社長のショートストーリー『時限爆弾女』

島と半島からなる港湾都市。四千年の歴史を持つ大陸の文明とにわかに勃興してきた西方の国々との、一世紀半くらい前の奇妙で暴力的な交渉により、貧寒たる漁村から生まれた近代都市。岩山に超高層ビルが密集している様子は、海岸のフジツボの密生を見るようでもある。
この街から大陸や島嶼部のあちこちへと繋いでいる高速艇のターミナルがある。ちょっと巨大なズワイガニがうずくまっているように見える。その足のあたりから、ひっきりなしに乗客を乗せた船が出ていく。
そのターミナルの中のカフェで、私はブラックコーヒーを飲みながら自分の乗る船を待っている。
「からっぽの胃にそんなもの流し込んだら、荒れるわよ」
「酒とコーヒーで、もう、ひびが入っているよ」
私に話しかけた女は、私の前に座って、フレンチトーストをナイフとフォークで食べている。卵とミルクと砂糖がじゃりじゃりしそうなほど入ったヤツだ。彼女はさらに、その上から蜂蜜をたっぷりかけて食っている。
私たちはこれから大陸のある新興の町へと向かう。その町に、我々の会社がコントロールしている工場がある。私は日本の本社からの出張者であり、彼女は島の中心部におかれた事務所で日本と大陸と島の三角形を動かしている。彼女は日本人だが、この街で現地採用された。
「そんな甘ったるいもの、よく食えるな」
「したかないわ。脳が要求するのよ」
「それでよく太らないな。何か、運動でもしているのか」
高層ビルの中のジムでランニングマシンに乗ったり、スカッシュのコートを走り回っている彼女の姿が思い浮かぶ。
「何もしてないわ」
「休日は」
「寝てる。一日中、部屋でごろごろしている」
テレビ見たり、レンタルや違法コピーのDVDを見たりね、と彼女は付け加えた。
「君らしくないね。キャリアアップのための勉強とかしていそうだけど」
「バカバカしいわ」
このあたりの人は、大きな声で話す。一日の始まりに、早くもエネルギッシュな喧噪が生まれているカフェの中で、彼女のまわりの空気だけが、アンニュイで妙に色っぽい。
広東語と英語と北京語でのアナウンスが、我々の乗る船の乗船準備ができたことを告げると、あちらこちらでやおら立ち上がる人が出てくる。彼女は、フレンチトーストの最後の一切れを口に入れると面倒くさそうに立ち上がった。
けたたましいエンジン音を立てて高速艇はターミナルを離れ、波の中をバウンドするように半島に沿って進んでいく。空は青いのに、波しぶきが窓にじゃんじゃんかかるので、暴風雨の中を進んでいるような気がする。
高層ビルの群れが途切れると、半島は岩と潅木の風景になる。
私は前の座席の背に付いているテーブルを引き出して、パソコンで資料の確認を始めたが、彼女は目をつぶると、なんだか野良猫のように丸っこくなって眠ってしまった。
一時間あまりで目的の港に着いた。あたりには、何もない。広い道路が一本、海岸線に沿って無愛想に伸びて、岩山の裾でカーブを描き姿を消している。
二台の車が迎えに来ていた。一台は私を工場まで連れて行ってくれる。もう一台は、ワンという男が運転する車で、これはどこへ行くか、わからない。というか予想も付かない。大陸側での彼女の足になっている。
彼女は、朝の明るく乾いた光と風の中にすっくと立った。それまで、ぐにゃぐにゃしているように見えた足が、黒いミニスカートからぴんと長く伸びて大地に突き刺さるようだった。
「じゃあね。また、午後に」
笑ってワンの隣に乗り込むと、車は「ぴゅーっ」というマンガ的な擬音でもつけてやりたいような勢いで、たちまち道路の彼方に消えた。
これから、どこをどう回って来るのかわからないが、気がつけば、なにかしら新しいビジネスの種やネットワークやらを見つけてくる。営業ばかりでなく、生産や財務や法務やITにも通暁しており、思いがけない回路を通って、びっくりするような成果を上げる。
どんな活動をしているのか、いちおう上司には報告をあげているのだろうが、全部ではないだろう。
彼女は日本流の「報告、連絡、相談」というのが大嫌いで、うすのろ共と、ああでもないこうでもない、と時間を無駄に使うよりも、さっさと出来上がったものをごろんと目の前に転がしてみせる、というやり方だ。結構、金も使うようだが、その出来上がったものは、すでに反論しがたい説得力を持っており、おおむね彼女の考えどおり、この地での仕事は進んでいく。
彼女の上司というのは、三年という任期で日本から出向してくるおっさんで、上の顔色をうかがう以外、能のない男だ。島のセントラルという地区にある事務所の所長ということになっているが、もちろん彼女がいなければ、この地では何も進まない。完全に首根っこを押さえられているわけで、内心は面白くないのかもしれないが、まあ、彼女にまかせておけば、成果は上がるし、その成果は日本の本社に向けては、私がやりました、という報告をしておけば上の覚えもめでたくなるというので、不満はないようだ。それに、結構な出向手当をもらっているらしいし。
工場に着いて、私は人びとと打ち合わせをし、資料をチェックし、工場内を視察し、昼は幹部連と食事をした。
午後は、周辺の取引先や会計事務所などを回って戻ってくると、駐車場にワンの車がおいてあるのが見えた。
場内に一歩足を踏み入れると、空気がまるで違っているのがわかった。彼女が大股でラインの間を歩き回り、人をつかまえては中国語で質問をしている。答える側も、顔が引き締まっている。工場内の女王陛下だ。私のような大甘な出張者に対するのとは、ワケが違うらしい。
夕方から会議が始まった。彼女より職位が上の筈の工場幹部がずらりと揃っているが、仕切っているのは完全に彼女だ。おどおどと報告を挙げる幹部連に、ぴしぴしと平手打ちのように質問を下し、彼女の手の中で問題点が明らかにされ、解決策が示されていく。
「わかりました。その件は明日中に調査してメールで報告してください」
山のようにあったと思われた議題が、ほこりをはらうように消えていき、
「それでは、これで終わります」
そう宣言すると、もう立ち上がっていた。ワンの車へ向かう途中、くるりと私の方を振り返ると、
「これから、A社の幹部と情報交換を兼ねた食事なのよ。ごめんね、あなたともゴハン食べたかったんだけど」
そう私に日本語で言って、なぜかウィンクをして、ワンの車で夕闇の中に消えていった。
このあたりの企業社会で、彼女は大した人気らしい。美人でスタイルが良くて頭がいいのだから、当然だ。ああ言った食事会の申し込みは引きを切らないようだ。思わず機密情報をもらしてしまうおじさんも多々あるだろう。まるで女スパイだが、まあ、我が社のためには祝福すべきことだ。
巨大できれいな工場がいくつも並んでいる。世界的に有名な企業のそれだ。その間に、ウチのような中堅企業の工場がある。さらに、それにしがみつくように、零細企業の工場がある。
なんだか、生き物の細胞の中を覗き見るような工場群があって、その真ん中に、この町の中心街がある。そこには、商店があり食堂があり、世界中で見られるチェーンのファミリーレストランやハンバーガーショップの店がある。
その真ん中に、私の宿泊するホテルが椰子の木と電飾に取り巻かれて光り輝いている。
宿泊客のほとんどは、町を囲む工場群へ、大陸の別の町や半島や他の国から金儲けにやって来る、あるいは大損しにやって来る男達だ。一日中、金のことを考え、労働者を絞ることを考え、ライバルを追い落とすことに全精力を傾けてきた男達だ。皆、顔がてらてら光り、大きな目玉が飛び出しそうになっている。
ここは宿泊施設であるばかりでなく、それ自体、一個の歓楽街だ。はっきり言えば売春窟でもある。三階にある巨大な酒場は、内部がいくつもの個室に別れ、男達はチャイナドレスの女を横に侍らせて、カラオケやら他愛のないゲームでどんちゃん騒ぎをして、宴果てて意あらば、女に金を渡して「お持ち帰り」もできるらしい。
私はとてもそんな元気もなく、一緒にどんちゃん騒ぎをやるお友達もいないので、階下のレストランで一人食事をして、同じフロアのバーカウンターでウィスキーを飲んだ。いつも、この街に来ると、強烈な熱気を避けて、一人になれる時間が待ち遠しくなってしまう。
ふと、彼女は今頃どうしているだろうと考えた。まだA社のおじさんたちと楽しく情報交換をしているだろうか。
彼女も宿はこのホテルに取ってあるはずである。もしかすると、今晩、ただ一人の女性客かもしれない。さぞ目立つだろう。男共が放っておかないかもしれない。コールガールと間違えられても不思議はない。あのミニスカートだ。
あれで、一人で夜歩き回ったら、事件に巻き込まれる危険性があるだろうに、今のところ、そういうことはない。それどころか、ナイフを持って襲ってきた暴漢を、逆にボコボコにしたという伝説さえある。あり得そうな気がしてくるから恐ろしい。
ウイスキーがすすむ。この街にいると、強い酒で頭の芯を麻痺させないことには眠れなさそうな気がするのである。
朝はグランドフロアのカフェで、バイキング形式の朝食が提供される。私は、トーストにベーコンエッグというありきたりの食事を盆に載せて、空席を探してうろうろしていた。
昨晩は歓楽のひとときを持ったのか、大人しく寝たのか知らないが、男共は一様に不機嫌な面構えで、まずそうに飯を食っている。中に、ちらちら女の姿も見える。おそらくは、男が「お持ち帰り」した女に朝飯を奢ってやっているのだろう。
「ハーイ」
というハスキーな女の声がしたので、見ると彼女であった。今日も、朝っぱらからアンニュイで色っぽい雰囲気を漂わせていた。
そして、例の如く、フレンチトーストを食っていた。今日は蜂蜜ではなくて砂糖をかけている。のみならず、横の小皿にケーキをいくつか載せている。私は、それを見ただけで昨晩のウイスキーがぶり返しそうになった。
「今日は、どうなさるの」
「午前中は工場で仕事。午後はセントラルに戻って、人に会って調べることがある」
「日本へは」
「明日、土曜の便で帰るよ」
「ふーん」
素っ気ない返事をした。あの事務所の所長なら、太った腹をくねくねさせて「いいな、いいな、日本に帰れるんだ」と必ず付け加えるだろうが、彼女にはそういうことには、恬淡としている。世界中のどこにいようが構わないのかもしれない。
「君は?」
「今日は、こちらであちこち動き回るわ。セントラルに戻るのは、夜遅くになるわね」
「遊ぶ暇もないね」
「遊ばないわよ。コンビニで、お酒とご飯とお菓子を買い込んで、部屋でホラー映画のDVDを見るの」
「なんか、君にしては寂しいね」
「寂しいもんですか。一番の楽しみよ。なにしろ、三週間ぶりの休みだもん」
「彼氏とかは?」
「いないわ。面倒くさいし」
「なんだかなあ。それだけこき使われて、労働の報酬がコンビニ飯とホラー映画だったら、俺なら反乱起こすぞ」
ふふふ、と笑うと彼女は妙にいたずらっぽい目で私の顔を覗き込んだ。
「実は、私、時限爆弾を抱えているの」
「なんだい、そりゃ」
「私、これだけ甘いもの食いまくって、運動もせずにいたら、もっと太るはずだと思わない?」
私は、思わず、その引き締まったウエストに目をやった。
「確かに不思議だよなあ」
「これね、いつか、爆発的に太るのよ」
「?」
「一気にね。それもただの太り方じゃない。いきなり200キロとか300キロとかに膨張するの。アパートのドアから出られなくなるわね。それどころか、ベッドから起き上がれないかもしれない」
「会社には?」
「行けるわけないじゃないの」
「所長は、いや、会社が困るだろうな」
確かに彼女がベッドから起き上がれなくなったら、この会社の海外部門は機能停止だ。国内だって、台風並みの被害を被る。
だいたい、今でこそ、職位は私と同じ中間管理職だが、本来なら事務所長をまかせてもいいはずだ。いや、重役にしてもいいはずなのに、出世させたがらない幹部連中がおかしい。暗に「女だから」という差別を感じる。
「それは一年後かもしれないし、一ヶ月後かもしれないし、週明けかもしれないわ」
「そうならないことを祈る。いや、ジムでも何でも行ってくれよ」
「いやよ。私、ホラー映画とコンビニ飯が好きだもの」
数ヶ月後、私は、故あって会社を離れることになった。私の在籍中に時限爆弾は爆発しないで済んだ。退職の挨拶のメールを出すと、すぐに電話が掛かってきた。
「ついに一緒にゴハン食べれなかったわね。ごめんね」
電話の向こうで、ばちっとウィンクをしているような気がした。
ほどなく、彼女も会社を辞めた。丁寧な挨拶状が来た。ヘッドハンティングされたのだ。当たり前だ。手をこまねいていた幹部連中が悪い。さぞ慌てただろう。彼女のことだから、ちゃんと引き継ぎはしただろうが。
今は、欧州のある大都市で働いているはずである。
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