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2017年08月

社長のショートストーリー『短編集』

社長1その日は私用で会社を休んだ。
 ラッシュの時間帯を過ぎて空席が出てきた車内で、とある作家の短編集を開いていた。ソラキアと言う小国出身の作家で、ノーベル賞の候補にもなったことがあるという話を聞いたこともある。私はそれほど文学に詳しくないので、それがその後どういうことになったのか、知らない。
 ただ、ご縁があったのか、日本で翻訳が出版されるごとに買って読む習慣が出来てしまったというだけだ。
 ごくありふれた日常の描写の言葉が、いつの間にかトランプの札が裏返っていくように姿を変えていき、いつの間にか遠い世界に連れて行かれる、という魔法の時間の体験を味わったら離れることができなくなった。もう、かなりの高齢になるはずなので、いったいいつまでこの楽しみを続けさせてもらえるのかと思っている。
 短編をひとつ読み終えて、ほっと息を吐いて顔を上げると老嬢が二人、私の隣の空いている席を譲り合っていた。ふと気がつくと私の反対側の席も空いている。そこで、ひとつずらして二人並んで腰を下ろせるようにしてやると、なんだかそれだけのことなのに、ずいぶん大げさに礼を言われて少々照れた。
 本の続きを読もうと思って目を落とすと、二人の会話が断片的に耳に入ってきた。「ソラキア刺繍」と言っていた。ちょうど私が読んでいる作家の出身国だ。
 クロスステッチで10センチに何目、チェーンステッチはどうのこうの、という話をしている。なるほど、そういえばこの作家の作品は言葉の刺繍と言えないこともない。
 ちょっと嬉しい偶然だった。

 新幹線の三つ並んだ座席の窓際に席を占めた。この奥まったところで短編集を開くととソラキアの田舎町の屋根裏部屋か、草原の穴ぼこかに潜り込んだような気がして自分が昔話に出てくる人物のような気になる。
 私は隠れた。日本の都会から、遠く離れた国の爽やかな空の下に。
 すると数ページも読み進まないうちに、
「こちら、空いておりますでしょうか」
 女性の声に話しかけられて、窓の外を見れば相変わらず日本の工業地帯を電車は疾走しているのであった。
「どうぞ」
 と応えてその顔を見てびっくりした。先ほど山手線の中で、私の隣に座っていた二人連れだ。
 いや、よく見れば違う。通りすがりの人の服装などはっきりとおぼえているわけはないが、顔立ち、髪の色はさっきの人たちよりは若い。なにより、彼女らは私が東京駅で乗り捨てた電車に乗って行ってしまったのだし、その人達がここにいるなんて手品でも出来るわけがない。
 だが、なにか同じだという感じがしてならなかった。
(あなた方は先ほど山手線に乗っておられましたね)
 そんな質問をしてみたくなる。
 やがて座席に落ち着くと、彼女たちのおしゃべりが聞こえてきた。
「・・・・・・そうでしょ。ソラキア刺繍なんて習っている人、そうそう、いないでしょ・・・・・・」
「だからねえ、糸の色を何番にするか、なんてのもなかなかよくわからないのよね」
 私は冷たい手で頬を撫でられたような気がした。なんだかソラキア刺繍に跡をつけられているような気になった。もちろん、その刺繍を習っている人に偶然、出会うと言うことは起こりえないことではない。だから、むしろ、その偶然を楽しめばいいのだ、自分にそう言い聞かせて再び本に目を戻した。
 その短編の主人公の少年の両親はある複雑な事情から祖国を離れて長い旅に出ることになった。残された少年は、湖のほとりの町に住む叔父叔母に引き取られて、その年を過ごすことになった。少年は十一歳だった。
 湖を見渡すことが出来る部屋に少年がいると、おばさんが入ってきた。手には布と針箱が持たれていた。
 叔母さんはこのあいだから始めていた刺繍の続きに取りかかった。モチーフは、このあたりの風景のようだった。湖の景色を刺すときは、彼女はいつもこの部屋に来るのだった。
「ご存じ?ソラキア刺繍の占いのことは」
 これは新幹線で隣に座り合わせた女性の口から出た。
「占い?刺繍で占いが出来るの?」
「私もよくはわからないのだけど、ソラキアで刺繍をする女性はみんな巫女なんだって。刺繍をしてるうちに何かが降りてきて未来や過去のことを告げるのよ」
「なんだか、こわいわね。刺繍をするたびに知らなくてもいいことを知らされるなんて」
 ああ、そうか、と私は一人うなずく。少年の前で、この叔母さんは占いをしようとしているんだ。何を占うつもりなんだろう、彼の両親の運命、彼の未来・・・い、いや、待て。そこでそんなことがわかってしまうなんて、占いって残酷じゃないか?
 少年は叔母さんの手元をじっとみつめている。私もみつめている。少年には、それが占いだってわかっているんだろうか。
 やがて、叔母さんはにっこり微笑む。
「今日、きっと隣のワグネルさんが鶏を一羽持ってきてくれるわ。シチューにしましょうね」
 それも占いの結果なのか。私は叔母さんの顔をみつめている。少年もみつめている。
「僕、占いなんて、あまり好きじゃないな」
 私も好きではない。
「占いなんて、なんだか怖くて嫌いよ」
 これは隣の席から聞こえてくる会話。
 本から顔を上げると、窓の外には日本の田園が広がっていた。小雨が降っているようだ。線路と並行している農道を軽トラックが走っていく。
 ほどなく、車内アナウンスが、私が降りる駅に近づいたことを告げた。その駅からさらにローカル線に乗りかえなくてはならないのだ。

 新幹線の改札を出て跨線橋を渡ると薄暗い改札口があって、そこを抜けて階段を降りていくと、こじんまりとした地方私鉄の電車が恥ずかしげに停まっていた。
 まだ発車時刻まで時間があるせいか、車内に人は少なかった。ロングシートに腰を下ろして、ぼんやりと地元の信金の広告とショッピングモールの広告を眺めた。
 今度は本は開かなかった。なんだか、短編集に追いかけられているような気がしたので。そうこうするうちに、ダークスーツのサラリーマン、主婦、ちっちっと歯を鳴らして新聞を読んでいるオヤジ、いや、いちいちあげていたらきりがないが、様々な人が乗り込んできて、ロングシートはほぼ埋まった。
 気がつくと、私の隣にも人がいて、その膝の上には刺繍が載っていた。
(ソラキア刺繍)
 がったん、と図体のわりに派手な音を立てて電車は走り出した。私は転げそうになって、隣に座っていた女性の肩に顔を埋めてしまった。
「ご、ごめんなさい」
 くだものの匂いがした。顔が赤くなるのを感じた。
 恥ずかしかった。その声は、私の声ではなかったから。いや、でもかつてはわたしのものだった声だ。まだ、声変わりする前の私の。目を落とすと、半ズボンから出ている膝小僧が見えた。
「大丈夫よ。揺れるわね、この電車」
 照れくさくてたまらなかった。先ほど、新幹線の中で隣にいた女性のうちの背の高い方の女性だなと思った。もう不思議とも何とも思わなかった。一日のうちに同じ人と何度もあって、お互いにどんどん年齢が違っていく。一生のうちには、そんなことがあるのだと思った。 
「あの、この刺繍」
「ああ、これ、ソラキア刺繍っていうのよ。ステッチが少し変わっているでしょう。知っている?」
 知っている、あなたから教えてもらった。だが、それは口に出さなかった。
「何を刺繍しているんですか」
「そうねえ、まだぼんやりしてわからないわねえ。これ、この辺が湖の浜辺で、後ろに森があって、低い山があって、その上に空が広がっている景色になる予定なんだけど」
「どこの景色ですか」
「ソラキア」
「行ったことがあるの?」
「ないわ」
「写真で見たの?」
「そうねえ」
 と、少し困った顔になった。
「目を閉じると浮かんでくるの」
 彼女の目蓋の裏には空と湖が浮かんでくると言う。私の目蓋の裏には、それに加えて風景を見ながら刺繍をしている女性が浮かんでくるし、それを見ている十一歳の少年が浮かんでくる。
 ソラキアは大国にはさまれた小国なので、大戦中にはかなりの辛酸を舐めた国らしい。いま、刺されている刺繍に、やがて、その静かな痛みが立ち上がってくるのだろうか。それとも、静謐なままに終わるのだろうか。

 バスは行き悩んでいるようなエンジン音を立てて峡谷沿いの道を登っていく。道路脇の木々の枝が窓をこするたびに水しぶきが上がる。対岸には道はないようで、ただ、憂鬱そうな森が続いている。
 一つ前の停留所で客が降りてしまったので、バスに乗っているのは運転手と私だけになった。子供一人で、こんなところに旅してきたのが心細かった。
 終点には私が行くはずの建物が一軒あるだけなので、迷うことは出来なかった。そこへ行くか、とって返して東京に戻ってしまうか、だけだった。
(お前、大丈夫か)
 誰かに話しかけられたような気がした。
(だ、大丈夫だよ)
(寂しくないのか)
(寂しくないよ)
(本当か)
(・・・・・・)
 誰が話しかけてくるのか、推測はついていた。きっと、あの短編集をもう少し先まで読めばわかるのだろう。だが十一歳の少年に戻ってしまった私にとって、あの作家に出会うのはまだまだ年月を経てからのことになるのだろう。
(本当に大丈夫か)
(大丈夫だってば)
(俺、ついていてやるよ)
(・・・・・・)
(だから、もう泣くなよ)
 私はびっくりした。泣いているなんて思わなかったのだ。目を触ると、たくさんの涙で目縁が濡れていた。
 ほどなくして、バスは終点に着いた。エンジン音が止んでみると、周囲から小鳥の鳴き声が押し寄せてきた。バス停のすぐ前に、大きな白い建物があった。

 鋼鉄の箱のような古めかしいエレベーターを降りて、漆喰のぼんやりした白の廊下の一番奥まった部屋が、その部屋だった。鉄製のベッド、清潔なリネン、窓際の一輪挿し、そして二人の女性。
 背の高い方の一人は、先ほどよりまた若くなって、ベッドの脇の椅子に腰掛けていた。低い方の一人はベッドに仰向けに寝て目をつぶっている。息をしているのだかしていないのだかわからない。
 私はまた小さくなったらしい。すがるような目で椅子に腰掛けた女性を見上げた。
「この方は、あなたの本当のお母様。わかりますか」
「おかあたん・・・」
「この方は、もう口を聞くことはありません。もうすぐ亡くなります。その後は、私があなたのお母さんになって、あなたを育てます。それが、この方と私の約束だからです。あなたは、私のことを本物のお母さんだと思って育ちます。あなたが、その眞実を知る機会が成長するうちに、あるいは訪れるかもしれません。結局、その機会は訪れず、あなたは知らないままに生涯を終えるかもしれません。その答が、私が刺している刺繍に現れるかもしれませんし、そうでないかもしれません。また、いつかあなたが出会うことになるソラキア出身の作家の作品の中に暗示されているかもしれません。いずれにせよ、急ぐべきことではありません」
 女性は立ち上がると窓に近づいて
「空気を入れ換えましょうね」
 窓が開くと、おびただしい小鳥の声が流れ込んできて、風の音がそれに混じった。
 やがて、人の気配があって、白衣を着て眼鏡をかけた背の高い男性が入ってきた。彼が、女性に目配せすると、窓が閉められた。小鳥の声が消えた。
 彼はベッドに近づくと、横たわっている女性の手首を取り、さらに首筋やら、あちこちを触ると、
「ご臨終です」
 と言った。「臨終」という難しい言葉が、子供の私にわかったのかどうか、ともかく理解とか現実とかと無関係に、私の喉の奥から
うわあああああああ・・・
けたたましい声が、後から後から止めるすべもなく流れ出てきた。頭のてっぺんから、足の先から、内臓から尻の穴まで震えていた。悲しいとか、何かの感情があったのか、わからない。ただ、洪水のように出てくる声に自分でも驚き、呆れ、他人事のように眺めていた。おそらく、私が初めてこの世に姿を現したとき、すなわち、私にとっての天地開闢の時、聞いた声に似ていると思った。

そして、それっきりすべてを忘れてしまった。気がつくと、大人に戻った私が一人、遅い時刻の新幹線のシートに座っているきりだった。さんざん、引きずり回された末、ほっぽり出されたような気分だった。

「さあさ、飲みたまえ、飲みたまえ。うちの親戚も人数は多いんだけど、みんな車で来たとか、医者に止められたとかで、飲める相手が少なくなっちまったんだから」
ある叔父さんの何回忌かの会食の席である。私は一人っ子なのだが、他の家は兄弟が多く、叔父さん叔母さんといっても何人もあるのだが、このおじさんは、私を飲める相手と見込んでしまっているようで、いつでも捕まってはながながと付き合わされる。
もっとも、話題の豊富な人なので、話があっちに飛んだりこっちにずれたりして、結局は何のことについても話してはいない、ということになるのだが、寺の座敷の障子に差す日の光の色合いがだんだん変化するのにつれて、自分の酔い具合も変わっていくのを眺めているのは悪い気分ではない。どうかすると、こうして駄弁を振るっているのが本当の時間で、あとの仕事とかなんとかは、あいだのつなぎに過ぎないという気にさえなってくる。
離れたところにいた母がそっと寄ってきて、
「じゃあ、私はそろそろ帰らなきゃいけないから」
母はとある地方都市で手芸の先生をやっているので、これから私鉄とJRを乗り継いで東京駅まで行かなくてはならない。
私はそのまま残っていても母を送っていってもよかったのだが、送っていく方を選んだ。
電車の中で、話題があるんだかないんだかわからないような会話をぽつぽつと続けているうちに、東京駅に着いた。
それじゃ、とか、また、とか、断片的な挨拶をして改札口に向かおうとする母に、にゅうと腕が伸びてきて、誰かが握手を求めた。おじさんだった。どうやってついてきたのか、さっぱり記憶にない。ともかく例の陽気さで、別れを意味もなく盛り上げて、母の眉をひそめさせた。
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