社長の業務:ショートストーリー『海のものでも山のものでもない』

そう言って旅の老僧は街道沿いの茶屋を後にした。五、六本の松を背景にした、なかなか風情のある茶屋と言ってもよい。ところが、だいぶ僧の後ろに遠ざかった頃、煙をひと筋立てて消えてしまった。
それだけではない、一里塚、路傍の地蔵、庚申塚、岩、僧が通り過ぎるもの通り過ぎるもの、みな、後から後から消えてしまうのである。
「何者じゃな」
僧は立ち止まると、誰に話しかけるともなく言った。すると、もう一人、僧と同じ姿をした者が目の前に現れた。
「いたずらするでないぞ」
すると、今現れた老僧の姿がゆらゆらと揺れ始めて、透明になってきて、陽炎のような煙のような雲のような蒸気のようなオナラのような曖昧なものになった。そして、その曖昧なものから声が聞こえた。
「お坊様、私は『海のものでもない山のものでもない』という妖怪でございます。またの名を『ああでもないこうでもない』と申します。一名を『あるようなないような』ともうします。さらには『わかったようなわからないような』という名もございます」
僧は苦笑した。
「賑やかそうで結構じゃの。わしに何か用かの」
「お坊様もおわかりのように、私はいろいろなものに姿を変えて生きております。名前も、ひとつに定まりませぬ。つまり、どれが本当の私である、というものがないのでございます。これが、私には苦しくてなりませぬ」
そう言っている間にも、一名「海のものでも山のものでもない」は、煙が流れるように姿を変え続けた。
「どれか、『これが私だ』という姿があれば、こんなには苦しくないのではないかと思うのです」
「うむ。汝の苦しみはもっともなもの・・・と言いたいところじゃが、話す相手を間違えておるぞ。諸行無常は、お釈迦様がお悟り遊ばした、この世の根本的なあり方じゃ。だから、わしは、お前の在り方の方が逆に理に適っているとさえ思えるのじゃが」
「私を救ってはいただけないのでしょうか」
「わしは、単なる旅の乞食坊主。そんな立派なことはできないよ。しかし、まあ、しばらく、わしと一緒に旅をしてみるかね。飽きたら、また、どこか別のところへお行き」
「ありがとうございます。どんな恰好でお供しましょうか」
「では、小坊主にでも化けなさい」
「小坊主とはどのような者でしょうか。和尚様、その小坊主とやらの姿を思い浮かべて下さい、そうしたら、私は、それの姿になれましょう」
老僧は、小坊主を連れて次の宿場のはずれの木賃宿を訪れた。昼間、托鉢で得た銭や米や麦を差し出して泊めてもらうのだが、安いだけに部屋があてがわれるわけではない。囲炉裏の周りに、みな、雑魚寝をするのだ。
泊まりたい旨、宿の主人に言うと、「ぎゃーっ」という叫び声と共に戸が閉じられてしまった。
ふと気がつくと、連れている小坊主の顔がない。すでに、ふわりふわりに溶け出している。
「お前、一晩か二晩、小坊主のままでいることが出来ないのかい」
「まことに転変限りないのでございます。何かを見れば、そのものの姿になり、何かに感ずれば、そのものになり、ちょっとした風のそよぎで姿が変わり始めるのでございます。今、囲炉裏に掛かっている鍋の湯気を見ましたれば」
なるほど、これで人間共に交わって生きていこうと思ったら、難しいかもしれないと老僧は思った。
宿場町を通り過ぎて、山の中へ入ったあたりで、古いお堂があった。
「今晩は、ここへ泊めていただこう」
ともかく、雨露だけはしのげるのである。
老僧は、妖怪に命じて、小枝や杉の葉を拾ってこさせると、火を焚いた。頭陀袋から、縁のかけた小鍋を取り出すと、それに米と水を入れて火にくべた。どこかで拾ったのだろうが、これで粥を煮るのである。
「この世には不変なものなど、なにひとつないのじゃ。今、森の奥でフクロウが鳴いておるじゃろう。あれとて、去年には雛だったかもしれんし、来年には死んでいるかもしれない。生まれる前の姿、死んだ後の形、想像のしようもない。わしとて、そうじゃ。一所不在の托鉢僧。あした、自分がどうなっているかなど、わしにもわからんのじゃ。お前と同じ。同じじゃよ」
「それでしたら、なんで私は、こんなに苦しいのでしょう」
「お前は、いったい、何でありたいというのじゃ」
「なんでもいいのでございます。人間でも、この森の木でも、あの鳴いているフクロウでも」
「要するに、お前はお前じゃないものだったら、何でもいいというわけだ」
「はい」
「それは無理じゃな」
「と、おっしゃいますと」
「お前はお前になりきる以外に生きる道はない」
「私は私がいやなのでございます」
「好きだとか嫌いだとかいうのは一時の感情じゃ。ものの見方に過ぎない。そんなに転変きわまりないお前が、なぜ自分の感情にだけはこだわるのか不思議じゃのう。どうしようもないものを、どうにかしようというのは馬鹿げている。同時に、何のきっかけで変わってしまうかもしれぬものにこだわり続けるのも馬鹿げておる」
妖怪の声音ががらっと変わった。
「俺は不変の姿、動じない心を欲しいと申しておる」
「そんなものは、欲しがるものではない」
「では、貴様は、なんのために仏道修行をしておるのだ」
「なに、なんのためでもない。ただ、やっておるのじゃよ」
妖怪の姿が揺れ始めた。
「くそっ。このクソ坊主。いい加減なことを言いおって。少しは頼りになるヤツだと思っていたら、そこらにいくらでもいる生臭坊主と同じか」
その時、離れた山からオオカミの遠吠えが聞こえた。妖怪は、その声に感応して姿を変じた。
「ちょうどいい姿になった。この坊主めを食い殺してくれよう」
「ほう。わしを食うというのか。まあいい。出家となった時から、いついかなる死に方をしても悔いることはないと思っているのじゃ。食いたければ食え。うまくないと思うがな」
老僧は結跏趺坐を組み、目を半眼に閉じた。オオカミはその前に立ち、憎さげに見下ろして、
「こいつめ、悟り澄ましたようなことを言いおって」
飛びかかるかと思った瞬間、オオカミの姿が崩れた。火にくべておいた粥が「くっ」と煮える音を立てたため、粥に姿を変えて、地面にこぼれてしまったのである。
老僧は目を閉じたまま、指で天を差した。木立の切れ間に、大きな明月が上がっているのが見えた。地上はあまねく月光で照らされていたのである。
「あ!」
叫ぶと妖怪は姿を消した。
老僧は旅を続けた。妖怪の姿はなかった。あるいは解脱を遂げてしまったのかもしれないし、そうでないのかもしれない。
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