金井哲夫のあたくし小説『坂の上』

ボクはその坂のいちばん上の突き当たりに立っている。坂道はここで終わり、T字路の交差点で道は左右に分かれている。その道の向こうはまた低くなって、公園のような雑木林のはるか向こうに、細かい紙吹雪を敷き詰めたような色とりどりの住宅の屋根が見える。その先は霞んで見えない。
しばらくそこに立っていると、下から次々と懐かしい車が登ってくる。1970年前半の空色のダットサン・ブルーバード、あざやかな緑色のいすゞ117クーペ、レモンイエローのフォルクスワーゲン・ビートル、ルーフキャリアにキャンプ道具を積んだサニーカリフォルニアは、交差点を曲がるときにリアウィンドウのクロームメッキの縁が日の光を一瞬だけ鋭く反射させた。
自分がここにいる理由がちょっと思い出せない。どうやって来たのか、ここがどこなのかも知らない。でも、ここは何度も来ている気がする。いつもこの時間に、干した布団みたいな匂いのする日の光を顔に感じて、昔の車が通り過ぎるのを眺めていたように覚えている。なんとなく知っている場所なのだが、自分の家との地理的なつながりをまったく感じない。
坂を少し下ると小さなショットバーがあった。間口いっぱいにドアを開け放ち、入口の立て看板には赤い自転車が立て掛けてある。中に入ると、右側がカウンターで、左側は壁に沿って革張りのソファー席になっていて、小さな丸テーブルが並んでいた。BGMはかかっていない。外の穏やかな午後のうららかな空気の音が店内にゆったり流れてきて、眠たいような心地よい雰囲気を作っている。ちょっとダークな板張りの壁には60年代から70年代のジャズやロックの懐かしいレコードジャケットが飾られているので、夜は賑やかになるのかも知れない。
あいつの好きそうな店だと思った。ソファー席のいちばん奥で、ソファーの背もたれと左側の壁との両方にもたれかかり、ポテトサラダを舐めるようにしてビールをチビチビやってる姿が目に浮かぶ。初めての店なので、ボクは少し遠慮していちばん入口に近いカウンター席に浅く腰をかけ、ビールを注文した。
静かで感じのいいマスターが「はい」と答えてカウンターの中央あたりに据えられたビールサーバーに向かう。その正面の席では、郵便配達の格好をした男性が背中を丸めて、うまそうにビールをすすっていた。その他に客はいない。郵便配達はボクと目が合うと、ちょっとはにかみ、会釈して言った。
「ここ、はじめて? ここのビールは最高ですよ。ホップがでしゃばらず、麦芽の香りが鼻に抜ける。それに、ゆっくり飲みきる最後まで、ちょうどいい冷たさが変わらないんですよ。こんなビールは滅多に出会えませんよ」
ボクも麦芽の香りがするビールが大好きだ。わくわくしてきた。
「仕事は、決まってるの? 郵便配達はいいですよ。あなたもどうですか、郵便配達」
彼はボクにそう言うとビールを飲み干し、「じゃ」とマスターに挨拶して立ち上がった。背中を丸めたまま店の外に出て、置いてあった赤い自転車にまたがり、坂道の向こう側に斜めに走っていった。首を伸ばして見てみると、あっち側のビルのポストに郵便を入れ、また斜めにこっち側に走ってきて、こっちの店のポストに郵便を入れと、飄々とジグザグに下っていく。あれなら自転車を漕がずに済んで楽だろう。それにしても、勤務中の昼間からビールを引っ掛けたりして、問題にならないのだろうか。
「はい、ビール」とマスターがボクの目の前に、きめ細かい結露をまとった背の高い1パイントグラスを置いた。
・・・
ボクは坂の上の交差点に立っていた。信号が変わると、懐かしい車がT字路を左右に分かれてゆく。ダットサン・ブルーバード、いすゞ117クーペ、フォルクスワーゲン・ビートル……。埃っぽい午後の太陽が斜め上に見える。ここはいったいどこなのだろう。どうして自分はここにいるのか。どうにも思い出せない。
少し坂を下ったところに小さなショットバーがある。間口を開け放ち、温かい午後の風がゆっくりと店内を流れている。店先には赤い自転車が立て掛けてあった。
中に入り、いちばん入口に近いカウンター席に腰を下ろしてビールを注文した。すると、2つ離れたカウンター席にいた郵便配達風の男がボクに話しかけてきた。
「なんかやらないと、退屈しちゃいますよ。なんでもできるんだから、やんなきゃつまらないでしょ。そこへいくと、郵便配達はいいですよ。坂だから楽だしね」
彼はニコッと笑い、ビールを飲み終えると、店の外の自転車にまたがって坂をジグザグに下りていった。マスターがボクの目の前にビールを置いた。
・・・
ボクはまた坂の上の交差点に立っていた。信号が変わると昭和の時代に自動車が何台も通り過ぎては、T字路を左右に分かれていくのも、いつもと変わらない。でも、どうやってここへ来たのか、今が何時なのか、ぜんぜんわからないのも、いつもと同じだ。
ボクはいつものように、坂を少し下ったところにあるショットバーに入り、いちばん端のカウンター席に座った。2つ隣では、やっぱり郵便配達の男性が背中を丸めてビールをすすっている。そしてボクを見て、またこう言った。
「やるなら郵便配達ですよ」
いつものように、しきりに勧誘してくる。
「仕事中にビール飲んじゃって、大丈夫ですか?」とボクは前から不思議に思っていたことを彼に尋ねた。
男は、一瞬、きょとんとした顔を見せた。マスターに目をやると、マスターがちょっと微笑んで頷いた。そして何かに気がついたと見えて、こう答えた。
「ああ、まだここの人じゃないのか。そりゃ残念。なら無理に仕事に誘っちゃいけないな。じゃ」
そう言うとまた店の外の自転車にまたがって坂を下っていった。ボクはマスターがビールを注いでいる間に席を立ち、壁のレコードジャケットを見て回った。ジミ・ヘンドリックス、クリーム、CSN&Y、マイルス、マル・ウォルドロン……、そしてレコードジャケットではない1枚の絵が目に留まった。シンプルな木枠の額に入れられた水彩のイラストだ。なんだか妙に胸が騒ぐ。懐かしいような、温かいような。
「それね、ヨシさんがね」とマスターが背後から声をかけてきた。
「ずいぶん前にそれを持ってきて、もしかしたら、これを取りに来る者がいるから掛けといてって。前はよく、あの奥のソファー席でビールをちびちびやってましたがね、最近は上に呼ばれて仕事が忙しくなったとかで、あんまり顔を見せないんです」
ヨシさん。ああ、よっちゃんか。やっぱり、あいつはここの常連だったのか。そうそう、ボクはあいつのイラストを受け取りに来ていたんだっけ。ボクが書いた短編小説の挿絵を頼んでおいたんだ。たしかにあいつの絵だ。間違いない。ボクが注文したとおりではないが、それはいつものことだ。
あいつはいつだって、ボクが注文した絵の内容を少しずらして描いてくる。大抵は、ボクが指定した場面に至る前段の様子だ。ボクが見せ場だと考えている場面の少し前。だから場面的にはインパクトがないのだけど、むしろそのほうが「はい、これですよ」と、見せ場そのものを見せるよりも奥行きがある。見せ場を絵にしてしまったら、ただの説明図になってしまう。そこへ至る前の絵なら、読者に期待を持たせることができるし、だいいち時間の流れが生まれる。そこまで考えてのことか、天性のものかはわからないが、とにかくあいつはそういう絵を描く。
あいつは、そうやって長い間、ボクにメッセージを送ってきた。言葉少ないあいつは、呆けたタヌキみたいな顔をして、ずっと前からイラストを通じてボクにあることを伝えようとしている。ストーリーに囚われるなということだ。話を流れを整えようとすると、周囲の設定や人物の心情を無理矢理そこに向けて調整しようとしてしまう。とくにボクは話にオチを付けたがる。オチを意識し過ぎると、そこに至るまでの話はすべてオチのための材料と化して価値を失う。
あいつはショートストーリーもよく描いていたが、落語のような明白なオチのある話は少なかった。ボクが書くものが小話だとすれば、あいつの書く物語は絵画だ。全体が大きな情景として心に残る。いつまでもそこに浸っていたい空気を醸成する。そこではストーリーはむしろ材料のひとつだ。
いつだったか、珍しくあいつにズバリと批判されたことがある。ある話の「このオチはいらない」と指摘された。その話は、人に見られるのが少し気恥ずかしい、作り物ではない素の心情を描いたものだったので、照れ隠しに付け加えたものだ。そこを直撃された。好きなものは好き、嫌いなものは嫌い、泣いたり笑ったり、真正面から自分の心の内を照れて茶化すことなく書けと、やつはあのちっこい目で伝えてくれた。いろいろなことを思い返しつつ、あらためてその絵を見ると、じんわりと胸が熱くなってきた。
「お客さん、ビール、ここに置きますね」とマスターがカウンターにビールを置いた。
あいつの絵に見入って、あれこれ思いを巡らせていたボクは、その声で我に返った。
・・・
ボクは自宅にいた。持って帰ることはできなかったが、たしかにあいつの絵を見た。家に帰ってから、妙な気分になった。あいつは、あのイラストに手を付ける前に死んでしまったのだ。もう1年以上になる。それを、あっちで仕上げてくれたのか。何をしてるか知らないが、忙しく働いていると聞いて安心した。麦芽の香りが鼻を抜ける、生ぬるくならないビールはついに飲めなかったが(これも照れ隠しのオチだから削除しろとあいつは言うだろうが)。
おしまい
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