みなさまと共に歩む…… (*個人的な感想です)

社長のショートストーリー『松濤の美術館で展覧会を見て』

社長1 松濤の美術館で展覧会を見て、渋谷駅の方へ戻る途中だった。東急百貨店の前まで来ると、 
「ちょ、ちょっと、ちょっと」 と呼び止められた。
 振り返ると、私と同い年くらいの中年男がにこにこしながら近づいてくる。中肉中背、ちょっと猪首で、ノーネクタイに紺色のズボン。手に何も持っていないところを見ると、この近くで仕事をしている人かもしれない。
 「よーお」 と声をかけてきた。親しげ、というより馴れ馴れしい。
 妙に口吻がとがっていて、鼠かモグラモチのような顔である。こちらを下から覗き込むような目つきで、三白眼が目立つ。 
 何か、私とのあいだに悪い秘密でもあるかのように、変な笑いを浮かべて、 
「よ、あれからどうしたのよ」 
 と、肘でこちらを突いてくる。言っていることが不明であり、なにが「あれから」で、なにが「どうした」のか、わからない。 
 私は男の顔をまじまじと見た。知り合いにこんな顔、いただろうか。私は、人の名前と顔を覚えるのが決して得意ではない。 
 人脈の広い人の中には、一度会っただけで、驚くほど沢山の顔と名前を覚えてしまう才能の持ち主がいるものだが、そういう人の記憶力が信じられない。 私など、大して広くもない付き合いの中で、その狭い世間をちゃんと把握しているかどうか自信がないくらいなのだ。 
「あれから」と彼が言うのだから、私は最近、この人に会ったらしい。私は、この一ヶ月ほどの間にあった人を思い浮かべてみた。ついで、検索範囲を三ヶ月半年、一年と広げてみた。が、この人に会った記憶はない。 
 それより以前に会ったのだとすると、この人は、今、私に対してある種の懐かしさを感じているのかもしれない。そうとなると、なおさら頑張って彼のことを思い出してやらなければならないような気がしてくる。 
 だが、そういった私の驚きや苦悩は、彼にとっては関心の外であるらしく、
「いや、こっちも大変でさー」 
 と、勝手に話を続けた。 
 何が、どう、大変だったのだろう。その大変さは、私になんらかの関係とか責任があることなのだろうか。だとすれば、事態を明らかにして、善処する、謝る、言い訳する、逃げる、などの処置が必要になるかもしれない。 
「ど、どう大変だったの?」 
 私が、このひと言の反問に、全神経、全注意力を賭けた。 
 この短い問いに対する答えから、彼の問題とするところを探り、彼と私の関係を推測し、彼が私に対して、親しみを感じているのか、敵意を隠しているのか、これから食事でも奢ってくれようというのか、訴訟に訴えるつもりなのか、ただ愚痴をこぼそうとしているだけなのか、そもそも、この男はいったい誰なのか、等々を探り出さなければならない。 
 さらに、質問の言葉をどう選ぶべきか。 日本語は難しい。敬語もあれば、くだけた言葉もある。話し方によって、彼との関係性が自ずから表れてしまう。例を挙げれば、 
「どのように大変だったのですか」 
「大変って、何だよ」 
「またまた、大げさなんだから。なによ」 
「殿の一大事とあらば、拙者、身命を賭ける覚悟。ささ、お話しくだされ」 
 答え方によっては、相手にヘンな感じを抱かせたり、からかったり、喧嘩を売っているように聞こえるかもしれない。 
 その中で、この場合、もっともあたりさわりのなさそうな言い方を選んだのが、 
「どう大変だったの」 
 で、あった。この選択に賭けた私の神経は、張り詰めたロープのようになっていた。 
「それがさあ、はりはりふれてか、こりけって、くれがぼろぼろ」 
 と、彼は答えた。途中から、妙に早口になり、おまけになんだかふわふわした口調であった。 
 相手の日本語がヒアリングできないという事態に私は慌てた。 
「え?」 
 と、思わず聞き返した。 
「はりはりふれてか、こりけって、くれがぼろぼろ」 
 相手は、多少、ゆっくりと声を高めて繰り返した。その目に、こんなこと、繰り返させるなよ、という色が浮かんでいる。 さて、もう聞き直すわけにはいかない。 
「あ、ああ・・・」
  私は、肯定とも否定とも驚愕とも喜びとも感嘆とも同情とも失望とも安堵とも、いずれにも聞こえ、いずれにも聞こえないような、ため息のような音を漏らした。 
「ノザワなんて、あれだよ、やばかったんだよ」 
 ノザワ。突然、人名が出てきた。 ノザワさんなら知っている。 
 私の先輩に当たる人だ。とても温厚で博識な人で、ずいぶんと世話になったものだ。今は、故郷の山梨に住んでいるが、半年ほど前、用事で松本に行った帰りに会ってきた。家族で歓迎してくれた。去年、孫が生まれて、俺、おじいちゃんになったよ、などと人のよさそうな笑みを浮かべていたのを覚えている。 
 共通の知人がいたと言うことは、やはり、私はこの男と何処かで面識があったのだ。 
「へえ、ノザワさんが?」 
 私は、一縷の望みを見いだしたつもりで、そのノザワさんについて、彼が知っていることを聞き出そうとした。 
「それがよう、ノザワ、やべえんだってば・・・」 
 妙に話をぼかしてみたり、例の早口になったりして、細かい事情はよくわからないのだが、どうもおぼろげに見えてきたのは、あのノザワさんが、犯罪まがいのことをやって私腹を肥やしており、それがとある筋にばれそうになって、慌てて揉み消した、ということのように思えるのである。 
(あの、ノザワさんが・・・) 
 あの、誠実で優しいノザワさん、その包容力に後輩としてずいぶん甘えたものだが、あのノザワさんが、なにやらいかがわしいことに手を汚していたなんて。 
 私の中で、ノザワさん像がガラガラと音を立てて崩壊していった。 
「そんなんで驚いてんじゃねーよ。ワカバヤシなんかよお・・・」 
 ワカバヤシ?また知人の名が出てきた。 まだ若い知り合いだが、元気がよくて行動力があり、一方で困った人を見ると捨てておけないという正義漢でもある。年下ながら、ずいぶんと学ぶことの多い好青年だ。
 「ワカバヤシよう、あいつ、スケベだろ」 
 スケベ?ま、まあ、若いのだから、そういう方面に関心があるのは自然なことだ。それに彼なら、女性から人気があっても当然だと思う。 
 それが、そういう穏やかなスケベとスケベが違うのだという。 
 例によって、この男の話は、ぼかしたりはぐらかしたり、小声になったり早口になったり、意味不明になったりするのだが、断片的なことをつなぎ合わせてみると、なんでも、仲間と共に、薬物を使って女性の意識を失わせ、一室に連れ込んで・・・。 
「ウソだろ?」 
「ウソじゃねえよ。まあ、どう思おうとアンタの勝手だけどよ」 
 脳裏のワカバヤシくんの明るい笑顔に、鋭い亀裂が入った。その奥に人間の底知れぬ悪の暗闇がちらちらと・・・。 
「ま、俺なんか、その辺はうまくやってっからな。へへへ」 
 なにやら自慢しているらしい。その妙に下卑た調子が気にくわない。とはいえ、彼はノザワさんやワカバヤシくんの知り合いで、しかも私には知り得ない彼らの一面を知っているらしいのだ。 
 誰だろう。誰だったっけ。 
 ふと、この顔に思い当たるものが出てきた。そうだ、確かにこんな顔を見たことがある。 
 あれは、たしかタカハシ君の家で会ったのだ。タカハシ君の家の二階でごろごろしていた、親戚の何とかという人がいた。それが、この男に似ているような気がする。 
 でも、タカハシ君って、昔の友だちだったが、あれはいつ頃のことか。 
 六歳の頃だ。何十年も昔のことである。あの人だとしたら、もう相当の老齢になっていなければならない。 
 どうも、違うようだ。 
「で、今日は何よ?」 
「へ?」 
「今日は、こんなところで何してるんだよ」 
「いや、松濤の美術館で○○展を見てきたんだけど」 
 けーっと、彼は怪鳥のような声を上げてせせら笑った。 
「美術館ってタマかよ、笑わせるよ。どうせ、フーゾクでも行ったんだろう。昼間っから、このスケベ」 
 なんだか、もう、この男と話をしているのがイヤになってきた。 
 その時、突然、天啓のごとくに、 
「この男は、私を誰かと人違いをしているのではないか」 
 と、頭の中にひらめいた。 今まで、相手のあまりに自信満々な態度に押され、また自分の自信のなさから、ひたすら、この人が誰だか思い出さなければならない、という考えに捕まえられていたが、なんだ、知らないであれば思い出せないのは当たり前だ。 
 ノザワさんだって、私の知っている人と彼の知っている人物は別人だろう。別に珍しい苗字でもない。第一、ノザワさんが、男の言うような薄汚い小悪党であるわけがない。 
 ワカバヤシくんまで、同姓の知人がいたとは、偶然にも御念のいったことだが、まあ、そういうことだろう。そう考えれば、得心がいく。ワカバヤシくんが、そんな卑劣な性犯罪者であるはずがないのだ。 
 私は、ようやく自信を取り戻した。 
「人違いじゃないですか」 
「へ?」 
「あなた、人違いしているんでしょう。私はあなたなんか知らない」 
 男は、その金壺眼をとんがらして、ついでに鼠のような口もとんがらして、まじまじと私を見つめた。 気がついたか。わかったら、あっちへ行け、無礼者。 
「けーっけっけっけ」 
 再び、怪鳥のような笑い声を立てると、 
「人違いでしょうって、よく言うよ。え?何よ、俺に会うとまずいことでもあるの?なあ、なんだよ、言ってみ。ねえ、白状しちゃいなよ。けーっけっけっけ」 
 始末に負えない。私はもう振り捨てて行ってしまおうかと交差点の方へ顔を向けると、人混みの中に見知った顔が交じっているのに気がついた。 人一倍大きな体躯。灰色のもじゃもじゃの髭、トレードマークの丸い眼鏡。 
 ノザワさんだ。ノザワさん、東京に出てきてたんだ。 
「おーい、ノザワさん」 
 私は思わず、交差点の向かい側に向かって声を上げた。聞こえたのか、ノザワさんは不思議そうにこっちの方を見ている。 
「ノザワさん、こっちこっち」 
 こんどは気がついたらしい。ぱあっと光り輝くような、人なつっこい笑顔。 信号が青に変わったので、こっちへ向かって大股で歩いてくる。こんなごみごみした都会の中で、彼の回りだけ、山巓の清浄な空気が漂っているような気がする。 
「いやー、奇遇だね」 
「東京に来てたんですね」 
「うん、今朝着いたばかりだ」  
 横断歩道の真ん中を過ぎたあたりから、すでに大声で会話が始まっている。
 私は、話しながら、例の男をちらちらと横目で見ていた。このノザワさんこそ、お前が勘違いしている証拠だ。 
「いやー、どうもどうも」 
 渡り終えたノザワさんは、大きな手を前につきだして握手を求めながら、近づいてきた。 
 私も手を差しだし、その包容力の塊のような手が、私の手を包むのを待った。だが、それはなかなかやって来なかった。 
 ノザワさんは、ぎくりとしたように足を止めた。視線の先には例の男がいた。 
「よう、ノザワ」 
 男は皮肉そうな笑いを浮かべて言った。 
「久しぶりだな。なにしてんだ、こんなところで」

社長のショートストーリー 『うたかたの人びと』

社長1  三木というのは無礼な男である。 「Nさん、顔が大きくなりましたね」  人の顔をしけじけと眺めて、そんなことを言う。  三木は高校時代の後輩である。どういうわけか、中年に至るまで、時々会っては酒を飲む仲である。何もこんなやつを相手にしなくても、高校時代の後輩なぞ他にいくらでもいるはずなのであるが、腐れ縁というのか、こいつとの付き合いが続いているのである。  どうも、先輩を先輩と思っていない節がある。 「お前に顔のことを言われたくない」  と私は言い返す。  三木の学生時代のあだ名は「カボチャ」だった。ハロウィンの化け物なんぞになりそうな巨大なカボチャである。彼の頭部、及び顔面がそれを連想させるのである。つまり、でかいのである。  若い時は背が高くて痩せていて、顔ばかり大きいので、遠くから見ると道端に突っ立っている道路標識のように見えた。「止まれ」の標識と勘違いしたトラックが彼の前で止まったという噂があった。  中年になると恰幅がよくなり、腹の突出が人目を惹くようになって、顔面と胴体の比率がいくらか人間並みに近づいたのだが、ジョギングなどと言うことを初めてダイエットに成功してしまい、再び交通標識に戻った。 「だから、ダイエットなんて余計なことをしなければよかったんだ」 「でも、体調がよくなりましたよ。動きも軽くなったし」 「でも、顔が大きくなった」 「顔は変わっていない。身体との比率が・・・あ、そうか」  と三木は何かに気づいて、嬉しそうに笑った。昔から、こいつが嬉しがると碌なことがない。私は身構えた。 「N先輩も同じですよ。顔が大きくなったんじゃない。身体が小さくなったんですよ」 「別に痩せたとも思えないが」 「そうですな。痩せたんじゃないですな。全体に縮んでいるんだ。タテもヨコも短くなっているんですよ 「これ以上小さくなってたまるか」  私は小柄である。子供の頃から、クラスで背の順に並ぶと三番目より後ろに行ったことがない。  最近は背の高い女性が増えているので、全日本人を背の順に並ばせるとすると、私は年々前の方へ移動しつつあると言うことになるだろう。  若い頃は小柄だということをコンプレックスに感じないでもなかったが、結婚してからは、どうということもなくなっている。だいたい、女房は私よりも背が高い。  しかし、こうして三木に顔をまじまじと見て言われると、交通標識に見下されているようで、なんとなく面白くない。  そう思って、三木を見ていると交通標識どころか、風船に見えてきた。以前よりも痩せて、身体が糸のように見える。それに結ばれてへらへら軽薄に笑っているやつの顔は風船そのものだ。 「昨日は、三木くんどうだった?」  朝、洗面台の前で髭を剃っていると、女房が話しかけてきた。 「相変わらずさ」  実は、女房も高校の後輩で、三木とは同学年という事になる。私が三年生の時、彼らは一年だった。だから、彼女にとっては、今でも「三木くん」なのである。  彼女とは高校の頃から付き合っていたというわけではなく、卒業後何年もたってから、ひょんなことから再会し、交際を始めた。その頃は、まだ「N先輩」と呼ばれていたような気がするが、いつの間にか曖昧になってしまった。 「私も行きたかったなあ」  彼女も仕事を持っている。近ごろ、忙しいらしい。 「失礼なやつだよ、人の顔を見て顔がでかくなったって言いやがる」 「ハハハ、大きな顔なら三木くんのトレードマークじゃない」 「そして、じろじろ見てたかと思うと『顔が大きくなったんじゃない、身体が小さくなったんだ』とぬかすんだ」  タオルで顔を拭いているので見えないが、彼女が横に来たのを感じた。にやにや笑っているのが、気配でわかる。だが、その笑いの気配が、すっと消えた。そして、向こうへ行ってしまった。 「あの、怒っちゃ困るんだけど」  朝食のみそ汁を飲みながら、女房が言った。 「あなた、本当に身体が小さくなったんじゃない?」 「年かな。年取ると、背が低くなるって言うよな」 「私たち、もう老夫婦だわ  娘もこの春独立して、このマンションに二人だけで棲んでいる。女房にそんなことを言われると、妙にしみじみしてくる。 「これ以上小さくなるのは、困るな」 「大丈夫よ、小さくなったらバッグに入れて運んであげるわ」 「いくらなんでも、そんなに小さくなってたまるか」  娘が幼稚園の頃、お雛様の絵を描くと、必ずお内裏様よりお雛様を大きく描いた。王子様とお姫様を描いても、お姫様が大きかった。  女房は小学生の頃、遠足に行って、引率の先生と間違えられたことがあるそうだ。 会議室で誰かさんが、長々とした報告書を続けているのを聞き流しながら、並んだ顔を眺めていた。 「みんな、顔が大きくなっている・・・」 どことなく出席者達が、三木の体型に似てきたように思えた。なんだか、顔を描いた風船をそれぞれの椅子に結わいてあるように見える。風もないのに、一斉に右になびいたり左になびいたりする。そのたび、上下にもちらちらと動く。 ひとりずつ、針でつついてみるところを想像する。社長が破裂する、常務が破裂する、工場長が破裂する、管理部長が破裂する。コンサルタントが一際、派手な音を立てて破裂する。 みな破裂したのに、会議は終わらなかった。昼になり、昼食が運ばれてきたら、皆の顔が元のように膨らんだ。 「S亭のうな重だろうね」 「S亭のうな重です」 グルメを自認する社長風船と、秘書(こっちは人間のままだった)が重大事項であるかのように確認しあう。無理もない、社長にとって最も重要な仕事は、この月例会議でS亭のうな重を食うことなのだから。 以前、S亭が臨時休業していて、F軒の松花堂弁当が運ばれてきた時は「S亭じゃないのか・・・」声が震えていた。 「いや、S亭のうな重は、余所のとは違いますな」 と常務が社長に話しかける。 「うん、うな重はS亭に限るよ」  議事録にこそ載らないが、会議における最も重要なやりとりが例月の如くに交わされる。 「このうな重は、大きくなりましたか」 私は、となりの山田次長に聞いてみた。 「いや、同じですよ・・・それより」 と、次長は風船にかけていた眼鏡を外して拭きながら言った。 「うな重が大きくなったのではなくて、あなたが小さくなったのではありませんか」 「顔だけ元のまんまだっていうんでしょ」 「いや、そうでもない。全体に小さくなっている。顔も身体も。Nさん、服を作り直したりしましたか 「いや、別にそんなこともありませんが 会議では、例月の如く、何も決まらなかった。新しいアイデアや改革案が提出されると、ああでもないこうでもないと、念入りに難癖をつけて丁寧に潰していくのが、会議出席者の役目だ。 壁に貼られた『変化の時代に即応せよ』という社内標語が寂しげに見えた。 退社する頃には、みな、あらかた風船になっているか、あぶくになっているか、ピンポン球やドッジボールやバスケットボールになっていた。 ビルの出入り口から、大量の泡が洪水のように道路にはみ出し、一斉に駅の方へ向かった。 交差点で信号が変わると、一斉に泡が空に向かって舞い立った。ホームに着いた満員電車からは、風船やボールがこぼれ落ち、シャボン玉の泡が無数に吐き出され、また電車の中に吸い込まれていった。 街を歩いていても、まわりの人がサイダーかコーラの泡のように見えた。しゅわしゅわと音を立てているようでもあり、なにか話し声が聞こえてくるようでもある。 私はどんどん縮んでいるようだった。ただでさえ巨大なビル群がさらに上に伸び広がり、私にのしかかってくるように思えた。 私は、泡にも風船にもならないようである。ただ、そういった泡だか、風船だか、ピンポン球だかの姿をした人間から、会うたびに、 「また小さくなりましたね」 と言われる。 女房は幸か不幸か、人間の形のままである。ドッジボールと暮らすよりは、遙かにマシだろうと思う。もっとも、彼女にしてみると、会う人ごとに、 「あなたは、いいわね。元の形のままで」 などと、やっかみじみたことを言われると、結構、気疲れするそうだ。 「考えてみると」 と、私は言った。テーブルの上のティーカップに女房のハンカチを畳んで敷いたのが、私の指定席になっている。とても座り心地がよくって、どこかへ運んでもらうにも取っ手が付いていて便利だ。 「三木とあんな話をしたあたりから、異変が始まっているな」 「そうかしら」 「うん、三木が悪い。そうに決まった」 「決めてどうするの」 「責任取らせる 「どう責任取らせるの」 「おごらせる」 「私も行っていいかしら」 「もちろんさ。こないだ、君が仕事仲間と行った中華屋がうまかったって言ってただろう。あそこを予約しておいてよ」 店はわかりにくいところにあるというので、K駅の前で待ち合わせることにした。 相変わらず街は、シャボン玉やフーセンガムや水ヨーヨーの形をした人間が大波のように行き来している。私は、さらわれないように女房の頭の上に乗っていた。 見張り台に立つ人のように辺りを見回していたが、 「あ、三木が来た」 沢山の球形をした人波の中で、彼の頭は熱気球のように大きく輝いていた。ごうごうと音を立てているような気がした。 「さすが三木だな。頭の大きさじゃ、他の追随を許さないって感じだな 「僕の大脳皮質は、今だに成長を続けていますからね。先輩こそ、どんどん小さくなりますね」 「世界が広くなっているんだよ」 「三木くん、久しぶり」 「ユリちゃん、元気だった?」 「今日は、思いっきり奢ってもらうわね」 「といっても、先輩はあまり食べられないんじゃないですか」 「それが、食欲は変わらないんだよ。いったい、どこへ消えていくのか」 「無駄な食欲ですね」 「お前こそ、顔を大きくするために食っているようなもんだろう」 「ユリちゃんは変わらなくて、うらやましいなあ。うちの女房なんか、サッカーボールになっちゃったものなあ」 店の中は、やはり客が風船のようにゆらゆら揺れていたり、シャンペンのように発泡していたりした。ピンポン球があちらの壁から、こちらのテーブル、また天井へとめまぐるしく動き回っているのもいた。ウエイターはボーリングのようにゴロゴロ転がって注文を取りに来た。 生ビールで乾杯した。 「不思議だなあ。三木は、手もないのに、どうやってジョッキを口まで持っていくんだろう」 「どうってことないですよ、ほら」 というと、ジョッキがテーブルを離れ、ふわふわ浮いて、熱気球の口元まで移動し、口に合わせて傾いた。 「先輩こそ、ジョッキより小さいのに、よく持てますね」 「どうってことないさ」 と、私はジョッキを持ち上げると飲んで見せた。 「それ、絶対、先輩の体積よりビールの量の方が多いですよ。どこへ入っていっちゃうんだろうなあ。ブラックホールみたいだなあ」 「昔、そんなSFを読んだような気がするな」 「ユリちゃん、どんどん註文してよ。わけわからないけど、今日は僕のおごりという事になっているから」 「悪いわね。こんど、お返しするわ」 「三木にお返しなんか、しなくていいぞ。高いものからどんどん頼んでやれ」 「時価ってのがあるわよ」 「じゃ、それ百人前だ」 「まったく、人の生き血をすするような事しますね。いいですよ、もう、今日はウチを売り払ってでも奢りますから」 ピータン、蒸し鶏、クラゲの前菜、海老の炒め物、北京ダック、青梗菜のクリーム煮、他にも他にも他にも。 店内の球形達は、アルコールも回ったのか、賑やかに、動きが烈しく、色も赤や青やオレンジや黄色や、ぴかぴか光ったり、様々なことになってきた。 「本当に人間ってのは、どんなになっても、飲み食いして騒ぐことだけは忘れないもんですね」 「変われども変わらず、変わらねども変わる。そんなもんだろう」 「変わらないものってどんなもんでしょう 「ウチの会社の月例会議なんか、そうだな。一貫して、無意味で非生産的だ。見事なもんだ」 「ユリちゃんは昔っから変わらないなあ。高校の頃からきれいで格好良かったもんなあ」 「また、お世辞ばっかり」 「おい、気をつけろよ。三木のやつ、ここの勘定を君に押しつける気でいるぞ」 「変わらないわけないじゃないの。第一、名前だって旧姓の押本からNに変わったんだもの」 「ユリちゃんも昔のユリちゃんじゃないのか」 「あたりまえでしょ。行く川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず・・・」 「なんだっけ、それ」 「鴨長明の方丈記・・・高校の授業で習ったじゃない」 「そんな気もするな」 「よどみに浮かぶうたかたも、かつ消えかつ結びて・・・」 「うたかたって、なんだっけ」 「泡、あぶくのこと」 泡の一団が店を出て行く。それと入れ替わって、別の泡の一団が入ってきてテーブルを占領する。窓の外は、さまざまな色の泡の大河が、滔々と尽きることなく流れている。夜空には、コーラの泡のようなやつらが、しゅわしゅわと立ち上り充満し、かつ消え、かつ結びて。 「鴨長明の言う通りだね。昔の人はいいこと言うよ 紹興酒、もう一本行きましょう、と気前のよくなった三木がウエイターに向かってアイコンタクトを送った。

社長のショートストーリー『最後の下校』

社長1
 木造二階建ての校舎にきついオレンジ色の西日が赤々と当たって、燃え上がるようだった。
教室の中は、逆さまの台形に区切られた夕日の色と、窓枠と壁の蒼いとみえるまでの影の、ふたつの地帯に、はっきり別れた。
「それでは皆さん、教科はこれでおしまいです」
 と教壇のあたりから声が聞こえた。陽は斜めに差し込むので、先生の姿は完全に闇の影の中に入っているのである。それでも、そこには八の字の髭を生やし、ポマアドで髪を固めた姿があるはずである。
「起立、気をつけ、礼」
 がたがたと椅子の脚と床がぶつかる音が教室中に響いて、生徒達の顔が光と影の中を、上がったり下がったり、現れたり隠れたりして、ちらくらした。
「先生」
 と、窓際の一番前の席の生徒からしわがれた声が上がった。
教室へ斜めに差し込む光は、窓際におかれたグッピーの水槽を透過して、その生徒のはげ頭をぴかぴかと輝かせ、長く白い顎髭に荘厳な光沢を与えていた。
「先生、わしはこの一年間、先生に教わったことを最期まで忘れまいと思っております。この年になって、大学校をご卒業になられた学士様を先生といただき、お教えを受けるなぞ、夢だに見ぬ光栄でござりました」
 生徒の声は震えていた。教壇の蒼い影の中からは、先生の落ち着いた声が聞こえてきた。
「いえいえ、儀右衛門さん、お座り下さい。私のような若輩者が儀右衛門さんのような立派なご老人を生徒扱いするのは、やむを得ぬこととは言え、心苦しいことでした。この一年間の数々の失礼の段は、どうかお許し下さい」
「いえ、先生が『歴史の歴史』、ヒストリイ・オブ・ヒストリイを模型を使って示して下さった時など、これまでの自分の無知蒙昧が啓かれるようで、感激もし、恥じ入りもしたものでありますわい。これでこそ、これからの余生、胸を張って生きていけると自覚したのであります。
 わしが教室にこのように紋付き袴で通ってくるのは、及ばずながら先生への尊敬を形に表したかったからに他なりませぬ」
 儀右衛門老人の絹の紋付きも夕日を受けて、誇らしげにぴかぴか光った。

 後ろの方からけたたましく足音が響いて、影の中から子供が二人、飛び出してきた。坊主頭の男の子と、おかっぱの女の子である。二人は老人の両の手にすがると、
「儀右衛門さん、遊ぼう」
とせがんだ。
「これこれ、太郎に花子、わしは、まだ先生に御礼のご挨拶を申し上げている最中だと言うに。遊ぶのはあとあと」
「だって、時間がないんだもん」
 と花子が不満そうに頭を振った。赤いリボンが夕日の中で、花火のように見えた。
「やだい、やだい、遊んでくれなきゃ、やだい」
 太郎が地団駄を踏んだ。
「いや、じゃが・・・」
「やだい、やだい」
 花子が納得しかけているのに、太郎の地団駄はどんどんひどくなる。かんかん照る夕日の中で、どんどん音がする。
「太郎、あたしが遊んであげるよ」
 と、影の中から女の声がした。その人が動くと、顔や胸が光の中に垣間見えた。洗い髪を無造作に結んで、着物の帯は昔の絵の湯女のように低く結んでいる。着物の胸元から乳房が覗いた。
「お由良さん」
 と太郎は駆け寄った。遊び相手が現れれば、誰でもいいのかもしれない。
「おっぱい、触らせてくれる?」
「バカな子だよ、お前は」
 お由良は太郎の手を引くと、日差しのいっぱいに当たる中へ、その仇っぽい姿を現して、教室の後ろへ行き、床の上に座ったらしい。早くも、何が嬉しいのだか、きゃあきゃあとはしゃぎ立てる太郎の声が聞こえる。
 花子の方は、置いてけぼりを食ったような格好で、呆然と固まる。やはり、後ろの方から声が掛かる。
「花子ちゃん、こっちへいらっしゃい」
 束髪に袴にブーツという、明治期の女学生にありそうな姿で、陽が眩しいのか、目の上に片手をかざしている。仇っぽいお由良を忌々しげに見送ったあとで、花子に声をかけたのである。
「花子ちゃんは、わたしが遊んであげてよ。今日教えていただいた、算数のおさらいを一緒にいたしましょう」
 花子は女学生のもとに走り寄って、その膝に飛び乗った。二人は算数の教本を机の上に広げて、小声で読み始めた。
『一足す一は、なぜ二になるのでせう』という章だった。 
 昨日学んだのは、『一とは、何でせう』、その前は『零とは何でせう』、『一と零とは、どのやうにちがふのでせう』『数とは何でせう』『数と数でないものは、どのやうにちがふのでせう』・・・・・・一年間、色々と学んできたものだ。

「その、先生のご授業を拝聴するのが、本日限りであるとは、なんと残念なことでありましょうか」
 しわがれた声をさらに破けそうにして、儀右衛門の挨拶は続いていた。
「ありがとうございます、儀右衛門さん」
 青い闇の中から、冷静な先生の声が聞こえてきた。黒曜石がしゃべっているみたいだった。
「お話の途中、失礼なようではありますが、私はここでいったん、教員室に戻らなければなりません」
「先生」
「教員達の会合があるのです。なに、長くは掛かりません。最後の顔合わせと挨拶をしておこうというようなものだと思われます。それが終われば戻って参ります」
「間に合いますでしょうか」
「それでは、こういたしましょう。私が戻らなければ、皆さん、教室をお出になって、校門のところでお待ちになって下さい。私が先に行けば、皆さんを待っております。あすこで待ち合わせいたしましょう。そして一緒に下校いたしましょう」

 青い影の中の先生の気配が消えた。教壇のあたりが急に寂しくなった。老人は震える声で、
「もう、行ってしまわれたのか」
 と呟いた。身体も少し震えていた。
「大丈夫よ、儀右衛門さん、ちょっと教員室にいらしただけじゃありませんか」
 と答えたのは、赤ん坊に乳を含ませている若いおかみさんだった。
「そ、そうじゃな。いい年をしてうろたえるなど、みっともないことであった」
 赤ん坊は嬉しそうに乳を吸っている。
「えらいのお、この子は。今日も大人しくしておったのう」
「先生の授業を聞いて、この子も嬉しいのだわ。こうして抱いていると喜んでいるのが胸から伝わってくるの」
「そりゃ、感心な子じゃ」
「あたしなんて、こうやって学校に通ってくるのは、半分はこの子のためみたいなもんですもの」
「ああ、大きくなったら、さぞ立派な大人になるじゃろうに・・・

 老人は声を詰まらせた。皺だらけの目縁に涙がにじんだ。
「時間がない・・・・・・」

 『言葉とは何でせう』『言葉は音でせうか』『普通の音と言葉とは、どのやうにちがふのでせうか』『意味とは何でせう』『なぜ音が意味を持てるのでせう』・・・・・・。
 女学生と花子のおさらいは、国語の方に移っていた。
 後ろの方からは、相変わらず太郎のはしゃぎ声が聞こえる。もう、なんだかわけがわからなくなって、はしゃぐのが止まらなくなってしまったようで、お由良も困ったような微笑みを浮かべている。
「さあ、皆さん、それでは、そろそろ行こうではありませんか」
 儀右衛門が朱色の光の中と青黒い影の中を見回して呼びかけた。
「そうですね、先生も、もう校門にいらしているかもしれない」
 と、どこからか若い男のまじめそうな声が聞こえた。  
 ふたたび、椅子のがたがたいう音が教室に充満した。続けて生徒達が出口へ向かって歩いていく足音がひとしきり騒がしかった。大人も子供も、杖を引いている人も車いすの人もいるらしかった。夕日も人影も、足音も話し声も、光も音も絡まり合って、天井や床に反射してくるくる回った。
 人影は、一人残らず廊下へと出て行った。騒音は、次第に遠ざかっていき、静寂が教室の中に取り残されて、うずくまっていた。
 
 木立が長方形の広い広い校庭の縁をかがるように並んで植えられたのが、いやに、いつもよりも黒っぽかった。校庭は朱鷺色の夕日で一杯に満たされていた。
「こうしてみると赤い光と言っても、その中に緑や黄が交じっているようだな」
 と言ったのは、さっきの若い男かもしれなかった。
「メロン色とみかん色と石榴色と葡萄色、レモン色」
 と花子が答えた。
「あ、先生、もういらしているわ」
 と言ったのは、確かに女学生である。
彼女の指さす校門の太い柱の間に立っている長身の影は、先生のものであるに違いなかった。白い麻の背広を着て、中折れ帽をかぶっている。
 みんなの足が、少しずつ急いだ。なんだかじりじりして、どうしてこの校庭はこんなに広いのだろうと思われた。
 先生はいっぽんの黒い影に過ぎなかったが、中折れ帽を脱いで、こちらに向かって振っているようだった。見えるはずもないのに、にこにこ笑っているように思われた。
 先生の背後の夕日の赤が、金色を含んで強くなった。鋭い風の音が聞こえたような気がした。白色の破裂が起こった。
「あ・・・・・・」
 誰かが叫んだ。
 先生の身体から炎が吹きだした。山火事の中の杉の木のようだった。しばらくはそのまま手を振っていたが、こらえきれなくなったように膝から崩れて、あとは石炭の山のような塊となって、燃え続けた。

 世界は、その終わりを始めた。

 儀右衛門が歩いたまま燃え始めた。お由良と太郎が手を繋いだまま火を吹いた。赤ん坊は小さな火の玉となった。おかみさんも女学生も花子も、その他の生徒達も歩きながら燃え始めて、歩けるだけ歩いて倒れた。
 校庭も校舎も炎の海となり、世界そのものがごうごうと音を立てて燃えさかった。炎の中に青い影が沈んでいるようだった。あまりにひどく燃えると、そう見えるものらしい。
 もっとも、誰も見ているものはいない。

 日が暮れた。
もう、赤い色はどこにもない。かつて校庭だったあたりを、コウモリに似たものがひらひらと飛んでいた。

社長のショートストーリー『走れカメロス』

社長1 カメロスは激怒した。必ず、あの傲慢なウサギに勝たねばならぬと決意した。  確かにウサギは、後足が大きく生まれついている。身も軽い。それ故、風のように駆けることが出来る。だが、親にもらったその身体を誇って、 「もしもし、カメよ、カメさんよ。世界のうちでお前ほど、歩みののろいものはない。どうしてそんなに遅いのか」  などと、満座の中で、人を辱めていいものか。  自分は勇者である。いかに強きものの前からも逃げたことのない漢である。もっとも、逃げるにも逃げられない足の遅さだから、などというものもいるが、そんなことは問題ではない。カメロスは高らかに答えた。 「なんとおっしゃるウサギさん、それなら私と駆け比べ。向こうのお山の麓まで、どちらが先に駆け着くか」  カメロスがウサギに競走を挑んだという噂は、たちまちシラクスの市民に広まった。そして、彼らはカメロスを嘲笑した。 「これは面白い話だ。勝負という点では、ギリシャで一番の走者、ウサギが勝つに決している。しかし、挑戦者のカメロスが、自分を勇者の如く思っているらしいのが滑稽ではないか。『勇者は侮辱されて黙っているわけにいかぬ』とのたまったらしい。難が訪れるや、手も足も首も甲羅のうちに引っ込めて嵐の去るのを待っているばかりのカメのどこが勇者なのだ」  だが、こういうシラクスの市民に対し、敢然と反論したのがカメロスの親友、セリヌンティウスであった。 「諸君は勇者というものを、どうお考えか。車輪の前で斧を振り上げるカマキリのように、やたらと自分の勇を誇りたがる連中のことか。あるいは小事を大事であるかのように騒ぎ回って、自分の見せ場を作りたがるやつのことか。ウサギなどは、こんな連中の一人ではないか。  東洋の漢信という武将は、若い頃、町のチンピラに絡まれて、あえてチンピラの言いなりに、その股ぐらをくぐり平然としていた。そんな小事の向こうに大事が待っているからだ。大きな志を持っているからだ。 また東洋では臥竜という言葉がある。龍は、いつか天に飛び上がる時を待って、水の底にじっと潜んでいるのだ。  私はカメロスは、そんな男だと思っている。甲羅の中の彼は、いわば淵に潜んだ龍だ。  だが、今回、彼はウサギの嘲笑の中に、彼一個人のみならずカメ全体への侮辱を読み取ったのだ。さらには、弱き者、貧しき者、虐げられた者一般への侮辱を感じたのだ。彼一人の問題ではないのだ  カメロスは、びっくりした。いつの間にか、自分が世界を背負ってウサギと戦う者のようになってしまっている。 「セリヌンティウス、私は君が言うほどの男ではない」 「そんなことはない。私は君以上に君のことをよく知っている」  もはや絶対後には引けぬことをカメロスは悟った。  この話が、暴君ディオニス王の耳に入った。彼は人間への不信にさいなまれていた。いや、人間だけではなく、ほ乳類やは虫類への不信にもさいなまれていた。たぶん、両生類や昆虫類や魚類や腔腸動物への不信にもさいなまれていたであろう。  彼は、それゆえ孤独であった。彼は、人間やほ乳類やは虫類の下劣さを証明するようなことを探し出して、彼らを処刑する血の喜びによって、その孤独を満たそうとしていた。 「その競走、わしの主催としよう」  そして、王は三人、すなわちウサギとカメとセリヌンティウスを召し出した。王は、この中に必ずや卑怯者が交じっているに違いないと信じていた。それゆえ、この三人の中から、次の血の犠牲が現れると思っていた。 「ウサギよ、汝はギリシャで一番の走者じゃそうな。それが、何故、カメなどと競走をするのかな」 「その者が、あまりにもおのれを知らぬ増上慢でありまするゆえ」 「さようか。汝が負けることは、よもやあるまいと思うが」 「けっして、ございませぬ。それどころか、それがしは自らに大きなハンデを負わせることにしております。 その日に故郷で妹の結婚式があることになっておりますが、それに寄ってから、ゴールに向かっても勝つでありましょう。なに、わざとその日にするように、妹と許嫁に申しつけたのでございます。 万が一、負けるようなことがありますれば、死罪をお申しつけていただきとう存じます」 「ふむ、汝は勇者であるな」  次に王の前に進んだのはカメロスであった。王は言った。 「どうじゃ、カメロス。ウサギは負ければ命を差し出す、と言っておる。誠に殊勝なことであるのう」 「王様、わたくしも命を差し出しまする」 「意地を張るではない。汝が苦手な競走で命をかけることはないではないか。今なら、この勝負、やめにしてもよいぞ。そのかわり、お前の甲羅には一生、『私は勝負から逃げた、ドジで間抜けなカメなんです』と書いておくことにしよう」 「王様、しかし、そのようにはならぬでしょう  一瞬、王が鼻白んだように見えた。が、それを一層皮肉そうな嘲笑の微笑みが覆い隠した。 「ふん。負けるとわかったら、途中で何処かへ逃げるつもりであろう。よいぞ。逃げよ。どこへでも。だが、我が国の民は、末永くカメロスは卑怯者であったと言い伝えるであろうな」  そこへ進み出たのは、セリヌンティウスであった。 「王よ、私には勝利の栄光と共にシラクスの丘の元にやってくるカメロスの姿が見えるようでございます。カメロス、負けはいたしませぬ。ウサギ殿は、確かにギリシャ一番の走者なれど、今その心はうぬぼれに充ち満ちております。それが落とし穴でござりまする。かならずカメロスが勝ちましょう 「ふむ、では、カメロスが負けて、しかもどこかへ逐電したとすれば?」 「私の命を取って下さいませ」  ウサギとカメロスは走り始めた。ゴールのシラクスの丘の麓は、遙か彼方である。そして、ウサギはあっという間にカメロスの視界から消えた。あとには、 赤い大地と、その上に点々と続いているウサギの足跡が残された。  カメロスは王に命を捧げるつもりはなかった。ただ、少数の人たちに捧げるつもりであった。多くの市民がカメロスへの嘲笑を隠さなかったのに、ある人びとは、「あなたに共感する」とこっそり伝えてくれた。そう思う理由はそれぞれ違ったが、カメロスはその人達に誇りを感じた。そして、多数の市民に軽蔑を覚えた。なにはともあれ、最後まで走ろうと思った。  色々なことが起こった。  ある時は、鷲に捕まえられて、大空高く運び上げられた。鷲は、カメロスの甲羅を何とか割って中味を食べようと思っていた。下に、ぴかりと光るものがあったので、あれなら固そうだと思って、その上にカメロスを落っことしたが、これがアイスキュロスという劇作家のはげ頭だったので、さすがにはげ頭はカメの甲羅に敵せず死んでしまい、カメロスは一命を取り留めた。  ある時は、村の子供に取り囲まれいじめられそうになった。だが、ウラシマと名乗る男が現れ助けてくれた。しかし、その男は『竜宮城に連れて行け』という変な要求を持ち出し、カメロスを海辺に連れて行き、無理矢理、その小さな背中に乗って海に入っていこうとした。  カメロスは、溺れそうになったがようよう岸に戻り着いて、元のコースへと急いだ。ウラシマが、その後どうなったかは、定かではない。  カメロスはさすがに疲労した。がくりと膝を折った。自分を叱ってみるのだが、全身萎えて、もはや芋虫ほども前進かなわぬ。セリヌンティウスよ、ゆるしてくれ。私は走ったのだ。君を欺くつもりは微塵もなかった。けれども、私はこの大事な時に精も根も尽き果てたのだ・・・。  ふと耳元に水の流れる音が聞こえた。岩の間から清水が流れ出しているのである。ひとくち飲んだ。ほうと長いため息が出て、夢から覚めたような気がした。  ともかくカメロスは、コースへ戻ると必死でシラクスへの道を急いだ。途中、ウサギの足跡が見えなくなったことに気づいたが、それを詮索している場合ではなかった。  ウサギは、故郷の村に立ち寄って、妹の婚礼に出席していた。このような寄り道をしてでもカメロスには勝てる、とディオニス王の前で大見得を切ったことを実行していたのである。  純朴な村人はウサギを大歓迎してくれた。王と謁見したことがある大人物だと言うことに感激してしまったのである。こいつらは、俺の手下として使える、と思った。  妹の夫は、賢そうなやつだった。これも使える、とウサギは思った。  そもそも、彼がカメロスとの競走に応じたのは、王に近づく機会を捉え、上昇するためだったのである。  「ありがとう、皆さん。妹夫婦を、よろしくお願いします。それから、私が今やっている競走、いや、勝つに決まっている競走なんだが、これに勝って帰ってきた時、私はディオニス陛下の最も信頼する臣下となっているでしょう。いやいや驚くことではない。これは、皆さんにとっても、よい結果をもたらすでしょう。我らが村の繁栄と、皆さんの富貴を祈って、いや、祈るまでもなく、確定的なことなんだが、ともかく乾杯をしましょう」  シラクスへ着いて、みじめに歩み着くカメロスを見届けたら、いや、カメロスが逃亡して、がっかりするセリヌンティウスを見届けたら、ウサギは王に彼らの命乞いをしてやるつもりだった。  栄光の頂点にいる者の言うことを聞かないという事はあるまい。そうして、今の無慈悲で暴虐な王に比べて、寛大にして慈悲あふれるウサギという構図が国の隅々まで行き渡るのだ。  すでにディオニス王の暴政に疲れている民たち。そこへ、正義のウサギが兵を率いて革命の戦いを起こしたとすれば、何となる。そう、この村は、最初の挙兵の出発点となるのだ。  ゆっくり休み、御馳走を腹いっぱいに詰め込み、人びとの別れを惜しむ声を背に、ウサギは再び、カメとの競走の道に戻った。  ・・・・・・という夢を、途次、居眠り中に見ていたそうな。  傾く陽は、すでにシラクスの大地を赤々と照らしていた。ウサギはすでに、ゴールしているのかもしれない。だが、自分は行かねばならない。親友の信頼に応え、彼の命を救い、自分の卑怯者でないことを証明するために、死を覚悟の上で行かねばならないのだ。 ウサギとカメの勝負を見届けようと、大勢の人が王宮前の広場に押しかけていた。 「カメロスは一向に現れぬ。やはり命惜しさに逃げたのに違いない」 「聞けば、もうすぐ罪人の処刑が行われるそうな」 「セリヌンティウスとかいう、カメの身替わりになって殺されるバカな男だとか  カメロスは人びとをかき分けかき分け、といえば聞こえがいいが、小さいので人びとの足下をちょろちょろとすり抜けつつ進んだ。  わたしを待っている人がある。わたしは信頼されている。わたしを信頼する人のために、わたしは進むのだ。走れカメロス! 「今頃は、あの男も磔に掛かっているよ」  ああ、その男のために急がなければならない。急げ、カメロス!遅れてはならぬ!最後の力を振り絞ってカメロスは走った。もう、頭の中は空っぽだ。 「待て、その人を死なせてはならぬ!殺されるのは私だ。彼を人質にした私はここにいる!」  セリヌンティウスの縄はほどかれたのである。 「セリヌンティウス、私の頬を殴れ。私は一度、君を裏切ろうとした 「カメロス、それでは私の頬も殴れ。私は一度、君が来るのを疑った」  暴君ディオニスは、二人をまじまじと見つめていたが、やがて二人に近づき、顔を赤らめてこう言った。 「お前らの望みは叶った。また、ウサギも許そう。わしの負けだ。お前達は、わしの心に勝ったのだ。信実とは、虚妄ではなかった」  どっと群衆の間に、歓呼の声が上がった。 「王様、王様万歳」  一人の少女が、カメロスに洗面器をかぶせた。カメロスはまごついた。佳き友は、気を利かせて教えてやった。 「まっぱだかじゃないか。必死で急ぐうちに、甲羅が脱げてしまったのだ。この娘さんは、カメロスの裸体をみんなに見られるのがたまらなく口惜しいのだ」  勇者は、(洗面器の下で)ひどく赤面した。 *参考(つーかパクリ元)文献 太宰治『走れメロス』新潮文庫

金井哲夫のあたくし小説 『いつもの駐車場』

いつもの駐車場

 いつもの場所に立っていた。いつものように、どっちへ行くべきか考えていた。
 空には黒と灰色の渦卷が、押しつぶされた海苔巻きのようにいくつもひしめき合って、それぞれがぐるぐる回っている。
 ボクは焦っていた。もうすぐ夜が終わる。どっちの道だったのか。車のキーを握りしめて、車を置いた駐車場の方向を、いつものように探していた。
 そこは駅前の広場なのだが、同じような駅が2つ同居している。駅と反対側の広場の正面は石垣になっていて、その上はうっそうとした森になっている。その両側に道があり、森を囲むように緩やかな上り坂になっている。
 車を置いたのはどっちだったか。いつもの駐車場は右だったか左だったか。
 頭がぼやけて、そんなことすら思い出せなくなっていた。
 広場には、自分の他には誰もいない。周囲は暗闇なのに、建物や森の輪郭が白黒写真のネガのようにはっきり浮き上がって見えている。音も聞こえない。ひんやりとまとわりつくような夜の空気の中で、あらゆるものが眠っている。動いているのは空の渦卷だけだ。もうすぐ夜が終わってしまう。
 ボクは右の道を行くことにした。左側は石垣、右側は階段を下りるともうひとつの駅に出る。駅のホームに列車が見えるが、すべての電気を消して眠っているようだ。
 少し坂をのぼるにつれて、左手の石垣がだんだん低くなり、それは古びた石の門で途絶えていた。二本の大きな石柱でできた門の間は広く空いていて、そこから石畳が真っ直ぐと続いている。その先には、寺の本堂が、鳥が羽を広げるようにして座っている。屋根と空の渦卷との間には、くっきりと輪郭線が見えるが、地面は暗く闇に飲まれている。
 そうだ、ここだ。この寺の隣の駐車場だ。ボクはそう思い出した気がした。この寺の隣に駐車場があるはずだ。
 石の門の前を通り過ぎると、思った通り、駐車場の入口があった。明かりもなにもついていない。車一台が通れるほどの入口を抜けると、車が20台ほど駐められそうな、アスファルト敷きの広場が出現した。地面には白い線で車の置き場所が示されている。しかし、ボクの車がない。3台ほど見慣れない車が置かれてるだけだ。おかしい。ここではなかったのか。
 ボクは小走りに駅前に戻った。急がないと夜が終わってしまう。今度は左側だ。もうひとつ同じような駐車場があったはずだ。いつもの駐車場はそっちだったかもしれない。石垣の左側にまわりかけたとき、なんとなく思い出したような気がした。この先に駐車場の入口があると。
 少し坂を登ると、右手に駐車場の入口があった。こちらも車一台が通れるほどの細い急な坂の通路を上ったさきにゲートがあり、奥が広くなっていた。
 しかし、ここにも自分の車はなかった。さっきとはまた別の知らない車が何台か夜露をかぶって眠っていた。
 どこだろう。どこに車があるんだろう。早くしないと夜が終わってしまう。夜が終わるとどうなるのか、不安に思えてならない。ボクはまた石垣の前に戻ってきた。さっきより空が低くなってきたようだ。渦卷が大きく見える。
 そのとき、ボクの手に握られていたキーが、雪が溶けるようにすーっと消えた。そしてわかった。最初から車なんかなかったんだ。

社長のショートストーリー『ゴー・ウエスト』

社長1 「なうなう、お坊様、どちらへ行かれます」
「西へ」
「西といえば京、大坂」
「西でござる」
「では、山陽道から九州へ」
「西、西・・・」
「なぜ西へ」
「わかりませぬ。ただ、胸の内、腹の内で西へ西へと拙僧を急き立てる声がいたしまする」
「はて、どこぞの者は西の海の果てに、にらいかないという極楽のようなところがあるとかいう・・・いや、それとも阿弥陀様が待っておられる西方浄土か・・・はたまた唐天竺か西洋にでもいらっしゃるおつもりか

 問う人がごたごたと話しているうちに、僧はすでに遠く西へ去っていた。
 四十を少し出たばかりの筋骨たくましい大男だった。眉毛太く、口も鼻も大きく、太い息を轟々と吐いているあたり、とても悟り済ましたようには見えない。それが獣道を行く野獣のようにがむしゃらに歩いた。
 カメを追い越し、ウサギを追い越し、鬼ヶ島へ赴く桃太郎一行を追い越し、お城から逃げ帰る途中のシンデレラを追い越し、森の中で出会った熊さんから逃げている歌のうまい娘を追い越し、山姥と山姥から逃げている若者を追い越した。

 着いたところが崎陽。と言ってもシューマイ屋ではない。長崎である。
安政の条約で、箱館、横浜、長崎が開港し、横浜などは江戸に近いだけに、たいそう繁盛しているようだが、ここ長崎だって西国にとってはまだまだ重要な港である。
 それまで狭いところに閉じ込められていた和蘭陀人も清国人も大手を振って市中を歩いている。
 とはいえ、この町にたどり着いた僧には、西洋人も清国人も、ちゃんぽん麺も舶来品も関心はない。ただ、西へ、という思いがあるだけだが、日本国内としては、もう西の果てに近いところまで来てしまっている。
 これ以上、西へ行くには船にでも乗るしかない。
 ここへ来て、初めて「さて、西へ来てどうするのか」という疑問が胸に湧いた。
 同時に「西へ、西へ」と彼をせかしていた声が聞こえなくなった。彼は途方に暮れた。
「はて、拙僧を急き立てていたのは魔であったか?」
 ただ、来る日も来る日も西へ沈む太陽を虚しく見送って過ごすしかなかった。

 ある日、耳元でしくしくと子供がすすり泣くような声が聞こえた。誰の声かとまわりを見回しても、泣いているものなどいなかった。
 雑踏の音、人びとの話し声、しかし、その中から泣き声は聞こえ続けていた。長崎の市街を外れても、すすり泣きは耳を離れない。郊外の高台の中腹にある古い忘れられたお堂を寝床として使っている僧だったが、一晩中、夢の中まで泣き声はついてきた。
「わしに用があるのじゃな」
僧は夢の中で声に語りかけた。ただ、泣き声のみ返ってくる。

翌日から、僧はぐるぐるぐるぐるぐるぐると長崎を歩き回った。かといって、観光目的で歩き回っているのではない。
平和公園も中華街も見向きもしなかった。ちょっと佐世保方面に足を伸ばして、ハウステンボス見物でも、などとは露ほども思わなかった。
ひたすら泣き声の主を探していたのである。なにか手掛かりがあるわけでもない。ただ、イノシシのような丈夫な身体にものを言わせて、足が動かなくなるまで歩き回るのである。
あるところでは、しくしく声は小さくなる。あるところでは大きくなる。近づいてきたなと思うと、また遠ざかる。

そんな風に声に引きずり回されていたある日、見晴らしのよい丘の上にたどり着いた。きらきら光る海とゆったりと浮かんでいる西洋船と、それら湾を抱きかかえるかのような緑に輝く丘陵が見えた。
美しく手入れされた西洋風の庭を持つ一軒の洋館があった。アルファベットの表札がかかっていた。
「ここじゃ」
なぜ「ここ」なのか、自分でもわからなかったが、僧は躊躇せず、その玄関先へと歩いて行った。
「こらっ。乞食坊主の来るところではないわ」
と出てきたのは、脇差しを腰に差した日本人である。
「ここで働いている方ですかな」
「主人の用心棒などしながら、英語を勉強しておる」
数年前までは、攘夷一辺倒の世の中だったが、だんだん変わってきていると見える。
「ご主人にお会いしとうござりまする」
「ならぬ。帰れ」
押し問答の最中に現れたのが、パイプを手にした長身の西洋人だった。亜麻色の髪と髭を持ち、一見穏やかそうな風貌だが、妙に目が冷たい。
「ヤマダ。何の騒ぎだ」(英語)
早速、ヤマダという日本人は得意の英語で答えた。
「これ、来る。お前、会いたい。私、ペケ言う。これ、また来る。私、またペケ言う。これ、ペケない、言う・・・」
残念ながら、ヤマダの英語はこの西洋人に通じたためしがない。
西洋人は僧の炯々たる眼光に気づいた。なにやら自分を刺し殺しかねない気配さえ感じる。西洋人の命を狙っている攘夷浪人とかいうやつがブッディズムの僧に化けてきたのではないか。
「ヤマダ!」
一声叫ぶと、彼は家の中に走り入ろうとした。逃げるためと拳銃を手にするためである。その途端、僧の鬼気迫る声が西洋人を捉えた。
「お願い申す。貴殿が市中でお買い求めになった市松人形、お返しいただきたい」(日本語)
西洋人の動きがぴたりと止まった。日本語であるにも関わらず、僧の言葉、いや叫びがなにやら伝わったらしい。
僧の方では、なぜ、そんな言葉が自分の口から出てきたのか、はっきりとはわかっていなかった。どうも、腹の中にもう一人の自分がいて、そいつはすべてを了解している、そんな具合に思えた。
「その人形、西洋には行きたくないと申しております。どうぞ、お返し下され」
西洋人はヤマダに何か耳打ちした。これはヤマダに無事通じたようで、彼は訝しげながらうなずくと、家の中から一尺余りの木の箱を持ってきた。
開けると、中からおかっぱ頭をした可愛らしい市松人形が出てきた。僧は、それを抱きしめると泣き崩れた。
「あつ殿、すまぬ」

僧は、もと熊谷某といって、ある藩の武士だった。気の荒い性分で酒癖が悪く、ちょっとした口論から、同じ藩の平田という武士を斬り殺し、そのまま逐電してしまった。
平田には二人の子供がいた。姉のあつと弟の盛の助である。姉が一四、弟が一二という、まだ幼さの残る姉弟であるが、二人は早速、藩に敵討ちを願い出た。姉が弟を引き立てるようにして願い出たのである。
願いは聞き届けられることとなり、二人の叔父である三右衛門という腕に覚えのある武士が助太刀をすることになった。
仇などと言うものは、滅多なことでは見つからないそうだが、熊谷の行方は一年後、案外早く見つかった。江戸で、その当時群がり出てきた尊皇攘夷を叫ぶ浪人の群れに身を投じていたのである。
もっとも彼が本当に、そういう思想を奉じていたかは怪しいものであった。だいたい、彼のいたグループそのものが、思想などどっちでもよく、ただ「攘夷の軍資金を寄越せ」という口実で商人などを吊し上げて金を巻き上げたり、辻斬りをして持ち物を奪ったりということを、もっぱら熱心にやっていた、いわばごろつきの集まりで、本当に元武士だったのは熊谷だけだったかもしれない。
酒と暴力に明け暮れ、そんな危ないことをしているのだから却って目立ち、姉弟の探索は逆に楽だったかもしれない。江戸の護持院ヶ原というところで、果たし合いをすることになった。
ところが、腕に覚えのある叔父も、人を斬りなれている熊谷の相手ではなかった。姉弟に至っては、大根かキュウリのように斬られてしまった。
だが、その日から攘夷浪人の熊谷も姿を消してしまった。

西洋人は、長崎の街で見つけた市松人形をほんの気まぐれで買ったのである。ごく安かったが、桐で箱を作らせてみると、知らない人には高級品に見えたかもしれない。
こんなものでも、欧州の珍しもの好きの金持ちにはありがたがられ、思いがけなく高く売れることがある。
彼の本職は武器商人だった。幕末の動乱期の日本は、笑いが止まらないようなおいしい市場だった。徳川だろうが薩長だろうが、佐幕だろうが倒幕だろうが、相手構わず武器を売りつけた。
それも相手が無知と見て取るや、中古だったり時代遅れだったりの武器を驚くほどの高額で売りつけた。ゴミの山が日本に持っていくと宝の山に変わった。
日本人同士が殺し合うのは、いくらやってくれても構わない。この動乱が少しでも長続きしてくれるように、というのが彼の願いだった。
彼が金も取らずに僧に人形を下げ渡してやったのは、日本でやった唯一の善行だったのかもしれない。あるいは、その日本人に、気味の悪さを感じただけだったかもしれないが。

市松人形は見れば見るほど、熊谷が殺した姉のあつにそっくりだった。よく見ると、あどけない中に凜としたものが見て取れた。
「あつ殿」
人は死んで四十九日たつと、次の世に生まれ変わるという。だから、ひと頃流行った、「私の墓の中に私はいないのだから墓の前で泣かないでくれ
という歌は、本当なのである。
もっとも、人間のあつが死んで人形に生まれ変わったかどうかなどというのは確かめようもないのであるが、僧にとってはもはや動かしがたい事実であった。

その後、武器商人がどれだけ儲けたのか、ヤマダの英語はいかほど上達したのか、そんなことは知ったことではない。
翌日から僧の姿は長崎から消えた。
そして、人形を背負いながら旅を続ける僧の姿があちこちで見られたという。どの目撃譚の中でも、僧は泣いていたという。源平の昔なら弁慶にでもなっていそうな屈強な男が泣きながら旅を続けるのである。大男だから涙の量も多かったのかもしれない。
よほど事情があるのだろうと同情する人もいる。
あれは何かの修行なのではないかと深読みする人もいる。
明治になって廃仏毀釈なぞが流行った頃には、ダメな惰弱な坊主の典型例のようにいわれることもあった。

「なうなう、お坊様、何を泣いておられます」
「これは、わしが殺した娘なのです」
「や、人形ではありませぬか」
「生き写しなのです。今でも話しかけてくるような気がします」
「なにやらわけのありそうな・・・ふむふむ、敵討ち・・・あなたが返り討ちにした・・・・・・」
「わしは坊主の身でありながら地獄に堕ちます」
「まま、落ち着いて・・・しかし、お坊様、それがその娘だったとして、また西洋に行くのをいやがっていたとして、なぜ、仇のあなたに助けを求めるのでしょう」
「わかりませぬ」
「うむ、こうやって、お坊様と旅を続けることで、その娘の魂魄が癒やされるという事なのでしょうか。あるいは、お前様の罪業が滅消されるということは、ありませんか。そのために、呼んだのだとしたら、その人形は却って観音様が姿を変えたものかもしれませぬな。いや、お坊様に向かって、素人がこんなことを言うのは、まさに釈迦に説法・・・・・・」
問う人がごたごたと話しているうちに、僧は姿を消していた。

明治の中頃になると、もはや僧も老いさらばえ、人形の箱も薄汚れ朽ちかけ、それに老人が涙を流すなど珍しくもないので、誰も彼に注意を向けるものはいなくなった。
箱の汚れやしみが、十字を描いているように見えた。ゴルゴタの丘は果てしなく遠い。

*作者は長崎に行ったことがないので、ガイドブックを見て書きました。

今日のおさむらいちゃん

今日のおさむらいちゃんだよーん。

社長のショートストーリー『とある蘭学者の行く末』

社長1 蘭学者の看板を上げたばかりの太郎は、どうも分けのわからない憂鬱な気持ちに襲われていた。

 大阪の緒方洪庵の蘭学塾で塾頭だった福沢諭吉という男が、江戸に出てくる途中、開港間もない横浜に立ち寄ったときのことが、蘭学者仲間で話題になっている。
 西洋人の居住する地域に立ち並ぶ商店や会社の看板に、ひとつも読めるものがなかったというのだ。もちろん、福沢の蘭語の能力が低かったわけではない。
 横浜の開港地でひとつも蘭語を見いだせなかったのである。幅をきかせていたのは英語だった。これは、日本と条約を結んだ英米仏露蘭の5カ国の内の世界での幅のきかせ方を自ずから反映しているものだった。
 もう蘭語の時代ではない、と福沢は英語を勉強する手立てを講じ始めたというのである

 太郎は、朝江戸を発して、横浜に向かっていた。
近ごろ小さな蘭学塾を開いたばかりである。これまで、愚直に蘭語を学んできた。なんだか、蘭語によって人にしてもらったという恩義のようなものさえ感じている。
 蘭語の時代は終わったという福沢の言葉は、本当だろうか。それを自分の目で確かめないわけにはいかない。

 侍の家の長男として生まれ、本来なら家を継がなければならない立場であったが、子どもの頃の太郎は愚鈍であった。なにしろ一四歳になるまで文字というものの存在に気づかなかったのである。
あまりに愚かなので、親は太郎に家を継がせるわけにはいかない、と判断して、お上には病弱ゆえ次男を跡取りとすると届け出て許された。長男でありながら冷や飯食い、日陰の身になってしまったのである
 勢い遊び相手も年下の子供達ばかりになり、それも自分より小さな子に鼻面引き回されるという具合だった。
 その日も、年下の友達・たっちゃんと一緒に街を歩いていた。ふと、たっちゃんは立ち止まり「うなぎ」と言った。
 太郎は、道の上にウナギがのたくっているのだろうか、と思ったが、そんなものはいない。たっちゃんは、とある店先の看板を指して再び、「うなぎ」と言った。怪訝な顔をしている太郎を見て、
「字だよ。ウナギって書いてあるんだよ」
「字?」
 たっちゃんは、看板上のうねうねとした模様を指さして、何度も「うなぎ」と発音した。確かに、その妙な模様はウナギに似て無くもないが、などと思っていたが、どうも、その模様が「う・な・ぎ」という音に結びついているらしいと悟ったとき、太郎の頭に稲妻が走った。
 この世は、実に「字」に充ち満ちているようなのである。それを教えてくれた恩人はたっちゃんであり、場所は鰻屋の店頭であった。
 太郎は、一四歳にして寺子屋に上がり、数ヶ月にして漢学塾に転じた。学んでも学んでも学び足りないくらい文字があるということに驚愕していた。世界が一変してしまった。

 文字を読み慣れている人にとっては、耳で聞く音と目で見る形が当たり前のように結びついているらしい。目は目であり、耳は耳である。なぜ、別々のものが一緒になるのか、その不思議さが太郎を言葉の世界に引きずり込んでいる。引きずり込むと同時に壁となって立ちはだかっている。
 さらに偶然、蘭語という言葉の存在を知る。ここで、さらに頭の中の扉が開いた。言葉という世界の不思議が、また太郎の背中をくすぐる。その言葉を学びたくてたまらなくなった。
 しかし、親は多くの日本人と同様、外国嫌いだった。蘭学など汚らわしき洋夷の学問と心得ていた。気分は攘夷だったのである。
 ある日、太郎は親から受け取った漢学塾に納めるはずの謝礼金を持って、とある蘭学塾に駆け込んだ。
 幸い先生は親切な人で、太郎を受けいれたばかりでなく、住み込みを許した。親との間も取り持ってくれた。大名のお抱え学者という他に収入源のある人だったので、むしろ塾の方は蘭学を世に広めるためという使命感の上でやっている。当時しばしば見られたタイプである。
 蘭語の本を筆写すると、それがいくらかになった。そんなアルバイトをしながら勉強を続け、ついには自らの小さな塾を持つことが出来た。
 蘭語が自分を人にしてくれた恩義を感じている、というのには、そんな思いがある。
 福沢のように、時代遅れだからと言って蘭語から英語に乗り換えるという器用さは太郎にはなかった。

「だが・・・・・・」
 ここのところ自分の感じている憂鬱は、英語と蘭語の問題だけだろうか。それだけだったら、両方勉強すればいいということにもなる。いや、言葉の不思議さに突き動かされてここまで来た自分であれば、むしろ英語のみならず仏語、露語などまで手を伸ばすのもやぶさかでないつもりだ。
 横浜に住み込んで、今日はあっちの先生、明日はこっちの先生とかけずり回る生活だって構わないという気持ちもある。それはそれで、ひとつの道なのだろう。
 だが、それだけではない。自分の心の、もっと奥深いところに何か引っかかるものがあるように思えてならないのだ。

 朝、江戸を出て、品川、大森と過ぎ、六郷川を渡って、川崎を越えた。今日は神奈川宿で一泊するか、できれば横浜に入ってしまいたい。
空は晴れ渡り、左手にはずっと静かな遠浅の海が続いている。
 街道をそれ、海岸に出て一服した。もうすぐ、西洋の船が見えてくるはずだ。
 横浜に出て、自分は何をするのだろう。もちろん、ただの遊山ではない。何か、蘭語に礼を言いたい。出来れば、蘭人に会って話をしたい。
 漠然としていると言えば漠然としている。かといって江戸にじっとしていられる気分でもなかった。重い気持ちを引きずってでも行かねばならぬ、と思っていた。

 子供達の声が聞こえてきた。なにやら興奮している感じである。
 見るとその辺の漁村の子供達が、何かを取り囲んで騒いでいる。平べったい岩のように見える。かなり大きなものである。
 ウミガメだった。
 あんな大きな亀が江戸湾にいたのか。もっとも、イルカだってクジラだって迷い込んでくることがあるのだから、いても不思議はないが。
 子供達は、棒きれで亀を叩いたり蹴飛ばしたりしている。太郎は立ち上がった。
 大きい図体の癖に、年下の子供達にいじめられていた昔の自分が、その亀に重なったのである。

 亀は涙を流していた。そして口を聞いた。
「助けていただいて、ありがとうございました」
 亀も言葉を話すのか。もしかすると、カメ語というものが存在する可能性がある。西洋各国の言葉の先にさらに学ばなければならない言葉あるかもしれない、ということに太郎はめまいを覚えた。
 亀は続けて言った。
「蘭学者の浦島先生ですね」
「確かに私は蘭学をやっている浦島太郎だが、私を知っているのか」
「はい。実は先生がお通りになるのをお待ちしておりました」
「なぜ」
「先生を乙姫様のおられる竜宮城へご案内したいのです

「私は、これから横浜へ行くのだ」
「乙姫様の言いつけなのです。竜宮城へ行ってみたくはありませんか」
「竜宮城など行きたくはない。横浜へ行く。学問のためだ」
「私の背中に乗れば、海の外へ出て行けるのですよ」
 とカメはやや狡猾そうに言った。
「海の外・・・・・・しいて言えば、オランダへ行きたい。もっとも海外渡航は許されないだろう。ペルリがやって来たとき、吉田松陰という男が密航を企てて、牢に入れられたという話だ」
「私は世界の海を巡っているのです。竜宮城に来ていただければ、ついでにオランダでも英国でも連れて行って差し上げます」

「この方が浦島様」
 乙姫は太郎を見るや、しがみつかんばかりに寄ってきた。そして、自ら手を取ると宮殿の奥へと誘い、しとねのような席に座らせた。侍女に命じて酒を持って来させ、手ずから酌をした。花のように香り立つ酒だった。蘭語でいうところのWijn、葡萄から醸した酒かとも思ったが、違うものかも知れなかった。
 そして、乙姫はその酒のような美女だった。その微笑みに、人は酔ってしまうかも知れなかった。
 にもかかわらず、浦島の憂鬱は去らなかった。むしろ、くっきりと心の中に形を表してくるかのようだった。
「お待ち申し上げておりました」
「なぜ私を。誰かとお間違えなのではないですか」
「いえ、浦島太郎様、あなたです」
「私は、武士の家に生まれながら廃嫡されたような愚かな男です。そんな者を待っていたとは・・・」
「あなた様は、ご自分の価値がまだおわかりになっていないのです」
 乙姫の目が、今一段、熱を帯びた。
「わたくしと、めおとになって下さいませ」
「わからない。私は貧乏学者ですよ。お姫様と釣り合うわけがない」
「いえ、本来、わたくしこそ、あなた様と釣り合うようなものではないのです。いえ、この宮殿にいるものすべてを合わせても、あなたの足下にも及びません」
 太郎は、乙姫の目の輝きの中に狂気めいたものを感じた。その狂気は確かに美しいのかもしれなかった。だが、やはりそれは太郎を憂鬱にさせた。
「私は横浜に行かなければならない。いや、亀は私をオランダに連れて行くと約束したのだ」
「オランダに何がありましょうか」
「わかりません。だが、私はオランダに恩義がある」
「あなた様は、ご自身の価値がわかっておられないのです」
「価値などと言うほどのものはない。ただ、教え教えられ、学んでいくだけだ」
「ですから、あなた様は、そのようなものを遙かに超えた方だと申し上げております」
 侍女やサカナたちは、息を殺して二人を見つめていた。男女の睦言になるはずが、妙に緊迫した議論になってしまっている。
 そういえば、ここは妙な空間だ・・・と、乙姫とのあいだの会話が途切れたところで、浦島は辺りを見回した。
 海の中の筈なのに、息も苦しくないし、着物も濡れない。あたりは、薄青い帳で包まれたようで、そこここに赤や黄や緑や橙の灯が点っている。行灯のようでもない、鬼火のようでもない、西洋にあるというガス灯のようでもない。ただ、ぼんやりと冷たく、しかし十分な光度を供給している。
(なにか、まだ私の知らない理学があるのだろうか)
 乙姫は、いささか青ざめた顔で伏し目になっていた。泣いているのかもしれない。侍女が二人近づいてきて、乙姫の手を取り立たせた。そして、何処か奥へと行ってしまった。その後ろ姿を見て、太郎は何か悪いことをしたような気になった。
 取り残された太郎に別の侍女が近づいてきて、酌をした。
「浦島様。折角おいでになったのです。竜宮をお楽しみ遊ばせ」
 侍女が袖を振って合図すると、あたりにいたサカナたちが一斉に空間に散った。不思議な音楽が流れ、珊瑚や海草までもが踊った。なるほど、それは見ようと思っても見ることのできない豪奢な光景だった。
 しかし、それが美しければ美しいほど、華やかであればあるほど、太郎の旨には影が広がっていくのをどうしようもなかった。

「私は、やはりここにいるべきものではないような気がする。オランダとは言うまい、せめて元の海岸に戻して欲しい」
 太郎は侍女の頭に言った。
「申し訳ございませんでした」
 と言ったのは、いつの間にか傍らに戻っていた乙姫だった。
「確かに、あなた様は竜宮さえも超えたお方なのですわ。龍神の娘である私ならば、あなたを虜にできると考えたのが浅はかでした」
 そして、螺鈿をちりばめた箱を渡し、
「これは玉手箱です。きっと、あなた様のお役に立つはずです」
 乙姫は、鮮やかに身体を巡らすと、太郎から離れていった。
「浦島太郎様、もう今生でお会いすることはないでしょう」
 乙姫とは、この竜宮を照らす無数の灯のひとつであったか、と浦島太郎には思えた。

 もう、夕暮れだった。あたりの海面は、赤々とした光線を受けて輝き波立っていた。ただ、どちらに日が沈むのか見当が付かない。自分がどちらへ向かっているのか、わからない。
 陸地は見えなかった。日本に向かっているのなら、いずれ富士山が見えてきそうなものだと思った。
「元へなど、戻れやしない」
 亀がぼそっと呟いた。それきり口を聞かなくなった。ただ、真っ黒な大きな塊になってしまったようだ。
 向こうの海面から、何か黒いものが現れた。巨大なサカナか。どんどん、海中からその姿を現して、天へと向かっていくのだった。
 鳥か。巨大な鳥が海中から現れて、天へ向かっていくのか。
 鳥はどんどん、その大きさを増した。天を覆ってしまいそうだった。事実、燦めいていた海面は、その光を失っていった。
 そして、全天が覆い尽くされたとき、真の暗闇が太郎を隠した。亀はいなくなっていた。もはや、足の下に海はないようだった。といって、地面に立っているのとも違った。
 暗い虚空に、太郎がただ一人いるようだった。
「どうしたのだ。これが、私の帰るべき故郷、日本なのか」
 
 いや、ただひとつ、乙姫から渡された箱があった。その箱に埋め込まれた螺鈿は、自らほのかな光を放って、箱が手の内にあることを主張していた。
 太郎は、箱を開けた。なかから、光る煙が出て、太郎にまとわりついた。
 その煙の中で、自分の手を見ると、それは若者のそれではなく、骨の上に皺だらけの皮膚を貼り付けたようなものだった。太郎は、思わず自分の顔に手をやった。やはり、肌の張りは失われ、老人の頬が、そこにあった。のみならず、頬は深い髭に覆われているようだった。
「年を取ってしまった」
煙が消えると、ただひたすら暗かった。螺鈿の箱も消えてしまった。
「暗い」 
自分しかいなかった。あたりは空虚に満たされているとも言えたし、自分が空虚を満たしているかのようでもあった。
なるほど、自分の心を満たしていた憂愁は、この闇から立ち上ってきたものなのかと思えた。

 太郎は、しばらく黙ったまま立ち尽くしていた。そうして、どれくらいの時間が経ったことだろう。それは、一秒かもしれないし、一兆年かもしれなかった。
 もう、この暗さに耐えられそうもなかった。太郎のかさついた唇が動いた。
「光あれ」
 すると光があった。
始めに言葉ありき。
 

社長のショートストーリー『京の桃太郎』

社長1  江戸から遠いといえば遠い、近いといえば近い、関東のべったりと広がった平野のどこかに、お爺さんとお婆さんが住んでいた。
 お爺さんは山へ柴刈りに、山といっても日本アルプスのような山ではなく、雑木林が小高くなっているという程度のものだ。
 お婆さんは、川へ洗濯に行った。爺さんと自分の分だけでなく、近所の分も引き受けて駄賃をもらうのである。爺さんも婆さんも畑仕事の合間に細々した仕事を引き受けて、せっせと稼ぐのである。
 すると上流から、一抱えもある大きな桃が、どんぶらこどんぶらこと流れてきた。(文献によっては、どんぶらこっこすっこっこ、と流れてきたとするものもある)
 それが、お婆さんの前まで来て止まった。洗濯がしやすいように、お爺さんが石を積んで水を堰いてくれたのに引っかかったのである。普通の婆さんなら腰を抜かして、桃と一緒に流されてしまったかもしれないが、この気丈な婆さんは、さらにひとつふたつ桃の下に石をかって動かないようにしておいてから、お爺さんを呼びに行った。
 桃を割ってみると、中から男の赤ん坊が出てきた。子どものいない二人は大喜びで、赤ん坊を育て始めた。

 さて、こんな田舎でも、海の外の噂が出るご時世になった。
 もちろん、こんな平野の真ん中でどちらを見回しても海なんぞは見えはしない。一日か二日歩けば、江戸湾が見えるところまで行けるのだが、海なんて見たことがないという者は大勢いる。お婆さんもその一人だ。
お爺さんの方は若い頃、江戸の商家に飯炊きとして奉公していたことがあるので、見たことはある。
「なに、どうってことはねえ」
 お爺さんはお婆さんから海のことを尋ねられると、いつもこんな風に答える。
 そんな村で、なぜ人びとが海のことを気にするようになったか。
 横浜である。
 横浜が開港して以来、西洋人が日本の絹をひどく気に入って、喜んで買っていくというのである。絹の貿易でお大尽になった者もいるらしい。
「桑、植えるベさ」
 村人は色めき立った。もっとも、お爺さんに言わせると
「なに、どうってことはねえ」
 なのだった。
 こんな風に、人びとが、それまで気にしなくて良かったことを気にし始めた頃の話である。

 さて、桃から生まれた男の子は、桃太郎と名付けられた。
 桃から生まれた桃太郎。いい名前である。いかにも丈夫に育ちそうだ。
 そして、丈夫に育った桃太郎が、毎日、棒きれを振り回して野山を駆けまわっているうちに、近所の子供達は、皆、その威に服し家来になった。
 そのあたりは彼の天下となった。戦国時代の大人だったら、さらに隣国に攻め入り、やがて京に上って、と考えるところだが、さすがに子供はそこまで考えなかった。
 こうなると、桃太郎の戦さごっこの相手がいなくなってしまった。まわり中、手下だらけである。どんな悪ガキでも、彼の顔を見ると卑屈に揉み手をせんばかりの態度になる。
 桃太郎が小規模ながら天下人になった結果は、退屈となって現れた。彼は、だんだん子供達と顔を合わせるのも、うんざりするような気持ちになってきた。

 だが、なにがあるかわからないもので、やがて一目置かざるを得ない好敵手達が現れた。
 一人は、犬であった。このあたりの豪農が飼うコロという犬である。人一倍、いや犬一倍度胸が据わっていて、一度噛みついたら殺されても離さないというような肝の太さがある。それでいて、弱いもの小さいものに対しては、この上なくやさしい。
 二人目は、猿だった。群れから離れた猿らしい。いつも村の周辺の林を孤独に徘徊している。時に樹上でただ一匹つくねんと月を眺めて座っている姿、あたかも高僧のようである。だが、戦いとなると変幻自在、あたりのものを枝でも柿の実でも武器として使いこなす。
 三人目は雉であった。まず、その優美な姿が目を引く。その色彩たるや、錦絵に描かれた若武者の如し。美なるのみならず、ひとたび敵に立ち向かうや、翼を振るって飛び立ち、その鋭き嘴、爪をよく防ぐもの、また、なし。
 一人と二匹と一羽は、自然に互いに認め合うところとなり、いずれは天下に押し出して働きたいものだと話し合うようになった。

 コロの飼い主の豪農、古田徳兵衛は、一方では平田国学の徒でもあり、また屋敷内に道場を建てて近在のものとともに稽古に励む兵法者でもあった。江戸も後半になると、侍がだらしなくなる代わりに、農、商の階級に却って熱心なものが出てくるのである。
 徳兵衛の流儀は自然無心流といった。
 一人と二匹と一羽は、いや、めんどくさいから四人と呼ぶことにするが、四人は揃って、徳兵衛の道場に入った。桃太郎はともかく、犬、猿、雉がどうやって束脩(謝礼金)を払ったのか文献に記録がないが、可愛い飼い犬と、その友達という事であれば、徳兵衛は金など受け取らなかっただろう。
 また、桃太郎と猿はともかく、犬と雉がどうやって竹刀を握ったのかが不明だが、どうにかしたのだろう、数年して、四人とも自然無心流の目録を頂戴することになったのである。

 さて、古田徳兵衛は国学者であるから、当然、京の朝廷への思い入れが深い。倒幕などという大それたことは考えないが、幕府はもっと朝廷を尊ぶべきだと考えている。
 そこへ来て、もう何年も開国以来の騒ぎが続いているのである。
 嘉永六年にペルリがやって来て、神州の地に踏み込んできたのみならず、次にはハリスなるものが下田、そして江戸に居座り通商の条約まで結んだ。
 しかも、夷狄がやってきてから、コロリが流行る、地震が起こる、物価が跳ね上がると、ろくなことがない。
 徳兵衛の道場でも、若い者が議論となると、攘夷という勇ましい言葉が飛び交い、今にも飛んで行きそうにする。徳兵衛さえ、押さえるのに苦労した。
 だが、そんな時には、コロの重々しい、
「わん・・・」
 というひと言が、青二才共の跳ね上がりを押さえた。あくまで冷静沈着、軽々には動かない人格者、いや犬格者のコロであった。
 
その四人が、揃って姿を消した。
 お婆さんは、いつかこんな日が来るのではないかと思っていた。
 桃太郎ときたら、地道に田畑で働けと言っても、苦そうに微笑むだけだった。 
 ある時、村に紛れ込んだ泥棒を取り押さえるという手柄を立ててから、まるで村内取り締まりを仰せつかったが如く、肩で風を切って歩いている。そして村人に、「しっかり働けよ」などと声をかけて通り過ぎていく。言われた方にしてみれば、どの面下げて、と言い返したくなるが、その勇気を持つものはいない。
 お前はこれから、どうするつもりか、と問うと、俺はいずれ鬼退治に行く、鬼退治に行って、鬼の宝を持ち帰るから楽しみにしていろ、という答えが返ってくる。
 あるいは、鬼の島を治める大名になるかもしれん、そうなったら呼び寄せてやろう、と言う。
 道場での噂も聞こえてくる。寄ると触ると「攘夷」だそうな。いつからか志士の間で流行っているらしい「君、僕」という呼称を使っているとか。こんな田舎で君、僕もないものだ、と密かに笑っている村人もいる。

 横浜で異人が斬られたという。英国公使館になっていた東禅寺という寺が浪士の襲撃を受けたという。
 村という天地しか知らなかったお婆さんの胸を無気味に掻き立てる風聞がいやでも耳に入ってくる。
 その世の中の激流に桃太郎が身を投じてしまうのではないか、という気がしていたが、それが本当になってしまった、とお婆さんは悄然とした。
「わしらには、もともと子がなかったんじゃ。あんな桃は流れてこなかったと思え。元に戻ったと思えば、なんでもない」
 お爺さんは、そんなことを言った。だが、それはお婆さんに言うというよりも、自分に向けての言葉のように聞こえた。
 桃太郎と過ごした年月が消えるわけではないのだ。明らかに、お爺さんは鬱々としていた。お婆さんを心配させるほどに。そして、ちょっとした風邪をこじらせてから、寝付くようになり、やがてほどなく死んでしまった。

 一人で暮らさねばならなくなったお婆さんの元に、桃太郎から手紙が届いた。字の読めないお婆さんは、古田徳兵衛の家に行って読んでもらうことにした。

 なんと、桃太郎ら四人は京にいるという。
 なんでも公方様(将軍)が二百年ぶりに京へ入るというので、それを警護するために、清河八郎という人が、浪士を募ることを策定したそうな。桃太郎ら四名は、その組織に身を投じたのである。
 ところが、京に着くや否や、再び江戸に戻って攘夷の行動を起こそうとする清河の一党と、京に残ることを主張する芹沢鴨、近藤勇の一派が分裂し、桃太郎達は京に残ることを選んだ。
 清河は、浪士達を率いて横浜を襲撃することを画策しており、幕府の力を利用して浪士を集めたのも、そのためらしい。その後、彼は幕府に危険視され、謀りごとにはまって斬られたそうな。
 桃太郎達は、新撰組という名の下に、京を騒がす不逞の輩を取り締まる役に就くことになった。
 だが、それもつかの間、今度は隊長を務めていた芹沢が、その横暴を憎まれ、これを暗殺した近藤勇、土方歳三という人たちの元で組織は強力に統制されることになった。
 よくわからぬが、文章から血の臭いが立ち上るようである。読み終えた徳兵衛も、膝に手を置き考え込んでいた。新撰組に入った愛犬コロのことを案じているのであろうか。それとも、何か政治向きのことを考えているのだろうか。

 それからも、桃太郎はたびたび手紙を送ってきた。しかし、詳しかった最初の手紙に比べて、「拙者息災にて、御心配御無用に御願い奉り候」とだけ書いてくるのであった。
 学問などなかった桃太郎が、難しい文を書けるようになったものだ、と感心すると同時に、あまりに短いので、何か書けないようなことが彼の身の回りにたくさん起きているのではないか、と「御心配」せずにはいられなくなる。
 そして、手紙には必ず金子が添えられていた。お婆さんが触れたこともない小判である。新撰組というのは、よほど景気がいいのだろうか。この金は、どうやって得られたのだろうか。それさえも、お婆さんの不安を増すばかりであった。
 
 徳兵衛が、池田屋騒動と言うことの風の噂を耳に入れてきた。彼も国学者の端くれなれば、いろいろな情報が入ってくるものと思われる。
 幕府に良からぬことを企てる一味が、池田屋という宿屋で会合を開いたその現場に新撰組が踏み込むという大捕物があったそうな。
 隊長の近藤が獅子奮迅の活躍をしたそうだが、その下にあって、桃太郎、犬、猿、雉は抜群の働きをしたという。動物たちが攻め込んでくるとは思わなかった浪士達をひどく狼狽させたらしい。
 国学者でありつつ、村を治める役も担っている徳兵衛は、この幕府と反幕府の対立に非常に困惑していたようである。
 お婆さんは、ひたすら桃太郎のみを案じていた。だが、しばらくすると、相変わらずの「御心配御無用」の手紙と共に、多額の金が届けられるのだった。
 近ごろでは、お婆さんも、「御心配御無用」という字だけは読めるようになってしまった。

 手紙ではさっぱり様子がわからないのに引き替え、徳兵衛が聞きつけてくる風の噂の方が具体性を帯びてきた。
 京の御所の蛤御門というところで、長州と薩摩、会津の間で戦争があったとか、逃げる長州を幕軍が追い討ちに行ったとか、そのうちに、こんどは長州の方が盛り返してきた、とか色んなことを聞き込んでくるのである。
 日本にとっては大事件なのかもしれないが、それが桃太郎や犬、猿、雉と関係があるのかどうかさえ、お婆さんにはわからない。
 次に、徳兵衛は憂鬱そうな顔で新撰組の噂を聞いてきた。
 組の中の規律が峻烈を極めている。なんでもかんでも、切腹だの斬首だのに
なるそうな。

 そして、噂はついに桃太郎周辺に及んでくる。
 猿が、切腹になった。上層部の立てた作戦を、知恵者の彼が鼻で笑ったというのである。
 雉は、隊に嫌気がさして、空を飛んで脱走してしまった。追っ手がかかったが、山野に隠れて、そのまま行方が知れなくなった。
 犬が、雉の脱走の手引きをしたのではないか、という疑いがかかった。実を言えば、そうなのである。犬のコロは、この時期、組の行く末、日本の将来について、なんらかの見通しを持っていたものと見える。
「腹を切った。武士らしい立派な最期だったそうな」
 そういう徳兵衛の目には涙が浮かんでいた。
 桃太郎については、なお何の噂もない。「御心配御無用」と金だけは送られてくる。このごろ、お婆さんはいちいち徳兵衛に見せなくなっていた。手紙を一瞥すればわかるのである。

 やがて、あれよあれよ、という間に大政奉還となる。公方様が天子様に政権をお返ししたというのである。徳兵衛にとっては、嬉しいことのようであったが、お婆さんにはやはり何のことか、わからない。
 そのうち、奉還後の天子様の元での主導権を巡って、薩長と徳川が鳥羽伏見で戦争をすることになった。

 お婆さんは、相変わらず畑をやったり、洗濯をしたりしていた。
「はて、桃太郎から送ってくる金があろうに、あの年で、そんなに稼がなくてはならんかな」
 と、徳兵衛などは首をかしげていた。
 実は、鳥羽伏見のあたりから、桃太郎の手紙はぱったりと途絶えていたのである。
 お婆さんも寄る年波なのか、洗濯物を抱えて道端で息をついて休んでいる姿が見られるようになった。しかし、だんだん、その姿さえも見かけなくなってきた。
 なんとなく徳兵衛が気にしていると、あるギラギラ太陽が照りつける日、村の道を女乞食が歩いているのが見えた。よく見るとお婆さんだった。
 声をかけると、振り向きざま、ばったりと道の上に倒れた。徳兵衛はびっくりして、自分の家に引き取ることにした。
 お婆さんは、あまりものを言わなくなっていた。そして程なく、なにか蝋燭の炎が細くなり消えるようにして亡くなってしまった。
 お婆さんが後生大事に抱えている風呂敷包みがあった。徳兵衛が持ってみると、ずしりと重かった。
解いてみると、桃太郎が京からよこした手紙が全部出てきた。それとともに、送ってきた金がまったく手つかずのまま出てきた。お婆さんは、ひとつも使わずに取っておいたのだ。
 これでは、窮迫するはずである。だが、なぜ使わなかったのだろう。徳兵衛は考えた。少しわかったような気がした。だが、またわからなくなった。そんなことを繰り返した。
 桃太郎は村の厄介者だった頃、いずれ鬼達から宝物を持ち帰ると豪語していた。なるほど、お婆さんが取っておいたおかげで、それが本当になったのかもしれなかった。

 近藤勇は明治元年、流山で捕縛、板橋で処刑さる。土方歳三は、榎本武揚らとともに箱館五稜郭に立てこもり明治二年に戦死。
 桃太郎の行方を示すものは、ついになかった。

プロフィール

文豪堂

Author:文豪堂
いらっしゃいませ。中川善史(自称社長)と金井哲夫(自称編集局長)が2人でしこしこ書いているふざけた電子書籍本を販売する「蕪」式会社文豪堂書店です。(社名は予告なく変更することがあります) (なおこれは個人の感想です)(効能を保証するものではありません)(おだてると調子に乗ります)

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