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2021年02月

アクション純文学シーズン2『大蟹工船』大林多喜二

大蟹工船

前書き

 大井伏鱒二と大芥川龍之介と大泉八雲の三「大」似非作家の思いつきで始まり、やつらが一文字も書かないうちに全十巻もの話が出版された。やれやれ、これでまたヒマで平穏な弱小出版社の編集者に戻れると安堵していたそのとき、編集部に来客があった。いやな予感がした。

 青白い顔をしたその若者は、痩せ細った体にペラペラの和服の着流しで、しきりに周囲を気にしながらやってきた。編集室に入ると、勝手知ったる我が編集部という感じで、迷うことなく一直線に応接コーナーのソファーに向かい、遠慮なく腰掛けると、運悪くたまたま目が合った私に手招きをした。仕方なく彼のもとへ行くと、男は小声でこう言った。

「大林多喜二といいます」

 ちくしょう、また来やがった! 

 大林多喜二。小林多喜二の「大」版だ。小林多喜二と言えば日本のプロレタリアート文学を代表する『蟹工船』だ。

「ちょっと本を出していただきたく……」

 彼は懐から原稿用紙の束を取り出しコーヒーテーブルに置いた。おや、と思った。これまで原稿を持ち込んだ「大」野郎は一人もいなかったからだ。全員がタイトルだけを口頭で伝えて、あとは私に丸投げだった。原稿があるなら、こっちは楽でいい。

「ちょいと拝見」と私は原稿用紙を手に取った。いちばん上の紙にはこう書かれていた。

『大蟹工船』

 そうだよね。これしかないよね。原稿用紙をめくってみると、あとはまったく白紙だった。

「で?」と尋ねると、彼は平然とこう答えた。

「あとはあなた次第です。詳しいことは言えません。よろしく頼みます。追われていますので、失敬」

 そう言うと彼は席を立ち、そそくさと帰ってしまった。

 結局、趣向が違うだけで手口は同じだ。これが来ると、あと二人来ることが予想されるが、それはそのときの話だ。

 というわけで始まりました。文豪堂書店アクション純文学シリーズ、シーズン2をお楽しみください!


大蟹工船 

大林多喜二

1

 半年間におよぶ遠洋での漁を終えて港に蟹工船が帰ってきた。横付けされた船には、さっそく陸から大型クレーンが腕を伸ばし、船内で加工された大量のカニの缶詰を引き上げる。だが、クレーンを操作する人間がふと手を止めた。何かがおかしい。レバーに伝わる感触がいつもとが違う。

「おーい、こいつ、上げていいんか?」

 高いところにあるクレーンの操縦室の小さな窓から顔を出した操縦係は、船の上で作業している人たちに大声で尋ねた。

「おーう、そのまま上げろー」

 作業員は暗い船倉を覗き込み、軍手の右手を上下させながら答えた。

 操縦係は恐る恐るレバーを引いた。いつもなら、カニの缶詰を詰め込んだダンボール箱が木製パレットの上に四角く積み重ねられ、ラップでくるまれたものがクレーンで陸揚げされるのだが、レバーから伝わってくるのは、いつもの手応えとは違う。操縦係は不安に思いながらワイヤーを巻き上げた。

 やがて、船倉からゆっくりと引き上げられたのは、全員が目を疑う物体だった。

「大カニ缶だ!」

 だれかが叫んだ。全員が振り返り、息を呑んだ。

「こ、これは!」

 それは、カニ缶のダンボールの塊ではなく、ひとつの巨大なカニの缶詰だった。巨大なカニ缶は、船倉から次々と降ろされ、埠頭にはスーパーの入口近くの特売品コーナーのごとく、巨大カニ缶がピラミッド状に積まれた。


2

「隊長! 出ました! 川崎埠頭です」

 地球防衛隊の戦車の中で、無線機のヘッドホンをもぎ取るように外した隊員は、地球防衛隊城南支部特製和風戦車内の座敷にあぐらをかき、新聞を読んでいた隊長に伝えた。

「今度はなんだ?」

 新聞から目を離さず、面倒臭そうに隊長が聞くと、隊員は戦車の操縦席から後ろの座敷のほうへ大きく身をよじって答えた。

「大カニ缶です!」

「カニカン?」

 隊長はようやく新聞をちゃぶ台の上に置き、隊員に怪訝な顔を向けた。

「や、おおカニ缶です」

 隊員は「おお」に力を入れて念を押した。

「それって……、怪獣なの?」

「いえ、缶詰です。巨大な」

「缶詰は、大きくなると『がおー』って吠えたり、暴れたり口から火を吐いたりするのか?」

「いやあ……」

「その缶詰が街を破壊しているのか?」

「それはまだ……」

 いつもは何を考えているのかわからない、ぼんやりとした平凡なオヤジなのに、今日の隊長は鋭いところを突いてくる。

「缶詰と戦うわけにはいかん。あっちから攻撃してくれば別だがな。ともかく、怪獣をやっつけることが地球防衛隊の本来の任務なわけだし」

「いや、でも隊長、巨大な缶詰ですよ。しかもカニですからね、一度開けちゃったら、その日のうちに全部食べないと駄目になっちゃうんですよ。だから、今日中に手を打たないと……」

「とは言え、缶詰を『やっつける』ってのもねぇ。怪獣じゃないものをやっつけるのには抵抗があるなぁ。なんか違うんだよな」

「だって、宿題をやっつけるとか、激辛ラーメンをやっつけるとか、言うじゃないですか」

 隊員はいつもと違って筋道の通った話し方をする隊長に戸惑い、意味のない反論のための反論を口走ってしまった。だが、ここまで言ってしまうと簡単には引っ込みがつかない。妙な勢いがついてしまった。

「それに、やっつけるときは『早いとこやっつけましょう』と『早いとこ』が必ずセットで付いてくるんですよ。だから早いとこやっつけないとダメなんです!」

 隊長は黙って隊員の顔を睨みつける。自分の空虚な言葉がその鋭い眼光に反射して、自分の胸を貫くような気がして隊員も黙り込んだ。

 そろそろ初夏という季節、戦車の中は蒸し暑く、隊員の額に汗が浮かぶ。隊長は視線を逸らさず、じっと隊員の顔を見つめる。

 重い重い沈黙が泥水のように戦車の中に溜まっていった。


3

 沈黙が続いたまま日が暮れた。隊長と隊員は、何もすることがなく、ぼんやりと戦車の中で時間を潰していた。だが、気さくな会話はなかった。地球防衛隊の「本来の使命」というものが隊員の中にわだかまっていた。入隊以来、そんなものを正式に指導された覚えがない。入隊案内とかオリエンテーションとか、そんなものは一切なく、ただ体で覚えろという方針なのか。だとすれば、そんな基本中の基本は、もうとっくに会得しておかなければいけないはずだ。それなのに、これまで一度も考えたこともなかった。いい加減な気持ちで怪獣退治を漫然と続けてきた自分が、情けないやら、恥ずかしいやら、隊長とまともに目を合わせることができない。

 隊長は黙って隊員を睨み付ける。浅薄な心の中が見透かされているようで怖かった。気まずくて身の置き所がない。どうにも自分から言葉を発することができずにいた。

 その沈黙を破ったのは隊長だ。

「お前の鼻は、意外に丸いな。見れば見るほど丸い」

「はあ……」

 隊員はどう答えてよいかわからなかった。隊長はいったい何が言いたいのだ。

「帰ろっか」

 隊長はそう言うと、膝の上に開いたままだった新聞をざっと畳んでちゃぶ台の上に置いた。

「はい」と隊員は素直に答え、急いで運転席に着いた。

 戦車は第一京浜国道を、眩しい夕日に向かって走ってゆく。そして、南蒲田の交差点を左に曲がった。戦車が入って行ったのは、糀谷あたりの町工場が立ち並ぶ地域だ。戦車は、そこいらの町工場と同じ、スレート貼りの古ぼけた大きな建物の前に停車し、がらごろと鉄の無限軌道でアスファルトを削りながら向きを九十度変えた。そしてその建物の中にバックで入っていった。

 間口の広いスライド扉が開け放たれた入口の上には、白いペンキ塗りのトタンの看板が、建物の幅いっぱいにかかっている。そこには、黒いペンキで、丸ゴシック書体の「地球防衛隊の基地」という文字が書かれている。看板の隅々には錆が浮き、文字もところどころが剥がれて浮いている。

 戦車のエンジンの音が止まった。砲塔のハッチが開き、隊員と隊長が降りてくる。土間の地面に飛び降りた二人は、壁に沿って設けられた鉄の階段を、黙ったままカンカンと上っていった。階段が行き着く先は、天井の高い建物の奥、上半分ほどの空間に作られたロフト状の事務所だ。そこには建物内を見渡せるアルミサッシの窓があり、それを通して見える天上の黄色みがかった蛍光灯が数回点滅して、ぼんやりと灯った。

 隊長は事務所に入るなり、パイプ椅子にどかりと座り、ふうとため息をついた。一日中戦車の座敷に座って新聞を読んでいただけなのに、疲れたといった顔をしている。

 隊員は椅子には座らず、その足で鉄製のロッカーのところまで行き、少々ゆがんで立て付けが悪くなった扉を力任せに開いた。中のフックに戦車の鍵をかけ、帽子を棚の上に置いた。そしてまた力任せに扉を閉めると、「じゃ、お先に。お疲れさんっす」と隊長に挨拶し、軍服のまま、そそくさと事務所を出た。

 隊長は、半分居眠りをしていたようで、少し間を置いて「ん」と答えたが、そのときにはもう隊員は階段を下っていた。


4

 隊員は日が落ちた糀谷の町工場の間を歩き、いつものコンビニに入った。冷蔵庫の前でしばらく立ち尽くす。今日は金麦にしようか麦とホップにしようか悩んでいる。意を決して冷蔵庫の大きなガラスドアを開いて、金麦500ミリリットル入を一缶取り出した。次に向かったのが弁当コーナーだ。そこでは迷わず唐揚げ弁当を手にとった。

 レジの前には数人の行列ができていた。自分の番になったとき、ふたつあるレジの空いていたほうに、店長の愛人と近所で噂されていたが最近になって名札の苗字が店長と同じになったことに気づき、おじさんとおばさんの恋物語を想像するに気味が悪いやらほっこりするやら複雑な気分にさせる無愛想なおばちゃん店員が慌てて入り、「次の方どーぞー」とニコリともせずに隊員に声をかけた。

 しかし同時に、もうひとつのレジにいた、最近入ってきた若くてチャーミングな中国人留学生と思われるアルバイトのリンちゃんも「次の方どぞー」と言った。隊員は迷わずリンちゃんのほうへ行く。店長の妻は、「ふん」という表情をかすかに見せ、「隣のレジへどうぞ」の札を乱暴にカウンターに置いて奥へ引っ込んでしまった。隊員は、このリンちゃんに少し惚れていた。だが、リンちゃんはいつも隊員のことを上目遣いに見るだけで、隊員が何か話しかけても返事をくれたことはなく、愛想がない。

 それでも、リンちゃんのことが気になる。もし何かのきっかけにリンちゃんと仲良くなれて、デートなんかできるようになったら、どこへ連れて行ってあげようかと夢想することもしばしばだ。しかし、自分が地球防衛隊の隊員であることは絶対に明かせない。もし結婚となって、中国のご両親に挨拶に行ったとき、自分のことを偽らなければならない。それより、リンちゃんにも一生自分を偽って生きていかなければならないのが辛い。そのときほど、地球防衛隊の隊員であることを重く感じたことはない。

 だが待てよ、地球防衛隊は秘密組織なのか? 内緒にしろと隊長から言われたことはない。戦車でファミレスに乗り付けて軍服のままランチを食べたりしているし、戦車の後ろには「地球防衛隊」と書かれたのぼり旗も立っている。基地の看板にも「気球防衛隊の基地」とあるだけで「秘密基地」とは書かれていない。そこのところは、どうなんだろうと考え込んでいたら、「千三百二十円です」とリンちゃんの声がして隊員は我に返った。リンちゃんが怪訝そうな顔で見ている。お金を払い、弁当と金麦をエコバッグに入れながら、「ごめんね、ボンヤリしちゃって……」とリンちゃんに照れ笑いを見せたものの、彼女はそれを無視して、やや背伸びをしながら隊員の肩越しに、後ろで待っている人に「次の方とぞー」と声をかけた。


5

 隊員は都内の京浜地区にある偏差値が中の下ぐらいの都立高校の出身だ。クラブ活動はしたことがなく、グレるわけでもなく、目立たない存在として、毎日ぼんやりと学校に通っていた。三年生になり進路指導を受けたとき、将来のことなど何も考えていなかった。受験勉強が面倒なので、大学に行く気もなかった。

 放課後の教室で担当教諭から「どうするんだ?」と聞かれた隊員は返答に困り、「どうしましょ?」と逆に聞き返した。

 そこでしばらく沈黙が続いた。どうにも漠然としているので、教諭はなんの気なしに、「自衛隊なんかどう?」と聞いてきた。

「いやあ、戦車とかカッコいいと思うけど、人に銃を向けるとか、オレ無理だし。憲法反対っすから。世の中の役には立ちたいと思うけど……、難しい試験とかアレだし……」と曖昧に答えた。

「憲法反対」とはどういう意味なのか、言った隊員本人もよくわかっていなかった。なんとなく見栄を張って口から出た言葉だ。おそらく憲法九条改正反対のことを言いたかったのだろうが、その程度の知識と意識の持ち主であることを露呈するだけとなった。だが、そんなことは教諭にはすっかりお見通しなので、まともに聞いてはおらず、完全にスルーされて事なきを得た。

 教諭が黙っているので、場を取り繕うつもりで隊員は、「地球防衛隊とかだったらいいかも……」とジョークを放ち、ひとりで笑った。

 これもスルーだろうと次の軽口を準備しかけたとき、意外なことに教諭は「あ、そうなの? じゃあ言っとくわ」と答え、生徒の進路指導ファイルをパタンと閉じ、席を立って教室を出ていってしまった。

 しばらくすると、その教諭から「地球防衛隊、願書が届いたよ」と連絡があった。最初は「なんだそれ?」と思ったが、あの進路指導のときのことを思い出した。「本当にあったんだー」と驚き、他に何もやることもないので、一応出願してみることにした。

 試験とか面接とか、あるんだろうなー、面倒臭いなー、着ていくものがないなー、丸坊主にしないとダメかなー、などと漠然とした不安をちょっとだけ感じつつ日常を過ごしていたら、すぐに「入隊許可証」が届いた。あっさり就職が決まってしまった。いついつここへ来いと、指示が書いてあった。

 わけのわからないところに就職を決めてしまった隊員だが、これでよかったのだろうか、などと深く考えることはせず、とりあえず定職に就けることだけを安心材料として高校を卒業した。そして指定の日の朝、指定の場所に行った。そこには、「地球防衛隊の基地」という大きな看板を掲げる建物があった。そういう名前の町工場なのなかと思った。別にそれでもよかった。しかし、一メートルほど開いていたスライド扉から中に入ると、そこには大きな緑色の戦車が鎮座していた。そしてその戦車の後ろには、誇らしげに「地球防衛隊」というのぼり旗が立っていた。本物だ、と隊員は感じた。


6

「すいませーん」と、やや控えめに、よそ行きの声で人を呼んでみた。しばらくすると、二階の事務所の安っぽいアルミ製のドアが開き、カーキ色の軍服のようなものを来た小柄な男性が現れ、壁に沿って取り付けられた鉄階段をカンコンと降りてきた。小柄で小太りで、禿頭でちょび髭の、漫画のような人物だ。彼は土間になったその建物の床をゆっくりと歩いて、近づいてきた。

「あの、ボク……」と言いかけ、男性の鋭い眼光に気づいて背筋を伸ばし、直立不動で「自分は本日よりここで……」と言うか言わないかのうちに男は片手を挙げて制し、こう告げた。

「上のロッカーに制服があるから、着替えておいで。出動だ」

 男はそのまま、隊員のことを振り返ることもなく、戦車の周りを点検して回った。

 隊員は「いきなりか」と驚いたが、言われるがままに鉄階段を昇り事務所に入った。とくに何もない部屋だった。古い鉄製のロッカーがふたつ並んでいて、会議用のテーブルにパイプ椅子が二脚。背の低い鉄製のファイル棚の上には電気ポットが置かれている。奥にはトイレと、小さな流しがあり、その壁には瞬間湯沸かし器が付いていて、その出湯管には布巾が掛けてある。基地というよりは、スーパーの従業員休憩室だ。

 ロッカーには、名札のところに、紙に「隊長」とマジックで手書きされた札が入ったものと、名札のないものとがある。隊員は、名札のないロッカーが自分のものかどうか判別がつかなかった。なぜなら、この地球防衛隊の「基地」には何人の隊員が配属されているか、わからなかったからだ。しかし、事務所には自分以外に誰もいない。ちょっとカビ臭い肌寒い空気が沈殿している。誰もいないんだなと、隊員はすぐに気づいた。そして、名札のないロッカーを開けると、ハンガーに新しい制服が掛けられていた。

 隊員は制服に着替え、隊長のところまで降りていった。

「ん、じゃあ行くか」と隊長は言い、戦車によじ登って砲塔の上のハッチから中に入った。隊員もそれに続き、初めて戦車の中に入った。

 ここまでは、地球防衛隊という、ある種の軍隊組織に属したというよりは、運送屋のアルバイトで作業服に着替えてトラックの荷台の乗せられる状況とまったく変わりないなと隊員は感じた。

 初めて乗る戦車の内部は、意外なことに和室作りだった。事務所よりも何倍も生活感がある。戦車と和室が感覚的にマッチしない。工事現場の飯場に送り込まれたのかと錯覚し、頭がくらくらした。


7

「お前、車の免許持ってるか?」と隊長の声で我に返る。

「あ、いえ、高校を卒業したばかりなんで」と隊員は答えた。

「そうか。まあ、戦車だから関係ないがな。運転してみろ」

 そう言うと隊長は隊員にキーを投げてよこした。普通の自動車のキーと変わりないもので、小さなタヌキの縫いぐるみのキーホルダーが付いていた。

 隊員はキーを受け取ったはよいが、戸惑ってしまった。運転経験といえば遊園地のゴーカートぐらいなものだ。

「そこ座って、鍵穴にキーを入れて回すとエンジンがかかるから。で、後は操縦桿とペダルでちょいちょいと。右がアクセルで左がブレーキね」

 あまりにも突然で、あまりにも自然で、あまりにも緊迫感がないので、隊員は半分現実感を失っていた。言われるがままにキーをひねると、ガオンと大きな音を響かせてエンジンがかかった。ブオーンという唸り声とともに、ガラゴロと重そうな機械音と振動が戦車の中に伝わる。隊員は操縦桿を握り、右のペダルをちょっと踏んでみた。いきなり戦車の床の前方がガクンと持ち上がり前進を始めたので、隊員は慌ててペダルから足を離した。すると戦車は急停車し、今度は床の後ろのほうがガクンと持ち上がって、隊員のお尻が椅子から前方にずれ、計器盤の鉄のパネルに膝をぶつけた。戦車はガレージに前から突っ込んであったので、危うく奥の壁を突き破って裏の家に突っ込むところだった。

「バックだバック。右側に小さなレバーがあるだろ、それを『後』に入れるんだ。そんでバックで道に出たら、方向転換だ」と隊長は事もなげに言った。

 隊員はレバーを後に入れてアクセルを踏み込む。すると戦車はまたガクンと前後に揺れて、後部に垂直に備え付けられた太い排気管から真っ黒い煙を吐いて、勢いよく後退を始めた。そしてそのまま、道を挟んだ向かいの町工場に突っ込んだ。隊員は衝撃を感じ、慌ててブレーキを踏む。切り替えレバーを「前」に入れて戦車を少し前に進めた。隊長はハッチから頭を出して後ろを見ると、「あー」と小さく言った。

 戦車に押しつぶされて、ひしゃげた正面のスライド扉から町工場の社長が飛び出してきた。

「おいおい、また新人さんか?」

 社長は困った顔で言った。

「いや、すまん。また、言っておくから」

「頼んだよ」

 そう言うと、社長は素直に工場の中に戻っていった。よくあることのようだ。隊長は戦車の中に戻ると、何事もなかったかのように、第一京浜国道の方向を指さして言った。

「じゃあ、あっちに行こうか」


8

 戦車の操縦は思ったより簡単だった。ゴーカートと違ってハンドルの代わりにレバーで舵を切る形になっているが、ゲームパッドだと思えば違和感がない。無免許なので交通ルールはよくわからないが、戦車が近づけば人も自転車も車も避けてくれる。どんなに激しくぶつかっても、相手が通常の家屋や車や電柱程度のものなら、まったく凹むこともない。いたって安全な乗り物であることを、隊員は一日で理解した。ただし、あくまでの中に乗っている人間にとって安全なのであって、外の人がどう感じているかは、分厚い鋼鉄の壁の向こうのことなので知る由もない。

 その日は、練習がてら東京の街をぐるりと走って、羽田空港の隣の城南島海浜公園で、海に向かって大砲の射撃訓練を行った。ズバンズバンと調子よく大砲を放つ。数百メートル先の海面に水しぶきが上がる。なんとも爽快だ。いい仕事に就いたものだと隊員は喜んだ。

 そのときパトカーがやって来て、ハッチから頭を出していた隊長に向かって警官が、「こら! こんなところで大砲なんて撃つんじゃない! 銃刀法違反で逮捕するぞ!」と警告した。すると隊長は「あれま、そうなのか。じゃあちょっと言っておくわ」とズボンのポケットからガラケーを取り出して、どこかに電話をかけた。

 すると間もなく、パトカーからもう一人の警官が降りてきて、隊長を逮捕すると意気込んだ警官に何やら耳打ちをした。途端に彼は決まり悪そうな顔をして、半分ふてくされた敬礼を隊長に投げつけ、パトカーに乗って帰っていってしまった。

「帰るか」と隊長は隊員に言った。

 隊長はどこに電話をしたのだろう。電話一本で警察を追い返すとは、この人は何者なのだろうか。隊員は、さえない中年のおっさんとしか感じていなかった隊長を見直した。

 午後、戦車は基地に帰ってきた。お向かいの工場は綺麗に直っていた。若いだけあって、わずか半日で戦車の操縦に慣れてしまった隊員は、戦車から降りようとしていた隊長を呼び止めた。

「なんかこの、操縦桿の右の遊びが大きいんですよね」

 すると隊長は、仏頂面のまま運転台に近づき、左のレバーをちょっと動かしてみた。

「ああ、確かに。じゃあこれ、言っておくわ」

 隊長はそう言って戦車を降りようとしてハッチに通じるハシゴに足をかけたが、また隊員に呼び止められた。

「あの、何度もすいません。さっきの射撃訓練のときに、大砲の弾を全部撃っちったんで、補給とか、しなくていいんですか?」

「あー、もう在庫がないんだよね。それもついでに言っておくわ」

 そう言い残し、隊長は戦車を降りて鉄階段をカンカンと小走りに登っていった。

 隊員が驚いたのは翌日の朝だった。出勤すると、基地の壁いっぱいに砲弾を入れた木箱が山積みになっていた。戦車に乗り込み、操縦桿をいじると、右側の遊びは見事に調整されていた。隊長の「言っておくわ」で何もかもが整ってしまう地球防衛隊とは、とんでもない組織なのかも知れないと隊員は、誇らしいのと同時に、空恐ろしいものも感じた。

 それが隊員の入隊初日と翌日の出来事だった。


10

 いつものパトロールと称した戦車ドライブから基地に戻った隊員は、いつものように戦車の点検をしてから鉄階段を上がって事務所に戻った。パイプ椅子にほぼ寝そべるようにだらしなく座っている隊長を横目に、隊員はロッカーに帽子と戦車のキーを片付けた。「お疲れっす。お先に」と事務所を出ようとしたとき、テーブルの上の古い固定電話が鳴った。隊員は、そこに電話がかかってきた記憶が3回ぐらいしかない。隊長がその電話を使うところを見たのも、クリスマスの夜にピザを注文したときぐらいだ。

 隊員は咄嗟に受話器を上げた。

「はい……」

 地球防衛隊の基地です、と言っていいものかどうか言い淀んでいると、いつの間にか隊長がテーブルを挟んだ向こう側に立っていて、手を伸ばしてきた。隊員は隊長に受話器を渡す。

「はい、ああ、ジュネーブか」

 そこまで言うと、隊長は受話器の送話口を手で覆い、隊員に向かって「もう上がっていいぞ」と目で促した。

 隊長がそう言うので、隊員はちょいと会釈して事務所を出た。

 いつものコンビニへ向かう途中、隊員は隊長の電話口の言葉を思い返していた。

「ジュネーブ」って何だろう。ジュネーブといえばスイスだ。スイスと言えば、国際なんとかの本部とかある国だ。その程度の知識は隊員にもある。スイスの場所は知らないが。

 もしかしたら、地球防衛隊のスイス本部か。てことは、地球防衛隊は、じつは巨大な国際組織で、日本の警察なんかの上にあって、だから隊長は電話一本え警官を追い払うことができたのか。「言っておくわ」の一言で、工場の扉を一日で直したり、大砲の弾を山ほど調達したりできるのは、そんな組織が背後にあるからなのか。

 ジュネーブ……。末端とは言え自分が続している組織の計り知れない大きさを想像して、隊員は身震いした。

 京浜急行糀谷駅周辺は、買い物客や帰宅する人がオレンジ色の夕日に労われて、のんびりと歩いていた。スーパーや居酒屋チェーン店の店先には、「今日だけカニ大漁セール」というのぼり旗が目立つ。いつものリンちゃんのコンビニでも、「大漁カニ祭」と称して店頭にカニ弁当が山のように積まれ、大安売りをしていた。はて、もうすぐ夏なのにカニの季節だったかな、と隊員は少し妙な心持ちになったが、信じられないほどたっぷり盛られたカニの身に惹かれてそれを手に取り、金麦といっしょにカゴに放り込んでレジに向かった。

 今日もまたリンちゃんに当たった。運がいいと思った。でも、リンちゃんはやっぱり愛想がない。


つづく……のでしょうか?

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