったその身体を誇って、
「もしもし、カメよ、カメさんよ。世界のうちでお前ほど、歩みののろいものはない。どうしてそんなに遅いのか」
などと、満座の中で、人を辱めていいものか。
自分は勇者である。いかに強きものの前からも逃げたことのない漢である。もっとも、逃げるにも逃げられない足の遅さだから、などというものもいるが、そんなことは問題ではない。カメロスは高らかに答えた。
「なんとおっしゃるウサギさん、それなら私と駆け比べ。向こうのお山の麓まで、どちらが先に駆け着くか」 カメロスがウサギに競走を挑んだという噂は、たちまちシラクスの市民に広まった。そして、彼らはカメロスを嘲笑した。
「これは面白い話だ。勝負という点では、ギリシャで一番の走者、ウサギが勝つに決している。しかし、挑戦者のカメロスが、自分を勇者の如く思っているらしいのが滑稽ではないか。『勇者は侮辱されて黙っているわけにいかぬ』とのたまったらしい。難が訪れるや、手も足も首も甲羅のうちに引っ込めて嵐の去るのを待っているばかりのカメのどこが勇者なのだ」
だが、こういうシラクスの市民に対し、敢然と反論したのがカメロスの親友、セリヌンティウスであった。
「諸君は勇者というものを、どうお考えか。車輪の前で斧を振り上げるカマキリのように、やたらと自分の勇を誇りたがる連中のことか。あるいは小事を大事であるかのように騒ぎ回って、自分の見せ場を作りたがるやつのことか。ウサギなどは、こんな連中の一人ではないか。
東洋の漢信という武将は、若い頃、町のチンピラに絡まれて、あえてチンピラの言いなりに、その股ぐらをくぐり平然としていた。そんな小事の向こうに大事が待っているからだ。大きな志を持っているからだ。
また東洋では臥竜という言葉がある。龍は、いつか天に飛び上がる時を待って、水の底にじっと潜んでいるのだ。
私はカメロスは、そんな男だと思っている。甲羅の中の彼は、いわば淵に潜んだ龍だ。
だが、今回、彼はウサギの嘲笑の中に、彼一個人のみならずカメ全体への侮辱を読み取ったのだ。さらには、弱き者、貧しき者、虐げられた者一般への侮辱を感じたのだ。彼一人の問題ではないのだ。
カメロスは、びっくりした。いつの間にか、自分が世界を背負ってウサギと戦う者のようになってしまっている。
「セリヌンティウス、私は君が言うほどの男ではない」
「そんなことはない。私は君以上に君のことをよく知っている」
もはや絶対後には引けぬことをカメロスは悟った。
この話が、暴君ディオニス王の耳に入った。彼は人間への不信にさいなまれていた。いや、人間だけではなく、ほ乳類やは虫類への不信にもさいなまれていた。たぶん、両生類や昆虫類や魚類や腔腸動物への不信にもさいなまれていたであろう。
彼は、それゆえ孤独であった。彼は、人間やほ乳類やは虫類の下劣さを証明するようなことを探し出して、彼らを処刑する血の喜びによって、その孤独を満たそうとしていた。
「その競走、わしの主催としよう」
そして、王は三人、すなわちウサギとカメとセリヌンティウスを召し出した。王は、この中に必ずや卑怯者が交じっているに違いないと信じていた。それゆえ、この三人の中から、次の血の犠牲が現れると思っていた。
「ウサギよ、汝はギリシャで一番の走者じゃそうな。それが、何故、カメなどと競走をするのかな」
「その者が、あまりにもおのれを知らぬ増上慢でありまするゆえ」
「さようか。汝が負けることは、よもやあるまいと思うが」
「けっして、ございませぬ。それどころか、それがしは自らに大きなハンデを負わせることにしております。 その日に故郷で妹の結婚式があることになっておりますが、それに寄ってから、ゴールに向かっても勝つでありましょう。なに、わざとその日にするように、妹と許嫁に申しつけたのでございます。 万が一、負けるようなことがありますれば、死罪をお申しつけていただきとう存じます」
「ふむ、汝は勇者であるな」
次に王の前に進んだのはカメロスであった。王は言った。
「どうじゃ、カメロス。ウサギは負ければ命を差し出す、と言っておる。誠に殊勝なことであるのう」
「王様、わたくしも命を差し出しまする」
「意地を張るではない。汝が苦手な競走で命をかけることはないではないか。今なら、この勝負、やめにしてもよいぞ。そのかわり、お前の甲羅には一生、『私は勝負から逃げた、ドジで間抜けなカメなんです』と書いておくことにしよう」
「王様、しかし、そのようにはならぬでしょう」
一瞬、王が鼻白んだように見えた。が、それを一層皮肉そうな嘲笑の微笑みが覆い隠した。
「ふん。負けるとわかったら、途中で何処かへ逃げるつもりであろう。よいぞ。逃げよ。どこへでも。だが、我が国の民は、末永くカメロスは卑怯者であったと言い伝えるであろうな」
そこへ進み出たのは、セリヌンティウスであった。
「王よ、私には勝利の栄光と共にシラクスの丘の元にやってくるカメロスの姿が見えるようでございます。カメロス、負けはいたしませぬ。ウサギ殿は、確かにギリシャ一番の走者なれど、今その心はうぬぼれに充ち満ちております。それが落とし穴でござりまする。かならずカメロスが勝ちましょう」
「ふむ、では、カメロスが負けて、しかもどこかへ逐電したとすれば?」
「私の命を取って下さいませ」
ウサギとカメロスは走り始めた。ゴールのシラクスの丘の麓は、遙か彼方である。そして、ウサギはあっという間にカメロスの視界から消えた。あとには、 赤い大地と、その上に点々と続いているウサギの足跡が残された。
カメロスは王に命を捧げるつもりはなかった。ただ、少数の人たちに捧げるつもりであった。多くの市民がカメロスへの嘲笑を隠さなかったのに、ある人びとは、「あなたに共感する」とこっそり伝えてくれた。そう思う理由はそれぞれ違ったが、カメロスはその人達に誇りを感じた。そして、多数の市民に軽蔑を覚えた。なにはともあれ、最後まで走ろうと思った。
色々なことが起こった。
ある時は、鷲に捕まえられて、大空高く運び上げられた。鷲は、カメロスの甲羅を何とか割って中味を食べようと思っていた。下に、ぴかりと光るものがあったので、あれなら固そうだと思って、その上にカメロスを落っことしたが、これがアイスキュロスという劇作家のはげ頭だったので、さすがにはげ頭はカメの甲羅に敵せず死んでしまい、カメロスは一命を取り留めた。
ある時は、村の子供に取り囲まれいじめられそうになった。だが、ウラシマと名乗る男が現れ助けてくれた。しかし、その男は『竜宮城に連れて行け』という変な要求を持ち出し、カメロスを海辺に連れて行き、無理矢理、その小さな背中に乗って海に入っていこうとした。
カメロスは、溺れそうになったがようよう岸に戻り着いて、元のコースへと急いだ。ウラシマが、その後どうなったかは、定かではない。
カメロスはさすがに疲労した。がくりと膝を折った。自分を叱ってみるのだが、全身萎えて、もはや芋虫ほども前進かなわぬ。セリヌンティウスよ、ゆるしてくれ。私は走ったのだ。君を欺くつもりは微塵もなかった。けれども、私はこの大事な時に精も根も尽き果てたのだ・・・。
ふと耳元に水の流れる音が聞こえた。岩の間から清水が流れ出しているのである。ひとくち飲んだ。ほうと長いため息が出て、夢から覚めたような気がした。
ともかくカメロスは、コースへ戻ると必死でシラクスへの道を急いだ。途中、ウサギの足跡が見えなくなったことに気づいたが、それを詮索している場合ではなかった。
ウサギは、故郷の村に立ち寄って、妹の婚礼に出席していた。このような寄り道をしてでもカメロスには勝てる、とディオニス王の前で大見得を切ったことを実行していたのである。
純朴な村人はウサギを大歓迎してくれた。王と謁見したことがある大人物だと言うことに感激してしまったのである。こいつらは、俺の手下として使える、と思った。
妹の夫は、賢そうなやつだった。これも使える、とウサギは思った。
そもそも、彼がカメロスとの競走に応じたのは、王に近づく機会を捉え、上昇するためだったのである。
「ありがとう、皆さん。妹夫婦を、よろしくお願いします。それから、私が今やっている競走、いや、勝つに決まっている競走なんだが、これに勝って帰ってきた時、私はディオニス陛下の最も信頼する臣下となっているでしょう。いやいや驚くことではない。これは、皆さんにとっても、よい結果をもたらすでしょう。我らが村の繁栄と、皆さんの富貴を祈って、いや、祈るまでもなく、確定的なことなんだが、ともかく乾杯をしましょう」
シラクスへ着いて、みじめに歩み着くカメロスを見届けたら、いや、カメロスが逃亡して、がっかりするセリヌンティウスを見届けたら、ウサギは王に彼らの命乞いをしてやるつもりだった。
栄光の頂点にいる者の言うことを聞かないという事はあるまい。そうして、今の無慈悲で暴虐な王に比べて、寛大にして慈悲あふれるウサギという構図が国の隅々まで行き渡るのだ。
すでにディオニス王の暴政に疲れている民たち。そこへ、正義のウサギが兵を率いて革命の戦いを起こしたとすれば、何となる。そう、この村は、最初の挙兵の出発点となるのだ。
ゆっくり休み、御馳走を腹いっぱいに詰め込み、人びとの別れを惜しむ声を背に、ウサギは再び、カメとの競走の道に戻った。
・・・・・・という夢を、途次、居眠り中に見ていたそうな。
傾く陽は、すでにシラクスの大地を赤々と照らしていた。ウサギはすでに、ゴールしているのかもしれない。だが、自分は行かねばならない。親友の信頼に応え、彼の命を救い、自分の卑怯者でないことを証明するために、死を覚悟の上で行かねばならないのだ。
ウサギとカメの勝負を見届けようと、大勢の人が王宮前の広場に押しかけていた。
「カメロスは一向に現れぬ。やはり命惜しさに逃げたのに違いない」
「聞けば、もうすぐ罪人の処刑が行われるそうな」
「セリヌンティウスとかいう、カメの身替わりになって殺されるバカな男だとか」
カメロスは人びとをかき分けかき分け、といえば聞こえがいいが、小さいので人びとの足下をちょろちょろとすり抜けつつ進んだ。
わたしを待っている人がある。わたしは信頼されている。わたしを信頼する人のために、わたしは進むのだ。走れカメロス!
「今頃は、あの男も磔に掛かっているよ」
ああ、その男のために急がなければならない。急げ、カメロス!遅れてはならぬ!最後の力を振り絞ってカメロスは走った。もう、頭の中は空っぽだ。
「待て、その人を死なせてはならぬ!殺されるのは私だ。彼を人質にした私はここにいる!」
セリヌンティウスの縄はほどかれたのである。
「セリヌンティウス、私の頬を殴れ。私は一度、君を裏切ろうとした」
「カメロス、それでは私の頬も殴れ。私は一度、君が来るのを疑った」
暴君ディオニスは、二人をまじまじと見つめていたが、やがて二人に近づき、顔を赤らめてこう言った。
「お前らの望みは叶った。また、ウサギも許そう。わしの負けだ。お前達は、わしの心に勝ったのだ。信実とは、虚妄ではなかった」
どっと群衆の間に、歓呼の声が上がった。
「王様、王様万歳」
一人の少女が、カメロスに洗面器をかぶせた。カメロスはまごついた。佳き友は、気を利かせて教えてやった。
「まっぱだかじゃないか。必死で急ぐうちに、甲羅が脱げてしまったのだ。この娘さんは、カメロスの裸体をみんなに見られるのがたまらなく口惜しいのだ」
勇者は、(洗面器の下で)ひどく赤面した。
*参考(つーかパクリ元)文献 太宰治『走れメロス』新潮文庫
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