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2016年09月

弟子を葬る

社長1 夏目漱石:作家。1867(慶応3)―1916(大正5) 
 芥川龍之介:作家。1892(明治25)―1927(昭和2)自殺 
 内田百閒:作家。1889(明治22)―1971(昭和46) 

 芥川龍之介の死体がいやにびろびろと伸びて、護謨で出来ているようで、持ち扱うのに苦労した。油断すると、腕の間からすり抜けて落ちてしまいそうな気がする。 
「しっかりと持ってやれ」
  前を歩いていた夏目先生が振り返って言われた。私は恐縮して、力を入れて芥川を抱えようとする。だが、そうするほど、鱗のない大きな魚を抱えているようで、とりとめがなくなるようだった。
 どこかで犬がびょうびょうと鳴いていた。
 黄昏時かかわたれ時か、本当はあたりがほんのりと明るい筈なのに、汚い紙をちぎって切り取ったような雲が空に貼り付けられてしまって、その隙間から漏れてくる光のせいで、薄暗かった。 
 漱石先生は普通の着物に羽織を引っかけて、書斎から其の儘出て来られたような格好をしている。腕組みをして、時々、こちらを振り返られるのだが、暗いのでどんな表情なのか、よく見えない。薄暗がりの中で、先生の小柄な立ち姿がうごうごしている。 
 道はどこまで続くのだか、わからない。まわりに家があるようにも思われない。私は遅れないように付いていこうとするのだが、芥川を抱えているので、中々、埒が明かない。 
 彼は、ただでさえ長身なのに、死んで妙に海蛇のようにのめのめと伸びたようで、たしか田端の彼の自宅で会う時に来ているような紺の無地の着流しなのに、変にぬめって、すぐに足下にわだかまってしまいそうになる。 
 こんな芥川は生前は見たことがない、と思っていると、時々目を開けそうになる。 
 目を開けては困る。こんなになってからの芥川の目を見たくないと思った。 生前の冗談や諧謔を飛ばす時のような生き生きとした目だったらいいが、今、目を開けたら、なんだか嫌らしいような気がした。 
「おい、内田。重いかい」 
 先生が声をかけてくだすった。私の不器用なのに呆れたのかもしれない。私は、ますます恐縮するばかりで、ますます、うまく力が入らなくなった。  
 私は、漱石山房で、机に向かって座っておられる先生の前で、ただ一人、かしこまっていた。昼までよく晴れていたのに、急に暗くなってしまった。 木曜会なら、周囲に小宮豊隆氏や鈴木三重吉氏ら、諸先輩がいて、私は隅の方で縮こまっているのだが、その日は一人だった。
  一人で来たことは、何度もある。先生の御本の校正を引き受けていたし、生活がどうしようもなくなって、借金の相談に来たことも一度や二度ではない。 先生の前に出るたびに、気ぶっせいな思いをして、言葉がうまく出てきたためしがない。今日は、また、いったい何の用でかしこまっているのだろうと、なんだか不思議な気がした。 
「内田」 
 と先生が口を開いた。 
「死んだ芥川のことだが」 
 そこまで言って、あと言い淀んでおられるようだった。いつもはっきりと物をおっしゃり、へんな思わせぶりを嫌う先生にしては珍しいと思っていると、 
「君は確か、彼が亡くなる直前に会っていたんだったな」
 昭和二年七月二四日、芥川龍之介が死ぬ二日程前、確かに私は芥川の家を訪ねて、二階の書斎で対面していた。後から考えると、彼は睡眠薬が相当効いていたのだと思うが、口元が定まらないようで、その癖、しゃべり始めるとべらべらととりとめもないことを、よく喋った。 
 どうしようもない貧乏の底にいる私は、帰りの電車賃もなく、その小銭さえ彼に借りる始末だった。芥川はいったん引っ込むと、両の掌の上に硬貨を山のように盛り上げて持ってきて、掌ごと私の前に突き出した。 
「欲しいだけ持っていきたまえ」 
 一枚二枚の硬貨だと、指が震えてうまく摘まめないので、そうやって持ってきたのだと言った。 硬貨をつまんで拝借した、その時さえ、私は目の前の彼が二日後に死んでしまうのだとは思っていなかった。 
「芥川のことは、ちゃんとやっているのかね」 
 と夏目先生が尋ねられた。ちゃんとしているというのが、どういうことかは咄嗟には、わからなかった。 毎年、芥川の命日には「河童忌」として、縁のあった人びとが集い、真夏の暑い盛りに、ぱたぱたと扇子で懐に風を送りながら、酒を飲むことになっている。 
 ふと、そういえば、河童忌の席上で一度も、漱石先生の姿をお見かけしたことがないと思った。 
 なぜ、ご出席にならないのだろう。弟子の、そういう席に出るのは、師匠として苦しいものがあるのか、と想像した。 
 そのわけを尋ねようとしたら、急に目がぱちぱちと痛んで、まともに先生を見ることができなくなった。頭の中に釣り針のようなものが降りてきて、何処かに引っかかっているような痛みを感じ、漱石山房の室内が灯籠流しの水面のようにきらきら光りながら流れていくような気がした。
 漱石先生は、大正五年に亡くなっている。青山葬儀場で行われた葬儀には、芥川も私も勿論参列した。芥川は、まだその春に帝大を卒業したばかりだったと思う。 
 亡くなっている先生が、芥川の河童忌にご出席になれないのは当然である。  
 先生は暗い中を歩き続けていた。 
 うねうねと動き回るようだった、腕の中の芥川は静かになっていた。 
 急に、私の前を、腕組みをしながらいつまでも歩き続けているこの人は、いったい誰なんだろう、ということが不思議に思われてきた 
「俺は夏目金之助だよ」 
 先生の顔のあたりだけ光が差して、鼻の脇に皺を寄せて、にやりと笑うのが見えた。自分の考えていることを見透かされて、私はひやりとした。 
「俺が、お前の腹の中くらい俺にわからないと思うかい」 
 先生の御作の『夢十夜』の第三夜の中では、「自分」の背負っている目盲の無気味な青坊主が、これから起こることや「自分」の思っていることを皆言い当ててしまう。あの子供は実は先生自身であったのか、と思った。 
 なんだか、先生がとても遠くにいるような気がした。  
 道は上り坂になっていた。先生は、身軽に前を登っていく。 
 気がつくと、芥川の身体は、だいぶ軽くなっていて、運ぶのが楽になった。 私は芥川自身も、楽になったのではないかという気がした。楽になった分、身体も軽くなったのだと考えた。 
 先生が立ち止まったのは、小高い丘の上のようだった。空一面にかかった雲の裾の方が切れていて、そこから明るい光が細く覗いていた。地上と空の間に、その光がぐるりと一周して続いていた。先生の横顔がよく見えた。 
「ここだ」 
 と、先生はおっしゃった。 
「内田、ここを掘ってくれ」 
 見ると、土の上に、まるで墓標のようにスコップが突っ立っていた。私は、芥川の死体を傍らに置くと、そのスコップを抜いて黒い土を掘り始めた。 
 土はさくさくと掘れていった。どんどん掘れて、どんどん穴が深く大きくなっていくのが面白くて、私は夢中になって掘った。 
 先生は、そばの石に腰掛けて、袂から「朝日」とマッチを取り出し、一本加えると、火をつけて吹かし始めた。薄暗い中に、先生のくわえた煙草が吸うたびに、明るくなり、また、光を落とした。私は、穴を掘る傍ら、そのちらちらする光を眺めていた。 
「内田」 
 と先生は話しかけた。
「はい」
「君も知っての通り、芥川は、僕が『鼻』を強く推したのがきっかけで文壇に押し出した」
「はい」 
 生活がうまくいかなくなる一方で、精神も変になりかけていた私の目からは、その当時の芥川はぴかぴかと光り輝いて見えた。その芥川の世話で海軍機関学校の独逸語を教えることにもなったのだが、私の貧乏は一向によくならなかった。 
 私は、穴を掘りながら、先生が次の言葉をおっしゃるのを待っていた。しかし、先生はなかなか話し出さなかった。穴は、いつの間にか私の身体が丸々入ってしまいそうなほど、大きくなっていた。 
「内田」 
「はい」 
「その穴に芥川を埋めてやれ」 
「はい」 
 私は穴の底に芥川を横たえた後、足下の方から土をかけていった。だんだん、腹から胸へと埋めていき、最後に、目をつむった芥川の端正な顔に土をかける段になると、急に悲しくなって、汗と一緒にぽたぽたと涙が落ちてたまらなくなった。 
「いいだろう」  
 芥川が完全に土の中に埋まってしまうと、先生はその傍らに立って、じっと土の表面を見つめておられた。 
「内田」 
「はい」 
「自分が文学界に推し出してやった男が、ああやって死んでいくのは師匠として耐えられないのだよ」 
「・・・・・・」 
「だから、せめて葬ってやりたかった」 
 生前、先生とこんな話をしたことがあっただろうか、と不思議な気がした。先生の前に出ると、身体が突っ張ってしまって、妙なことばかり口走っていたような気がする。もしかしたら、先生は私に言い忘れたことがいっぱいあったのではないか、と申し訳ないような気持ちがしてきた。
「内田」 
「はい」 
「お前は案外、死なない男だよ」 
「はあ」 
「確か、僕が死んだ前の晩、お前が家に詰めていたのだったな」 
 先生の亡くなったのは大正五年一二月九日である。先生の病が重くなってからは、弟子達が交代で徹夜で夏目家に詰めていた。亡くなる前の晩が私の当番で、先生の最後の晩を、そうやって過ごしたのである。 
「芥川の時と言い、僕の時と言い、君は妙な運を持っているようだ」 
 そういったきり、先生は黙ってしまった。 
 私はどうしていいかわからず、また、何かを話しかけていいのかもわからず、スコップを足下に立てたまま、ぼさっと佇立していた。 
 頭の上を大きな流れ星が流れ、向こうの森の中に落ちた。森の中が、少し揺れたようだが、すぐ静かになって、それっきり何も起こらなかった。 
「君は先に帰りたまえ。私は、もう少し、ここにいる」 
 私は、先生にお辞儀をすると、シャベルを担いで、もと来た方へ坂道を折り始めた。涙が後から後から流れて止まらなかった。 
 どこかで鷺の鳴くような声が聞こえた。 
 振り返ってみると、先生は芥川を埋めたあたりにしゃがんでおられるようにも思えたが、もう暗がりがひどくなって、よくわからなかった。  

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社長のショートストーリー『松濤の美術館で展覧会を見て』

社長1 松濤の美術館で展覧会を見て、渋谷駅の方へ戻る途中だった。東急百貨店の前まで来ると、 
「ちょ、ちょっと、ちょっと」 と呼び止められた。
 振り返ると、私と同い年くらいの中年男がにこにこしながら近づいてくる。中肉中背、ちょっと猪首で、ノーネクタイに紺色のズボン。手に何も持っていないところを見ると、この近くで仕事をしている人かもしれない。
 「よーお」 と声をかけてきた。親しげ、というより馴れ馴れしい。
 妙に口吻がとがっていて、鼠かモグラモチのような顔である。こちらを下から覗き込むような目つきで、三白眼が目立つ。 
 何か、私とのあいだに悪い秘密でもあるかのように、変な笑いを浮かべて、 
「よ、あれからどうしたのよ」 
 と、肘でこちらを突いてくる。言っていることが不明であり、なにが「あれから」で、なにが「どうした」のか、わからない。 
 私は男の顔をまじまじと見た。知り合いにこんな顔、いただろうか。私は、人の名前と顔を覚えるのが決して得意ではない。 
 人脈の広い人の中には、一度会っただけで、驚くほど沢山の顔と名前を覚えてしまう才能の持ち主がいるものだが、そういう人の記憶力が信じられない。 私など、大して広くもない付き合いの中で、その狭い世間をちゃんと把握しているかどうか自信がないくらいなのだ。 
「あれから」と彼が言うのだから、私は最近、この人に会ったらしい。私は、この一ヶ月ほどの間にあった人を思い浮かべてみた。ついで、検索範囲を三ヶ月半年、一年と広げてみた。が、この人に会った記憶はない。 
 それより以前に会ったのだとすると、この人は、今、私に対してある種の懐かしさを感じているのかもしれない。そうとなると、なおさら頑張って彼のことを思い出してやらなければならないような気がしてくる。 
 だが、そういった私の驚きや苦悩は、彼にとっては関心の外であるらしく、
「いや、こっちも大変でさー」 
 と、勝手に話を続けた。 
 何が、どう、大変だったのだろう。その大変さは、私になんらかの関係とか責任があることなのだろうか。だとすれば、事態を明らかにして、善処する、謝る、言い訳する、逃げる、などの処置が必要になるかもしれない。 
「ど、どう大変だったの?」 
 私が、このひと言の反問に、全神経、全注意力を賭けた。 
 この短い問いに対する答えから、彼の問題とするところを探り、彼と私の関係を推測し、彼が私に対して、親しみを感じているのか、敵意を隠しているのか、これから食事でも奢ってくれようというのか、訴訟に訴えるつもりなのか、ただ愚痴をこぼそうとしているだけなのか、そもそも、この男はいったい誰なのか、等々を探り出さなければならない。 
 さらに、質問の言葉をどう選ぶべきか。 日本語は難しい。敬語もあれば、くだけた言葉もある。話し方によって、彼との関係性が自ずから表れてしまう。例を挙げれば、 
「どのように大変だったのですか」 
「大変って、何だよ」 
「またまた、大げさなんだから。なによ」 
「殿の一大事とあらば、拙者、身命を賭ける覚悟。ささ、お話しくだされ」 
 答え方によっては、相手にヘンな感じを抱かせたり、からかったり、喧嘩を売っているように聞こえるかもしれない。 
 その中で、この場合、もっともあたりさわりのなさそうな言い方を選んだのが、 
「どう大変だったの」 
 で、あった。この選択に賭けた私の神経は、張り詰めたロープのようになっていた。 
「それがさあ、はりはりふれてか、こりけって、くれがぼろぼろ」 
 と、彼は答えた。途中から、妙に早口になり、おまけになんだかふわふわした口調であった。 
 相手の日本語がヒアリングできないという事態に私は慌てた。 
「え?」 
 と、思わず聞き返した。 
「はりはりふれてか、こりけって、くれがぼろぼろ」 
 相手は、多少、ゆっくりと声を高めて繰り返した。その目に、こんなこと、繰り返させるなよ、という色が浮かんでいる。 さて、もう聞き直すわけにはいかない。 
「あ、ああ・・・」
  私は、肯定とも否定とも驚愕とも喜びとも感嘆とも同情とも失望とも安堵とも、いずれにも聞こえ、いずれにも聞こえないような、ため息のような音を漏らした。 
「ノザワなんて、あれだよ、やばかったんだよ」 
 ノザワ。突然、人名が出てきた。 ノザワさんなら知っている。 
 私の先輩に当たる人だ。とても温厚で博識な人で、ずいぶんと世話になったものだ。今は、故郷の山梨に住んでいるが、半年ほど前、用事で松本に行った帰りに会ってきた。家族で歓迎してくれた。去年、孫が生まれて、俺、おじいちゃんになったよ、などと人のよさそうな笑みを浮かべていたのを覚えている。 
 共通の知人がいたと言うことは、やはり、私はこの男と何処かで面識があったのだ。 
「へえ、ノザワさんが?」 
 私は、一縷の望みを見いだしたつもりで、そのノザワさんについて、彼が知っていることを聞き出そうとした。 
「それがよう、ノザワ、やべえんだってば・・・」 
 妙に話をぼかしてみたり、例の早口になったりして、細かい事情はよくわからないのだが、どうもおぼろげに見えてきたのは、あのノザワさんが、犯罪まがいのことをやって私腹を肥やしており、それがとある筋にばれそうになって、慌てて揉み消した、ということのように思えるのである。 
(あの、ノザワさんが・・・) 
 あの、誠実で優しいノザワさん、その包容力に後輩としてずいぶん甘えたものだが、あのノザワさんが、なにやらいかがわしいことに手を汚していたなんて。 
 私の中で、ノザワさん像がガラガラと音を立てて崩壊していった。 
「そんなんで驚いてんじゃねーよ。ワカバヤシなんかよお・・・」 
 ワカバヤシ?また知人の名が出てきた。 まだ若い知り合いだが、元気がよくて行動力があり、一方で困った人を見ると捨てておけないという正義漢でもある。年下ながら、ずいぶんと学ぶことの多い好青年だ。
 「ワカバヤシよう、あいつ、スケベだろ」 
 スケベ?ま、まあ、若いのだから、そういう方面に関心があるのは自然なことだ。それに彼なら、女性から人気があっても当然だと思う。 
 それが、そういう穏やかなスケベとスケベが違うのだという。 
 例によって、この男の話は、ぼかしたりはぐらかしたり、小声になったり早口になったり、意味不明になったりするのだが、断片的なことをつなぎ合わせてみると、なんでも、仲間と共に、薬物を使って女性の意識を失わせ、一室に連れ込んで・・・。 
「ウソだろ?」 
「ウソじゃねえよ。まあ、どう思おうとアンタの勝手だけどよ」 
 脳裏のワカバヤシくんの明るい笑顔に、鋭い亀裂が入った。その奥に人間の底知れぬ悪の暗闇がちらちらと・・・。 
「ま、俺なんか、その辺はうまくやってっからな。へへへ」 
 なにやら自慢しているらしい。その妙に下卑た調子が気にくわない。とはいえ、彼はノザワさんやワカバヤシくんの知り合いで、しかも私には知り得ない彼らの一面を知っているらしいのだ。 
 誰だろう。誰だったっけ。 
 ふと、この顔に思い当たるものが出てきた。そうだ、確かにこんな顔を見たことがある。 
 あれは、たしかタカハシ君の家で会ったのだ。タカハシ君の家の二階でごろごろしていた、親戚の何とかという人がいた。それが、この男に似ているような気がする。 
 でも、タカハシ君って、昔の友だちだったが、あれはいつ頃のことか。 
 六歳の頃だ。何十年も昔のことである。あの人だとしたら、もう相当の老齢になっていなければならない。 
 どうも、違うようだ。 
「で、今日は何よ?」 
「へ?」 
「今日は、こんなところで何してるんだよ」 
「いや、松濤の美術館で○○展を見てきたんだけど」 
 けーっと、彼は怪鳥のような声を上げてせせら笑った。 
「美術館ってタマかよ、笑わせるよ。どうせ、フーゾクでも行ったんだろう。昼間っから、このスケベ」 
 なんだか、もう、この男と話をしているのがイヤになってきた。 
 その時、突然、天啓のごとくに、 
「この男は、私を誰かと人違いをしているのではないか」 
 と、頭の中にひらめいた。 今まで、相手のあまりに自信満々な態度に押され、また自分の自信のなさから、ひたすら、この人が誰だか思い出さなければならない、という考えに捕まえられていたが、なんだ、知らないであれば思い出せないのは当たり前だ。 
 ノザワさんだって、私の知っている人と彼の知っている人物は別人だろう。別に珍しい苗字でもない。第一、ノザワさんが、男の言うような薄汚い小悪党であるわけがない。 
 ワカバヤシくんまで、同姓の知人がいたとは、偶然にも御念のいったことだが、まあ、そういうことだろう。そう考えれば、得心がいく。ワカバヤシくんが、そんな卑劣な性犯罪者であるはずがないのだ。 
 私は、ようやく自信を取り戻した。 
「人違いじゃないですか」 
「へ?」 
「あなた、人違いしているんでしょう。私はあなたなんか知らない」 
 男は、その金壺眼をとんがらして、ついでに鼠のような口もとんがらして、まじまじと私を見つめた。 気がついたか。わかったら、あっちへ行け、無礼者。 
「けーっけっけっけ」 
 再び、怪鳥のような笑い声を立てると、 
「人違いでしょうって、よく言うよ。え?何よ、俺に会うとまずいことでもあるの?なあ、なんだよ、言ってみ。ねえ、白状しちゃいなよ。けーっけっけっけ」 
 始末に負えない。私はもう振り捨てて行ってしまおうかと交差点の方へ顔を向けると、人混みの中に見知った顔が交じっているのに気がついた。 人一倍大きな体躯。灰色のもじゃもじゃの髭、トレードマークの丸い眼鏡。 
 ノザワさんだ。ノザワさん、東京に出てきてたんだ。 
「おーい、ノザワさん」 
 私は思わず、交差点の向かい側に向かって声を上げた。聞こえたのか、ノザワさんは不思議そうにこっちの方を見ている。 
「ノザワさん、こっちこっち」 
 こんどは気がついたらしい。ぱあっと光り輝くような、人なつっこい笑顔。 信号が青に変わったので、こっちへ向かって大股で歩いてくる。こんなごみごみした都会の中で、彼の回りだけ、山巓の清浄な空気が漂っているような気がする。 
「いやー、奇遇だね」 
「東京に来てたんですね」 
「うん、今朝着いたばかりだ」  
 横断歩道の真ん中を過ぎたあたりから、すでに大声で会話が始まっている。
 私は、話しながら、例の男をちらちらと横目で見ていた。このノザワさんこそ、お前が勘違いしている証拠だ。 
「いやー、どうもどうも」 
 渡り終えたノザワさんは、大きな手を前につきだして握手を求めながら、近づいてきた。 
 私も手を差しだし、その包容力の塊のような手が、私の手を包むのを待った。だが、それはなかなかやって来なかった。 
 ノザワさんは、ぎくりとしたように足を止めた。視線の先には例の男がいた。 
「よう、ノザワ」 
 男は皮肉そうな笑いを浮かべて言った。 
「久しぶりだな。なにしてんだ、こんなところで」

社長のショートストーリー 『うたかたの人びと』

社長1  三木というのは無礼な男である。 「Nさん、顔が大きくなりましたね」  人の顔をしけじけと眺めて、そんなことを言う。  三木は高校時代の後輩である。どういうわけか、中年に至るまで、時々会っては酒を飲む仲である。何もこんなやつを相手にしなくても、高校時代の後輩なぞ他にいくらでもいるはずなのであるが、腐れ縁というのか、こいつとの付き合いが続いているのである。  どうも、先輩を先輩と思っていない節がある。 「お前に顔のことを言われたくない」  と私は言い返す。  三木の学生時代のあだ名は「カボチャ」だった。ハロウィンの化け物なんぞになりそうな巨大なカボチャである。彼の頭部、及び顔面がそれを連想させるのである。つまり、でかいのである。  若い時は背が高くて痩せていて、顔ばかり大きいので、遠くから見ると道端に突っ立っている道路標識のように見えた。「止まれ」の標識と勘違いしたトラックが彼の前で止まったという噂があった。  中年になると恰幅がよくなり、腹の突出が人目を惹くようになって、顔面と胴体の比率がいくらか人間並みに近づいたのだが、ジョギングなどと言うことを初めてダイエットに成功してしまい、再び交通標識に戻った。 「だから、ダイエットなんて余計なことをしなければよかったんだ」 「でも、体調がよくなりましたよ。動きも軽くなったし」 「でも、顔が大きくなった」 「顔は変わっていない。身体との比率が・・・あ、そうか」  と三木は何かに気づいて、嬉しそうに笑った。昔から、こいつが嬉しがると碌なことがない。私は身構えた。 「N先輩も同じですよ。顔が大きくなったんじゃない。身体が小さくなったんですよ」 「別に痩せたとも思えないが」 「そうですな。痩せたんじゃないですな。全体に縮んでいるんだ。タテもヨコも短くなっているんですよ 「これ以上小さくなってたまるか」  私は小柄である。子供の頃から、クラスで背の順に並ぶと三番目より後ろに行ったことがない。  最近は背の高い女性が増えているので、全日本人を背の順に並ばせるとすると、私は年々前の方へ移動しつつあると言うことになるだろう。  若い頃は小柄だということをコンプレックスに感じないでもなかったが、結婚してからは、どうということもなくなっている。だいたい、女房は私よりも背が高い。  しかし、こうして三木に顔をまじまじと見て言われると、交通標識に見下されているようで、なんとなく面白くない。  そう思って、三木を見ていると交通標識どころか、風船に見えてきた。以前よりも痩せて、身体が糸のように見える。それに結ばれてへらへら軽薄に笑っているやつの顔は風船そのものだ。 「昨日は、三木くんどうだった?」  朝、洗面台の前で髭を剃っていると、女房が話しかけてきた。 「相変わらずさ」  実は、女房も高校の後輩で、三木とは同学年という事になる。私が三年生の時、彼らは一年だった。だから、彼女にとっては、今でも「三木くん」なのである。  彼女とは高校の頃から付き合っていたというわけではなく、卒業後何年もたってから、ひょんなことから再会し、交際を始めた。その頃は、まだ「N先輩」と呼ばれていたような気がするが、いつの間にか曖昧になってしまった。 「私も行きたかったなあ」  彼女も仕事を持っている。近ごろ、忙しいらしい。 「失礼なやつだよ、人の顔を見て顔がでかくなったって言いやがる」 「ハハハ、大きな顔なら三木くんのトレードマークじゃない」 「そして、じろじろ見てたかと思うと『顔が大きくなったんじゃない、身体が小さくなったんだ』とぬかすんだ」  タオルで顔を拭いているので見えないが、彼女が横に来たのを感じた。にやにや笑っているのが、気配でわかる。だが、その笑いの気配が、すっと消えた。そして、向こうへ行ってしまった。 「あの、怒っちゃ困るんだけど」  朝食のみそ汁を飲みながら、女房が言った。 「あなた、本当に身体が小さくなったんじゃない?」 「年かな。年取ると、背が低くなるって言うよな」 「私たち、もう老夫婦だわ  娘もこの春独立して、このマンションに二人だけで棲んでいる。女房にそんなことを言われると、妙にしみじみしてくる。 「これ以上小さくなるのは、困るな」 「大丈夫よ、小さくなったらバッグに入れて運んであげるわ」 「いくらなんでも、そんなに小さくなってたまるか」  娘が幼稚園の頃、お雛様の絵を描くと、必ずお内裏様よりお雛様を大きく描いた。王子様とお姫様を描いても、お姫様が大きかった。  女房は小学生の頃、遠足に行って、引率の先生と間違えられたことがあるそうだ。 会議室で誰かさんが、長々とした報告書を続けているのを聞き流しながら、並んだ顔を眺めていた。 「みんな、顔が大きくなっている・・・」 どことなく出席者達が、三木の体型に似てきたように思えた。なんだか、顔を描いた風船をそれぞれの椅子に結わいてあるように見える。風もないのに、一斉に右になびいたり左になびいたりする。そのたび、上下にもちらちらと動く。 ひとりずつ、針でつついてみるところを想像する。社長が破裂する、常務が破裂する、工場長が破裂する、管理部長が破裂する。コンサルタントが一際、派手な音を立てて破裂する。 みな破裂したのに、会議は終わらなかった。昼になり、昼食が運ばれてきたら、皆の顔が元のように膨らんだ。 「S亭のうな重だろうね」 「S亭のうな重です」 グルメを自認する社長風船と、秘書(こっちは人間のままだった)が重大事項であるかのように確認しあう。無理もない、社長にとって最も重要な仕事は、この月例会議でS亭のうな重を食うことなのだから。 以前、S亭が臨時休業していて、F軒の松花堂弁当が運ばれてきた時は「S亭じゃないのか・・・」声が震えていた。 「いや、S亭のうな重は、余所のとは違いますな」 と常務が社長に話しかける。 「うん、うな重はS亭に限るよ」  議事録にこそ載らないが、会議における最も重要なやりとりが例月の如くに交わされる。 「このうな重は、大きくなりましたか」 私は、となりの山田次長に聞いてみた。 「いや、同じですよ・・・それより」 と、次長は風船にかけていた眼鏡を外して拭きながら言った。 「うな重が大きくなったのではなくて、あなたが小さくなったのではありませんか」 「顔だけ元のまんまだっていうんでしょ」 「いや、そうでもない。全体に小さくなっている。顔も身体も。Nさん、服を作り直したりしましたか 「いや、別にそんなこともありませんが 会議では、例月の如く、何も決まらなかった。新しいアイデアや改革案が提出されると、ああでもないこうでもないと、念入りに難癖をつけて丁寧に潰していくのが、会議出席者の役目だ。 壁に貼られた『変化の時代に即応せよ』という社内標語が寂しげに見えた。 退社する頃には、みな、あらかた風船になっているか、あぶくになっているか、ピンポン球やドッジボールやバスケットボールになっていた。 ビルの出入り口から、大量の泡が洪水のように道路にはみ出し、一斉に駅の方へ向かった。 交差点で信号が変わると、一斉に泡が空に向かって舞い立った。ホームに着いた満員電車からは、風船やボールがこぼれ落ち、シャボン玉の泡が無数に吐き出され、また電車の中に吸い込まれていった。 街を歩いていても、まわりの人がサイダーかコーラの泡のように見えた。しゅわしゅわと音を立てているようでもあり、なにか話し声が聞こえてくるようでもある。 私はどんどん縮んでいるようだった。ただでさえ巨大なビル群がさらに上に伸び広がり、私にのしかかってくるように思えた。 私は、泡にも風船にもならないようである。ただ、そういった泡だか、風船だか、ピンポン球だかの姿をした人間から、会うたびに、 「また小さくなりましたね」 と言われる。 女房は幸か不幸か、人間の形のままである。ドッジボールと暮らすよりは、遙かにマシだろうと思う。もっとも、彼女にしてみると、会う人ごとに、 「あなたは、いいわね。元の形のままで」 などと、やっかみじみたことを言われると、結構、気疲れするそうだ。 「考えてみると」 と、私は言った。テーブルの上のティーカップに女房のハンカチを畳んで敷いたのが、私の指定席になっている。とても座り心地がよくって、どこかへ運んでもらうにも取っ手が付いていて便利だ。 「三木とあんな話をしたあたりから、異変が始まっているな」 「そうかしら」 「うん、三木が悪い。そうに決まった」 「決めてどうするの」 「責任取らせる 「どう責任取らせるの」 「おごらせる」 「私も行っていいかしら」 「もちろんさ。こないだ、君が仕事仲間と行った中華屋がうまかったって言ってただろう。あそこを予約しておいてよ」 店はわかりにくいところにあるというので、K駅の前で待ち合わせることにした。 相変わらず街は、シャボン玉やフーセンガムや水ヨーヨーの形をした人間が大波のように行き来している。私は、さらわれないように女房の頭の上に乗っていた。 見張り台に立つ人のように辺りを見回していたが、 「あ、三木が来た」 沢山の球形をした人波の中で、彼の頭は熱気球のように大きく輝いていた。ごうごうと音を立てているような気がした。 「さすが三木だな。頭の大きさじゃ、他の追随を許さないって感じだな 「僕の大脳皮質は、今だに成長を続けていますからね。先輩こそ、どんどん小さくなりますね」 「世界が広くなっているんだよ」 「三木くん、久しぶり」 「ユリちゃん、元気だった?」 「今日は、思いっきり奢ってもらうわね」 「といっても、先輩はあまり食べられないんじゃないですか」 「それが、食欲は変わらないんだよ。いったい、どこへ消えていくのか」 「無駄な食欲ですね」 「お前こそ、顔を大きくするために食っているようなもんだろう」 「ユリちゃんは変わらなくて、うらやましいなあ。うちの女房なんか、サッカーボールになっちゃったものなあ」 店の中は、やはり客が風船のようにゆらゆら揺れていたり、シャンペンのように発泡していたりした。ピンポン球があちらの壁から、こちらのテーブル、また天井へとめまぐるしく動き回っているのもいた。ウエイターはボーリングのようにゴロゴロ転がって注文を取りに来た。 生ビールで乾杯した。 「不思議だなあ。三木は、手もないのに、どうやってジョッキを口まで持っていくんだろう」 「どうってことないですよ、ほら」 というと、ジョッキがテーブルを離れ、ふわふわ浮いて、熱気球の口元まで移動し、口に合わせて傾いた。 「先輩こそ、ジョッキより小さいのに、よく持てますね」 「どうってことないさ」 と、私はジョッキを持ち上げると飲んで見せた。 「それ、絶対、先輩の体積よりビールの量の方が多いですよ。どこへ入っていっちゃうんだろうなあ。ブラックホールみたいだなあ」 「昔、そんなSFを読んだような気がするな」 「ユリちゃん、どんどん註文してよ。わけわからないけど、今日は僕のおごりという事になっているから」 「悪いわね。こんど、お返しするわ」 「三木にお返しなんか、しなくていいぞ。高いものからどんどん頼んでやれ」 「時価ってのがあるわよ」 「じゃ、それ百人前だ」 「まったく、人の生き血をすするような事しますね。いいですよ、もう、今日はウチを売り払ってでも奢りますから」 ピータン、蒸し鶏、クラゲの前菜、海老の炒め物、北京ダック、青梗菜のクリーム煮、他にも他にも他にも。 店内の球形達は、アルコールも回ったのか、賑やかに、動きが烈しく、色も赤や青やオレンジや黄色や、ぴかぴか光ったり、様々なことになってきた。 「本当に人間ってのは、どんなになっても、飲み食いして騒ぐことだけは忘れないもんですね」 「変われども変わらず、変わらねども変わる。そんなもんだろう」 「変わらないものってどんなもんでしょう 「ウチの会社の月例会議なんか、そうだな。一貫して、無意味で非生産的だ。見事なもんだ」 「ユリちゃんは昔っから変わらないなあ。高校の頃からきれいで格好良かったもんなあ」 「また、お世辞ばっかり」 「おい、気をつけろよ。三木のやつ、ここの勘定を君に押しつける気でいるぞ」 「変わらないわけないじゃないの。第一、名前だって旧姓の押本からNに変わったんだもの」 「ユリちゃんも昔のユリちゃんじゃないのか」 「あたりまえでしょ。行く川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず・・・」 「なんだっけ、それ」 「鴨長明の方丈記・・・高校の授業で習ったじゃない」 「そんな気もするな」 「よどみに浮かぶうたかたも、かつ消えかつ結びて・・・」 「うたかたって、なんだっけ」 「泡、あぶくのこと」 泡の一団が店を出て行く。それと入れ替わって、別の泡の一団が入ってきてテーブルを占領する。窓の外は、さまざまな色の泡の大河が、滔々と尽きることなく流れている。夜空には、コーラの泡のようなやつらが、しゅわしゅわと立ち上り充満し、かつ消え、かつ結びて。 「鴨長明の言う通りだね。昔の人はいいこと言うよ 紹興酒、もう一本行きましょう、と気前のよくなった三木がウエイターに向かってアイコンタクトを送った。