社長の業務:落語『龍の与太郎』

この与太さん、ある日、長屋の井戸端に突っ立って、路地の入り口のほうをじーっと見ておりました。そこへ同じ長屋の者が声を掛けます。、
熊「おい、与太。なに突っ立ってんだよ。口をぽかんと開けて、相変わらず間抜けな面だぜ」
与「おや、どちらさまでしたっけ」
熊「おい、しっかりしなよ。おめえの隣の熊だよ」
与「ああ、隣の熊」
熊「呼び捨てか」
与「・・・さん」
熊「分けて呼んでやがら。なに、ぼんやりしてんだい
与「あ、あのね、今ね、ここんとこ通り過ぎていった女、いーーーーーーーーーーーい、女だったね」
熊「ずいぶん伸ばしやがったな」
与「あれは、どこのどなた様だろうね」
熊「同じ長屋の者だから、様をつけるほどのことはねえがな」
与「え? この長屋のひと?」
熊「馬鹿はこれだからしょうがねえな。ひと月ばかり前に越してきて、お前んちのこっち隣に俺が住んでいて、反対の隣に住んでいるのが、あの女じゃねえか。おめえんところにも、挨拶に来たろ」
与「じゃあ、ご近所だ」
熊「ご近所過ぎら」
与「いーーーーーーーーーーーい、女だね」
熊「また、始まりやがった。ははあ、お前、あの女に惚れたな」
与「いいや、惚れちゃいないよ」
熊「じゃあ、どうしたんだ」
与「ただ、あたいのお嫁さんになってもらって、朝から晩までずっと一緒にいたいと思っただけだ」
熊「それを惚れたって言うんだ。だが、あの女はよした方がいいぜ。あれは両国に出ている見世物の蛇女だ」
昔はてえと、隅田川に掛かる両国橋のたもとの火除け地にいろんな見世物小屋が出て、随分と賑やかだったそうですな。
熊「それも、化粧をしたり被り物を被ったり、という作り物じゃねえ。客が見ている前で、その肌が鱗に変わっていくんだそうだ。ありゃあ、本当の化け物だ・・・考えても見ろ、女日照りの独り者がごろごろしているこの長屋で、あんないい女に誰も手を出そうって者がいねえんだ。よした方がいい」
与「じゃあ、なんだね。あたいのお嫁さんにしても、誰も文句は言わないんだね」
熊「あれ、恐くねえのかよ。ありゃ、人間じゃねえよ」
与「あたいだって、人間じゃないよ」
熊「じゃ、何なんだい」
与「あたいは与太郎さん」
熊「この野郎。おめえは、人間で与太郎なんだよ」
与「そんな一人二役は難しい」
馬鹿に何を言っても効かないようで、その晩、女が長屋に戻ってくると押しかけて、
与「お前、よく帰ってきたね」
女「きゃっ、なんだい、お前は」
与「お前の亭主の与太郎さん」
女「おやっ。何だと思ったら隣の与太さんか。どうしたんです」
与「あのね、話せば長いことながら、あたい、お前さんに惚れちゃったの。おかみさんになってください」
女「長いことながらって、ずいぶん、短いじゃないかね。つまり、あたしと所帯を持ちたいとこう言うのかい・・・お前さん、あたしの正体を知らないんだね」
与「蛇女でしょ」
女「あら、呆れたね。知っているのかい。それを知ったら、大抵の男は尻尾巻いて逃げていくんだけど」
与「あたい、尻尾がないから巻きようがないんだい。ねえ、おかみさんになっとくれよ」
女「お前さん、馬鹿かも知れないが、本当に実があるんだね・・・お前さん、いえ与太郎さん、あたしが人間じゃないというのは本当なんです。
あたしの正体は龍神の娘なんです。雲の上に住んでいたんですが、時々、人間の世界に遊びに来るんです。
こないだも人間の娘に化けていろいろ見物していたんだけど、夜中になって、ふと水に入りたくなって、大川で着物を脱いで素っ裸で泳いでいたんです。誰もいないと思って。
ところが、両国の見世物小屋の婆さんに見られていた。下界に降りて龍から人間に化けるところを見られて、跡をつけられていたんです。
婆さんは、脱ぎ捨てていた着物を奪うと、これを返して欲しけりゃ言うことを聞いて見世物になれ、と言う。悪いことに、虹を閉じこめた水晶の玉が着物のたもとに入っていたの。
その玉がなけりゃ、あたしは天に戻れないんです。どうか、それだけは返してくれと言ったのに、絶対に返そうとしない。隙をうかがって奪い取ろうとしても、ちっとも隙を見せないんです。
与太郎さん、それを取り戻していただけませんか。もし、そうしてくださったら、あたしはずっと人間界にいることはできませんが、一夜だけ、与太郎さんの妻になりましょう」
与「なんだか話が長いんで、あたい、くらくらしてきちゃった。要するに、その玉を持ってくればいいんだね」
女「婆さんは、すごく陰険で用心深いんです。気をつけてください」
与「なんだか知らないけど、行ってくらあ」
と、馬鹿は、こういう時、余計なことを考えないのがいいですな。
こちらは、両国。例の見世物小屋の奥で、百目蝋燭の下、婆さんが今日の上がりの銭函を前にほくほく顔。水晶の玉を手に、
婆「今日も、大入り満員か。この玉さえ押さえておけば、あの女は一生、言いなりさ。まがい物ばかりの、この両国の見世物で、あいつばかりは本物なんだから、周りは霞んじまうさ。江戸が終わったら、東海道を見世物しながら上って、名古屋、京、大坂についたころには、一生遊んで暮らせる金持ちになっているね」
と、ほくそ笑んでいるところを、掌の上の玉をむんずと掴んだのは与太郎さんであります。
馬鹿の風格と申しましょうか、案内も請わずに、堂々といきなり入って来てしまうんで、婆さんの子分もあっけに取られる中を奥まで来てしまった。
婆さん、慌てて玉を放すまいとしますが、馬鹿力とはよく言ったもので、そのまま婆さんごと引きずって歩きます。
長屋に戻った頃には、婆さんをどこかに落としてきたか、それとも引きずっているうちに擦り切れてなくなっちゃったか、ともかく玉だけを「ほい」と龍神の娘に渡します。
女の喜ぶまいことか、一夜、しっぽり契った後、夜明け前に与太郎の枕元に手をついて、
女「お名残は惜しゅうございますが、私は天に帰らなければいけません」
与「天に帰るてえと、火の見櫓かなんかに上がるのかい」
女「そうではございません。この玉に念を入れますと、私は龍の姿に変わり天に昇るのでございます」
与「そりゃ、面白いや。やって見せとくれよ」
女だけにしみじみと衣ぎぬの別れを惜しむなど、浪漫的な別れにしたかったのですが、馬鹿の勢いには敵いません。その場で念を入れる・・・。
ばっと、まぶしい光りが玉から出て、女は龍の姿になって天に昇る。
馬鹿だったけれど、一夜を夫として供に過ごした男、今一度、その顔を見ておこうと、下を見ますと与太郎がいません。 ふと前を見ると、自分と一緒に天に昇りつつある。
女「お前さん、どうしたの」
与「いやあ、今まで忘れていたんだけどね」
女「何をさ」
与「考えてみたら、あたいも、ずっと昔に天から下ってきて人間に化けた龍だったんだよね。馬鹿だからすっかり忘れて、人間の与太郎のつもりでいたんだが、玉の光りを浴びたら思い出した」
女「あら、そうだったのかい。じゃあ、天上界で所帯が持てるんだね。うれしい・・・でも、ヘンだね。お前さん、人間の姿のままだよ」
与「あ、あたい、馬鹿だから龍の姿に戻るのを忘れていた」
てえと、
与「わーーーーーーっ」
そのまま、真っ逆さまに落っこっちまった。
女「お前さん!ああ、なんてことだろう。せっかく龍なのに馬鹿なばっかりに命を落としてしまった」
わっと泣いた涙が、激しい雨となって大江戸に降りそそいだと言います。
ところが与太郎さん、馬鹿なもんだから、死んだのを知らずに生きていた。
龍神の娘、この様子に呆れて、龍王様に申し上げると、破顔一笑、
王「わっはっはっは。我が龍の一族に、こんなに呑気なものがおったとは愉快である。もしその方に、その気があるなら、今しばらく人間界に戻って、そのものの面倒を見てやるがよい」
龍王様の許しを得て長屋に戻り、「高砂や、この浦舟に帆を揚げて」、大家さんの媒酌で晴れてめでたく所帯を持ったという龍の与太郎の一席。
馬鹿馬鹿しいお話でございました。
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