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2020年11月

金井哲夫の入院日記 最終回 手術編「深夜になるとやかましい3人のじいさんに囲まれて眠る1週間の総括」

夕食が済み、歯を磨いて顔を洗って、ベッドに戻って本を読んだ。そして消灯の時間。静かな1日が終わった。さあ寝ようと枕に頭をつけて目を閉じると、突然、隣のベッドから猛烈ないびきが響いてきた。

隣は、整形の手術をした70か80ぐらいのじいさん。ぐーぐー、なんてかわいいものじゃない。ンガー! グホグホ、グルァァァ! みたいな、不規則な爆音。ときどき止まって静かになる。だがまた突然始まる。なのでリズムが掴めず体が慣れない。常に不意打ちなので、静かになると逆に緊張する。

すると、反対側から不意を突かれた。反対隣のじいさんのいびきだ。それほど悪質ではないものの、やっぱりうるさい。両側からステレオでいびきに攻められる。それらは同期していないから、2つのランダムな騒音がボクの両耳から浸入し、脳味噌の中心で合流して不協和音を生む。バイノーラルビートってやつだ。ただしヒーリング効果はない。

そうかと思うと、斜め向かいのじいさんが寝言を言い始める。何を言ってるのかよくわからないが、なんだか長々としゃべってる。夜中にイビキが聞こえてくるのは、まあ自然なことだ。音量にもよるけど、ある意味、夜の情景のひとつと言える。でも、深夜いきなり話し声がするとドキッとするもんだ。するはずのない人の話し声がする。しかも病院。怖い。

そんなこんなで、ぜんぜん眠れない。考えてみれば、こんな小さな部屋で3人のじいさんに囲まれて寝泊まりするなんて、ボクも半ばじいさんなのだが、この歳になって初めての経験だ。自分がどれだけ恵まれた穏やかな環境で人生を送ってきたことかと、あらためて感謝してみたところで、眠れるわけではない。

翌日、左隣のいびきじいさんは、また昼間からすーすー寝ている。不思議と昼寝のときはいびきをかかない。世間話のじいさんは、向いのベッドのじいさんに声をかける。それが気のいいじいさんで、にこやかに「世間話」に応じる。だが、その向かいのじいさんのベッドへ看護師が来て何やら処置を始めると、今度は若い女性看護師に話しかける。処置中なのに、お構いなしだ。優しい看護師が嫌な顔をせず朗らかに応対するものだから、調子に乗っていつまでも話してる。それでも話し足りないのか、夜中に寝言を言う。

そんなじいさんアタックに悩まされた入院だったけど、いいこともあった。手術中に尿道カテーテルってのを入れられていた。おしっこを管で出して袋に溜めるやつだ。最初、説明を聞いたときはゲゲッと思った。神経難病で全身マヒだったうちのオヤジがやっていて、ボクも袋の尿の量を測って記録してトイレに流すなんてことをやってた経験があるので、尿道カテーテルについてはよく知っていた。お義父さんも現在進行形でやってる。だから、ずいぶん不自由なものだとは想像していたのだけど、やってみたらあら意外。夜中にトイレに行かずに済むってのが、とっても楽ちんだった。ボクの場合、看護師さんが適当に尿を捨ててくれるから、面倒がひとつもない。

ただ、ひとつ問題は、手術後数日でこの管をチンチンから抜くときのことだ。担当看護師が若い女の子だったら恥ずかしい。どうしようかとドキドキしていた。だけど幸い、その日はあの注射が上手なベテランの男性看護師が担当になった。「ちょっと変な感じがしますからね」と言ってすっと抜いてくれた。男の人でほんとによかった。

もうひとつある。点滴が取れた次の日に、あの前回ボクの両腕にブスブス注射の穴を開けてくれた女性看護師が担当になった。もう点滴はしないので、痛い思いはしないで済む。これも幸運な巡り合わせだった。

こう考えると、総合的にラッキーな入院だったのかな。もう胆嚢炎になることもないし、栄養士さんからは「何を食べてもいいですよ」と言ってもらえた。お陰様で、今は唐揚げとポテチ三昧であります。

おしまい
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文豪堂書店アクション純文学シーズン1 エピソード9「三大怪獣真夏の大決戦」(その2)

怪獣ラスト2

1

「逃げられちゃいましたー」と力なく隊員が砲塔のハシゴを降りてきて、丸太を放り投げた。隊長はちゃぶ台を離れ、すでに運転台についていた。

「行くぞ。掴まってろ」
 隊長はそう言うと、乱暴に土手を駆け下り、老人が丹精込めて耕した畑をめちゃくちゃに掘り返し、畑の脇の道には戻らず、そのままあれやこれやを踏み散らかしながら、元の2車線道路の土手に飛び載った。そして激しくアスファルトを削り、猛烈な土煙を上げて急旋回し、道路の進行方向に頭を揃えて停止した。

 そこへ後ろから、黒い車が追い越していった。交差点でもないところに突然現れた泥だらけの黒煙を吐く大きな鉄の塊に驚いて、急ブレーキも間に合わず、間一髪、戦車の脇をすり抜けたのだ。それは、タイヤまでピカピカの高級海外ブランドのSUVだった。危ないところで衝突を免れたSUVは、数十メートル前方で赤いブレーキランプを光らせて急停止した。
 
「なにあれ?」
 SUVのハンドルにしがみつき、色白で痩せ型の、縁なしメガネをかけた中年男性が声を震わせた。ルームミラーを覗き込み、リアウィンドウを振り返り、後方に停止して黒い煙をあげている泥だらけの緑色の物体に目を凝らす。助手席でキュウリの輪切りが入った水を飲んでいた、都会的な意識高い系っぽいロングヘアーの妻もゆっくり後ろを振り返ると、「戦車?」と呟いた。

「な、なんでこんなところに戦車が?」
「自衛隊かしら。でも一台だけだし、ずいぶんボロだし、民間の戦車かしらね」
「民間の戦車なんて、聞いたことないけど」
 怯える夫とは対象的に、妻はまたゆっくり前に向き直り、どこに視線を合わせるでもなく落ち着いた声で言った。
「右翼よ、決まってるでしょ」
「ウヨク……」
 夫はまだ後ろを向いたまま落ち着かない様子でいる。
「田舎だから道も悪いし、クマとかも出るし、だから戦車に乗ってるのよ」と妻は相当田舎に偏見がある。
「恐らく、バカすぎて村八分にされてヤケクソになった若者が、ユーチューブかなんかで同レベルのネトウヨの扇動動画を見て、そのわかりやすいパターナリズムに傾倒して、サル程度の意識レベルだから上下関係がハッキリした群の中の特定の階級に自らを置いて上位の人たちに服従することで承認欲求と帰属欲求を満たして、とにかく難しい理屈を言う人は全部サヨクってことにして、他のネトウヨに言われるままに個人的な不満をすべてサヨクのせいにして、旭日旗振ってバンザーイとか言ってれば世の中なんとかなると思い込んでる不憫な人間よ。要するに、戦闘服を着て丸太振り回して喜んでるような連中ね」
「どうして丸太なの?」
「田舎だから、丸太はいっぱい落ちてるじゃないの」
「そうなのか……」
 夫も前に向き直ったものの、まだルームミラーで後方を気にしながら妻の説明に納得した。
 
「おい見ろ、あの車! 絶対カーナビ付いてるよな」
 隊長は戦車の小さな曇った防弾ガラスの向こうに見えているSUVを指さして隊員に言った。
「当然、付いてるでしょう」
「あれについていけば、かならず道の駅に行く」
 隊長は断言した。
「どうしてわかるんです?」
「こんな山の中で品川ナンバーの高級車だぞ。観光客に決まってる。観光客は道の駅に行くに決まってる。よーし、逃がさんぞ」
「あ、でも気をつけてくださいよ。黒いSUVは煽り運転とかする輩が乗ってる恐れがあります。厄介事に捲き込まれないように……」
「こっちは戦車だ。煽りやがったら大砲をぶっ放す」

 日ごろは市民に愛される地球防衛隊であれと口を酸っぱくして言っている隊長だが、時と場合によるらしい。隊長は思いっきりアクセルを踏み込んだ。戦車のエンジンがガオンと大きく吠え、戦車後部の上を向いた太い排気管の先から黒い煙がキノコ雲の形に噴き上がる。ボロとは言え、無駄に大馬力のエンジンを積んでいる。急加速の勢いで戦車の前方が持ち上がり、隊長は座席から投げ出されそうになった。びっくりして慌ててブレーキを踏むと、今度は急停止の慣性で戦車の後方が持ち上がる。隊長は前につんのめり、アクセルの上で脚を踏ん張った。するとまた戦車は急加速し……を繰り返すうちに、戦車は前後に大きく揺れながら、じりじりとSUVに接近し、あやうく衝突しそうな距離でやっと落ち着いた。

「煽ってきたよ!」
 SUVの夫は妻に助けを求めるように言った。
「急ぐなら先に行けばいいじゃないの。先に行けって言ってやりなさいよ」
 妻は冷静に夫に指示を出した。夫は怯えながらも、煽り戦車よりも妻のほうが怖いと見えて、運転席側の窓をわずかに下ろして腕を突き出し、先に行けと合図を送ると、すぐに腕を引っ込めて窓を閉め、ドアをロックした。夫は左手で右腕を払いながら、「これでいいの?」と口には出さずに妻の顔を伺った。

「おいおい、何言ってんだよ。こっちが先に行っちゃったら意味ないだろがー。いいから早く道の駅に行けってんだ!」
 隊長は乱暴にクラクションを鳴らした。クラクションというより、ちょいと威勢のいいトラックに付いている、あの威圧的な船の汽笛のみたいな轟音が響くやつだ。

「こら、動け!」
 隊長はクラクションを鳴らし、アクセルを小刻みに踏みながら、戦車をじりじりと動かす。
「動かんか、こら!」
 正真正銘、誰がどう見ても完璧な煽り運転だ。しかも戦車で。

「あなた、警察に電話!」
 妻は毅然として夫に命じた。夫は震える手でスマホを取り出し画面を見る。
「だめだ、圏外だー」
 夫が情けない声で言う。
「静かにしていましょう。刺激したら軍服が飛び出てきて丸太を振り回すから。そしたら、絶対に目を合わせちゃダメよ。足を噛まれるわよ」

「しょーがないな。おい、お前、降りて道の駅までの行き方を聞いてこい」
 隊長は隊員に命令した。
「えーっ、またですか?」
「お前は人に道を聞くのが好きなんだろ?」
「別に好きってわけじゃないです」
「だが嫌いじゃないよな」
「ええ、まあ」
「私は嫌いだ。だから、お前が行くのが道理だ。丸太を忘れるなよ。どーもすいませんと、自分の頭をポコポコ叩いて市民に愛嬌を振りまくんだ」

 その「市民」をさんざん煽って威嚇したのは隊長なのに、その埋め合わせを丸太でしろというのかと、隊員は少し不満に感じたが、上官の命令には逆らえない。不本意ながら隊員は丸太を手に取り、ハッチへのハシゴに足をかけた。

「地球防衛隊の誇りを忘れるなよ」

 隊長は言った。丸太で自分の頭をポコポコ叩きながら誇りを保てとは、並大抵の修行では敵わない技だ。隊員は地球防衛隊の任務の厳しさを痛感した。

 隊員は丸太を手に取り、戦車の砲塔のてっぺんにあるハッチを開けて、元気に外に飛び出した。そして前方のSUVに向かって、挨拶のつもりでにこやかに愛想よく丸太を振り回し、自分の頭をポコポコ叩いた。

「出た! 軍服で丸太を振り回してる。本物だ! 自分の頭を丸太で叩いてるぞ」
「よっぽどね。ああいうのには、下手に逆らわないほうがいいわ。すぐに車を出して!」
 言われるよりも早く、夫はアクセルを踏み込んだ。黒い高級SUVはきゅきゅきゅとタイヤを鳴らして急発進していった。
「追いかけてこない?」
 妻は後ろを気にする。
「最初から逃げてればよかったんだよね」
 震える手でハンドルを握り、夫は少しずつ冷静を取り戻していた。
「どっか飲み物買えないかしら」
 キュウリ水を飲み干してしまった妻は、ちょっと後ろを振り返りながら夫に言った。
「すぐこの先に道の駅があるけど、追いつかれると怖いから、急いで東京に帰ろう」
 そう言い終わらないうちに湖畔の周回道路に突き当たると、交差点を左に曲がり、すぐそこにあった道の駅の前を「東京」と道路標識に書かれた方向へ猛スピードで走り抜けて行ってしまった。

 黒いSUVが猛スピードで走る抜けた道の両側で、今にも溶けて消えそうな大雪女と、今にも茹だりそうな大山椒魚と、今にも干からびそうな大河童が向かい合っていた。最後は派手に怪獣大決戦でもってこの話を締めくくって、すっきりした気分で涼しいところに帰りたいと三匹は願っているのだが、なかなか動き出さない。

 どうやら彼らは、地球防衛隊の到着を待っているようだ。怪獣たちも、世間の人たちと同様、地球防衛隊を怪獣の仲間だと思っているらしい。彼らが来なければ怪獣バトルも形がつかない。強烈な日差しの下、三匹は「耐えろ耐えろ」と自分に言い聞かせながら地球防衛隊の到着をまんじりともせず待ていたのだ。

 道の駅とは反対岸の山の中腹にいた大河童からは、道の駅の交差点からほんのちょっと内陸の道がカーブしたところに地球防衛隊の戦車が停まっているのが見えていた。何をしてるんだ、早く来い! と大河童はやきもきしながら暑さに耐えていた。

2

 またしても空振り終わり、蒸し暑い戦車に戻ってきた隊員は、ちゃぶ台の上に空の麦茶のペットボトルが転がっているのを見た。
「隊長、一人で飲んじゃったんですか?」
「あ? うん……」
「じゃあ道の駅でなんか買いましょうよ」
「や、もう帰る」
「えー、道の駅に行くんじゃなかったんですか? 楽しみにしてたのに」
「お前が外に出てる間に、ジュネーブから早く来いと催促の電話があった」
「でも飲み物買うぐらいはいいでしょ」
「ダメだ。このまま行っても、道の駅には辿り着けん」
「どうしてわかるんです?」
「これまでさんざん走ったのに、道の駅はぜんぜん現れないじゃないか。もうどんなに走っても同じだ。こういうときの私の勘はよく当たるんだ。さあ、帰るぞ」
 
 隊員は、何か飲み物はないかと冷蔵庫を開けた。その奥には、去年、恋人の味だとか、水玉の紙に包んであるやつじゃないとダメだとか、隊長が駄々をこねるので散々探して買ったのに、案の定、ちょっとしか飲まずに放置されていたガラス瓶入りのカルピスがあった。カルピスは生きているから腐らないとか言って、隊長は捨てずにずっと冷蔵庫に入れっぱなしにしていたのだ。

「あ、隊長、去年のカルピスがありましたよ。どっかで水だけ買ってカルピス飲みましょうよ」
「えー、去年のだろ? やだよ、お腹壊すよ。飲みたきゃお前だけで飲め。それに、わざわざ水を買うんなら、水をそのまま飲んだ方が早いじゃないか。だから逆に、水を買わずにカルピスをそのまま飲めばいちばん早い。あ、私はカルピス完熟巨峰ね」

 何の話をしているのか、誰のために何を買って何を買わないのか、結局、誰が何を飲むのか、飲まないのか、隊員は頭がぐるぐるして鼻血が出そうになったので、とりあえず戦車を走らせることにした。だが、帰り道がわからない。無闇に走り回っていたので、イキもカエリもわからなくなってしまった。
「帰りはどっちでしたっけ?」
 隊員はつい隊長に聞いてしまってから、しまったと思った。方向音痴の隊長に道のことを聞いても仕方がない。しかし隊長はこう即答した。

「帰りは反対方向に決まってるだろ。前に進めばカエリじゃなくてイキだ。カエリなんだから後ろだ」

 なるほど、これは筋が通っている。方向音痴でも、さすがに隊長は物事の通りをよくわきまえている。隊員は納得して戦車をUターンさせ、全速力でその場を走り去った。

 あとちょっとで道の駅という地点から、戦車はきびすを返して走り去ってしまった。それを見ていた大河童は、「あの馬鹿!」と言わんばかりに舌打ちをし、大山椒魚と大雪女に「ダメ」の合図を送った。大雪女は力が抜けてその場で消失し、大山椒魚も水中に没した。最後に大河童も背中を丸めて山奥に消えた。結局、決戦は流れてしまった。

「羽田空港で降ろしてくれ」と隊長は言った。そうか、ジュネーブに行くのだから、秘密基地ではなく空港に寄らなければならない。羽田空港のVIP専用ゲートから入ると、地球防衛隊の超音速特別機が待っているに違いない。隊員は胸を躍らせながら戦車を走らせた。やがて、羽田空港に近い環状八号線の大鳥居の交差点を過ぎたあたりで、「ここでいい」と隊長は戦車を停めさせた。

「え、ここから歩くんですか?」
「うん、すぐそこだから。お前は先に帰って、上がっていいぞ」
 そう隊長は言い残して戦車を降り、京浜急行の線路の方向へ歩いて行ってしまった。

 傾いた黄色い午後の日差しを浴びて、ひょこひょこと空港とは反対方向に歩いてゆく隊長の背中を眺め、大丈夫だろうかと半ば心配しながら、隊員は旅の無事を祈った。

シーズン1完


文豪堂書店アクション純文学シーズン1 エピソード9「三大怪獣真夏の大決戦」(その1)

著者注:「あんたの文章は長くて読むのがイヤになるのよ」と女房が活字離れ世代の現代っ子のようなことを言うので、2部構成にしました。

「がおー」と怪獣の咆哮がダム湖を取り囲む山々にこだまする。
昼過ぎの日差しは真上から押しつけるように照りつける。周囲の山肌からは数万人の僧侶の読経のようなセミの声が緑色の湖面に集中する。その中央には、丸いつるりとした島がうかんでいた。島には黒いつぶらな目が2つ付いている。大山椒魚だ。

大山椒魚は、少し右に目をやる。その視線の先の山の中腹には、黒ずんだ巨大な人影がうずくまっていた。それは水かきのある巨大な手を挙げて、大山椒魚の咆哮に応えた。

続けて大山椒魚は水面からそれ以上頭をださないようにして、目を左に移す。その視線の先には、湖畔の道の駅の脇の杉の木立の中に白い人影がある。その人影も右手を弱々しく挙げて大山椒魚に合図を送った。

三匹の怪獣がこのダム湖に集結した。この三匹が登場するシリーズの最終回を、三大怪獣大決戦で締めくくろうという寸法らしい。道の駅では、観光客がスマホを掲げて、その世紀の瞬間を動画配信しようと身構えている。湖を取り巻く周遊道路には、ところどころにパトカーと消防自動車が待機し、赤色灯を点滅させながら人や車が怪獣に踏みつぶされないよう警戒している。
だが、戦いは一向に始まらない。彼らはいったい、何を待っているのだろうか。

「隊長、道、合ってます?」
 そのころ、真夏の日差しに焙られた動く鉄の箱である地球防衛隊の戦車の中で、戦闘服の上を脱いでTシャツ姿になった汗だくの隊員は、きっちりと戦闘服を着込んだ、やはり汗だくの運転中の隊長に声をかけた。しかし隊長は答えない。

 怪獣が現れると、どこからともなく地球防衛隊の戦車が現れる。地球防衛隊とはどんな組織なのか、どこが運用しているのか、国連なのか、国なのか、地方自治体なのか、それとも民間なのか、わからない。ただ、隊長一人、隊員一人のためのこの戦車は、内部にお座敷とトイレ(和式)と冷蔵庫を備えた落ち着きある和の風情漂う特製の戦車であり、大砲の弾は撃ち放題という贅沢な仕様になっている。
 彼らが地球防衛隊であることを示す唯一の手がかりは、戦車の後ろに掲げられた、煤けて端がほつれた「地球防衛隊」の幟旗だ。それがあるから、みんなは「ああ、地球防衛隊なのだな」と思っているだけで、それ以上でもそれ以下でもない。
 怪獣が現れると一緒に現れて、住宅街だろうが人がいようが、あたり構わず大砲をぶっ放す。怪獣をなかなか倒せないときは、その破壊行為は広範に及ぶ。みごと怪獣を倒せば倒したで、巨大な死骸を残して帰ってしまう。怪獣駆除が目的だとは言え、結果からすれば大変な迷惑組織だ。

 市民から猛烈な反対運動が起きてもおかしくはない。それが起きないのは、怪獣に反対運動を起こす人がいないのと同じ理由だ。怪獣に理屈を並べても始まらない。なにせ相手は怪獣なのだから。地球防衛隊に文句を言っても始まらない。なにせ相手は地球防衛隊なのだから。つまり、地球防衛隊は、世間一般には怪獣の付属物だと思われている。

「たいちょー、大丈夫っすかぁ? 運転、代わりますよ」
 隊員は、戦車内の座敷に置かれた丸いちゃぶ台の下に両足を投げ出し、ペットボトルの生温い麦茶を生温いコップに注ぎながら、生意気な口を利いた。

「運転中に横から口を出すな!」

 隊長はいらいらしている。自分でも今走っている道が正しいのか、確証が持てないでいるのだ。頭皮からは次々と汗が流れ出て額をつたい、カーキ色の戦闘服のズボンにポタポタと垂れる。

 戦車の運転は隊員の役割だ。いつもなら、隊長は戦車内の座敷に半分寝転がって現場に到着するまで居眠りをしている。今日も、怪獣出現の通報を受け、大田区糀谷の町工場に挟まれた秘密基地を出発して現場近くに出るまでは、隊員が運転していた。しかし、いつになく落ち着きがない隊長は、隊員の運転にしびれを切らし、自分が運転すると言い出したのだ。

「今日は、ほれ、ジュネーブだから。急ぐんだよ。お前の運転では間に合わん。代われ!」

 隊長は運転がうまいわけでも道をよく知ってるわけでもない。じっと待つのがもどかしいという理由だけで運転すると言い出した、ただのわがままだ。だが、運転がうまい方の隊員は無免許だ。「戦車は普通の車とは違うから大丈夫」という隊長の言葉を信じて、入隊以来ずっと戦車で公道やら道なき道やらを走ってきた。それなりに運転技能はついた。「こんだけ運転できるんだから、もう免許はいらないな」と隊長に褒められた隊員は、自動車運転免許証を取る必要性を感じていなかった。

 それに対して、運転免許を持っている隊長は、バックと大きな交差点での右折ができない。絶対に右折をしないから、どこへ行くかわからない。「三回左折すれば右折と同じだ」と豪語するのだが、そう都合のいい道路ばかりではない。三回左折を繰り返して、千葉に行くはずが山梨に出たことがあった。バックをすれば、かならず何かを壊す。ファミレスで食事をするために駐車場で戦車をバックさせたらファミレスの建物を潰してしまい、サービスランチにありつけなかったことが何度もある。

「こんな人にでも取れる免許なら、なくても同じだ」と隊員は思っていた。

 ところで、「ジュネーブ」とは隊員が初めて聞く言葉だった。いや、基地でちらっと見たような気もする。事務所に置かれている電話機の短縮ボタンに貼られた手垢で汚れた紙のお名前シールに幼稚な字で「ジュネーブ」と鉛筆書きされていた。それを見たときはあまり気にしていなかったが、こうして隊長の口から直に聞くと、何やら意味ありげな感じがする。

 隊員は以前から、地球防衛隊とはどんな組織なのか、うっすら疑問に思っていた。超法規的な国際秘密組織が背後にあるのだろうか。だが、知らないことはいくら考えても妄想にしかならない。第一、答を知って何になるのか。こうして毎日、平穏に生活できているのだから、それでいいじゃないか。

 普通に怪獣が出現して、普通に怪獣をやっつけて、普通に帰ってきて、風呂屋に行って、缶ビールとコンビニ弁当で夕飯を済ませて眠る。そんな平凡だが安定した日々が淡々と続くことを隊員は何より願っていた。余計な詮索はよそうと、隊員は心に決めていた。

 そこへ「ジュネーブ」という言葉が飛び込んできた。やっぱり、これは国際的な組織だったのか。ジュネーブに本部を置く、もしかしたら、国連よりも上に位置する機関なのか。隊長は、ジュネーブの国際会議に出席するのか。

 でも、隊長はどう見てもジュネーブという顔をしていない。地球防衛隊ジュネーブ本部には、ジュネーブに相応しい顔をした人が参加するべきなのだろうが、ジュネーブとは髪の毛一本たりとも結びつかない隊長が行くということに、むしろ妙なリアリティーが感じられる。やっぱり本当なのだ。そう考えると、胸がぞわぞわしてきた。

「今どきカーナビも付いてないなんてな。ったく!」と、隊長がぼやく。隊員は我に帰った。いつものジュネーブらしからぬ隊長が、ジュネーブらしからぬことを言っている。隊員は目の前の任務に集中しようと勢いつけて起き上がり、隊長が座る運転席の脇に立った。

「いったいどこだ、ここは?」
 隊長はガタガタと揺れる操縦桿を握りしめ、奥歯を噛みしめたままぼやいた。
「うそ、迷っちゃいました? 怪獣の出現場所は湖ですよ。さっき教えた道を真っ直ぐ行けば着くはずですけどー」
「着くはずデスケドーじゃねーよ。着かないんだから」
「どこ走ってるんです?」」
 隊員は、カラーボックスにのかってる知らないメーカーの液晶テレビよりも小さな戦車のフロントガラスの外を覗こうと、運転台の前方に身を乗り出した。すると、運転している隊長の上半身を押しのけ、視界を遮る形になる。前が見えないし、だいいち暑苦しい。
 道は明らかに違っていた。畑と山の斜面に挟まれた細い田舎道だ。戦車は道幅を少しはみ出して走っていた。
「これ、絶対違いますって。あ、あの人に道を聞きましょうよ」
 隊員が指さした方向には、畑で作業をす老夫婦がいた。
 無神経にも運転車の目の前に頭を突き出してあれこれ指図する隊員を脇に押しのけ、隊長は大声で怒鳴った。
「人に道を聞くなんて、みっともないことができるか! よくそんなことが平気な顔で言えるもんだ。自動販売機の前で人に小銭をせびるようなもんだぞ。お前には地球防衛隊のプライドというものがないのか」
 隊長は戦車を止めることなく田舎道を進むと、山の急斜面と土手に挟まれた道がどんどん細くなっていった。前方で軽トラックが道を塞いでいる。隊長は急ブレーキをかけた。
「こんなところに車を停めやがって、非常識な。これだから田舎もんは困る!」
 隊長は舌打ちをすると、戦車のクラクションを乱暴に鳴らした。

「なんだぁ?」
 白っぽく乾いた畑の土から、まばらに生えた貧相なホウレンソウみたいなのを収穫していた老夫婦が顔を上げた。
「ウチの車が邪魔なんだよ。どけてあげなよ」
「どけろって言ったって、お前……」
 麦わら帽子の老人は戸惑う。クラクションが鳴り響く。
「ほら、困ってんじゃないか。早く退けて通してやんなよ」
「通せって、お前……」
と老人は躊躇するが、女房がきっと怖い目を向けると、仕方なく軽トラに向かう。気乗りしない様子でトボトボと歩く間も、戦車からはクラクションが鳴り響く。おまけに、ガオンガオンとエンジンを空ぶかしする轟音も響く。非常に行儀が悪い。
 ようやく老人が軽トラックに辿り着くと、土手から転落しないギリギリのところまで車を左に寄せた。だが戦車が通れるだけの幅が確保できたかわからない。老人は車を降り、親切にも戦車の前に出て軽トラとの距離を見極めながら、「オーライオーライ」と手招きをした。

「何やってんだ、あのじじい? あんなところで踊ってやがる。ボケてんのか。ふざけやがって。邪魔だ、どけっ! 轢くぞ、くらっ!」
 ジュネーブの国際会議のプレッシャーのためか、隊長の言動がどんどんジュネーブから遠ざかる。隊長はさらにクラクションを鳴らし、エンジンを吹かし、車体をちょっとずつ前に進めて威嚇する。

 老人はびっくりして土手の下に走って逃げる。同時に隊長は勢いよくアクセルを踏んだ。戦車は急発進し、案の定、軽トラの左後部に激しくぶつかった。戦車はびくともしないが、軽トラでは紙くずのように跳ねとばされ、土手を転がり落ちた。

「あんた、大丈夫かい?」
農園フードの奥さんが駆け寄る。老人も土手の下へ転がり出され、ぽかんと口を開けて黒煙と轟音を残して山道に分け入る戦車を見送っていた。
「なんだー? ありゃ」
「右翼だよ、右翼。決まってんだろ。緑色の大きい車に旗が立ってるのは、右翼なんだよ。とうとうこの村にも入ってきたんだねぇ。気をつけないと、もうすぐ来るよ、オレオレ詐欺とか、サクラを見る会とか、なんとかのマスクとか……。関わらないほうがいい。下手に刺激したら、軍服のイカレポンチが丸太振り回して飛びかかってくるからね」
「だけどお前、あんなに勢いつけてどこへ行くつもりだ? この先は行き止まりだぞ」

 大山椒魚も大雪女も大河童も動かない。大河童は頭の皿が乾燥してフラフラしている。大雪女は蒸発しかけている。大山椒魚は水から出ようともしない。なぜわざわざこんな時期に日取りを調整したのだろうか。よっぽど日程があわなかったのか、とにかく何がなんでもこのシリーズを完結させたかったのか、理由は定かではないが、ともかく彼らは動かない。じっと何かを待っている。

 地球防衛隊の戦車は、軽トラを蹴散らして百メートルほど進んだ湿っぽい雑木林の中で立ち往生していた。大きなバリケードが道を塞いでいる。その先は崖崩れで道が土砂や大きな岩に完全に埋れてしまっている。

「隊長、どーすんですか? 引き返してあの老人に頭を下げて道を聞きます? もうバックするしかないですよ。そのままバック……」
と言いかけて、隊員は口をつぐんだ。

隊長はバックができなかった。今の言葉で隊長を傷つけてしまっただろうか。こう見えて隊長は繊細な人間なのだ。去年の夏のことだ。カルピスを買ってきてくれと頼まれて、コンビニでペットボトル入りの五百ミリリットルのやつを買ってきたら、口を利かなくなった。じっと押し黙って、恨めしそうな顔をしていた。数時間後、大好きなシャケ弁当で昼食をとっていたとき、ようやく口を開き、どうして瓶入りの原液のやつを買って来なかったのだと隊員に不満を漏らした。

カルピスはあのガラスの瓶に入った原液で濃いめに作って飲むのがうまいのであって、最初から水で薄めたペットボトル入りのやつなどは本当のカルピスを知らない、コーラスとの区別もつかない最近のチャラチャラした若者の飲み物だと批判する。

そういう細やかな心を持つ隊長を傷つけてしまわないよう、隊員は常に気を配ってきたのだ。それなのに……

「お前がバックして謝って道を聞いて来い」
隊員の煩悶を遮って、隊長が言った。
「え、隊長、地球防衛隊のプライドはいいんですか?」
その意外な命令に、隊員はつい聞き返した。
「私はそのプライドが邪魔になるが、プライドの欠片もないお前がやるのだから、まったく問題ないだろう」
理屈は通っているように聞こえるが、どうもすんなり受け入れることができない。何か引っかかる。しかし、今はそんなことに拘っている場合ではない。隊員は隊長から運転台を引き継ぐと、早速戦車をバックさせ、軽トラの位置まで戻った。

プライドの欠片もないと言われて反論できない隊員ではあったが、極まりが悪いことこの上ない。せめて身だしなみを整えようと、制服をきちんと着直して、深呼吸をしてハッチへ続く梯子に手をかけた。そのとき、ちゃぶ台の前にあぐらをかき、残りの生温い麦茶を飲み干した隊長は、こう隊員に助言した。
「国民に安心安全をお届けするのが地球防衛隊の責務だ。市民にはあくまでも親切丁寧に。忘れるなよ」

どの口が言っているのか、などと隊員は思わなかった。隊長の言葉は常に重い。
「それから、そこに丸太があるだろ。もしものときのために拾っておいたんだ。それを持って出て、へー、どーもすいませんでしたと、そいつで自分の頭をポコポコ叩いて誠実に謝れ。そうすれば、きっと相手にも通じる」
他人事のように言うもんだ、などと隊員は思わなかった。地球防衛隊員とは、そういう存在なのだと隊長は教えてくれている。むしろそれに勇気をもらった隊員は、元気よく丸太を持ってハッチから飛び出した。

「ほら来た! 軍服が丸太を振り回してるよ。言った通りだ。あんた、逃げるよ!」
老人とその女房は、農具も作物も放り投げて走って逃げてしまった。

つづく

ついに文豪堂書店アクション純文学シーズン1完結! の前に……

性懲りも無くまだ書いていたのかと呆れ返るやら、とうに忘れ去ってしまったみなさま、大変長らくお待たせしました。文豪堂書店アクション純文学シリーズ・シーズン1の最終章を発表いたします。

 中川善史社長がこの世からずらかった後、あのすっとぼけた挿絵がなければ書いてもつまらないと執筆を中断しておりました。しかし、じつはこの後のシーズン2を三作書いていたのです。それには、病床で描いてくれた中川社長の最後の挿絵が入る予定なので、どうしてもシーズン1をテキトーに終わらせて、次に進む必要があるわけです。

 そんなわけで、みなさま、どうか今しばらくお付き合いいただき、シーズン2を大いに楽しみにして欲しいと願うのであります。

 しかしその前に、このアクション純文学の始まりのエピソードを前書き代わりにお届けします。今明かされる、文豪堂書店アクション純文学の誕生秘話!




 ある日、文豪堂書店編集部を、見たことのない和服姿の男性が訪ねてきた。次に大地震が来たら確実に傾くであろう古い雑居ビルの三階の、原稿用紙やらコピー用紙やらが平積みになった狭苦しい部屋の一角の、カビ臭いエアコンの風が当たるビニールの上張りがところどころ破けたソファーに彼は、誰に勧められたわけでもなく、「どうも」と低く言って腰を下ろした。

 ロイド眼鏡その男性は、私に「どうぞ」と、コーヒーテーブルを挟んだ反対側の、色も形も違うがやっぱり上張りが破れかけたソファーに座るよう促した。

「コーヒーでいいかね?」と私に聞き、座ったまま上半身で後ろを向いて、ぼんやり立っていた編集部の別の人間に「コーヒー」と言った。初めて来た人とは思えない落ち着きぶりだ。落ち着きすぎて、こっちがお客さんのようだ。

すると彼は、懐から名詞を一枚取りだして、私の前に置いた。名詞には「直木三十六賞作家 大井伏鱒二」と書かれていた。いわゆる直木賞は、正しくは小説家直木三十五んが創設した直木三十五賞だ。三十六賞なんてあったのか。ひとつ多い分、格が高いのか。昭和の文豪、井伏鱒二は知っているが、大井伏は知らない。しかし、知ってなくちゃいけないような落ち着きっぷりだ。三十六に大井伏とは、よっぽど負けず嫌いなんだろう。
 しかし、どうも面倒臭いやつが来たもんだと私は思った。大井伏と名乗る男は、袂の中で腕を組んで、ソファーの背に寄りかかり、「じつはね」と切り出した。大作家先生が馴染みの編集部に企画を持ってきてやったぞ、みたいな雰囲気だ。

「大山椒魚という小説のタイトルを思いついてね」と彼は言った。

井伏鱒二の山椒魚に対抗して、大井伏鱒二の大山椒魚ということか。何がどう対抗なのか、中身を読まなければわからない。とりあえず話だけ聞いておこうと思った私は、素直に「はい」と答えたが、彼はそれっきり口を閉ざし、私の顔を見つめた。

 この人は、自分で振った話の展開を相手に依存するタイプのようだ。煩わしいことこの上ない。何を期待されているのかわからないので、「それで?」と聞き返すが、彼は私の顔を見たまま動かない。面倒臭い沈黙が流れた。

 やがて相手は根負けして、苛立たしそうに「わからんかね」と言った。「わかりません」と素直に返答すると、彼は不承不承身を乗り出し、こう言った。

「大変に素晴らしいタイトルを思いついたはいいが、中身が書けんのだ。ひとつも書けん。一字一句書けない。だから、あんたに書いて欲しい。ひとつ、想像力を働かせて、自由に書いてみてくれ」

つまり、丸投げか。タイトルだけ投げておいて、あとは全部お前が書けと。大喜利か? 作家を名乗っているくせに一字一句書けないと威張っているこの人は、馬鹿なのか? そうだ、馬鹿なんだ。馬鹿には逆らわないほうがいい。

私は注文通り、自由に書かせてもらうことにした。井伏鱒二の名作とはかけ離れた、最高に出鱈目でめちゃくちゃで下らないものを目指す。そうして生まれたのが、二十一世紀の日本文学界に衝撃を走らせる、その名も『アクション純文学』だった。

金井哲夫の入院日記 その8 手術編「大変に勉強になった本物の世間話」

面倒なので、もういちいち挿絵は付けない。

手術も無事終わり、あとはこの静かな病室でのんびり5日間を過ごすだけ。手術の痕はちょいと痛いけど、前回と違って、点滴は上手な看護師さんがうまい場所に針を入れてくれたので、ブスブスと無駄に穴を開けられることもなく、いたって平穏。

それにしても静かだ。ボクがベッドを代わった左隣の患者さんは、80歳ぐらいのじいさんで、昼間からスースーと寝息を立てている。右隣も、やっぱりじいさんで、物音ひとつしない。左向かいもじいさん。前回はゲロゲロじいいが寝ていたところに、生きているのか死んでいるのかわからないぐらい静かなじいさんが横になっている。

ただ、ボクが窓際を譲ったじいさんは饒舌な人で、どうもこの病室の常連らしく、おばちゃん看護助手とも顔見知りで、世間話をしていた。他人の世間話ってやつを、カーテン越しに聞き耳を立てるなんてことは初めての経験なので、じつに興味深かった。

「今日も暑いねー」とじいさん。9月の頭だったから、まだまだ暑かった。だけどじいさんはずっと病室にいるので、暑いはずがないのだ。それでも、夏だから暑いねと、自動的に決まり文句が口を突いて出る。めでたくもないのに年賀状に「おめでとう」と書くのと同じだ。慣例、習慣、そうした社会性がほとんど欠如したボクは、それだけで感心してしまった。

するとおばさんも、じいさんの期待を裏切ることなく「暑いよー、たまらないよー」と見事に調子を合わせる。すると「また台風が来るって?」とじいさんが話言をつなぐ。「そうだってね、嫌になっちゃうね」とおばさん。映画かテレビドラマのような決まり切った天気の話。でも、これが本当の世間話ってやつなのだろう。まさに年配者の正調世間話だ。何の意味も、新しい情報も、聞いて得することもなにもないけど、一定時間、それもじつに適切な時間だけ続けて、「じゃあね、あっちに用があるから」とおばさんがきれいに切り上げる。

世間話は情報交換を目的とするのではなく、コミュニケーションを取ること自体に意味があるようだ。だから「ぴっぽろぺー」でも「おっぺけぺー」でもいいのだ。言葉を交わすことで、お互いの関係、距離感、親密度が調整される。大変に勉強になった。

外はお天気。明るい日が差す静かな病室で、じいさんとおばさんの世間話。眠気を誘う。左隣のじいさんは、もうさっきからすーすー寝息を立てている。大丈夫かってぐらい寝てる。やがて夕食が運ばれてきて、左のじいさんは目を覚まし、食事をとる。そして看護師が薬を持ってきたとき、じいさんに聞いた。

「夜、眠れてます?」

するとじいさんは「いやあ、眠れないんだよ。また眠剤出してもらえるかな」と訴える。昼間あんだけ寝てりゃ、眠れないだろ! とボクは心の中で笑ったのだけど、これがその後、ボクを悩ませることになる。

つづく