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2016年12月

社長のショートストーリー『ミスター・バック』

社長1  駅まではバスもあるのだが、運動不足解消のため、毎朝歩いて行く。不思議なもので、日々、だいたい速度が一定しているらしく、同じような時刻に家を出て同じような時刻に駅に着く。  郊外の私鉄駅の朝は、ほぼ都心に向かう通勤通学の客ばかりで、ある意味、顔見知りばかりである。どの人も、御同様に同じような時刻に家を出て、同じ電車に乗ることになるのだろう。違うのは、昨日吊革につかまっていた人が、今日はドアの脇にもたれてうつらうつらと居眠りをしていたり、立ったまま車内広告を睨みつけていた人が今日は大いばりで座っていたりすることぐらいである。  家族や会社の同僚、学校のクラスメートなどを除けば、一番頻繁に顔を合わせる人たちということになるのだが、互いに名前も知らず、挨拶も交わさない。ただ、頭の隅で一瞬、ああ、あの人、と思うだけである。 今朝も、ドアに近いところに立っている人の後ろ姿を見て、 (ああ、この人・・・) と私は思った。この人もしょっちゅう見かける人だ。 (そういえば、駅のだいぶ手前から、ずっと俺の前を歩いていたな。そのまま、後について改札を通り、同じ電車の同じ車両に乗った)  珍しくもないのだろうが、珍しいことのように思ってみた。 (考えてみると、この人、いつも同じようなダークスーツを着ている。一着しか持っていないのかな。だけど、本当のお洒落は気に入ったスーツを何着も持っているものだ、という話を聞いたこともある。手に持っているカバンもヨーロッパのブランドものだし、でもってダークスーツ一本槍となると、本当にお洒落なのかもしれない。襟から見えるワイシャツもいつも真っ白だ。カラーシャツなんか見たことがないような気がする。襟足もきちんと揃っているし。そう言えば・・・)  私の脳裏には、数ヶ月前の暑い盛りの光景が思い出されてきた。 (このクールビズばやりの世の中で、まわりがノーネクタイで上着なし、という人ばかりになった頃も、この人だけは、びっちりとスーツ姿だった。一本筋が通っているんだな。主張があるんだ。ネクタイだって・・・)  そこまで来て、私の回想は進まなくなった。 (ネクタイ・・・は、もちろん締めていたよな。締めていたはずだ。まわりが襟元をはだけていた暑い頃でも、この人だけは・・・)  努力して思い出そうとしたのだが、脳裏に像が結ばない。 (あ・・・)  奇妙なことに気づいた。 (俺、この人の顔、見たことがない)  そんなことがあるだろうか。毎朝、見かける人同士だ。他の人を思い浮かべている見ると、後ろ姿も前から見たところも、それどころか寝込んでヨダレを垂らしているところまで思い浮かぶのもいる。  当然だ。人間、後ろ姿から、少し角度をずらせば横顔が見え、ちょいと首が動けば、目も鼻も口も見える。前から見たところと後ろから見たところはセットだ。後ろ姿だけの人なんて存在するわけがない。  ただ、単に私がど忘れしているだけかもしれない。いや、そうに決まっている。 (ちょっと、こっち向いてくれないかな)  少しでいいのだ。ああ、あの顔だったか、と納得すれば、もう何でもなくなる。なんせ、人の名前とか単語をど忘れすることはあるが、顔とかイメージをど忘れするというのは珍しいような気がする。  すぐそこにいるだけに焦れったい。すぐそこなのに、向こうはドアに向かってぴったり身を寄せているので、混んでいる電車の中、見に行くわけにもいかないのだ。まさか、この人混みをかき分けて、しかもドアと彼の間に身体を差し入れて見たりすれば、かなり無気味な人と思われてしまう。  そのうちにM駅に着いた。別の路線への乗換駅だ。今の路線も別の路線も、大きなターミナル駅が終点になっているので、その混雑ときたら、毎日、乗降客が渦を巻くようで目が回るほどである。  ふと気がつくと、ドアのところに彼の姿はない。辺りを見回しても、どこにもいないようだ。今のM駅で降りたのだ。毎朝のように後ろ姿を見かけていても、どこで降りてどこへ行くのかなんて、互いに無関心だ。のはずだったが、 (そうか、あの人はM駅で乗り換えるのか)  まるで重大発見をしたような気になる。 (M駅までに決着をつけないといかんわけだ・・・)  例によって駅までウオーキングがてら向かっていると、あと百メートルというところで、彼の後ろ姿が見えてきた。 (ちょっと急げば追いつけるな)  別に急ぐ必要もないのだが、その後ろ姿を見た途端に、昨日の気分の落ちつかなさが忘れた宿題のように思い出されてきた。このまま行って、ちょいと追い抜きざま振り向いてみればいいだけの話だ。  私は小走りになった。ウオーキングがジョギングになったかな、と思う。はっはと、自分の息が聞こえる。彼の姿が確実に大きくなってくる。まるで子供時代の遊びのように、わけもなく嬉しい。  その途端、何かがはじけたような気がした。世界がはじけたのだ。いや、次の瞬間、自分が転んだのだということを了解した。 「大丈夫ですか」  と声をかけてきたのは、これもいつも朝の駅で見かけるOLだ。初めて口を聞くのがこの状況とは、惨めったらしい。  私は、立ち上がるとなんとか言った。たぶん、大丈夫ですとか、照れ隠しのようなこととか言ったのだろう。OLが行ってしまったのを見て、歩き始めた。  膝がひどく痛んだ。  次の朝は、膝がじんじん痛んだ。その日はバスを利用することにした。  窓際の席に座れた。  いつも通っている道なのに、バスのやや高い位置から、歩くのより速い速度で眺めていると、まるで違う町に来ているような気がする。あの店は、このビルは、この歩道は、この角度から見ると、こう見えるのか、といちいち面白い。そう、人間の顔だって違う状況で見れば、違った顔に見えることもあり得る・・・。  などと考えていると、前方の歩道に、あのダークスーツが見えてきた。覚えず興奮した。この速度なら、ほどなくあの男を捕らえ、なんなくその顔を見ることができる。見た事のある顔かもしれない。そうでないかもしれない。しかし、この数日、奥歯に挟まったニラレバ炒めのニラのように、小さなイライラを生じさせていたことが解決する。  小さなトゲのようなものが刺さったかと思うと、思いがけなく抜けていく、人生ってそんなことの繰り返しだ、などと感慨にふけって、その後ろ姿を見つめていると、バスが止まって動かなくなった。  駅前のロータリーに向かう道は、いつもこのあたりで渋滞するのだった。  少し動いては、また止まるということを繰り返している。彼に追いつきそうになると、まるで私をせせら笑うかの如くに止まるのだ。だんだん、バスを降りて、走り出したくなった。こんなことをしているうちに、彼が駅に着いてしまったらどうしてくれるのだ、という気になった。  だが、やがてバスは走り出した。渋滞を抜けたようだ。前方の赤信号で立ち止まっている彼の背中が見える。このまま行けば、横断歩道を渡る彼の横を追い越すことになるだろう。私は窓ガラスに顔を押しつけた。私の息でガラスが曇る。この曇りで大事な瞬間を見逃してはならぬ、と手でそれをぬぐう。  そして、彼の横を抜ける瞬間。  彼は、向こう側に顔を向けた。  せめて横顔だけでも、と後ろをすがるように見る私をからかうかのように、彼はくるりと背を向けると、もとの方へ歩き出し、遠ざかり、視界から消えた。 (何があったんだ)  問いただしたいような気持ちになった。 (そうだ)  駅に着いて、思いついた。この駅の入り口の階段の横に立って、彼を待ち伏せればいいではないか。これで、ようやく解決だ。なんだか、踊り出したいような気持ちになる。  バス乗り場から、タクシー乗り場から、横断歩道の向こうから、月極の駐車場から、ぞろぞろと人が歩いてくる。見知った顔もいる。挨拶したこともない朝だけの顔見知り。これまた、こんな角度から見ると、違う印象があるな、と思う。  だが、彼は中々来ない。家へ忘れ物でも取りに行ったのか。そうなると、だいぶ時間がかかるだろうか。待っていると、こちらも会社に遅刻するかもしれない。まあ、適当な理由をつけて、遅刻の連絡を入れてもいいのだが。  いつもの電車は行ってしまった。次の電車も行ってしまった。だんだん、そわそわしてくる。そもそも、会社を遅刻してまで、こんなことをやる価値があるのだろうか。いや、これを解決しておかないと、これからの毎朝、変な気持ちで過ごさなければならない・・・。  何のきっかけだったが、ふと階段を見上げると、なんと昇っていく彼の後ろ姿が見えるではないか。駅に来る人は、油断なく見張っていた筈なのに、いつの間に。  私は、走り出した。いや、走ろうにも、人混みが邪魔になって走れない。いらいらしながら、少しずつ間を詰め、改札を抜け、ホームに降り、そこへ電車が止まっていて、彼はドアに走り込み、私の目前でドアが閉まった。  翌朝、目を覚ますと、ベッドサイドに誰かが座っているのがわかった。金縛りに会っているのか、顔が動かせない。だが、目の端っこにうつる像から、誰かは推測できた。ダークスーツを着ている。彼だ。 (なぜ、私を追いかけるのだ)  と、彼は曖昧な声で聞いた。いや、本当には声を出していなくて、私の脳内に直接話しかけているのかもしれない。  なぜ、と言われても理由が出て来ない。理由などないからだ。 (君には無理だよ。なぜ無理かというと・・・それは、君が私に追いつくことができて、初めてわかるのだがね)  おかしな論理だ。なぜ、おかしいかというと・・・。なぜ、おかしいかというと・・・。なぜ、おかしいかというと・・・。  目が覚めると、びっしょり汗をかいていた。忌々しかった。別に夢に出てきた彼に怒ってみても仕方ないのだが、私の問題として、どうしても、彼の顔を一瞥でもしないと収まらない気がした。  いつものように歩いて駅に向かう。彼の後ろ姿が見えてくる。なんだか、その光景も悪夢のような気がしてきた。  ちょっとだけ、振り向いてくれればいいのだ。それで終わるのだ。だが、この男、首が回らないんじゃないかと思うほど、前を見続けている。そして、だんだん距離は縮まってくるのだが、どうしても追いつけないのだ。これも、また悪夢に似ている。私は、ずうっと夢の中に住み続けているのではないだろうか。  改札を入ったところで、彼がふと方向を変えた。トイレの方だ。 (チャーンス!)  私は叫びそうになった。トイレに入る、小用を済ませる、そして、どうする?  当然、振り返る。さらに洗面台で手を洗う。その前には?  顔を写す鏡がある。 (ふふふ、君の負けだよ。トイレの君は隙だらけだ。ここで尿意を催したのが敗因だね)  私は彼についてトイレに向かった。別に行きたくもないのだが、この際しょうがない。こんなにわくわくしながらトイレに行くのは初めてだ。  ところが、なんということだろう。彼は、「大」の方へ入ってしまった。この駅の男子トイレには「大」の扉が三つ並んでいる。その真ん中のドアが私の前で閉まった。その両側も使用中である。  私は「小」さえやりたくないというのに、「大」の扉が開くのを待つ人になってしまった。しかも、彼の入っている扉が最初に開くとは限らない。  私の後ろに、人が一人並んだ。この人は、やりたくもない私に比べて、遙かに切羽詰まった状況にあるのだろう。申し訳ない。もし、「彼」以外の扉が開いたら、譲ろうか。それも、おかしな光景ではあるだろう。 (くそう、尿意でなくて便意を催したのが、ヤツの勝因になるのか)  その時、水を流す音が聞こえた。ヤツの扉ではない。私は覚悟を決めて、後ろの人に順番を譲ろうと振り返った。 「あの・・・」  と、話し始めようと思ったその瞬間、私の下腹部を強烈な痛みが襲った。きゅるるる、という音がトイレ中に響いたかと思われるくらいだった。「彼」のではない扉が開いた。もう、否も応もない、私は天の助けとばかりに、その空席に駆け込んだ。  出てきた時、彼の姿はもちろんなかった。 「子供が熱を出してしまいまして、病院に連れて行かなければならないので、午前中は休ませて下さい。はい、あ、その件は山下君がわかっていますから。はい、大丈夫です。では・・・」  ともかくも、午前中は自由を得た。ヤツを思いっきり追跡しまくる自由だ。  三メートルきっかり、ヤツとの距離を保っている。もう、今日は慌てて転んだりはしない。突然の便意に邪魔されることもない。(思うに昨日のは、追跡に気をつかいすぎたための神経性の下痢だったのではないか)  距離を保ちつつ、改札を通り、電車に乗る。ヤツがM駅で降りるのはわかっている。すでに先手先手を打って、大きな網で取り囲んで捕獲するのを狙っているような気分だ。  M駅である。大勢のお客がすれ違ったり、ぶつかり合ったり、もみ合ったりという日々繰り返される混乱の中、私は彼への視線をそらさない。距離も開きもしなければ縮まりもしない。  私も彼ももみくちゃにされているのだが、彼の 顔は不思議なほど、こちらを向かない。他の乗客達と同じように彼の身体も曲がったり捻れたりしているのに、顔面だけは偶然とは思えないほど、私の方を向かないのだ。  M駅で乗り換えた電車で終点のS駅に着く。ターミナル駅で、多くの路線が迷路のように入り込んでいる。混雑も激しくなる。 彼を見失わないように付いていくと、ある地下鉄駅の入り口に入っていった。たしか先月開通したばかりの路線で、私は初めてだ。何列にも並んだ、エスカレーターが深い地の底へと人びとを粛々と運搬している。何人か前に、彼の後頭部が見える。やや上のこの角度から見るのは珍しいと思った。意外に耳がとがっている。 再び混み合った電車に乗り込む。乗客達の狭間で私の身体はぐるんぐるんと何回も回転する。彼もそのはずなのだが、相変わらず顔は見えない。 五つめの駅で降りる。私にとっては初めて降りる駅だが、もうこの大都会の中心部のはずである。 改札を通ってから、長い地下道を歩く。気づくと左右の壁も天井も鏡張りである。これなら、ちょっとした角度の変化で、彼の顔、少なくとも横顔くらいは見えるかもしれない。そんな期待が高まるとともに、じれったさも募る。 何度も右に左に曲がり、いくつかの自動ドアを通り抜けた。相変わらず鏡張りの廊下である。いつの間にか、前にも後ろにも、人はいなくなった。彼と私だけが歩いている。彼は私に気づいているだろうか、いや気づいているだろう。どう思っているのだろう。 そんな道行きを繰り返している中に、ある自動ドアを抜けたところで、私は立ち止まった。 その先に廊下はなかった。鏡張りの壁が私の前にあった。後ろを見てみると、今通ったばかりの自動ドアがぴたりと閉じている。それもまた、鏡になっている。 私は合わせ鏡の真ん中にいた。私の前には、私が写っている。その向こうには私の後ろ姿が写っている。その向こうには、また私がいて、その背後に向こう側を向いた私がいる。次第に小さくなり薄暗くなっていくものの、その連続がカードのようにどこまでも連なっている。 右手を挙げると、鏡の中の私は左手を挙げ、私の後ろ姿は右手を挙げ、その向こうの私は左手を挙げる。それが一斉に動く。 頭がぼうっとしてきた時、 「君はなぜ、私の跡をつける」 声がした。私の左側だ。彼だ。彼が立っている。ただし、私に背を向けている。 「いえ・・・」 そんな言葉しか、私の口からは出て来なかった。 「私の何を知りたい」 「や、どんな顔なのかと・・・」 「無駄だよ」 「なぜ」 「よく見たまえ」 「あ・・・」 この小部屋は左右も鏡張りになっていた。つまり、合わせ鏡だ。前後に写っている私の姿と同じように、彼の前側、後ろ側、前側、後ろ側、という姿が連なって写っているはずなのに・・・・・・。 後ろ姿しかなかった。後ろ姿がどこまでも連なっているだけだった。 「私は顔をなくした男だ」 「なぜ」 「私が聞きたいくらいだね。まあ、ひとつ言えるのは持ってしまったんだよ」 「なにを」 「君と同じさ。ちょっとした好奇心だ」 背中しか見えないのに、今、彼は笑っているに違いない、と思えた。 「君の顔はもらった」 そう彼が叫ぶと同時に、背後のドアが開いて、私の横を彼がすり抜けるのを感じた。走り去っていく彼の靴音が、無機的な空間の中に響き、それはだんだん遠ざかっていった。 ドアが閉じた。 無限に続く合わせ鏡の中には、どこまでも私の後ろ姿だけが写っていた。 私はそれ以来、ただひたすら待ちをうろついている。会社にも行っていない。家にも帰っていない。誰とも話をしていない。 それもそのはず、これでは人に合わせる顔が無いではないか。
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