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社長の業務;ショートストーリー『空斎先生』

社長1 村の庄屋というのは、その頃には地方の教養階級の主たる担い手でもあった。
 この村の茂左右衛門も、この辺では蔵書家として知られており、また京や江戸から学者や詩人や俳人や絵師なんぞを招いては饗応するのを楽しみとも徳ともしていた。また、そういった著名人の酒席での揮毫や俳画などたくさん持っていたのである。

 茂左右衛門が空斎先生の名を聞き知ったのは、いつ頃のことであろうか。
 この村の後ろにある山々の奥の山国のさらに奥の秘境とも言える阿羅羅山のそのまた奥に隠遁しているという。
 和漢の書はことごとく諳んじ、占術や医術にも造詣が深く、さらには阿蘭陀渡りの書物もすらすらと読みこなし、日本国中はもちろん、清国、朝鮮、天竺から、ぺるしあやらあらびあやらを旅し、阿弗利加から欧羅巴まで行って、各地の著名の氏と歓談してきたという。
 なぜ、国禁である海外渡航が出来たかというと、空斎先生は仙術も自家薬籠中のものとなし、なかんずく飛行術を得意としていたから、欧羅巴はおろか地球上どころか月の世界まで自由自在に往復できるのだそうな。
さらには変身の術を心得、読心術までも身につけているのだから、泰西の貴紳といえども先生の前では釈迦の掌の上の孫悟空のようなものだ。
 
 いかに名士好きの茂左右衛門とはいえ、そんな脱俗超凡の仙人の如き人物、いや実在しているのかどうかさえ定かではない人物とよしみを通じることができるとは、とても思わなかったが、知り合いの商人の弥次郎兵衛が「もしかすると、わかるかもしれない」と言い出した。
 彼は薬種も扱っているので、山国で熊の胆を取る鉄砲勇助という猟師と付き合いがある。この勇助が、何度か空斎先生と会っているというのである。
 
 あるひどい霧の日、勇助が山の中を彷徨っていると、彼の前に天を衝くような巨大な影が現れた。
 これは、巨人ダイダラボッチに違いないと、勇助は恐怖感のあまり思わず、鉄砲の弾を放っていた。
 すると霧の中から、
「あぶない、あぶない。鉄砲勇助ともあろうものが、何をうろたえておるのじゃ」
 と声が聞こえ、弾丸を親指と人差し指で摘んだ、五尺に足りない小柄な老人が現れた。
 勇助は、老人が弾丸を指で摘んだのにも驚いたが、なぜか自分の名前を知っているのにも驚いた。どっちを先に驚けばいいのかわからなくて混乱している内に、老人は霧の中に消えてしまった。その間際、
「わしは空斎という。気の向かない人とは会わないことにしている」
 と言っていたようなが気がする。 

 弥次郎兵衛によれば、勇助は大嘘つきではあるが、信頼の置ける男だという。なによりも、空斎に認められたところが、すごいではないか、と言うのである。
 理屈が通っているのか通っていないのか判然としなかったが、ともかく唯一の手掛かりである。
 茂左右衛門は、弥次郎兵衛に手紙を託し、勇助を通じて空斎先生に渡してもらうよう頼んだ。

 そして、便りはあったのである。といっても、勇助、弥次郎兵衛を通じての言付けであったが、茂左右衛門の情熱に感じた空斎先生が来月の一五日、満月の晩に茂左右衛門宅を訪問する、というのである。
 彼は狂喜乱舞した。そして、悩んだ。どのように空斎先生をもてなそうか。
 既に俗界を捨てられた先生に俗人にするような饗応をして喜んでいただけるだろうか。
 かといって、清国、天竺、欧羅巴まで御覧になった先生である。あまり、みすぼらしいものではご機嫌を損ねるのではないか。
 ともかく、弟子の端くれにでも加えて頂くべく、出来る限りのことをしよう、と考えて、切ないような思いでその日を待った。

 明くる月の一五日の晩、満月は煌々と輝いているのだが、いくら待っても空斎先生のご光臨がない。
 やきもきしているうちに、村の吾作という若者の馬小屋を覗いていた汚らしい老人のうわさが入って来た。
 これは馬泥棒に違いないと思った吾作は仲間の若者を呼び集め、老人をつかまえて殴ったり蹴ったりしたという。
「それだ!」
 茂左右衛門は飛び出した。
 吾作の家に行って、老人をどうしたかと訊くと、さんざん打擲した上で、村のはずれの方に追いやったという。
「馬鹿め!」
 茂左右衛門は、走り出した。普段なら、肥満した身体で息が切れるところなのを、構わず走った。
 村はずれのあたりで、粗末な着物にたっつけ袴の老人の後ろ影が見えた。
「空斎先生!」
 そう叫ぶと、老人はちらりと振り向いた。だが、また向こうを向いて歩き出した。茂左右衛門は泣きそうになって、再び走り出した。
 こちらは運動不足の太った身体とはいえ、相手は老人である。精一杯走っているうちに、もう少しで追いつきそうになった。
 その時、老人の姿がふと消えた。
「先生・・・」
 茂左右衛門が目をこすりながらあたりを見回すと、道の遥か先の方に老人の後ろ姿が見えた。それは満月の光を受けてか銀色に光っていた。
 彼は感動した。こんなに美しい人間の背中を見たのは初めてだ。さすがに道を極めた人は違う。
 再び、師の名を呼ばわりながら走り始めた。若い頃のように足が軽い。東風よりも早い。これなら先生に追いつける。なんだか身体が光り始め、さながら一個の彗星のようになるのを感じていた。

 翌日、村の庄屋宅は大騒ぎだった。昨夜、飛び出していった茂左右衛門が帰ってこないのである。
 そこへ、薄汚い、ちょうど茂左右衛門が追い掛けていった老人と同じような爺さんがやって来た。 
「茂左右衛門さんはご在宅かな」
 手伝いをしていた若者の一人が怒鳴るように答えた。 
「それどころじゃないよ。夕べ、空斎先生とかいう汚ねえ爺を追い掛けて、どっかへ行っちまった。これから、村の若い者を集めて山狩りだ」
「おや、空斎なら、わしじゃが」
 若者は、目をどんぐりのようにぎょろぎょろさせていたが、すぐに庄屋の女房を呼びに行った。出てきた女房は庄屋に負けず立派な体格だった。
 老人は頭を掻きながら言い訳をした。
「いや、昨晩、着くはずだったが、ちょっとした用事があって一日遅れてしまったんじゃ」
「じゃあ、うちの人が追い掛けていった空斎先生というのは何だったんだろう」
 女房は、口をあんぐりと開け、しばらく寄り目になってしまった。が、すぐに怒りで顔を真っ赤にして、
「まったく先生だかなんだか知りませんがね、あんたみたいな人がいるお陰で、うちの人は、うちの人は、うちの人は・・・」
 それから先は、言葉にならず、燃え上がるような目で老人を睨みつけるばかりだ。
 空斎先生は、べそをかいたような顔になった。
  
 

 
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