社長のショートストーリー『銀河鉄道阿房列車』

「母さん、ただいま。今日は加減はどう?」
と寝台に座っているお母さんに話しかけました。
「お帰り、ジョパンニ。今日は、大分いいわ。さっき姉さんが戻ってきて、パンと卵と野菜やらを台所に置いていったから、きっと晩ご飯をこしらえてくれるでしょう」
「お母さん、今夜は銀河の星祭りだから、晩ご飯までの間、見に行ってもいいかな」
「ああ、行っておいで。さぞ、きれいだろうからね」
二人が話をしているところに入り口から、
「ごめん下さい。酒屋ですが、ご注文の麦酒を持って参りました」
若い人が麦酒のケースを持って入ってきました。
「はて、うちでは麦酒なんか注文した覚えは・・・」
お母さんが戸惑った声を出しましたが、酒屋は心得たもので、入り口の脇にある小部屋のドアを二回ほどノックしました。
「ウチダさん、酒屋です」
返事はありませんでしたが、酒屋は構わずに開けてしまいました。
狭い部屋の中には寝台がひとつ、小さなテーブルが一つ置かれていて、寝台の上には白い口ひげを生やした大入道があぐらをかいて、フクロウのように膨らんでいました。
「留守だよ」
「ウチダさん、ご注文の麦酒を持って参りました。お留守でしたら出直します」
「なんだ、ツケの催促じゃないのか。麦酒ならおいていけ」
「じゃ、受け取りの書名をお願いします。さもないと麦酒は置いていきません」
大入道は忌々しそうに伝票に署名しました。
「それから、これはこないだの分までで締めた請求書です」
大入道はちらっと目を通すと、
「なんだ、意外に飲んでいないな。これっぽっちか」
「今いただいても結構です」
「今はない」
酒屋はちぇっと言って帰ってしまいました。
「ジョバンニか。お帰り」
大入道はジョバンニを見ると、それまでの仏頂面が嘘のように優しい笑顔になりました。
彼は、本当はヒャッケン・ウチダといって、イーハトーヴォ大学校で独逸語の先生をしているとても偉い人なのだそうです。それがどういう加減か、こんな路地裏に逃げ込んでひっそり暮らしているのです。
それというのも、手元にあるお金以上に、こんな風に麦酒をがぶがぶ飲んだり、さして離れてもいない大学校に行くのに遅刻しそうになってわざわざ自動車を雇ったり、欲しいものがあると、後先考えずに手に入れないと我慢できなかったり、貧しい手風琴弾きの親子を見ると財布ごとくれてやったり、なんだかわけのわからないうちに借金取りに追われていたり、その他にも自分から落とし穴に突進していくようなマネばかりしているからなのです。
「まあ、金というものは、仮定された有機交流電灯の一つの青い照明みたいなもんだからな。
わかるかい、ジョバンニ」
「わかりません」
「僕にもわからん」
ジョバンニは呆れてしまいました。
「言葉というものの不思議なところは、わけのわからないことを言うことが出来るって事だ。僕はわけのわからないことを口に出すし、君は耳に入れることが出来る」
「耳に入ってもちっともわかりませんよ」
「だが、それをオウム返しに、誰か別の人に言ってご覧。そのうちにわかる人が出てくるかもしれん。その時、始めて言葉が甦るのだ。・・・アアブラ・ディシュ・カマ・ククダニタ」
「なんですか、それは」
「シューメル語とかいう、古い言葉だそうだ。何千年も前にいなくなった人たちの言葉だそうだ。意味はわからん」
ウチダ先生は寝台の脇ににジョバンニを座らせて、麦酒を飲みながら駄弁ををふるっていました。
「ところで今晩は、銀河の星祭りですよ。先生はいらっしゃらないのですか」
「ふむ、そうさね」
先生は面倒そうに答えました。きっと飲んだ麦酒がお腹の中で膨れて重たくなっているのでしょう。
「僕、これから見に行ってこようと思います」
「行くのかい」
なんだか、先生は寂しそうでした。まるでジョバンニが遠くへ行ってしまうかのようでした。
「友だちも行っていますし」
「そんなに友だちがあるのかね」
本当は会いたい友だちはカムパネルラだけでした。ザネリなんかは、会うたびに皮肉っぽく、
「ジョバンニ、お父さんのラッコの皮の上着はまだかい」
というので、会いたくなんかなかったのです。
お父さんは船に乗り込んで、北の海の漁に出掛けたまま、帰ってこないのでした。お父さんからの送金も途絶えたので、病弱なお母さんはウチダ先生に部屋を貸したり、お姉さんもジョバンニも働いているのでした。
お父さんが出掛ける前に、今度はラッコの上着を買ってきてあげよう、と言ったという話をザネリはジョバンニをからかうのに使っているのでした。
「いいよ、行っておいで」
先生は、何か諦めたように言いました。そんな言われ方をすると、自分でも本当に行きたいのかどうか、わからなくなってしまうのですが、ジョバンニは思い切って曲がった鉄砲玉のように表へ飛び出しました。
勾配を下る機関車のように坂道を川の方へ降りていきました。すでに、遠くからでも橋の上や川の上にちらちらと灯りが見えます。からず瓜の灯りを流しているのでしょう。
橋のたもとまで来ると、あちらこちらで人びとが固まって顔を寄せ合って何か話していました。ひそひそと話し合っているのに、妙にざわついて聞こえました。ジョバンニは、喉がぐっと持ち上がってくるような気がしました。
「子供が川へ落ちたんだ」
「ちがう。川へ落ちた子供を救おうとして飛び込んだ子供が戻ってこないんだ」
「ぼ、僕が悪いんじゃない。カムパネルラが自分で勝手に飛び込んだんだ。僕は平気だったんだ」
最後の震える声はザネリのものでした。
ジョバンニは頭から水を浴びたような気がしました。くびすを返すと、まっすぐに丘の上へ向かって走って行きました。カムパネルラは、もうこの世にいない、という恐ろしい思いが、本線を走るC62型蒸気機関車の音のように、頭の中に轟々と響いていました。
目の前に白いクロスがかかったテエブルがありました。横手の窓を見ると、星々や星雲や暗黒星雲が広がっていました。それらは、みな後ろの方へ飛んで行くようでした。
「これは、この列車が速く走っているからこう見えるのか、それとも宇宙が膨張しているせいなのか」
聞き覚えのある声に前を向いてみると、ウチダ先生でした。フロックコオトに山高帽子で威儀を正し、その前には相変わらず麦酒の瓶とコップが置かれていました。ジョバンニ達は、どうやら列車の食堂車にいるようでした。
「君たちもソオダ水でも註文しなさい」
君たちと言われたので、隣を見るとカムパネルラが座っていました。なんだ、こんなところにいたんだ、とジョバンニは飛びつきたいほど嬉しく、また心配させられたことにちょっと怒ってみたりしました。
「あと、食べたいものがあれば、どんどん註文しなさい。ビーフステークにするか、海老のフライにするか、スチューもうまいぞ。ポタアジュのソップ。トマトのサラドはどうだ。ええい、面倒だ。みんな持ってこい」
と食堂車の奥へ向かって怒鳴りました。
(また、貧乏なのに贅沢をして)
というお母さんの呟きが聞こえるようでした。まったく先生は、胸の中に火がつくと、たちまち燃えさかってしまうのです。
「さ、食べなさい。食べないか」
見たこともないような御馳走がずらずらと並んでしまうと、かえって胸が一杯になるようで、ジョバンニは海老のフライをちょっと囓っただけでした。先生は目の前のものをどんどん平らげていきました
「お行儀が悪いことは自分でも承知しているのだ。だが、止めようとして止まらんのだ。生きながら餓鬼道畜生道に落ちているのかもしれん」
「それはちがいます」
カムパネルラが言いました。いつもの溌剌とした、それでいてどこか遠くから聞こえてくるような声でした。
「僕は、先生がそんな人じゃないってこと、知っています」
ジョバンニはふと、カムパネルラは先生と会ったことがあったのかな、と思いました。
「ありがとう、君は優しいね」
先生はしみじみと言いました。
「食べるのは、もうこれでお仕舞いにしよう」
そういうと、目の前の皿が消えて、クロスも真新しいものに変わりました。
「おしゃべりに付き合ってくれてありがとう。僕は、これで失敬する」
先生は窓を開けると、そこからひょいと飛び降りました。
「あ」
ジョバンニはびっくりして窓の外を見下ろしました。上も下も左も右も、大宇宙が広がっていて、その何もない中を線路が二本延びて、ずっと向こうのどこかへ消えています。
ジョバンニが思わず手を伸ばそうとした次の瞬間、先生は小さな飛行船のようなものに跨がってふわりと浮き上がりました。そして、すごい速さで星々の間に消えてしまいました。
「お客さん!お勘定!」
食堂の奥から叫び声が聞こえました。
気がつくとテエブルは消えて、ニスの塗られた肘掛けに薄いシートの三等客車になっていました。
「この方が落ち着くな」
と言ってから、ジョバンニはちょっと後悔しました。カムパネルラの家は裕福ですし、三等車なんかには乗らないだろうと思ったからです。
「うん。僕は君と一緒に乗っているのが一番落ち着くよ」
カムパネルラはいいました。
(やっぱり、カムパネルラは心の大きな子だ。僕はちょっといじけているな)
そう思うと、なんだか泣きそうになりました。
「乗車券を拝見します」
声に振り向くと、青い制帽制服の車掌が立っていました。目深にかぶった帽子は顔のほとんどを隠していて、前照灯のように光る目が見えるだけです。
カムパネルラはなんでもないように薄緑色の切符を出して見せました。
「はい、白鳥停車場までですね」
車掌は切符に検印を押して言いました。そして、ジョバンニの方を向きました。
「ぼ、僕は切符を買っただろうか・・・」
「お持ちでなければ、今お求めください」
車掌はちょっとイライラして、ぴょんぴょん跳びはねながら言いました。
「僕、お金、持っていないよ」
「まさか、無賃乗車というのでは」
車掌は、今度は足をぱたぱたさせながら言いました。ジョバンニは頬が真っ赤になって心臓がどくどく打つのを感じました。
「ジョバンニ、胸ポケットに入っているのはなんだい」
言われて胸を探ってみると、紙切れに当たりました。
「あ、これは特別な乗車券ですね。宇宙一周が可能です」
ジョバンニはほっとすると同時に、カムパネルラと行き先が違うのが気になりました。
車掌もほっとした顔で、
「いや、失礼。安心いたしました。実は一等車両でも同じような問題が起こっておりまして」
「一等車があるんですか」
「はあ、お一人しか乗っていないのですが、その方が乗車券をお持ちでないのです。お身なりも、立派なフロックコオトに山高帽子の紳士ですし、ご職業はイーハトーヴォ大学校の教授ですし、まさかとは思うのですが」
いかにもウチダ先生のようですが、先生ならさっき宇宙空間に飛び去ったはずです。それとも、あれは夢か何かだったのでしょうか。
「その方がおっしゃるには、無賃乗車ではない、単なる切符の購入遅延であるとおっしゃるのです。私が、では今ここでお買い求めください、というと、
『それは構わん。では、切符を頂戴しよう』
『では、代金をいただきましょう』
『気にするな、月末に払う。しかも月末は一年に12回ある。二年なら24回、10年なら120回、いずれ任意の月末でよかろう』
『そういう販売方法は行っておりませんが』
『こちらではそういう購入方法を行っておる。私は麦酒なぞ買うのだって月末払いだ。これはいいぞ。第一、君がいちいち代金を受け取る手間が省ける。この忙しいのに金を数えたり、しまったり、落とさないように気をつけたり、山賊や海賊に出会わないよう用心したりしなくてすむ。遅ければ遅いほど、君にとって便利だ』などと言うのです」
「で、その人は今、どうしているのです」
ジョバンニは、もうこれはどうしてもウチダ先生に違いないという気がして聞き返しました。
「一等車に放ってあります。ただし、出入り口に鍵をかけて。つまり、体のいい軟禁状態ですな」
車掌が話している間に、窓の外を飛行船に乗ってふわふわ浮かんでいるウチダ先生が見えたのでジョバンニはひっくり返りそうになりました。
車掌が行ってしまうと、先生は窓から入ってきました。飛行船はたたむと、カバンのような形になりました。
「車掌さん、怒っていましたよ」
「なに、僕は乗車券なぞ必要ないのだ。僕は飛行船に乗っているのであって、列車には乗っていないのだから」
見ると飛行背のカバンは先生の尻の下に敷かれていました。
「単に飛行船に乗って車内を通過したり、時々休憩しているだけだ。いわば自前で移動しているのであって、列車の運賃を払う必要はないのだ。この飛行船、よくできているだろう?イーハトーヴォ大学校のクーボー大博士が拵えたものだ」
ジョバンニは頭の中がしわくちゃになったような気がしました。
列車が白鳥停車場に近づきました。
「ジョバンニ、僕、ここで降りなくちゃならない」
「いやだよ。もっと一緒に乗っていようよ」
「だめだよ。僕はここまでの切符しか持っていないんだ」
「じゃあ、僕も降りる」
「だめだよ。白鳥の空気は君たちには吸えないんだ。息が出来ないんだよ」
「構うもんか。死んだって構うもんか」
「さよなら、ジョバンニ」
ジョバンニは風に吹かれるようにして出入り口の方へ行きました。ジョバンニは急いで後を追いました。ホームを歩いて行くカムパネルラの背中が見えました。ジョバンニはその背中向けて飛び降りました。
「苦しい。息が出来ない」
ジョバンニはもがきました。なにかに顔を覆われて鼻や口が塞がれています。獣のうめくような恐ろしい音が鳴り響いていました。
ジョバンニは必死で顔を離そうと、うんと腕を突っ張りました。
途端に息が出来るようになりました。目の前に、ウチダ先生の大きな身体があって、鼾をかきながら居眠りをしていました。
どうやら、ジョバンニも先生の背中にもたれて顔を埋めたまま眠っていたようです。ウチダ先生も、ほわあと大きな欠伸をして目を覚ましました。
「なんだ、ジョバンニ。まだ星祭りに出掛けないのか」
そうでした。ジョバンニは星祭りに出掛けるつもりで先生と話をしているうちに眠ってしまったものと見えます。
「ああ!それじゃ・・・」
そうです。夢の中でカムパネルラは川に落ちて死んでしまったのでした。それが夢だとすれば、カムパネルラが死んでしまったのも夢の筈でした。急に嬉しさがこみ上げてきました。それなのに、後から変な胸騒ぎも湧き起こってくるのでした。
カムパネルラは死んじゃいない。そのはずだ。でも、なんだか死んでしまったような気もするのです。
ジョバンニは曲がった鉄砲玉のように、ドアから飛び出そうとしました。星祭りの灯りがきらきら見えるようでした。なんだか、妙に歪んでいるようでした。思いっきり走ろうとするのですが、地面がパンのようにふかふかして、どうもうまく進めないのでした。
「これに乗っていきたまえ」
ヒャッケン・ウチダ先生はカバンの中から小さな飛行船を取り出すと、ジョバンニの方へ押しやりました。
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