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社長の業務:ショートストーリー『いいことをするのは難しい』

社長  空も、森も、その湖も宝石のような底深い光りを湛えていた。全ては美しかった。
 大切なものを失った俺は、もはや生きる意味を見出し得ず、ここに来てしまった。
 この湖は、その外観にもかかわらず死の湖として知られている。湖岸から水の中に入っていくと、どこまでも遠浅のように思われるのだが、不意に、まったく不意に深い亀裂に足をとらわれる。そして、人はそのまま奥の方まで沈み込み、不思議なことに死体が二度と浮かび上がってこないのだという。
 死の観念に取り憑かれた人間が、その最後の場所にするため訪れる、そういう湖なのだ。

 ふと前を見ると、湖畔に若い女が一人佇んでいるのが見えた。
 きちんとした身なり、整った顔立ちだがその横顔は青ざめて見えた。湖の色が映えているようでもある。
 彼女もまた、若くして死に取り憑かれた人なのだろうか。
 ふと俺は、ひとつくらい、いいことをしてから死んでも遅くはないように思った。その若い命に、再び生きる力を吹き込んでから、俺は俺の道を行く。
 それは、くだらないものだった俺の人生の最後に少しだけ灯る蝋燭の光りのようなものだと思えた。
 俺は、女に声をかけようとした。

「もしもし、こんなところで何をしているのです」
 声をかけようとしたら、後ろから声をかけられた。振り向くと、墨染めの衣を着た若い僧侶が立っていた。
「話しかけないで下さい。私にはやらなければいけないことがあるのです」
 と俺は答えた。こんな坊主と話をしている暇はない。彼女を救わねばならぬのだ。
「もしかして、あなたは死のうとなさっているのではありませんか」
 と僧侶は言った。
「それはそうですが、お坊さんと話をしている場合ではないのです」
「死に急いではいけません。私は、近くの寺のものですが、この湖が自殺の名所になっているという噂を聞いて、少しでも人々の力になれないかと思って、時々ここへ来ているのです。今日は、あなたに会えてよかった。さあ、私に話してご覧なさい。どうして、死にたいなどと思ったのですか」
 ふと、この坊主をあの女の方へ差し向けて、俺は死んでしまえば、坊主も満足、女も救われるのではと思いかけたが、
(それでは、俺はどうなる。人生の最後に人を救って上げてから、気持ちよく死に赴くというのが俺のプランではないか)
 俺は、僧侶を振り切るように、女の方へ向かって走り出した。
「お待ちなさい!」
 坊主も追い掛けてくる。衣を尻っぱしょりをして、生白い脛をあらわにしながら走ってくる。しかも意外に速く、俺は追いつかれてしまった。
「逃がしませんぞ!」
 女が湖に向けて歩き出すのが見えた。こんなことをしている場合ではない。彼女が死んでしまうのではないかと気が気ではなかった。
 すると、向こうの森から、髭面の山仕事をしているような大柄な男が出てきて、女の方へ向かって歩いてきた。
「なんだ、あいつは」
「そんなことはどうでもいい。あなたが死のうと思うわけをお話しなさい」
 坊主は俺をがっちり羽交い締めに固めてしまった。一方、大きな山男は女の傍らに来て何か話しかけている。
「なんてこった。あいつが彼女を救ってしまったら、俺の計画は水の泡だ」
 俺は坊主を振り払った。すると、今度は足にタックルしてきて、俺は転がされてしまった。さらに俺に馬乗りになって、首を絞めてきた。
「さあ、話すんだ!」
「は、話すものか」
「話さないと命はないぞ!」

 風に乗って、山男と女の会話も聞こえてきた。
「お嬢さん、この辺に斧が飛んでこなかったかね。おら、森の中で木を切っていたんだが、手を滑らせて斧を飛ばしてしまっただ」
「さあ・・・」
 死を決意した人に向かって、なんという無神経な話しかけ方だろう。走っていって、山男に意見してやって、併せて女を説得してやりたかったが、それには、この坊主をなんとかしなければならない。
「放せ」
「あんたが死ぬわけを聞くまでは放すものか」
「じゃあ、言えば放すのか」
 その時、湖の方で声がした。見ると、湖のまん中に光りの柱が立っていて、その中に金髪の女がいた。
「あなたが落としたのは、金の斧ですか。銀の斧ですか」
 俺はあっけに取られて見ていたが、坊主はまだ、
「さあ、話せ。話すんだ」
「ちょ、ちょっと待て。そんなことより、あの湖の上にいるのは誰だ」
「どうせ湖の女神か何かだろう。そんなことはどうでもいい」
 俺にとっては驚嘆すべき超常現象なのだが、この坊主はあまり気にならないらしい。

 山男ののんびりした声が聞こえてきた。
「うんにゃ、おらの落としたのは金の斧でも銀の斧でもねえだよ」
「銅の斧ですか、アルミの斧ですか、ステンレスの斧ですか」
「いんや、普通の鉄の斧だ」
 女神はしばらく黙っていた。が、
「プラスチックの斧ですか・・・」
「鉄の斧はないんかね」
「・・・・・・あなたが落としたのは大きな葛籠ですか、小さな葛籠ですか」
「話題を変えるでねえだよ」 

 突然、俺達の後ろの方から、スピーカーの雑音を通した声が鳴り響いた。
「さあさあ、一号車から五号車のバスの人は、こっちへ来てください。六号車から一〇号車の人は、あっちへ行って」
 老若男女、いろとりどりの服装の集団がぞろぞろ歩いてくる。
「なんだ、ありゃ」
「ここが自殺の名所だというんで、物好きな観光客がバスを仕立てて見物に来るんだよ」
 でかい音で、悲しげなような楽しげなような妙な音楽が流れてきた。そちらの方を見ると屋台の店が並んでいる。
「さあさあ、神秘の湖名物、自殺まんじゅうにあの世せんべいはいかがかな」
「皆さん、これが落ちると浮かび上がってこれない、不思議な湖ですよ。記念に絵はがきをどうぞ」
「記念写真撮ろうぜ。はい、チーズ」
「ピース、ピース」
 とんでもない騒ぎになってきた
「あなたが落としたのは、大きな財布ですか、小さな財布ですか」
「だから、鉄の斧はないんかね」
 女神と山男は、まだやっている。なんと、その横では例の女がみたらし団子を食べている。屋台の売店で買ったものらしい。これから自殺しようとする者の態度として、いかがなものか。不謹慎ではないか。

「あれ、こんなところに、坊さんと男の人が倒れている」
「どうした、どうした」
 ついに俺達は、観光客に囲まれてしまった。
「皆さん」
 坊主は立ち上がって、人々に向かって言った。
「ここにおられる男の方は、今日、自殺をしようと思って、ここへ来たのです」
 うおーっという歓声が上がった。
「本物の自殺を見れるとは」「こりゃ、運がいい」
「皆さん!待って下さい。私は、ここで、このような気の毒な方を救おうとしている僧侶なのです」
 さっきに数倍した喧しさになった。自殺を見たいという者と救われるところを見たいという者が言い争いを始めたのである。
「皆さん、どちらにせよ、この方にここへ来た理由を話してもらうべきではないでしょうか」
「そうだ、そうだ」
 坊主を先頭にした群集が俺に迫ってきた。未だ味わったことのないような恐怖だ。
「わかった、話すから、それ以上来ないでくれ・・・俺は人生でもっとも大切な者を失ったのだ」
「それは何でしょうか。家族でしょうか、お金でしょうか、名誉でしょうか」
「言わなきゃいけないのか」
「言って下さい」
「では仕方がない・・・ペットの・・・ペットの象の花子が逃げ出してしまったのだ」
「象?」「象を飼うことが出来るのか?」「象なんて、でかいものが見つからないのか?」
「本当だ。ありのままを話しているんだ。嘘じゃない」
 すると、湖の方から女神の声が聞こえた。
「あなたが落としたのは、象の花子ですか、カバの太郎ですか」
「だから、普通の斧だって言っているじゃねえか」

 意外なことに、象の花子は湖の女神のところにいたのだ。俺は死ぬ理由がなくなった。
 満足した僧侶と観光客は帰っていった。屋台の売店は撤収した。
 鉄の斧は山男の前に落ちてきた。あまり高く飛んだので、落ちてくるのに時間が掛かっていたのだ。満足げに斧を担ぐと、仕事の続きをしに森へ入っていった。女神は一件落着したので、湖に姿を消した。

 そして・・・あの女が、みたらし団子を食べながら、湖から離れて道路の方に歩いていくのが見えた。
「女を救ったのは、みたらし団子だったのかもしれない・・・」
 俺は、花子と並んで立ちつくし、女の後ろ姿を見送っていた。 

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