社長のショートストーリー『最後の下校』

木造二階建ての校舎にきついオレンジ色の西日が赤々と当たって、燃え上がるようだった。
教室の中は、逆さまの台形に区切られた夕日の色と、窓枠と壁の蒼いとみえるまでの影の、ふたつの地帯に、はっきり別れた。
「それでは皆さん、教科はこれでおしまいです」
と教壇のあたりから声が聞こえた。陽は斜めに差し込むので、先生の姿は完全に闇の影の中に入っているのである。それでも、そこには八の字の髭を生やし、ポマアドで髪を固めた姿があるはずである。
「起立、気をつけ、礼」
がたがたと椅子の脚と床がぶつかる音が教室中に響いて、生徒達の顔が光と影の中を、上がったり下がったり、現れたり隠れたりして、ちらくらした。
「先生」
と、窓際の一番前の席の生徒からしわがれた声が上がった。
教室へ斜めに差し込む光は、窓際におかれたグッピーの水槽を透過して、その生徒のはげ頭をぴかぴかと輝かせ、長く白い顎髭に荘厳な光沢を与えていた。
「先生、わしはこの一年間、先生に教わったことを最期まで忘れまいと思っております。この年になって、大学校をご卒業になられた学士様を先生といただき、お教えを受けるなぞ、夢だに見ぬ光栄でござりました」
生徒の声は震えていた。教壇の蒼い影の中からは、先生の落ち着いた声が聞こえてきた。
「いえいえ、儀右衛門さん、お座り下さい。私のような若輩者が儀右衛門さんのような立派なご老人を生徒扱いするのは、やむを得ぬこととは言え、心苦しいことでした。この一年間の数々の失礼の段は、どうかお許し下さい」
「いえ、先生が『歴史の歴史』、ヒストリイ・オブ・ヒストリイを模型を使って示して下さった時など、これまでの自分の無知蒙昧が啓かれるようで、感激もし、恥じ入りもしたものでありますわい。これでこそ、これからの余生、胸を張って生きていけると自覚したのであります。
わしが教室にこのように紋付き袴で通ってくるのは、及ばずながら先生への尊敬を形に表したかったからに他なりませぬ」
儀右衛門老人の絹の紋付きも夕日を受けて、誇らしげにぴかぴか光った。
後ろの方からけたたましく足音が響いて、影の中から子供が二人、飛び出してきた。坊主頭の男の子と、おかっぱの女の子である。二人は老人の両の手にすがると、
「儀右衛門さん、遊ぼう」
とせがんだ。
「これこれ、太郎に花子、わしは、まだ先生に御礼のご挨拶を申し上げている最中だと言うに。遊ぶのはあとあと」
「だって、時間がないんだもん」
と花子が不満そうに頭を振った。赤いリボンが夕日の中で、花火のように見えた。
「やだい、やだい、遊んでくれなきゃ、やだい」
太郎が地団駄を踏んだ。
「いや、じゃが・・・」
「やだい、やだい」
花子が納得しかけているのに、太郎の地団駄はどんどんひどくなる。かんかん照る夕日の中で、どんどん音がする。
「太郎、あたしが遊んであげるよ」
と、影の中から女の声がした。その人が動くと、顔や胸が光の中に垣間見えた。洗い髪を無造作に結んで、着物の帯は昔の絵の湯女のように低く結んでいる。着物の胸元から乳房が覗いた。
「お由良さん」
と太郎は駆け寄った。遊び相手が現れれば、誰でもいいのかもしれない。
「おっぱい、触らせてくれる?」
「バカな子だよ、お前は」
お由良は太郎の手を引くと、日差しのいっぱいに当たる中へ、その仇っぽい姿を現して、教室の後ろへ行き、床の上に座ったらしい。早くも、何が嬉しいのだか、きゃあきゃあとはしゃぎ立てる太郎の声が聞こえる。
花子の方は、置いてけぼりを食ったような格好で、呆然と固まる。やはり、後ろの方から声が掛かる。
「花子ちゃん、こっちへいらっしゃい」
束髪に袴にブーツという、明治期の女学生にありそうな姿で、陽が眩しいのか、目の上に片手をかざしている。仇っぽいお由良を忌々しげに見送ったあとで、花子に声をかけたのである。
「花子ちゃんは、わたしが遊んであげてよ。今日教えていただいた、算数のおさらいを一緒にいたしましょう」
花子は女学生のもとに走り寄って、その膝に飛び乗った。二人は算数の教本を机の上に広げて、小声で読み始めた。
『一足す一は、なぜ二になるのでせう』という章だった。
昨日学んだのは、『一とは、何でせう』、その前は『零とは何でせう』、『一と零とは、どのやうにちがふのでせう』『数とは何でせう』『数と数でないものは、どのやうにちがふのでせう』・・・・・・一年間、色々と学んできたものだ。
「その、先生のご授業を拝聴するのが、本日限りであるとは、なんと残念なことでありましょうか」
しわがれた声をさらに破けそうにして、儀右衛門の挨拶は続いていた。
「ありがとうございます、儀右衛門さん」
青い闇の中から、冷静な先生の声が聞こえてきた。黒曜石がしゃべっているみたいだった。
「お話の途中、失礼なようではありますが、私はここでいったん、教員室に戻らなければなりません」
「先生」
「教員達の会合があるのです。なに、長くは掛かりません。最後の顔合わせと挨拶をしておこうというようなものだと思われます。それが終われば戻って参ります」
「間に合いますでしょうか」
「それでは、こういたしましょう。私が戻らなければ、皆さん、教室をお出になって、校門のところでお待ちになって下さい。私が先に行けば、皆さんを待っております。あすこで待ち合わせいたしましょう。そして一緒に下校いたしましょう」
青い影の中の先生の気配が消えた。教壇のあたりが急に寂しくなった。老人は震える声で、
「もう、行ってしまわれたのか」
と呟いた。身体も少し震えていた。
「大丈夫よ、儀右衛門さん、ちょっと教員室にいらしただけじゃありませんか」
と答えたのは、赤ん坊に乳を含ませている若いおかみさんだった。
「そ、そうじゃな。いい年をしてうろたえるなど、みっともないことであった」
赤ん坊は嬉しそうに乳を吸っている。
「えらいのお、この子は。今日も大人しくしておったのう」
「先生の授業を聞いて、この子も嬉しいのだわ。こうして抱いていると喜んでいるのが胸から伝わってくるの」
「そりゃ、感心な子じゃ」
「あたしなんて、こうやって学校に通ってくるのは、半分はこの子のためみたいなもんですもの」
「ああ、大きくなったら、さぞ立派な大人になるじゃろうに・・・
老人は声を詰まらせた。皺だらけの目縁に涙がにじんだ。
「時間がない・・・・・・」
『言葉とは何でせう』『言葉は音でせうか』『普通の音と言葉とは、どのやうにちがふのでせうか』『意味とは何でせう』『なぜ音が意味を持てるのでせう』・・・・・・。
女学生と花子のおさらいは、国語の方に移っていた。
後ろの方からは、相変わらず太郎のはしゃぎ声が聞こえる。もう、なんだかわけがわからなくなって、はしゃぐのが止まらなくなってしまったようで、お由良も困ったような微笑みを浮かべている。
「さあ、皆さん、それでは、そろそろ行こうではありませんか」
儀右衛門が朱色の光の中と青黒い影の中を見回して呼びかけた。
「そうですね、先生も、もう校門にいらしているかもしれない」
と、どこからか若い男のまじめそうな声が聞こえた。
ふたたび、椅子のがたがたいう音が教室に充満した。続けて生徒達が出口へ向かって歩いていく足音がひとしきり騒がしかった。大人も子供も、杖を引いている人も車いすの人もいるらしかった。夕日も人影も、足音も話し声も、光も音も絡まり合って、天井や床に反射してくるくる回った。
人影は、一人残らず廊下へと出て行った。騒音は、次第に遠ざかっていき、静寂が教室の中に取り残されて、うずくまっていた。
木立が長方形の広い広い校庭の縁をかがるように並んで植えられたのが、いやに、いつもよりも黒っぽかった。校庭は朱鷺色の夕日で一杯に満たされていた。
「こうしてみると赤い光と言っても、その中に緑や黄が交じっているようだな」
と言ったのは、さっきの若い男かもしれなかった。
「メロン色とみかん色と石榴色と葡萄色、レモン色」
と花子が答えた。
「あ、先生、もういらしているわ」
と言ったのは、確かに女学生である。
彼女の指さす校門の太い柱の間に立っている長身の影は、先生のものであるに違いなかった。白い麻の背広を着て、中折れ帽をかぶっている。
みんなの足が、少しずつ急いだ。なんだかじりじりして、どうしてこの校庭はこんなに広いのだろうと思われた。
先生はいっぽんの黒い影に過ぎなかったが、中折れ帽を脱いで、こちらに向かって振っているようだった。見えるはずもないのに、にこにこ笑っているように思われた。
先生の背後の夕日の赤が、金色を含んで強くなった。鋭い風の音が聞こえたような気がした。白色の破裂が起こった。
「あ・・・・・・」
誰かが叫んだ。
先生の身体から炎が吹きだした。山火事の中の杉の木のようだった。しばらくはそのまま手を振っていたが、こらえきれなくなったように膝から崩れて、あとは石炭の山のような塊となって、燃え続けた。
世界は、その終わりを始めた。
儀右衛門が歩いたまま燃え始めた。お由良と太郎が手を繋いだまま火を吹いた。赤ん坊は小さな火の玉となった。おかみさんも女学生も花子も、その他の生徒達も歩きながら燃え始めて、歩けるだけ歩いて倒れた。
校庭も校舎も炎の海となり、世界そのものがごうごうと音を立てて燃えさかった。炎の中に青い影が沈んでいるようだった。あまりにひどく燃えると、そう見えるものらしい。
もっとも、誰も見ているものはいない。
日が暮れた。
もう、赤い色はどこにもない。かつて校庭だったあたりを、コウモリに似たものがひらひらと飛んでいた。
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